小谷純一と内村鑑三の流れ

    小谷純一は京都大学時代に服部治の伝道により信仰に導かれ、1950年に信仰雑誌「聖霊」誌を創刊する。小谷純一は内村鑑三に影響を受け、 その弟子たちの中から、1952年に黒崎幸吉、1956年に政池仁、1957年に矢内原忠雄を愛 農 塾(和歌山県小豆島)や愛農根本道場(三重県青山町)に招いている。1958年に小谷は愛農聖書研究会(初期は「聖書短期大学」と呼ぶ)を立ち上げ、黒崎 幸吉を招き、翌1959年からはその後愛農聖書研究会の中心的役割を担う高橋三郎を矢内原忠雄の推薦で講師に招いた。

内村鑑三

小 谷純一は「聖霊」誌の創刊号(1950年11月)に「信仰こそ愛農会の生命」と題する巻頭言とともに内村 鑑三の「デンマルク国の話」を連載始めた。第32号(1953年7月)では「国と共に甦えるをよみて」と題する巻頭言で森信三を紹介すると共に、内村鑑三から最も痛烈深刻 なる痛撃を受けた森信三の言葉を次のように紹介する。
その第一は「日本は亡びることあらん。しかしてそはいわゆる愛国心の不足によるにあらず、軍備の不足に よるにあらず、またいわゆる富力の乏しきによるにもあらずして、実に誤れる愛国心によるなるべ し・・・」私は初めてこの一連の言葉に触れたとき全く息の根が止まる思いがしたのであります。ああ、なんという深刻痛烈なる 預言でありましょう。・・・この愚かなる私はこの大預言の的中ともいうべき今回の敗戦に至るまでついにそれを知らずに来たわ けであります。第二に私の心をゆすぶった先生の言葉は「孝とは神の御心に従って生きることなり」という一語であります。これは私たちのこれまでの孝道観を徹 底的に粉砕するものであります。・・・第3に先生が予を崇拝するものは予の敵なり」と言っているいられる点であります。・・・この3つの ことは、私たちが従来東洋道徳の根幹と考えてきた君(国)、父、師の三つに対する素朴な肯定観に対して根本的否定を加える利 剣だということであります。・・・かくして内村鑑三先生は一人私という一個人一人間にとっての再生の恩人であるばかりでな く、実に日本国民にとって、従来のその素朴な思想に対して徹底した否定浄化の利剣を揮われた民族再生の恩人であることおわか りなるかと思います。これ今日内村鑑三先生が預言者として新生日本の思想的先覚の第一人者と仰がれる所以でありましょう。
以 上の言葉に、小谷純一は親しんできた内村鑑三をもう一度「見直す契機を与え」られたと述べている。第33号(1953年8月)で は、「信は力なりと題する巻頭言で内村鑑三を国を守った義人として、次のように述べ る。
強兵を国家の理想とした明治以来の日本の教育や政治の方針が根本から神の御心に反していたことに気づいていた人 間が果たして何人いたでありましょうか?内村先生にして初めて神の正義と行動の探照灯を持って、日本国の教育と政治と経済の方針の根 本的に誤っていることを喝破することができたのであります。神は「我この国に一人の義人あればこの国を亡さじ」と申されています。然 り!神の正義と公道を鼻から息の出入りする者共を恐れず、大胆、率直に国民に警告する一人の義人(預言者)がなければ、国家は滅亡す るであります。日本が一人の義人内村鑑三先生を与えられていたが故に、明治大正時代はいろいろな国家的誤謬をおかしながらも守られて きたのかもしれません。
11 月号の「聖霊」では「預言者でよ」とのタイトルで内村鑑三著作集を一生の宝としてキリスト教を会得するとこと求め、次のように紹 介する。
 日本が神様から与えられた最大の預言者は内村鑑三先生であることは疑う余地はない。・・・ 私は本誌の読者にお勧めする。諸君 は何を放っておいてもこの「内村鑑三著作集」を一生の宝として求めて頂きたい。・・・諸君は聖書一巻と「内村鑑三著作集」さえあ るならば必ずキリスト教の真髄を会得するであろう。
 預言者内村鑑三の眞面目(しんめんもく)はその非戦論にあったと私は思う。・・・
 富国強兵を持って国是としてきた明治、大正、昭和の暗黒時代に非戦主義を持って日本国民を警告 してやまなかった彼、内村鑑三こそまことに「世の光」であった。この一人の義人ありて神は日本を捨てたまわなかったであ ります。彼死して日本国には一人の預言者なく、死を持って大東亜戦争の侵略戦の非を叫ぶ者なきに至りついに神はこの国を 亡ぼしたもうた。・・・
ここで小谷は内村を預言者として受け入れるとともに、日本の「義人」、「世の光」と 見ている。さらに、この続きで、小谷は自身の召命の体験と自覚を述べている。神が小谷を起こし、預言者として神のみ旨を 行うものとして立てられたという召命とそれに対する応答である。
 嗚呼!!我は祈る。敗戦日本を照らす一人の義人預言者を与えたまえ!!と。この暗黒の祖国日本 の進路を指し示す神の光を求めてやみません。
 「汝その任に当たるべし!!」と神のみ声は聞こえてまいります。しかし神様、私は到底その任ではありませ ん。私は卑怯者です。私は人から悪罵と迫害を受けるのが恐ろしいのです。私は人々から捨てられるのが寂しいのです。私の 意志は弱く、私の肉体は疲れやすいのです。
 神様、どうか他にもっともっと良い人があるはずです。みなさん、私を嘲笑してください。私は今こんなにして 神の召命を拒まんとしているのです。恥ずかしいことです。しかしこれが正真正銘の今の私の姿なのです。皆様祈ってくださ い。この卑怯者の私のために!
 しかし私がどんなに拒否しても、神様は私を克服せずにおきたまいません。預言者イザヤを捉え、使徒パウロを 捉え、義人内村を捉えたもうた生ける神はこの塵芥(ちりあくた)のごときものをもとらへて聖旨(みむね) をなさしめ給うことと信じます。
 愛農救国運動が神が敗戦日本を救い、人類を闘争の世界から愛の天国へ救い出さしめんがために起こしたもうた ものであるならば、この愚か者も聖霊によって潔られ、強められて愛する日本国のために、人類の未来のために、口より息の 出入りする人を恐れずして神の真理と正義を叫ぶであろう。・・・
小 谷は神の召命に対して、自身の卑怯さ意志の弱さを自覚した、そして聖霊によって潔られるものは自 分の愚かさと述べている。イザヤやエレミヤの召命の体験は神の声を聞いて、 自分の罪や汚れを自覚し、それが清められた体験を述べているが、小谷は自分の罪というよりは、愚かさから清められることをここで は求めている。 

