聖書より見たる日本農業のゆくえ
村上周平
「彼は多くの民の間をさばき、遠い所まで強い国のために仲裁される。そこで彼らはつるぎを打かえて、すきとし、そのやりを打かえて、かまとし、国は国にむかってつるぎをあげず、再び戦いのことを学ばない。彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、そのいちじくの木の下にいる。彼らを恐れさせる者はない。それは万軍の主がその口で語られたことである。」(ミカ書 4:3-4)
(1) はじめに
愛農会が和歌山県、紀の川のほとりより、小谷純一先生によって創始されて25年、愛農学園に於ける聖書研究会が 開かれて十有余年、高橋三郎先生の御来講20余回、この祝宴の筵に導かれた者の一人として、私は心から主に感謝を捧げるとともに、その決算を試み、とくに高度経済成長の激動のもとで混迷せる日本農業の方向を、「聖書は如何に導くか」をたずね、其のゆくえを指し示していただき、両先生に対し感謝とよろこびの応答をさせて頂けるならば、これにまさるものはなく、又全国530万農家の兄弟方に対し、僅少なりともお役に立ち得るならば、その功は主のもの、無益なる下僕の盃はあふるるものである。
(2)混乱の渦中に
敗戦と焼土の混乱より聖書の真理に立って神と人と土を愛し、国家と人類の救いの為に奉仕する愛農会の如き指導と活躍にもかかわらず、現下日本の国情は、高度成長経済の下で農業人口は激減の一途をたどり、工業優先の政策のもとで小農切捨論は事実となり、確信を失なった者は他産業へと、転換を余儀なくせられ、こつこつと礎いた600万戸農村は根底から崩壊しつつある。
(3)明治百年の歴史と神の審判
徳川三百年の鎖国より解放された日本国民は、西欧文明の発達に驚異の眼を見張り、この文明の吸収に全力を尽した。内村鑑三は「明治文明はやがて滅亡するであろう。何故なら西洋文明はキリスト教文明であり、政府も国民も文明の花のみ吸収し、その根源であるキリスト教を受入れない。根のない花はやがて枯れる」。そして日本国民は聖書の教えを受けて立つべき事を宣べた。
明治40年1月主宰している「聖書の研究」誌に戴った「初夢」と題する詩は日本国の理想と使命を世界史的に意義づけている。然し「預言者はその郷に受入れられず」国と民とは聖書に示された、キリストの言葉に聴かず真理を拒み、勢力を愛し、権力と財力を好み富国強兵を国是とした。この真只中の大正12年9月1日、関東大震災が起り東京、横浜地方は一瞬の間に廃墟と化した。
この時藤井武は「真理を愛さぬ日本を神はあわれみ、滅亡を防ぎ、そのあやまりを正すべく、第一の審判としてこの震災を以って警告した。今こそ勢力を捨てて神にかえり、真理日本を創建せよ。若しこの悔改めがなければ、第二の審判はのぞみ、アメリカによって敗戦を喫し亡国の悲運にあうであろう」との言葉をのこして去った。(藤井武著「聖書より見たる日本」参照) しかし日本は再びバベルの塔なる大東京を復興し(昭和5年)いよいよその軍備はアメリカ、イギリスと肩を並べ、世界三大強国の一つとなり、その軍事力に物を言わせ満洲を併呑し、中国大陸を攻め、ついにアメリカ、イギリスに戦を宣し、南太平洋に戦火を拡大し大東亜戦に突入し、あくなき欲望を以って、国民を聖戦の美名のもとにかり立て、ついに敗戦亡国の悲運に落ち込んだのは1945年8月15日である。
一発の原子爆弾は日本の頭上にさく裂し、閃光一瞬広島、長崎はあとかたもなく消え去り、罪なき数十万の市民の屍は山となり、空をおおい水を覆ふて来たる飛行機と戦闘艦の攻撃により、大東京、大阪、名古屋を以って代表する日本の都市の潰滅は80%に及び、数百万の若き生命を代償とし、「70年の辛苦一日にして潰え、二千年の栄光は一夜にして崩れ、空に光りなく、民に生気なし。剣によりて建しものは、剣によりて奪われ」祖国はここに亡び去ったのである。(矢内原忠雄著 「哀歌」参照)
