アーモンドとナベの啓示
エレミア書 1:11-30
今日は久しぶりにエレミヤ書を学びたいと思います。エレミヤが預言者として召命を受けた後、最初の預言を発するまでの間に啓示された神の言葉が今日学ぶところです。本題に入る前にまず全体的な預言者の時代というものについて考えてみたいと思います。
神は民にさばきを下すに先立ちその事を知らせる神の人、つまり預言者をその国につかわします。エレミヤは紀元前600年頃の人ですが、彼は587年のユダの亡びとエルサレム神殿の破壊をあらかじめ預言し、また目撃する証人となりました。エレミヤより120年前の紀元前722年、イスラエル王国が亡びるときも神はアモス、ホセアの預言者をつかわし、偶像を捨ててエホバの神に帰ること、罪と悪を悔い改めて神の命令を守ることを叫ばせました。しかし心頑ななイスラエルの民は預言者をあざけり、神の声に耳を傾けませんでした。その結果イスラエルは亡び、イザヤはそれを目撃するところとなりました。
そして私ははばからず言います、日本がその悪と罪のため敗戦のさばきを被り連合軍の占領するところなるに先立ち、神は3人の預言者を日本につかわしました。内村鑑三、藤井武、矢内原忠雄がその人です。神は内村と藤井をその審判の前に天へ召しましたが、矢内原に対してはそのさばきを目撃する証人として、エレミヤの立場に置きました。「ああ、哀しいかな、この国」と、矢内原はエレミヤと共にさばきを受けた民の『哀歌』をうたいました。
預言者はわざわいを預言し、民に憎まれ、ののしられ、おどされるつらい役目を負わされたものです。神の無理押しがなければ到底担える重荷ではありません。神がねんごろにその預言者を導き守るのでなければ果たせない使命です。その事を私たちはエレミヤから最も明らかに学ぶことが出来ます。今日の所も神は再びエレミヤに向かって「私はあなたと共にいてあなたを救います。民の顔を恐れてはいけません。勇気をもって私の言葉を語りなさい」、とねんごろにさとします。
それではエレミヤ書1章を開いて下さい。11-12節を読みます。
次のような主のことばが私にのぞみました。「エレミヤよ、あなたは何を見ますか」。私は言いました、「アーモンドの枝を見ます」。すると主は言いました、「よく見ました。わたしはことばを実現しようと、目覚めています」。
このアーモンド(あめんどう)の啓示はエレミヤが預言者として召命を受けた後、しばらく何を語るべきか思いめぐらしていたときの出来事です。エレミヤが預言者の自覚を抱き始めてから一番心を痛めたことはユダの民の宗教的ふはいと道徳的だらくでした。エホバの神に対する誠実を踏みにじって、ユダの民はさかんに偶像を拝し、平気で悪を行っていました。神の戒めをないがしろにし、悪が世に満ちて、一体神の正義の支配はどこへ行ったのだろう。この恐るべき民のありさまを神はだまって見過ごしているのだろうかと、エレミヤは思い悩んでいました。
これに対する神の答えがこの所です。神は自分の民の罪と悪を黙って見過ごしているのではありません。神は必ず自らの言葉を実行すると言うのです。アーモンドは日本のウメのように春一番にイスラエルで咲く木花です。「アーモンド(シャーケード)」は「目覚める、見張る(ショーケード)」が原語で「目覚めの木」と呼ばれています。神はアーモンドの花のように目覚めており、時の訪れを知らせる木のように見張っています。
エレミヤはこの啓示を受けたとき郷里のアナトテにいました。庭や里には植えられたアーモンドの木が散在していました。季節は早春、木々がまだそのつぼみを固く閉ざしていたときのことです。エレミヤはユダの現状と神の正義を思いながら足を戸外に運び、人のいない所をさまよい歩いたのでしょう。その時ふと彼の目にとまったのはアーモンドの小枝でした。それはエレミヤに霊感しました。神は生きていて、自分の民に目を注ぎ、自ら発した言葉を実現することをエレミアは知ったのです。
それでは神は何を実現するのでしょうか。その内容が次ぎの13-15節です。
再び、私に次のような主のことばがありました。「何を見ますか」。そこで私は言いました。「にえたっているナベを見ます。表面の流れは北からこちらに来ています」。すると主は私に言いました。「わざわいが、北からこの地の全住民の上に、降りかかります。 今、わたしは北のすべての王国の民に呼びかけているからです。彼らは来て、エルサレムの門の入口とすべての城壁と、ユダのすべての町に向かって、それぞれの王座を設けるでしょう。わたしは、エルサレムとユダのすべての悪にさばきを下します。彼らはわたしを捨てて、ほかの神々に香をたき、自分の手で造った物を拝んだからです。
にえたっているナベは神の怒りを現していました。この民はエホバの神を捨てて別の神々をしたい、偶像を自ら作って拝みました。エレミヤが召命を受けたのは紀元前627年、23才頃の当時はマナセ王の時代でアッシリアの偶像崇拝と星占いがユダに広まっていました。またフェニキア起源のモロク(メレク)崇拝という、子供を殺して祭る残酷な儀式が行われていました。そしてカナン人の農業生産の神バアル崇拝が根深くユダの民の生活に入り込んでいました。 その結果あらゆる社会的政治的悪事が国に満ちたのです。民の信仰と道徳がくさってしまえば神のさばきはさけられません。
北から来る災いとは何でしょうか。当時スキタイトという北方の騎馬民族がメソポタミアや地中海の民をかすめうばっていました。その北の民たちがエルサレムを攻め占領すると預言したのです。これはエレミヤがユダの民に対して述べた最初の預言と言われています。
