マックス・ウェーバーと愛農会

近藤二郎


今から25年程前に京大で黒正博士の講義を小谷・坂本両兄等と共に拝聴したことがあった。その時ウェーバーの名を初めて知ったのだが、それは「経済段階説」即ち歴史的な経済社会の移り変りの学説とウェーバーの考え方に就てであったとかすかに記憶している。最近ウェーバーの小伝を読んで極めて深い感懐をうけた。それはこの偉大な学者マックス・ウェーバーとわが愛農会長小谷純一の思想的共通点であり、生き方である。


ウェーバーはキリスト教的ユーマニズムに堅く立場をとった社会科学者である。激しいクリスチャンであった彼はこの立場から現代を反省分析することを、その学問の中心課題としたのであるが、あらゆる形式上の権威をしりぞけ、権威はただ神と内なる良心のみにあるとした。

 直接に自己の良心と対決しながら――或いは面ちに神の前に立って――自己の行動を決定し、自己の行動を審査すべきであって、重要なのは単なる心情の美しさではなく行動の義しさであるとした。

 所謂清教徒であるが、学問的に言えばこのような立場に於て熱狂的に実践しようとする清数徒大衆の英雄的活動という条件が内外から加わって、初めて固定偉滞した前近代社会は崩壊して、近代社会が成立するものとみたのである。西欧にあっては之は確かに正しい。我国の場合之に代るべきものは何か、之は些か問題であるが、所謂士魂と言ったものが僅かに考えられるにせよ、一般には西欧を模倣した後進的資本主義制度に過ぎず、信仰の強い裏付がない点、矢張り何か一本欠けているように思う。

 それは兎も角もウェーバーによれば、近代社会は豊かな世俗的幸福を一応与えるけれども、同時にまた近代的な構造の為に硬く冷たく人間的情熱を圧殺してしまうと考えた。

 資本主義(企業性の追求乃至資本計算の合理性)もその一つであり、近代的官僚制(事務能率万能性)もそれである。合理性の追求はよいが道義を基底としない拝金主義に堕するとき、社会は悲劇化する。

 然しウェーバーは必ずしも資本主義を否定するのではなくて、むしろ前資本主義社会と資本主義社会を支配する原理を明快に分析したのである。

 ウェーバーは近代社会の非情の性格を徹底的に究明しながら、然も近代社会を容認し、その内部に於て人々がその理想のために、熱情的に正しい目標に向って進むことを望んだ。熱情的に然し冷静謙虚執拗にである。「熱情なくして価値ある仕事は何一つできない」それは彼の最後の言葉である。

 小谷君もまた熱烈なクリスチャンである。彼はその理想を日本農村の改革に指向し、ひとすぢに献身しているが、その行動の義しさは日々神の前に謙虚に祈りつつ、求め命じられた処を断乎として行う処に生れるものであると思う。

 ウェーバーとは時代を異にし、理論と実践の立場を異にするけれども、この意味でウェーバーと一致するものがある。つまり現代に於けるウェーバー的理想の人物であり、生き方をとる一人であると思う。

 (奇蹟的重患から立上った彼の肉体は必ずしも強健ではない。然し之を支配する精神の強さは人々のよく知る処である)

愛農会は彼の生命であり愛農運動はその総てであるけれども、神の声はそれを導くものとして常に乏に超えてあるのであ

 会が拡大し運動が全国的に展開するに従い、世俗的な意味に於ける多くの障害やきよほうへん(豹変)が彼とその周囲を悩ますであろう。然も彼と愛農会運動は進む。私は曾て彼が断乎として宣言したことを知っている。「若し愛農会が不純な進行をなし、或いは熱情を失った単なる農業団体となるならば、寧ろ之を解散したい。たとえ私一人と成っても信念に向って邁進する」と。

 保守的な排他的な、ある意味ではどうにもならない我国の農業社会を改造しようとすることは真に困難なことであろう。またこの激しい資本主義的競争権(圏)に於て劣勢な農業を商工業と同じレベルに引上げることは更に至難であり、全国の農業者が夫夫(それぞれ)に覚醒することが必要であるけれども、先づ目覚めた人々が一人以て百人を率い導くという堅い決意と熱情がなくては駄目だと思う。我国の農業改進運動団体の中でも最も清純であり且つ深く地についた愛農会であってほしい。この意味で愛農会の人々の上に課せられた使命は重く且つ大きい。

 ともあれマックス・ウェーバーと小谷純一、私はこの二人に偉大な共通点があると思うし、このように二人を並べても決して不当ではないと信じている。

(筆者は大阪府農業試験場調査課長)

愛農会誌 1975年5月号