地のうめき
1998年04月05日
命のぎせい
はじめに聖書を開いてください。ローマ人への手紙8章22節です。
実に被造物全体が、今に至るまで共にうめき、共に産みの苦しみを続けていることを私たちは知っています。
地のうめきの一つは動植物の命です。私たちの肉の命は動植物の命のぎせいよって養われています。また私たち人間は赤ん坊の時は母の献身によって育ち、子供の時は親の保護によって成長します。人の体も心も他の命のぎせいと愛によってたもたれるのです。そして何よりも私たちの霊の命はキリストの命のぎせいによって存在します。ですからキリストは、「私の血、私の肉を食べなければあなたのうちに命はありません」(ヨハネ 6:53)と言います。
こうして自分の命が他の命によって養われていることを知れば、そこに自ずと感謝がわきます。私たちは、食事のたびに「いただきます」といって、肉のぎせいとなった命に感謝を表します。そして罪の赦しを求めるたびにわたしたちの罪をあがない、新しい霊の命を与えられるキリストのぎせいの十字架に喜びと賛美がわきます。
それはさらに自分自身の命も他の命のために捧げ、その恩に報いようとの思いを生み出します。そしてぎせいの究極の目的は神の国の完成に在ります。ある意味で動植物や自分を育ててくれた人が命を私たちに捧げたのは私たちもまたそれらの命のうめきである、神の国の完成のために自分の命を捧げるためです。そこにこの宇宙は希望を託しているのです。 内村鑑三の言葉に「ぎせいは宇宙の精神である」と言うのがあります。宇宙のうめきはぎせいのうめきであり、それは神の国の待ちこがれです。それは、「神の国がこの地になりますように」との願いであり、「そのためにあなたの命も捧げてください」との呼びかけなのです。
私はとなり人のため、となり人は世界のため、そしてすべては神の国の完成のため、愛の労苦とぎせいの血を流すべきです。
ぎせいの目的
ぎせいを捧げるとき心がけなければならないことが二つあります。一つは動機を純粋にすること、つまり愛の心によって行うことです。ぎせいの行為に自己の満足や利益の心を混ぜてはいけません、将来の見返りを計算した行為は愛の心でもぎせいの奉仕でもありません。神は愛であり、愛によって動かされます。私たちもまた愛の心に動かされてぎせいを捧げるべきです。
二つめの心がけはぎせいを捧げる対象についてです。だれに対してぎせいを捧げるのでしょうか。自分の子供や家族に対して捧げられるべきでしょうか。友や愛する人のために捧げられるべきでしょうか。自分の故郷や会社のために捧げられるべきでしょうか。自分の属している信仰共同体や国家共同体のために捧げられるべきでしょうか。 あるいは、もっと大きく全世界のために、全人類のために捧げられるべきでしょうか。いずれの場合も愛の心に動かされて、自己の利益を考えないぎせいが捧げられるとき、それは美しく、私たちの感動を呼び起こします。
アブラハム・リンカーンは神への信仰によってアメリカ合衆国の理想のためにその命を捧げました。リンカーンの有名な演説にゲティスバーグでの戦死者の追悼の辞があります。その一部を読み上げたいと思います。
私たちは今ここに残されている偉大な課題の達成に自らを捧げるために集りました。それは最後までその献身をおしまなかった名誉高い戦死者が目的とした自由の国の理念のために私たちもより一層の献身を誓うためです。わたしたちはこの戦争によって葬られた者の死を無にしないことをここに堅く決心します。この国は神のもとで自由の国として新しく生まれたのです。人民の人民による人民のための政府をこの地から絶やしてはいけません。
死者を弔う最大のはなむけは後に残された者自らも命を捧げて同じ理想の達成に貢献することです。
しかしいずれの場合も、ぎせいが純粋に愛の心から捧げられるためには神への信仰がなくてはなりません。究極の目的が神の国の完成につながらない時ぎせいの行為は容易に自己利益追及のかくれみのなってしまいます。自分の命をとなり人のためにぎせいにすることは人の力では余ることです。私には出来ませんが神にはすべてが可能です。神を信じ、神と共に歩むならば、神が私に代って、愛の行為を実行します。
地の塩
すべて神の国の理想を心に抱いて勇気ある生涯を送る人は信仰の戦士です。これは信じる人には誰にでも残すことのできる最も価値ある子孫への贈り物です。内村鑑三が教えるところの「後世への最大遺物」です。たとえ私たちに財産や、体力や、知力がなくても神の国の完成のために、私たちはかけがえのない自己の命を神に捧げる事が出来ます。病室で一人神にこの信仰を抱いて祈り、その中で死んだとしても、神はその高尚な心を喜びます。
しかしながら高尚な目的のためにどんな手段でも許されるのではありません。どのような理由、事情があろうとも神の国の完成の手段として戦争、つまり人殺しが正当化されることはありません。聖なる戦争、正義の戦争というのは存在しません、なぜなら戦争は真理ではないからです。人を罰するとか成敗するとかは人のする事ではなく神がする事です。
神の国の目的は愛であり、その手段も愛です。暴力と心理的強制は愛の手段から除かなければなりません。信仰の戦士は愛を目的とし愛の手段によって罪と悪に対して戦います。一人の弱い人がいじめられている場面に出会いましたか。勇気を持って私たちは、「それをやめなさい」と、そこでいじめている人に対して言わなければなりません。その結果自分が殴られるかもしれません。その人が私の右のほほを打つのなら、また左のほほも差しだそうではありませんか。国民が挙げて戦争をしようとしていますか、勇気をもって私たちは「戦争は悪です、戦争をしてはいけません」と国民に対して言わなければなりません。その結果私たちは仕事や住まいを奪われ、路頭に追い出されるかも知れません。
ああ、神の真理のために迫害される人は幸いです、
神の国はその人のものです。
ああ、平和を作り出す人は幸いです、
その人は神の子と呼ばれるでしょう。(マタイ 5:9-10)
日本の使命
この世の悪に対するこうしたイエスの非暴力による戦いと、その結果として自分に受ける迫害に対する無抵抗の態度は無教会に受け継がれています。創始者の内村鑑三は戦争を賛成する者しか受け入れないジャーナリストの仕事を捨てて、絶対非戦の真理を堅持しました。預言者の矢内原忠雄は戦争の道を歩む日本に対して「それは間違っています、戦争は真理に反しています」と言ったため、大学教授の職を追われました。しかし彼は一人野に立って、戦争反対の戦いを止めず平和の真理を守り通しました。こうした預言者を通して日本は敗戦という神の審きを受け、その十字架を通して平和の真理を学びました。そして神は平和憲法を与えて日本の使命と進むべき道を示しました。
おもえば人類の歴史は戦争が繰り返されてきました。多くの血が戦争によって流されて数え切れない命がぎせいとなりました。この地のうめきは平和の到来の待ちこがれです。その悲願は戦争のない世界の完成です。日本に示された真理の啓示はこの絶対非戦、非暴力の真理を保持して自らの命をその完成にささげることです。たとえ大多数の日本人はこの真理に従わなくても、キリスト者はこの道を右にも左にも曲がってはなりません。たとえ多くのキリスト者がこの真理を捨ててしまっても、たとえ自分一人になったとしても、無教会キリスト者はこの真理を守り通して死ぬべきです。一粒の麦は死んで多くの実を結びます。私たちにその勇気と力があるというのではありません。神自らがその業をなされます。わたしたちはただ神に信頼して神について行けばいいのです。以上です。