聖書をどのように学んだらよいのか

矢内原忠雄の「キリスト教入門」
第二章「どのようにキリスト教を学ぶか」
からの自由引用です。

(1)教科書としての聖書

キリスト教の「基本的な教科書とも言うべきものは聖書です。聖書を読まなければ、キリスト教を学ぶことは到底できません。・・・聖書を学ぶには、注解書や聖書辞典や、語句索引や、異同一覧など、研究者に便利な参考書がでています。私たちの知識の程度と研究上の必要におうじて、一通りこれらの参考書を座右におくことは便利なことですが、しかしふつうの人が聖書を学ぶ目的は、知識を学ぶためでなく、信仰を学ぶためですから、このような研究上の参考書がなくても、直接聖書そのものを読めばよいのです。いくら聖書について研究しても、聖書そのものを読み味わわなければ信仰の益にはなりません。聖書の真理をさとる力は学問でなく信仰であり、聖書は無学の人々にもひろく開放されている民衆の書なのです。」

(2)教師の問題

「なにごとでも学ぶには教師のあることが望ましく、少なくとも最初の手ほどきをしてくれる人が必要です。聖書を学ぶについても、まったくの独学ということは困難です。聖書という書物は、初めてこれを読むときには、だれでもすぐには理解できない所がたくさんあります。ですから聖書はやはり人の教えを受けて順次理解を増していくべき書物です。
しかしながら、ここに注意を要する点がいくつかあります。第一に、聖書はわかりにくい点もありますが、初めて読む人にわかる点も多くあります。ふつうの人が信仰を求める心で聖書を読むならば、心にふれる言葉の一つや二つは必ず見出されます。聖書の全部は理解できなくても、心にふれた所だけを味わい学ぶことによって、キリスト教の真理は学ばれていくのです。すぐに聖書の全部が理解できないのは当然であり、何の学習でも最初から全部を知ることはできないのです。第二に、聖書を学ぶ目的は信仰にあって知識にはありません。信仰は単純であって、キリストの救いを信じるというただ一つの事につきます。ですから、この信仰さえ与えられたならば、聖書全体がわかってきます。これに反して、信仰を求める心で学ぶのでなければ、いくら聖書を読んでも理解は進みません。第三に、私たちに聖書を教える最大の教師は聖霊です。聖霊というのは神の霊であり、信仰を求める一人一人に対して、真理を求める目を開き、理解を心に啓発し、各自の要求と程度におうじて、いわば個人指導によって聖書の真理を教えます。私たちは聖霊の助けを意識しないことがあります。しかし聖霊の助けなしには、どんな人であろうと神の真理をさとることはできないのです。ですから、聖霊の助けのもとに、人はまったくの独学で聖書を学ぶことが絶対に不可能というわけではありませんが、通常は教師につき、友人と共に聖書を学ぶことが、もっとも効果的であることはいうまでもありません。・・・
要するに、教会であろうと、無教会であろうと、人はそこに来て教師につき、また友人と共に聖書を学ぶことが、キリスト教の信仰をえるためには必要あるいは有益です。もしも地理的にあるいは個人的事情によって集会に出ることができない人は、聖書研究の書籍雑誌によって誌上のエクレシア(霊的教会)につらなり、いわば独学で聖書を勉強する道はあります。また、そのような人を訪問して聖書の真理を解き明かすことは伝道者の重要な仕事でしょう。ただ独学にせよ、人に就いて学ぶにせよ、真の教師はつねに聖霊自身であることを忘れてはなりません。」

(3)実験と実習

「何の知識でも、自分で実習し、実験を経なければ、本当に自分のものとはなりません。いや、人生の生き方を教える聖書の真理は、自分の体験を通して初めて心からわかるものです。ではその実習や実験の場所はどこでしょうか。私たちの家庭であり、職場であり、いや私たちの生涯全体が聖書の真理を学ぶための実験教室なのです。・・・
聖書は研究的に読むこともできるし、実験的に読むこともできます。実験的というのは、聖書を自分の身に当てはめて読むことです。聖書に「あなた」とある言葉を、自分に対する直接の個人的な呼びかけとして読むことです。聖書を外側からでなく、内側から読む心の態度です。これが、時がくるにおよんでキリストの声を私たちのたましいに聞くための準備であり、素養です。
ですから聖書は私たちの人生の実験が進むにつれて、だんだんとわかって行くのです。始めから全部わかるものではありません。わからない点があっても、決してあせったり、失望したりすることなく、それを心の奥深くにつつしみをもってしまっておき、わかるところだけをわかっていけばよいのです。しかも聖書の真理は学問の知識と異なり、その最も大切な要点は信仰生活の最初からわかるものです。すなわち誰でもキリストの教えを信じるならば、神から平安をあたえられます。この基本的な信仰が、人生の経験を経るにしたがってだんだんと広さ深さをまし、信仰より信仰へとすすんでいきます。そして終わりの日には、聖書の奥義はことごとく私たちの目に明らかにされ、あますところがなくなるのです。