これ実に預言者内村鑑三、藤井武没後わずか13年にしてこの恐るべき第二の審判は、時計の刻む針よりも正確にのぞんだのである。「真理を愛さざる国と民とは亡ぶべし」と。
この恐るべき審判の焼土の中に衣をさき、灰をかぶって、神のみ前に悔改め「新日本をキリストの十字架の愛によって建設し、愛農救人類のために一命をささげることこそ、日本農業者の使命である」と神は小谷先生を立たしめ愛農会を創始せしめここに25年を経た。明治百年近世日本の歴史は、神の審判の歴史であり、聖書の真理、キリストの愛を受けぬ敗北の歴史でもある。
(4) 日本の復興と高度経済成長への危惧
敗戦と荒廃の中より立上った日本はその十年間は国民をその飢餓より守る為、我ら農民は物資不足のあらゆる悪条件のもとで食糧増産に全力を尽した。この体制下で、近代工業の基礎は据えられ、以後十年を以って高度成長への準備は完了し、とくにこの五年間の発展はめざましく、その鉄工業、石油工業、自動車産業、 電気産業等々その工場よりはき出す製品は世界の果までも伸び、正に西ドイツを凌ぎ、アメリカに迫らんとする勢いであり十年後はGNP世界第1位となるであろうと、そのコンピューターの数字は示すところであって、その経済学者も、その政治家も国民もバラ色に輝く未来の日本経済を信じてうたがわぬところであり、東京にオリンピックを誘致し大阪に万博を開催して、工業日本、富国日本と全世界に誇示した。そして我ら農業者も又との近代産業との所得格差を無くすべく、近代経営に脱皮せよ, 日く、企業化、専業化、機械化、多頭化、集約化等々、20年後、30年後の未来像を示し、530万戸の農家は30万否20万戸で足れり......と、その学者も、為政者も野に指導要項を示して叫ぶ。我ら農民も又相和して言う。 然りその通り!.....と。
然し乍ら我れはひとりつぶやく。「本当にそうなるのであろうか?」果してそれが正しいのだろうか?
朝に増反を呼びかけ、夕に減反をせまるこの秋に...朝令暮改とは正にこれを謂う。
(5) 聖書に学ぶ(その1 イザヤ書)
ユダ国はウジヤ王の時代に国威張り、殊にアラビヤ湾に臨める商業上の要地エラテを占領したので、国富も増し富国強兵の国情であった。次のヨタム王の時代もまたその状態が続いた。併も異郷隣国と密接な交渉を生じた結果東方諸国の迷信、呪術、偶像崇拝の風習がユダヤに伝り、又、富国強兵は心驕りて、神をないがしろにする不信仰や、支配階級が富と権力とを舞断して民衆を抑圧搾取する悪政が行なわれた。
イザヤはかかる情勢下にその預言者としての生涯を開始したのである。(矢内原忠雄全集12巻)
イザヤはユダの国と民とを6つの罪を以って糾弾して言った。
「わざわいなるかな、彼らは家に家を建て連ね、田畑をまし加えて、余地をあまさず、自分ひとり、国のうちに住まおうとする。」(イザヤ5:8)
第一の罪は生産拡大主義、もうけ主義である。近代産業の発展状況として、その生産技術革命は科学の粋をあつめた完全なる装備の工場群あり、売らん哉の商魂たくましくその製品をところせましと飾りたる商店街あり、林立する地上数十階のビルに全世界の情報網を完成し、その富の増減を刻々よみ取るコンピューターあり、正に「家に家を、工場に工場を建て連ねたる様相は2500年前のイザヤの時代の比ではない。しかもこのたくましき近代産業におくれじと、まなじりを決して、その「田畑に田畑をまし加え」て、山頂に至るまでも垂穂でうずめ、規模拡大こそ生命なりと、ニワトリにニワトリを増し、豚に豚、牛に牛を加えて、幾百幾千頭、幾万幾十万、幾百万羽の団地は日本各地に続出しつつある、そして世界中の富をひとり占めにしようと。
