梁 瀬義亮先生の体験


 <NHK教育テレビ「こころの時代」「いのちの発見」から1990年>   
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ナレーション:遠く金剛山の山並みを望み、吉野川の流れに沿って広がる奈良県五條市。この一帯は万葉の昔、「たまきはる宇智(うち)の大野(おー ぬ)」と歌われた万葉詩人の憧れの地でした。
この土地に生まれ育った梁瀬義亮さんが、戦後復員して内科の医院を開業して以来、もう39年になります。梁瀬さんは、大正9年、五條市のお寺の3 男に生まれ、昭和18年に京都大学医学部を卒業しました。卒業するとすぐに軍医として、第一線機械化部隊に配属され、フィリピン戦線に従軍しまし た。フィリ ピンでの激烈な戦闘の中で、梁瀬さんは九死に一生を得て復員。一時、兵庫の尼崎病院に勤務した後、郷里に戻って開業しました。開業医として診察に 追われる日々の中で、梁瀬さんは、当時使用されていた農薬が人体に恐ろしい影響を及ぼしていることに気づき、昭和34年、いち早く農薬汚染の実態 を世に訴えました。 ‥その活動は、有吉佐和子さんの小説「複合汚 染」にも紹介され、昭和50年には吉川英治文化賞を授けられました。、梁瀬さんは、昭和34年「健康を守る会」を設立し、それを財団法人に発展さ せて、直営農場を設け、完全無農薬、有機農法の啓蒙と実践に取り組みました。‥有機農法によって生産された作物は、会員制の販売所で販売され、地 方の会員には送り届けられます。こうした医師として、また有機農法の実践者としての梁瀬さんを支えてきたもう一つの活動があります。それは現在こ の販売所の2階を会場にして開かれている仏教会の集まりです。‥最初の5年は月2回、その後は月1回、一宗一派に偏らない仏教講話が行われ、1回 の休みもなく、現在まで続けられて、この9月で、428回を数えました。
秋の訪れにはまだ少し早く、残暑厳しい日の午後、奈良県五條市に梁瀬義亮さんをお訪ねしてお話をうかがいました。
<医師、梁瀬義亮さん>
白鳥:そして京都大学医学部を卒業されてから、もうすぐに軍医としてフィリッピンの最前線にお出でになったんですよね。
梁瀬:そうです、高等学校(旧制第六高等学校)の時も、少林寺という禅寺へ下宿させていただき、大学でもずうっと禅寺へ通って禅の修行をしま した。またお経の勉強をして、有名な坊さんや学者をたずねたり、大学の医学部の勉強以上に仏教の修行にも努力したわけなんです。ところが悟り なんてそう簡単に得られるものではないです。また仏教と科学との間の問題も理論的に解決しておったんです。ところがどうしても情緒的にしっく りしないんです。一生懸命に坐禅もし、仏教の勉強もし、念仏もさしていただきましたが、どうしても情緒的に落ち着かないんですね。
白鳥:ありますね、頭では分かっても胸にストンと落ちないとか、身体が馴染まないとかというようなことはね。
梁瀬:はっきり申せば、仏教の教えが、科学を知らないがゆえに通っているんじゃないかというような疑問がどっかにあるんです、それは理論的には、 そうじゃないんだということはわかっているんですよ。
それから戦場へ行きまして、戦場といっても、初期でしたから、フィリピンはまだ戦闘が始まっていなかった、一生懸命お経を読み、仏道修行していた んです。
白鳥:最前線でも。
梁瀬:最前線ではなかったです、まだその当時は。昭和十八年の末ですからね、まだ米軍のゲリラが跳梁するぐらいで、いわゆる戦闘はまだ起こってい なかったんです。
白鳥:いよいよ、米軍が上陸して来て‥。
梁瀬:それまで軽微だったんですが、いよいよ昭和19年の末に、アメリカ軍がルソン島北部のリンガエン湾へ上陸して来まして、バギオの攻防戦が始 まったんです。私は機械化部隊の隊付き軍医で、しかも若いので下の方の位の軍医ですから、戦闘中隊と一緒に行動したわけです。ずいぶん酷い戦闘で ございまして全滅また全滅でした。不思議に生き残りましてね。
