呪術からの解放 

1997年11月09日

はじめに
礼典からの解放
見える教会からの解放
マックス・ウェーバーとの出会い
結論


はじめに

呪術あるいは魔術と言いますと、一般にはまじない、占い、神がかりのことをいい、呪文を唱えたい、失神して見せたり、気違いのように踊り回ったりするイメージがありますが、私の意味する「呪術」とは迷信の全てを含みます。迷信とは偽物に対する信心です。そしてキリスト教の礼典(サクラメント)と言われる儀式や制度教会に対する信心、依存心も迷信であると言うのが今日の私の主張で、迷信と本当の信仰の違い、本物と偽物の区別は何か、が今日の話のテーマです。

「呪術からの解放」という題目は私の人生を決める出会いの言葉であり、私の無教会再発見の内容なのです。私はこの言葉に無教会の使命と歴史的意義を見い出したのです。この使命としての「呪術からの解放」は二つに集約されます。一つはサクラメントからの解放、もう一つは見える教会からの解放です。そして本当の信仰、本当の救い、本当の神の恵みへの道を伝え示す事が無教会の使命であると私は信じています。

礼典からの解放

一体救われるためには洗礼を牧師や神父から受け、聖さん式に出席しなければならないのでしょうか。そんなことはありません。私は言わなければなりません。そういった儀式に救いの保証を求める心は迷信であり、それらを救いの条件と考えるのは間違っています。

ここで注意していただきたいのですが、私は洗礼や聖さん式が全く無意味だと言っているのではありません。参加する人の心の持ち方次第ではそうした儀式は意味深い有意義なものとなります。イエスはバプテスマのヨハネから水の洗礼を受けましたし、パウロは洗礼を施しました。人が神を信じて、神の前で良心にいつわりなく、洗礼式を自己の信仰の表明の場とするならばそれはそれで意味深いものです。聖さん式も清い信仰の生活態度を保つ訓練の手段としなら有意義かもしれません。しかしそれらはキリスト教信仰の中心でも不可欠なものでもありません。

無教会は洗礼と聖さん式などの一切のサクラメント(秘蹟)を行いません。無教会は主張します、人は洗礼や聖さん式を受けなくても救われます。儀式や形式は救いの条件でも保証でもありません。教会で洗礼を受け聖さん式に加わった人のうち少なからずの人が信仰を捨て、キリスト教を離れている事実からもそうした儀式に救いの保証がないことは明らかです。

それでは一体人を救う力はどこにあるのでしょうか。何が救いの条件であり、救いを保証するものは何なのでしょうか。答えは単純です。人を救う力は神のみ、キリストのみにあります。救いの条件とは神への信仰です。救いの保証は神との人格的交わりの中にありあます。ここで少し聖書を開いて見ましょう。アモス書5章21-24節です。

わたしはあなたがたの祭りを憎み、退けます。あなたがたの礼拝の集会も、わたしは、かえりみません。たとい、あなたがたがいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜びません。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれません。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけなさい。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくありません。公道をつきない泉のように、正義を枯れることのない川のように、流れさせなさい。

ここで神はアモスを通して儀式や捧げものそして礼拝の集いを憎むといっています。なぜでしょうか、人がそうしたものを頼りとして、神に依り頼まないからです。偽物に頼った結末はなんですか、神の義と公正をないがしろにする、道徳の退廃です。本当の救いの条件とはなんですか、それは神を信頼し神の命令に従う生活態度です。もう一ヶ所見て見ましょう。ミカ書6章6-8節です。

私は何をもって主の前に進み行き、いと高き神を礼拝するべきでしょうか。全焼のいけにえ、一歳の子牛をもって御前に進み行くべきでしょうか。主は何千の雄羊、何万の油を喜ばれるでしょうか。私の犯したそむきの罪のために、私の長子をささげるべきでしょうか。私のたましいの罪のために、私に生まれた子をささげるべきでしょうか。人よ、何が善であり、主は何をあなたに求めていますか。主はあなたに言います、それは、ただ公義を行ない、憐れみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないですか。