規模拡大は生産品の増大となる。生産は消費の裏付けを必要とする。このバランスが保って初めて繁栄するのである。日本の輸出の大半はアメリカであるが、繊維輸入規制問題に端を発して、日本にむかって貿易自由化の即時実施、円切上げ要求。それがまち切れないで遂にアメリカは一切の輸入品に10%の課徴金を抜き打ち的にかけるに至った。工場に工場を建て連ね、生産に生産を拡大してその製品を山と積んでも、買手がつかずアメリカを始めとし東南アジヤや全世界の市場より、その輸入を断られた時一体どうなるのか、その心配は「みみずのたわ言」であるか。
イザヤの言はつづくのである。「万軍の主は私の耳に誓って言われた」(5:9)主のみ言は真実であってことごとく正しいのである。しかも「誓って言われた」のである。これよりたしかな宣言はない。何と誓われたのであろうか。「必ずや多くの家は荒れすたれ、大きな 麗わしい家も住む者がない様になる。」 (5:9)
企業の倒産である。完備せる近代工場の照明は消え一夜のうちにその責任者は行方をくらまし、その机といすはほこりにまみれ、くもの住家となり、おびただしい社員はその日より失業し、妻子は路頭に迷う。その中に昨日土地をはなれ鋤を捨てた者はいないか!
(6)聖書に学ぶ(その2 創世記)
人々いつもの如くのみ食いめとりかつ歌いつつある時、豪雨沛然と降りそそぐこと40日40夜、洪水地に満ち総ての生物は絶滅した。(創世紀6:5-7) 「滅亡は突如として来る」かの如くあるも、あわれみに富み給う神は警告無く、その聖手をのべ給わない。ソドム、ゴモラの滅亡も、時に主は言われた「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか」。 (創世記18:17)そして、「わたしはその10人のために亡さないであろう」(創世記18:32) と約束なされたけれども、ソドム、ゴモラには義人見出されず逐に硫黄と火を以って滅されたのである。
(7)聖書に学ぶ(その3 イザヤ書)
去る8月、愛農学園に於ける聖書研究会で高橋三郎先生は「農業生産は規模拡大をせねばならぬ事は判らぬわけではないが、その為に多忙を極め、年2回のこの聖研にも出席出来ないと言うことを、 神様は果しておよろこびになるであろうか?」云々と言われた。「イザヤはこの拡大主義を「禍いなるかな」と祝福にあらず、のろいと審判を以ってのぞんでいる。しかも
「10反のぶどう畑もわずかに1パテの実を結び1ホメルの種もわずかに1エパの実を結ぶ」(イザヤ5:10)
註「1パテとは液体計量の単位36リットル、 1ホメル360リットル、 1エパとは個体計量の単位36リットル」
10反(1町歩、1ヘクタール)のぶどう実はそのしぼり液、36立(2斗)であり、その収量は種子の10分の1である」とは、恐るべき凶作である。農業者にとって最も恐ろしい貧困に二種ある。
第一は天候不順や病虫害等、自然の災害による凶作、不作である。種子の10分の1の収穫とは大よそ皆無の収穫で、その惨状は目をおうばかりであろう。若し我が日本にこの惨状が臨んだなら、一面の水田に一粒の稔りなく、冷雨の中に青枯が続くならば、高度成長の経済大国日本はただちに転落し、我らも又生命をおびやかされるであろう。この東北地方には度々冷害の見舞うところとなり、収穫 皆無の惨状は娘を売る涙の家の子らは、汽車の窓から捨てられたるベントウの空箱に群がったと言う。幸いにして十有余年神はあわれみを以って、豊かな稔りを賜っていられる。けれども、明日にもこの凶作が臨まないとは何人も保証は出来得ないのである。
第二は豊作貧乏である。これは人為的である。現在の農産物はその米作を始めとして、果樹、そさい、畜産等すべてが過剰となり価格は下落の一途をたどり、利益が少ない為にまた増産し、悪循環をくり返す結果原料高の製品安となり、これ又倒産へと突進するのみである。