白鳥:そこでも当然「生死岸頭」という、その状況というのは毎日のようにあったわけですね。
梁瀬:毎日あったです、機械化部隊の戦闘というのは厳しいですからね、それで、バギオの少し3キロほど下りたところに、トリニダッドというところ があるんですよ、トリニダッドのところで、昭和20年5月3日でしたが、中隊の生き残った60人ばかりの兵隊とともに、そこを死守せよという命令 を受けました。ボントク道という道を友軍が退却していくわけです、それを向こうの戦車が追っかけてくるわけです、それを死守するわけです。
その時に第1日目は、いちおう前の陣地が大抵抗しましたが、全員火砲射撃で焼き殺されていますよ、その時の抵抗があまり激しかったので、米軍が一 時退却して、明日、総攻撃をやるわけです。いよいよ明日は全員ここで全滅、玉砕ということになったわけです。ある物は全部食べてしまえ、食料は全 部食べろ、もう明日はないということです。その晩に、私は荷物を整理しておったら、ひょっと小さな缶が出てきたんですよ。中に金平糖(こんぺいと う)が入っておったんです。それは2年前に港を出る時に、母親が私にくれた缶だったんです。それを見た時に、生死岸頭に立って、初めてほんとの母 親の恩が分かりましたね。
白鳥:金平糖が缶の中に‥。
梁瀬:それを見た時に、私は詩なんかよう作らないのに、パッと詩が出てきたんですよ、もう素晴らしい詩ができた、「帰らぬ母の懐へ」という題ま で。 

 明日は死すべき日ならんと 
 周りの品を整えば
 ふといできたりぬ
 古缶(こかん)に詰めし金平糖
 思いをいずるおさな時
 小学中学高等と
 われ はげくみしみ姿や
 永久(とわ)の別れと覚悟して
 埠頭にたてるかなしみよ
 北斗を仰ぎて母呼べど
 むなしく声は消えにけり
 ああ戦いは終わりなり
 わが生涯も終わりなり
 死すべき時の来たりけり

今から思えば、私、こういうことだ、と思うんです。
人間には非常にエゴがあるでしょう、エゴというのは非常に傲慢な心ですよ、俺は生きるのが当たり前だ、周りの世界がある、これは当たり前だ、世界 と俺と関係なくて、俺が快楽を貪るのは当たり前だ、快楽のために都合のいいものは取ってきて、都合の悪いやつは殺してしまって自分が生きるんだと いう、これはエゴですよ。
そして人間の心は次々と、「意馬心猿(いばしんえん)」と申しますが、猿が枝を伝うように、常に欲望と快楽追求の中で、フラフラしておるのが人間 の心ですよね。一生、人間そうですよね、まあ一生懸命に快楽を探し、グルメ旅行をやったり、そのためにはお金がいるからお金儲けに夢中になった り、いろいろなことをやって、そして一生終わってしまう、これ普通ですね、普通の心ですね。
ところがその心とともに、理屈から言えば、事実として、私は「生まれ」たのです、自分から大手をふってうまれてきたのではないでしょう、生まれた 後、親に「生かされ」たんですね。実際問題として、私の生きるということは、大勢の人のお陰で生きていますよね、食べる物、着る物、すべてね、そ れから大自然によって「生かされ」ていますね、これは厳然たる事実です、そんなことは気が付かなかったでしょう。
白鳥:いつもは‥。
梁瀬:その気が付かない心を、私は、「第一の心」と名付けているんです、しかし、この厳然たる事実を認めた。そして同時に、生とともに必ず死があ るんだ、という事実があるでしょう。普通、みな生きることだけ考えて、死ぬということを考えないでしょう。
白鳥:そうですね。
梁瀬:具体的にはね、けど、生とともに死があるんだ、という現実の事実は、私は子どもの時にあのことで気がついたんですけど。
白鳥:伯母様の死ですね。