ここで神は人に、神の声に従う生活態度、神と共に歩む関係を求めています。そして神と交わりの中に歩んでいるという確信が救いの保証となります。言い替えれば、救いとは形式の問題ではなく心の問題であるという事、神への信仰とは神の求めに従い、神と共に歩む人格的関係だということです。

見える教会からの解放

無教会はその名のごとく教会を持ちません。一つの場所に固定した教会という建物を持たないばかりか教会や会衆という組織や制度も持ちません。こうした目に見えるこの世の教会や宗教団体の会員であること、あるいはその活動に参加していることは救いや恩恵の条件でも保証でもありません。人間の作った教会や団体が争い、分裂、競争を繰り返している事実を見てください。人間の組織や制度に罪をあがなう力はありません。その力があるのはキリストの十字架のみです。

もちろん本当の教会(ギリシャ語でエクレシア)を否定するつもりはありません。信仰は人を通して伝えられ、信仰者同士の交わりには一人では得られない聖霊と愛の慰めと喜びがあります。本当のエクレシアとしての教会は目に見えない天にあり、聖霊と愛の交わりの中にあるのです。しかし見える教会が救いは教会のみにあると主張し、罪をあがなう恩恵の機関のごとく振る舞うことに対しては断固としてノーを言わなければなりません。教会にいけば必ず神の恵みを受けることが出来ますか?そんなことはありません。あるいは教会に行かなければ神の恩恵を受けることは出来ませんか。決してそんなことはありません。問題は教会に行くか行かないか、あるいは集会に出席するかしないかではなく、どのような心で生活し神と接するかです。

無教会は救いは教会の外にもあると唱え、見える教会自体に神の恩恵をほどこす力はないと主張します。信仰の伝道の場としての教会、あるいは救われた者同士の交わりとしての教会は、認めますが、救いや恩恵の条件や保証としての教会、すなわち制度やセクトとしての教会、神の恩恵の機関や見える形としての教会は認めません。

ここで私の信仰の先生、矢内原忠雄(1893-1961)の「一人一教会」という言葉を紹介したいと思います。

無教会主義の徹底とは一人一教会です。 ・・・ 一人一教会ということの意味は、教会を構成するユニット(単位)は一人ということでありましょう。神と人間との関係は二通りあって、一つは、一人の神対一個の人間、という立場であります。もう一つは、エクレシア(集り)として神と対する社会的な関係であります。この両方が神対人間の関係になるのでありまして、そのうち一つだけでは不完全と言わなければなりません。だから無教会主義を徹底するというならば、一方において一人一教会という言葉は不完全としましても、神の前に立つのは一人です。個々の人が直接に神に連なるところのその純粋に個である人が、愛によって連なったもの、これがエクレシアの本質です。制度であるとか、組織であるとか、約束であるとか、そういうもので作り上げた人為的な団体ではありません。無教会主義の考えるエクレシアは、個に徹底した人間の愛による霊的な結合です。

(日々のかて 12月13日)

矢内原はなんといっていますか。信仰とは神との一対一の個人的なそして直接的な関係であり、集団的な関係ではありません。エクレシアとは信仰者の愛による霊的交わりであり、制度や組織による形式的人間的交わりではありません。

マックス・ウェーバーとの出会い

ここまでの私の話は内村鑑三(1861-1930)以来の無教会の先生と言われる方々が唱えてきたことのくり返しです。しかし、私自身、こうした無教会の主張に疑問や問題を抱かなかったのではありません。

第一に、無教会は結局の所キリスト教全体あるいは歴史的流れから見れば近代日本に特殊に発生した奇形的異端に過ぎないのではありませんか。カトリックの儀式と制度は1500年以上も続きその信者は世界に5億とも10億とも言われます。400年前にカトリックから別れたプロテスタントも洗礼と聖さん式と制度としての教会を受け継いでいるではありませんか。それを救いや恩恵に必要な条件ではないと言うのはちょっと大胆すぎませんか。