矢内原忠雄

小 谷純一は第二回聖霊信仰大会の講師の一人に矢内原忠雄をお願いし、1957年1月31日午前に矢内原のプログラ ムに組ん だ。その説明を次のように述べている。
「東京大学総長。超多忙な先生が特に愛農会のためにその深い信仰と該博なる知識とを以って『聖書より見たる世界の現状と日本国の使命』を 講じて下さいます。この話を聞くだけでもこの信仰大会に参加する値打ちは十分あります。愛農会推進員一人残らず聴かせたい願 いでいっぱいです。」
一 方、矢内原忠雄は『嘉信』320号(1957年2月20日発行)『東海の旅』で愛農会での講演を次のように振り返っている。
 「沖縄から帰ったのが1月20日、それから10日ののち、私はかねての約束を果たすためまた旅に出 た。30日(水)朝東海道線の列車で東京を発ち、名古屋で乗り換えの2時間を利して嘉信読者会。午後四時名古屋発の近畿鉄道 線で中川乗り換え、夕方少し前三重県(伊賀国)阿保駅に下車。全国愛農会の道場に着いた。
 翌朝(31日)八時より十二時まで愛農会の信仰大会で、全国から集まった農村男女青年140名に対し『聖書より見たる世界の現状と日本国の 使命』と題する講演をした。愛農会会長小谷純一君の農村改革、農民伝道の熱心と方法とには、見るべ きものがあると思われる。」
その後も、小谷より矢内原に講演の要請があったが、多忙と体調の関係で、愛農聖書研究会で の講師は高橋三郎を推薦した。