梁瀬:ええ、伯母さんの死ね。同じようにこれ事実ですね、この事実を正しく見た心、 そこから「生まれ」、「生かされ」ておるという大自然とか、他の人とか、他の動物とか、あらゆるものに対して謙虚な心があるでしょう。或いは父母に対する 謙虚な感謝の心がでるはずでしょう。ところが平生出ないでしょう。その時、「第二の心」というのがほんとに出たですよ、私に。
<診察中の梁瀬先生>
白鳥:「戦地を死守しろ」と、その頃の「死守」というのはまさに「玉砕」の意味ですね、この命令はどうなったんですか。
梁瀬:夜2時に、「万難を排して、突破して、12キロ後ろにある陣地によって、敵戦車を阻止せよ」という命令がきたわけです。命令が変わったわけ です。12キロ後ろの陣地によって抵抗したほうが有効だ、と後ろの司令部は考えたんでしょうね。それで突破してきたんですが、その途中私の衛生兵 も死にました。なかなか突破は大変でしたね。その翌日12キロで、戦闘があったんですが、その時も私は生き残りました。そして最後は7月19日 に、部隊が全滅しまして、バラバラになってしまいました。私も右脚を負傷して化膿してしまいました。私をまぜて19名の負傷兵と、アメリカ軍が占 領した本道をさけて裏道を通って、友軍の方向へ、北の方向へ行こうとしたんですが、そこはバギオのマウントプロスと申しまして、山岳地帯なんで す。1200から1500メートルくらいの山また山なんですね。そこの間道を通って行くうちに、ちょうど雨期で星も月もわからずだんだん山へ迷い こんで、そして16人が飢えと寒さで死にました。フィリピン島でも山の上はたいへん寒い上に、一日中びしょ濡れ、それに食べるものは腐った木に生 えた茸だけですからね。私と残った兵隊2人がもう餓死寸前のところを山に住む原住民に捕らえられて、この左眉上の傷あとはその時のものです。そし て首を切られて殺されました。日本兵はみんな殺されるんですね。それは原住民が悪いんじゃなくて、食べるものが無いためにね、いろいろ問題が起こ るわけですからね。彼らも生きるために必死なんです。ところが私を殺す役の原住民が、たまたまカトリックの信者で、バギオのハイスクールを出て、 英語をしゃべれたんです。彼ももちろん、私を殺すつもりでおったのですが、私が英語を理解することを知ると、英語で日本人のことを口をきわめての のしったのです。「われわれは平和な人間で山で平和に暮らしていたのに、お前たち日本人がやってきて村を焼き、女、子どもまで殺した。日本人は何 という残酷な人間どもだ」とね。私は「そうじゃないんだ、日本人はこんなものだ」ということを英語で言ったわけです。その中に「われわれは仏教徒 だからそんなことはしないはずだ。君らは自分は平和な民だと言っているが、われわれ日本人から見ると恐ろしい人たちだ、現にわれわれの戦友たちが 君らに殺されている。‥」と言ったんです。そうしたら、「仏教ってなんだ」と、こう聞いたんです。私は、「仏教というのは、ブッダという聖者の教 えで、あらゆる生きとし生けるもの、たとえ、虫でも兄弟だ、という教えだ。そうして生きる原理は、自分以外の生命の幸せ、幸福のために祈り行動す るという教えだ」とふっと言ったんですよ、まったくふっとね。そうしたら「あなたは平和で、教養がある」と言って、それで縛をほどいてくれまし た。‥しばらくしてから、「私はあんたを殺さなければならない。許してくれ」と言いましたよ。
白鳥:原住民の方が、
梁瀬:ええ、私に。「私はあなたを殺さなければならないんだ。許してくれ」と言いましたよ。私は、「われわれ仏教徒は殺されたとは思わない。死す べき時がきて、仏陀のところへ帰るんだ。それだけなんだ。あなたに殺されたとは、仏教徒は思わないんだ」と言ったんです。そして一心に念仏しまし た。なかなか安心立命なんかではないですよ、栄養失調で死にかけていて、まったく気力というものはないし、殺されるってほんとうにたまらぬほどい やなものです。しかし、私には念仏という頼るものがあったのは事実です。
白鳥:その後、彼は先生を負ぶって逃げてくれたわけ?
