日蓮

Nichiren

NICHIREN (1222-1282)

『開目抄』

日本国にはただ法華経の名のみあって、これを身に習得した人は一人もいません。だれを法華経の行者と言いますか。寺を焼いて流罪になる僧侶は数多く、公家や武家にへつらって憎まれる高僧は沢山います。このような人たちを法華経の行者と呼べるでしょうか。法華経の言葉が空しくなければ、三種類の敵が国中にあふれています。もし法華経の行者がいなければ、聖典の言葉が破れます。これは何としたことでしょうか。いったいだれが法華経のゆえに、ののしられ、あざけられたでしょうか。いったいどの僧が法華経のゆえに、刀でおそわれたでしょうか。法華経のゆえに公家や武家に忠告した僧がいるでしょうか。法華経のゆえに、何度も流罪にされた僧はどこにいますか。日蓮のほかにこのような人は日本にいません。天が日蓮を守らなかったために、日蓮は法華経の行者といえないのでしょうか。・・・ 私は日本の柱となります、私は日本の目となります、私は日本の大船となります、と願った誓いを破りません。

矢内原の評価

日蓮は強い性格の人物でありました。彼は敵を仮借しませんでした。妥協と打算は、彼にみじんもありません。彼が敵を責めた言葉は激越をきわめました。・・・ 彼の毒舌激語は君子の組しえないところでありましょうか。彼の自信はあまりに強すぎて、ごうまん、ひぼうの罪におちいったのでありましょうか。たしかに、これは日蓮の欠点でありましょう。欠点のない人物などいません。もしいるというなら、それは偽善者です。日蓮に欠点がありました。しかし日蓮の欠点は、少なくとも偽善ではありません。彼の性格は真実であります。純真であります。彼は真理を生命としたために、真理の敵に対しては、両立を許さないほどの激しい憤りを発したのです。日蓮の怒りの底には真理に対する熱愛があったのです。

(全集24:80)