(4)リクレーション

学校では教室や実験室での教育のほかに、リクレーションとして、運動会や音楽会などが行われます。これは娯楽をかねた教育の方法であり、広い意味での人間教育の一部です。キリスト教の真理を学ぶについても、それにふさわしいリクレーションがあります。
その第一は、聖書自体を楽しんで読むことです。聖書六六巻、その中には歴史書もあり、法律書もあり、伝記もあり、古代社会の生活記録もあり、詩歌もあり、格言集もあります。聖書はその範囲が広く、材料が豊富で、その描写は素朴であり自然であって人間性の深さに徹しています。聖書のおもしろさを知れば、世間の小説など読まなくても、文学に対するかわきを感じることはありません。しかし、聖書以外の読書も不必要なわけでは決してありません。学問は進歩し、知識の範囲は広まっていきますから、私たちの事情と能力が許すなら、たえず書物を読んでいることが、キリスト教の真理を広い基盤の上で理解することに役立つのです。内村鑑三先生は聖書研究の余暇に、ブリタニカ大百科事典を開いて、あちこちの項目を拾い読みすることを楽しみにしていました。これは一種のリクレーションです。内村先生がコチコチの型にはまった宗教家の害におちいらないで、その聖書の理解が深く広くあったことの一つの原因は、先生の学問的関心の範囲が広くあった点にあると思います。
次に、音楽や絵画などの芸術もまたキリスト教を学ぶためのリクレーションでありえます。キリスト教会で賛美歌の普及していることは、その理由があります。賛美歌を歌えば信仰ができるわけではありませんが、信仰によって賛美歌を歌えば、神への賛美と人への愛の思いが助けられます。信仰なしに歌う賛美歌は空しいですが、信仰にあふれて歌う賛美歌は真に美しく楽しいです。
最後に、自然の美しさを楽しむことが、キリスト教の真理を学ぶための一大リクレーションです。星のきらめく大空、波の押しよせる海原、山頂の松、小道の野の花、いづれも神の創造物であり、神をほめたたえ、神にいのり、神にしたがっています。私たちは外に立って空を仰ぎ、野にでて川の流れを見なければなりません。それによって私たちの心がなぐさめられ、真理の啓示を受け、たましいの憩いをえることが少なくありません。宇宙の万事万物、私たちが神の真理を学ぶ助けにならないものはありません。それは、神はすべてこれらのものを創造し、神の知恵と愛とがそれらすべてによって現されているからです。
学問、芸術、自然、すべてキリスト教の真理を学ぶためのリクレーション的意味をもちますが、しかしこれらのものが重んじられて、聖書を学ぶことが軽んじられるならば、それは本末転倒です。

(5)信仰を学ぶ態度

最後に、信仰を学ぶ態度はどうあるべきでしょうか。
第一に、動機を純粋にすることです。信仰を学んで何を得ようとしているのでしょうか。私たち自身の罪のゆるし、たましいの平安を心の要求として信仰を求めるならば、それは必ず与えられます。これに反して、たましいの救い以外の何かこの世的な利益を得るため、たとえば単なる知識欲であるとか、商売繁盛のためであるとか、結婚のためとか、そういうことのために信仰を学び、あるいは洗礼を受けるというのであれば、動機が不純ですから真理を発見することはできません。
第二に要求されることは、誠実な心の態度です。人間同士の交際でも、大切なことは相手の人格に対する真実な態度です。ましてや信仰を学ぶことは神を知り、神の子キリストを知ることですから、真実な心でなければ、とうてい聖書の真理を知ることはできません。
第三に、忍耐が必要です。深い神の真理を知るためには、いろいろの経験を重ねて学んでゆくのであり、悲しみと苦しみの経験を通らないで、神の真理がわかることはほとんどありません。神は神の真理を私たちに啓示するため、しばしば苦難の炉に私たちを投げ入れられます。「神の御心を行い約束のものを受けるために、あたなたがたに必要なものは忍耐です。」(ヘブル人への手紙 10章36節)と聖書にあるとおりです。
聖書にもわからないことがたくさんあります。聖書をさがしても、ちょうど自分の疑問にピッタリ答えてくれないこともあります。そう言うとき、わからないからといって、聖書を学ぶことを止めてしまってはいけません。わからない所は、すぐに答えを求めず、わかるまで待ちます。いや、わからせていただくまで待つという態度が一番良いのです。私たちの信仰的進歩と共に、先の疑問もいつのまにか解けてきます。たとえ、はっきり解決しなくても、もはや苦ではなくなります。神経質にその問題にこだわらなくても、その解決を神にゆだねて、私たちの心は平安であることができます。たとえば聖書に記されている奇跡とか、処女受胎であるとか、復活とか、あるいは信者の死後の状態であるとか、不信者の死後の運命であるとか、はっきり理性で説明のつかないことが少なくありません。しかし、こういう問題について頭脳で納得できるような解答を性急に求めず、わからない事柄はつつしみをもって心の奥にしまっておき、今わかるだけの神の知恵と神に救いを感謝しながら忍耐をもって信仰生涯を歩んでいく間に、これらの問題はもはや私たちにとって苦労ではなくなります。終わりの日にいたって、私たちの目に明らかにされない真理は一つもなくなるでしょう。