私は十数年来養鶏中心の農業を営んで来た。初めは百羽が理想であった。そして3百、5百、千羽と増し、今では参千羽は最低必要羽数であるというけれども、千羽の利益はその3千羽とはあまり変らないのだ。しかも尚数万、数十万否百万余羽の大団地が出現し、まさに、「鶏舎に鶏舎を建て連ね」て卵の洪水である。 その価格はkg30円也の暴落になげき利益増大はおろか、逆に投資金利、人件費、病虫害発生等の出費のため赤字経営となり、「多くの家はあれすたれる」現況ではないか。
これはひとり養鶏産業のみの末路ではなく、すべての農業経営に見える拡大主義の末路ではなかろうか。豊作貧乏とは神の聖旨を学ばず、飽くなきむさぼりの欲望にかられて得る収穫だ。
「あなた方は早く起きおそく休み辛苦のかてを食うことは空しい」(詩篇27:2)と主は言い給う。高度成長の掛け声に踊らされ、他産業に負けるな! それ 拡大だ! それ増羽だ......と結果は、悲惨な天よりの敗北の宣言に亡び去るとするなら、まことにこれ程あわれなものはない。そしてこの事は、幸福なる家庭を破壊し国家の存立を危くし、世界平和を乱し、おそるべき人類滅亡の戦争へまで進むが必定であるまいか。
(8)聖書に学ぶ農業
今は昔百余年以前北欧デンマーク、当時「此の人も地も荒廃せるその国土を望んで、その行くべき途を示す為、雄々しく立ち上り戦い抜いた詩人にして歴史家 あり彼こそニコライ・グルンドウェーそ の人があった。
彼はイギリスのロンドンに旅行し、丁度イギリスでは機械文明の登り坂であり機械工業の勃興とともに農村は荒れて人皆都市へ都市へと人の集る社会の大変革の実態を目撃した。此の騒々しい、工場の音をきき此の大変革を見た彼グルンドウェーに愛する祖国の行くべき途を黙示せられた。彼の経験や思想や信仰や知識からこれ等の現象を見て「デンマークの進むべき途は、イギリスの工業立国に対してこれとは完全に反対の農業立国にある。此の目的を達成せしめる為には自覚せる青年をつくらねばならぬ。而して聖書の鏡に照してデンマークの進むべき道を教える。歴史教育こそ真のデンマーク建設の方途でなければならない。キリスト教の信仰によって青年を養い全人類を愛する為のデンマークの使命は、農業によってより栄養価値のある優良なる食糧生産して全世界に提供する事である。」と。(松前重義著「デンマークの話」参照)
以後60年の歳月の努力は実を結び世界一の農業平和国家デンマークが出現した。工業文明のイギリスと農業文明のデンマークとはどちらが神の祝福と栄光を受けたかをその後の両国の歴史を学べば自から明白である。
今や日本はこの工業機械文明追及の結果として、如何なる情況下に置かれているか、林立する工場煙突よりの黒煙と亜硫酸ガスは大気汚染度を世界一とし、美わしき緑を枯死せしめ、清流は汚濁と変り魚すら棲まざる死の川、死の海となって来た。自動車の排気ガスと輪禍の死臭は鼻をつき、人命の尊厳などもものかわ、その生命軽視の風潮は正にチリ紙同様となり、地球亡ぶ日はこの日本より始まりつつあるではあるまいか。
古代文明発祥のメソポタミヤ、又エジプトやローマも、その豊かな緑の中に発達した。そして国民は繁栄の絶頂に於て突如として滅亡し今はわずかにその遺跡をとどめるのみ。これは緑を食いつぶした人類の末路であり、人為的に荒廃した地は四千年の今日尚も砂漠となって復興出来ないのである。
日本における公害の見本は、足尾銅山であろう。見わたす山々は草木をとどめず、その流れは川下数千町歩をいまだに鉱毒と減収で農民を苦しめ国民の生命をむしばんでいる。あの銅山で得たものは日清日露の戦役に軍需品として大砲に小銃に戦艦につかわれたと言う。その勝利として得た台湾も樺太も今はどうなっているか。剣によって得たものは剣によって失なわれ、のこるは廃墟と化した山と鉱毒の川である。
日本は正に緑を食いつぶしつつある。ここにも「禍なるかな豊かな緑を食いつぶして家に家、工場に工場を建て連ねる日本よ! 国よ! 人よ!」と。