エレミヤはこの啓示を台所で受けました。彼は神から結婚を禁じられ(エレミヤ 16: 2)、独身で食事も自分で作っていました。神がエレミヤに結婚を禁じたのは、さばきの日が近かったからです。今はめとりつぎしている時ではないことを自分自身によって示すよう神に命じられたからです。
この恐るべき、わざわいの預言を語るように命じられたエレミヤはちゅうちょと恐怖を感じました。もともと内気でデリケートなエレミヤが民の面前でののしられ、あざけられ、おどされるのです。とてもエレミヤには耐えれそうもありません。これに対し神は以下17-19節でエレミヤを励まし、また強迫し、無理矢理、民の面前に押し出しました。読みます。
さあ、あなたは腰に帯をしめ、立ち上がって、わたしがあなたに命じることをすべて語りなさい。民の顔におびえてはいけません。そうしないと、わたしはあなたを民の面前で打ち砕いてしまいます。見なさい、わたしはきょう、あなたを、全土に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁としました。だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てません。わたしがあなたと共にいて、あなたを救い出すからです。
預言者は自分の民と戦う者として神に召し出された者です。民の罪をあげつらい、その悪事を責め、神のさばきを宣告して、民の憎まれ役になったものです。預言者となるためには、人を恐れず、死も恐れない、勇気が要ります。神の確信に固く立って、民のののしり、あざけり、おどしに屈しないで、神の言葉を曲げずに述べる、真実な態度が要求されます。エレミヤは弱い人で、何度も神に泣き言をいいました。しかし、神は言います、「私が共にいて、あなたを守り、あなたを救い、あなたを通して私のわざを成し遂げる」と。こうしてエレミヤは神に押し立てられて預言者となりました。
このことは私たち神に召されてキリストのしもべとなったものにも当てはまります。キリスト者は一面この悪の世に対し神の言葉を語る預言者の役を担わされたものです。内村鑑三は言います。
私たちキリスト者にも神の言葉が命じられます。その時私たちは自分に与えられた力量に応じて神の言葉を証明し真理を語らなければなりません。そしてもちろん神もキリストも信じない不信のこの世はめったに私たちの言葉に耳を傾けず、私たちの証明をあざけります。(1926、「エレミヤ伝研究」第4回、預言第一課)
預言者とはだれですか。それは神に選ばれ、神の召しを受けて、神に代わって神の言葉を語る者です。預言者はどのような境遇に置かれても、常に神の言葉を忠実に述べ、人がこれを聞いても聞かなくても、神の命じる事を明白に大胆に語らなければなりません。彼は人の顔を恐れてはなりません。人の歓心を求めてはなりません。世の批評をかえりみてはなりません。預言者に属するべき何の教会、党派、権勢もありません。彼はただ神の声を聞き、神と共にあって一人堅く立ち、全ての人に向かって神の命じるすべての事を語るのです。(1926、「エレミヤ伝研究」第5回、万国の預言者)
エレミヤは「北からのわざわい」の預言を以降30年間、時を得ても得なくても叫び通しました。そしてエレミヤの預言は30年間実現しなかったのです。預言が当たらず、直ちに行われないとき、「この世は力をつくして預言者を非難攻撃します。その時が預言者のつらいときです。まことに、エレミヤのように神を代表して国民の運命に関する大預言を述べるときに、たびたびその言葉が当たらず、預言が成就されないときの責任と苦痛は私たちの想像以上です」(内村鑑三)。これは自分の言葉でなく神が無理矢理命じた言葉であるとの内的確証がなければ耐えることは出来ません。神が共にいて戦い私を守り救うとの不動の信念がなければ立つことはできません。「神が命じ、神が戦う」との確信と実験がエレミヤの勇気のみなもとでした。そしてし30年待って彼の預言は文字通り成就したのです。
エレミヤは庭先か里山のアーモンドの花芽と台所のにえたっているナベを通して神の啓示を受けました。この二つの啓示は神が人にどのように現れるかを教える意義深い出来事です。神は一つには自然を通して、二つには日常生活の営みの中で人に語りかけます。神の啓示は神秘的不可解なものでなく、自然で理解できるものです。それは異常なあるいは非日常的体験でなく、日常的な労働と生活の中で経験されるものです。
エレミヤの素朴で田園的な啓示はイザヤのきらびやかな神殿的啓示と著しい対照をなしています(イザヤ書6章)。飛び交うセラピムの代わりに一枝のアーモンド、立ち上る線香の代わりにわき立ったナベは、エレミヤの育った環境と性格を反映しています。イザヤはエルサレムの貴族として育ち、神殿は彼の親しんだ場所でした。一方エレミヤは田舎のアナトテに自らの手で台所をまかなう身分に育ちました。環境と性格の違いによって神が用いる手段も異なります。しかしどのような環境や性格でも神の啓示を受けるためには新鮮な感受性が必要です。預言者の生命は一木一草にも神の啓示を見る新鮮な感受性にあります。エレミヤはその感受性によって、神の声を聞き取り、神の思いを見出し、「よく見ました」と神にほめられたのです。神の啓示(インスピレーション)を受けるには日ごろ神の言葉を思いめぐらし、感受性を新鮮にして、時を待つ事が必要です。
今日はアーモンドとナベの啓示から預言者の心得と啓示の性質を学びました。
1999/05/02