小谷純一と良心

    小谷純一は「良心」を重んじ、良心こそ神の声を聞く受信機、キリスト信仰に導く人間に備えられたものであると確信し、事あるごとに訴え説きました。愛農学 園農業高等学校の建学の精神に、「神を忘れた良心は麻痺」すると警告し、良心の覚醒を教育目標としていました。
 小谷が「聖霊誌」の中で良心に初めて言及したのは第31号(1953年6月号)の「常に神の前にある信仰」という巻頭言の 中です。
「私どもが神様を見ることができるのはこの良心をとおしてで す。・・・ごまかしのない良心の持ち主のみが神を見ることができるのであります。良心は神のみ姿をうつす鏡でありま す。・・・人間はなぜに神が見えないのか?それは人間の良心の鏡が泥を塗りたくられているからであります。・・・神を見 る道はこの良心の鏡を汚している罪の泥を洗い清めていただくことであります。・・・キリスト・イエスの十字架を信じて仰 いでごらんなさい。あなたの良心を汚していた一切の罪穢れはことごとく洗い清められて、あなたの良心の鏡に愛と正義の神 はその身姿をはっきりと見せて下さいます。 日本の農村を救い、日本を救い、世界を救う唯一の道は、常に神の目前にある 良心の持ち主を一人でも多く生み出すこと以外にはありません。国を救い、国を栄えさせる原動力は実に清き良 心であります。」
第34号(1953年9月号)では「良心の宗教」と題し、カントの実践理性に言及しながら「良心」の大 切さと、それが実は汚れ麻痺していることを述べます。
人間の人格活動の根底は意志であるという点については誰しも異論がな いようです。カントも実践理性は理論理性に優越するとはっきり申しています。人間の行動を決定するのが意志的活動であ り、人間が他の動物と異なる所以は実践理性すなわち普通良心と呼ばれているものによって善悪を判断して行動することであ ります。善悪を判断する理性活動を良心と名付けています。・・・私どもが活ける神にまみゆる道はこの良心を通じてであります。 カントが驚嘆しているごとく、良心こそ実に不思議なものであります。・・・良心を通してのみ活ける真の神を見ることがで きると申しましても、その肝心の良心が罪に汚れている限りいかに良心を通して神を見ようとしても不可能なのでありま す。・・・そこで問題はいかに良心の汚れを取り除くかという一点にかかってまいります。努力修養によって私どもの良心が 神のみ姿を写すことのできるように清くなるであろうか。もしそれが可能と思われる方は命がけで修養努力していただきた い。私自身はこの血みどろな努力修養に絶望した人間なのです。私の良心に巣食っている罪はなまやさしいものではないこと が嫌という程分かったのです。否、私自身が自己の良心がいかに汚れているかということさえわからないほど麻痺してしまっ ていたのです。私は聖書を読み、キリストの人格とそのみことばに触れて初めて自己の良心の深刻な汚れに目覚めさせていた だいたのです。・・・自己の良心の汚れに悲し泣きし、いかにしてこの汚れを洗い清めんか?という大問題に直面して泣き悲 しむものでなければ、キリスト・イエスが何故十字架の上に血汐を注ぎたまわねばならなかったかをを了解することができな いのです。「キリストの十字架わがためなり!」と叫び得るものこそ、すべての良心の罪より清められるのであります。

第58号(1955年9月号)では「良心」と題した巻頭言で「世の光」「地の塩」とは真実な良心である と述べます。
キリストの弟子は世の暗黒を照らす光であり、社会の腐敗を止める塩の役割を果たさなければならぬのです。光とは何ぞ?塩 とは何ぞ?私はキリストはの神の光に照らされた真実な良心をさしているとおもいます。真実なる良心!これこそ世の光、地 の塩であります。・・・十字架を仰いで神の聖前に立つ時私どもの良心は初めて、本来の神の子の真実なる良心に甦るのであ ります。キリスト教信仰の生命は真実であります。アーメンであります。そして私は真実を求めてやまない魂のみがキリスト に捉えられるのであることがわかってまいりました。
第64号(1956年3月号)で再び「良心」と題し、聖書によるキリストの人格と言葉に触れることで良 心が目覚めると言います。
カントは「仰げば仰ぐほど不思議であ り、思えば思うほど不思議なものが宇宙に二つある。その一つは天空に輝く星であり、いまひとつは我 が心の中にある良心である」(注1)と 申していますが、私ども人間に良心が当てられているという事実ほど不思議なことはない。・・・キリスト教は良心宗教であると言 われている。私どもが神を見ることができるのは清き良心を通してであるというのがキリストの教えで ある。・・・私どもは聖書を通してkリシストの人格と言葉に触れる子によって、眠れる良心が目覚め 始めるのであります。
(注 1:正確には「私の 内なる道徳法則」というのがカントの原文に近 い。)