第三の審判は日本の頭上に下りつつあるのではあるまいか! みせかけの繁栄亡国へと猛進しつつある日本の現状を深刻に憂うる時は今をおいては他にないのではないか!鋤を捨てた国民よ、山野に帰れ、緑を生産する農民よ、もう一度立ち帰って、25年前、原爆の廃墟の中に示された世界平和への祈り、愛農救国救人類のため、聖書に示された真理農業の原点に立ち帰るべきだ。 拡大工業、拡大農業にあらず、一億皆農、小農自主独立経営こそ最後に神が与え給うた栄光の道ではないか。神が与え給うた平和の武器なるこの鋤と5反歩の大地を愚かにも捨て、その鋤を打かえて銃剣とする罪を犯してはならない。
5反百姓決して少面積ではない。神は公平であり給う。広大なる平原は牛の群がるところ、雨多き東洋に米が産し、米を食する人種が定着する。小さな国は少面積で十分だ。面積の大小と富の大小とは無関係で、富は「有利化されたエネルギーである」
そして無限の富は神の言である。日く「ただ御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう」
デンマークの復興はデンマークのみに与えられた栄光ではなく、真理は普遍である。その民族が聖書の真理を受けて土に起つ時、それはただちに、スモッグと排気ガスに枯れ果てた国土を復活せしめる力となる。
「荒野とかわいた地とは楽しみ、砂漠は喜びて花咲きサフランのように、さかんに花咲き、かつ喜び楽しみかつ歌う。 これにレバノンの栄が与えられ、カルメルおよびシャロンの麗しさが与えられる。 彼らは主の栄光を見、われわれの神の麗しさを見る。」(イザヤ書35:1-2)
(9)真理農業
しからばこの聖書の示す永遠に栄え、滅亡なき農業の具体的有り方を学びたい。が、その前に、さきに学んだ近代経営について、左の三つの型があると学者は言う。(1)土地資本型、いわゆる大農式、拡大な土地を一カ所に集合し大型機械による経営、米なら米、小豆なら小豆のみの一作主義で、八郎潟や北海道の畑作等に見られる。(2)資本型、多額な資本を比較的小面積に投ずる経営で、養鶏、養豚、肥育牛、ハウス園芸等。(3)兼業型、食糧の自給を行ない、家族の一人が現金収入を得る為、他産業に従事する。このうち第一第二の型はその産物を売りその利益を得て生活するのが目的であるが、農産物はたえず市場価格に左右され不安はつきものである。第三型は完全な自給はのぞめないと同時に、他産業の繁栄の限界と勤務人としての人間関係等矛盾が生じ決して理想的とは言い難い点があろう。
真理農業とはこれ等の欠点を完全に満たし他を侵さず、平安かつ幸福に満ちた経営で永遠の真理を行なう経営でなければならない。ここに初めて聖書に学ぶ農業として、小農5反百姓の希望の道があると思う。この経営は、幸福なる家庭の建設を中心とする、ホームの建設である。此の世のいわゆるマイホーム主義のホームではない。この小さな家庭(ホーム)の中心は唯一の神であって主キリストであり、その家族一人一人の生活目標は霊的生活の充実である。「神の国とその義」とを求める生活である。
又、真理農業は完全かつ高度の自給圏確立の生活農業である。売る農業でなく買う生活でもない。米も味噌も野菜も果実も乳も肉も卵も魚類もその食糧の99%は己が手で作るのである。高度の栄養生活をつくり出すのである。
物的生活の三要素は食衣住であり、その最重要なものは 食生活の高度化である。又住宅の問題の一考として植林の高度化を考えたい。杉、松等300本20年後は高級住宅一戸は建つのである。そして緑は祖国の荒廃を防ぎ、大気は澄みて健康なる生活が送れるのである。幸いにして愛農会には各部のよき指導者が揃っている。若しかかる生活が実現するならば現金支出は都市生活者の3分の1で足りるのである。
神中心のホーム。健康で明るく、明日を思いわずらわず、春夏秋冬、朝に夕に美しく映ずる山河草木を友とし、日用の糧は、神がこれを豊かに恵み、食卓には新鮮そのものの珍味ところせましと盛られ、しかも一銭の代価の支払いに心わずらわす必要がまったくない。「自分の勤労の実を食べ、子供ら中心の団欒は、小農5反百姓にのみ神与え給う特権ではないか。