梁瀬:ええ、その後に、私に水を飲まし、スープを飲まして、そしてその夜負ぶって村を抜け出して逃げてくれたんです。
白鳥:まさに生死岸頭ですね。
<梁瀬先生追悼集>
梁瀬:それから帰ってから、当時終戦後どさくさだったでしょう、尼崎の工場地帯の病院へお勤めさせていただいたんです。私はたまたまそこの宿舎へ 住み込みでやっておったんです。ところが、当時は公害なんか問題にされない時代でしたから、石炭のガラを粉砕して、煙突へ放り込んでおったんです よ。ものすごいホコリでした。それで喘息になりましてね。それに肋膜炎を併発しまして、もうほんとダメになってきたんです。ちょうど結婚して間も なくで、長女が生まれて、4ヶ月の時でした。私は肋膜に水が溜まる、当時はそれから腹膜炎が起こって、脳膜炎起こって死ぬという、決まっていたよ うなパターンだったんです。抗結核剤もありませんし、ただじっと寝てるだけなんです。もういよいよダメだと覚悟したんです。父には何も知らせな かったけど、父がひょっこり訪ねて来たんです。 そして、「戦前のラジオがあったから、修理して、鳴るから持って来てやった」と、私の宿舎へ持って来てくれたんですよ。
白鳥:あの頃のラジオは貴重品なものですね。
梁瀬:ええ、そして家内が子どもを負ぶって外へ出た時に、私は、「お父さん、いよいよダメだ。僕はね、戦争に助かって帰ったけどもうダメです」と 言ったんです。本当にダメだ思ったんですよ。当時の医学としては、抗結核剤もありませんしね。「ただ、私は死ぬのは覚悟しておるけど、みつ子と小 さい子どもを置いていくということが辛くて死にきれない気持ちです」とこう言ったんです。そうしたら、父が、私にこう言ったんです。「お前、それ は仏教徒として、ほんとに恥ずべき言葉だ。考えてみろ、お前が生きておるから、みつ子やちえ子が生きれると思っているのは、お前の驕りだ。お前の 目の前で、あの子らが七転八倒して死んでも、どうにもできないこともあるんだ。おれもお前に死なれたらほんとに闇だ。しかし、わしは仏陀のお光り を信じている。業報、因縁に従いつつも仏光の中にいるのだ。だからそんなことは、一切考えては仏教徒としては恥だ。静かに仏陀のみ光の中で生かさ せてもらう。お前の今できることは仏陀を念じて、念仏以外にないんじゃないか」と言いましたね。「わしは別れるのは辛いけれども帰る」と言って、 ラジオをセットして帰って行きました。私も父の言葉に打たれて、「そうだ、自分は念仏する以外に道はないんだ」と思ったんですよ。そしてラジオを 鳴らしておったら、その日の午後5時からベートーベン・シリーズが始まったんです。ベートーベンはまあ時間がないから申しませんが、私は絶望した 時に、ベートーベンの音楽で救われたことがありました。それでもう本当にお経を聞くような気持で聞いてきたんです。ベートーベン・シリーズがその 日から始まったんです。
白鳥:その日から。
梁瀬:そうです。その日の5時から6時まで1時間、‥ビックリしましたよ。それから3ヶ月の間、彼の若い時分から亡くなるまでの曲を、1000曲 あったんです。第9交響曲の時は1時間半になりました。ほんとに感動して聞かせていただきながら、仏陀を念じておったんです。そうしたら不思議に 肋膜の水が引いてきました。それから病院を辞めさせていただいて、郷里へ帰ったんです。1年ほど養生してよくなったんです。治ったことが不思議 だったです。