第二に、無教会はまったくの少数派です。日本のキリスト教信者といわれる人は現在約120万人です。その中で無教会信者といわれる人を約2万5千人とすれば日本のキリスト者の中の2%にすぎず、1億2千万の日本人全体から見れば0.02%に過ぎません。つまり、一万人の日本人の内無教会キリスト者は1か2人です。

第三に、無教会だって形式にこだわり、集会という名の下に制度教会と同じようなことをやっているではありませんか、という反論です。一口に無教会と言ってもその中の人々の信仰や意見はさまざまです。制度教会と同じ様なことをやろうとする人もいれば、聖書知識だけを積んでいる人、あるいはカルト的な集団を作る人もいます。こうした無教会自体の問題は今日の主題ではないのでこれ以上立ち入りませんが、無教会の内部がばらばらなのは確かです。

このように異端的な主張と全くの少数派の上に、内部に統一がなく、ばらばらの無教会の、どこに真理がありますか、どうして無教会は真理だといえるのですか?無教会は独善的で、一人よがりの勝手な主張ではありませんか。これは学生時代の私の疑問であり、問題でした。

こうした中で、私はマックス・ウェーバー(1864-1920)の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という本に出会いました。彼はドイツの社会学者で、第一次世界大戦でドイツが敗れたあとの1920年に56才という働き盛りで亡くなりました。内村鑑三と同世代です。この出会い以来、彼は私の学問の先生となりました。その出会いの一節を紹介したいと思います。

教会や聖礼典による救いを完全に排したということこそが、ピューリタン主義がカトリック主義と比べて無条件に異なる決定的な点です。世界を呪術から解放するという宗教史上の偉大な過程、すなわち、古代ユダヤの預言者とともに始まり、ギリシャの科学的思考と結合しつつ救いのためのあらゆる呪術的方法を迷信とし邪悪として排斥した、あの呪術からの解放過程はここに完結を見たのです。真のピューリタンは埋葬にさいしても一切の宗教的儀式を排し、歌も音楽もなしに家族を葬りました。これは心にいかなる迷信(superstition)も、つまり呪術的聖礼典が何らかの救いをもたらすというような信心を生じさせないためでした。

私はここを読んだとき、これだ!これこそ私の求めていたものだ!と心の中でさけびました。わたしはここに無教会の歴史的意義と使命を見い出したのです。佐藤一哉(いっさい)先生はよく古代ギリシャのアルキメデスがお風呂で浮力の原理を発見した時、「ヒューレーカー、ヒューレーカー」と叫んで、裸でいるのも忘れて走り回った故事を引き合いに真理を見い出した喜びをのべていましたが、私も真理発見の喜びをかいま見た心境でした。ウェーバーの言葉を繰り返しますと、世界宗教史は呪術からの解放過程である事、その過程は先ほど読んだ古代イスラエルの預言に始まる事、ピューリタンがその過程を完結まで運んだ事、とりわけクエーカーは洗礼と聖さん式を行わず、職業牧師も献金もない、代表的存在である事です。そして私は無教会がピューリタンの精神的継承者であり、この呪術からの解放過程の現代の担い手であることを発見したのです。

結論

以上今日はキリスト教の本当の信仰、救いそして恵みとは何か、偽物や迷信と区別するものは何か、を考えてきました。結論を言います。信仰とはあれを信じるこれを信じるという教義や信条の問題ではなく、神のみを信頼し神と共に歩むいう心の態度です。救いとは儀式や制度といった外面の形式ではなく、神・キリストとの人格的交わりの中にある内面の生命です。恩恵とは集団的な人間とのつながりを通してではなく、神と一対一の個人的直接的関係を通して与えられます。

これで今日の話を終わります。


ホーム