永遠に平和と繁栄を約束するこの聖書に学ぶ真理農業を、巻頭のミカ書についてもう一度学び度い。「彼は多くの民の間をさばき遠いところまで強い国々のために仲裁される。 そこで彼らはつるぎを打ちかえて、すきとしそのやりを打ちかえて、かまとし国は国に向ってつるぎをあげず再び戦のことを学ばない」(ミカ書4:3)
これ正に戦争廃止、平和の歌ではないか。神の聖旨なる永遠の神の国の実現のすがたではないか。人類の夢である。愛農救国救人類の祈りの歌である。平和憲法第九条はこの神の聖旨の具体業である。平和を愛する国民の理想的な姿は、次の詩で最高潮に達する。「彼らは皆そのぶどうの木の下に座し、そのいちじくの木の下にいる。 彼らを恐れさせる者はない。これは万軍の主がその口で語られたことである。」 (ミカ書4:4)
「既ち世界的平和郵来の時には、人は各自小地主となりて、己が手に手作りし物を食い、己が建てし家に安んぜんとの事である。言あり日く「神は田園を造り、人は都会を作れり」と。
そして所謂文明は都会文明である。人が集合して相扶けて、最大限度に地上の生命を楽しまんとする努力である。そして夫れが凡ての患難を生じ、競争を起し、戦争を産んだのである。人が人に頼らずして神に頼る時に彼は自から独立に成る。直ちに天然に接して、天然を通して天然の神に近づかんとする。信仰の人は自づと都会を離れて田舎に住まんとする。己が葡萄の下に座し、己が無花果樹の下に居る事は彼の理想である。
世界的平和は自作農の発達を促す。末の日に神の国が地上に建設せらるる時には、東京、大阪、名古屋と称するが如き人間の集合地は跡を絶ちて、之に代る全国にわたる小地主の自作農業の繁栄を見るであろう。(内村鑑三著作集12巻)
我らは之を見たのである。それは25年前、あの敗戦の中より、新らしい国づくりとして、農地改革が断行された。
「全国の小作地260万町歩のうち133万町歩を地主から小作人の手に渡すことに成功し、その結果自作農地が全耕地の87%を占めるに至った。」(愛農6月号 日本のゆくえ 高橋三郎述)
そして600万戸の自作農家を土台に今日の日本の繁栄の基をつくった。平和憲法と自作農創設は神の聖旨であり、この25年は正に「彼らを恐れさせる者はなく」平安の農業天国でもあった。しかるに今やその姿は一変した。高度経済成長のサタンの呼びごえにおびえ、都市文明に汚染された農民が腰をまげ、目をしょぼつかせて、工場の片隅にうづくまっているではないか。
530万戸の農民よ、胸を張って天国の主を待ちのぞめ、主の与え給うた天国、永遠の平和と繁栄は小農5反百姓に在って、拡大主義的大農ではないのだ。 我らは小農5反王国の城主、平和の砦を守る者、愛農救国救人類の祈りの器であることをもう一度魂に焼き付け感謝と祈りを以って立上るべきではないか。
神が与え給うたこの小農天国を捨て、その鋤を捨て、ますます亡国街道を驀進する軍需産業に身を投ずるなら、そのゆく末は日本の破滅でありひいては世界の滅亡であろう。 530万戸の日本農民よ、この大地を守って一歩も退いてはならない。全人類の救と神の平和実現の器としての真理農業を守るならば主は祝福のみ言を以って満し給うのである。
(10)真理農業の栄光
すべて主をおそれ、主の道に歩む者は幸いである。
あなたは自分の勤労の実を食べ、幸福でかつ安らかであろう。
あなたの妻は家の奥にいて多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、
あなたの子供たちは食卓を囲んでオリーブの若木のようである。
見よ主をおそれる人は、このように祝福を得る。(詩篇128)
「聖霊」246号(1971年8・9月号)