制度と生命
内村鑑三
生命は制度より善いものです。生命は規則をもって働きません。生命は必ずしも信仰箇条としては現れません。生命に規律が無いように見え、時には気まま勝手なように見えます。生命は独り働いて、隊を組んでは働きません。生命は制度のなしえる多くのことができません。しかし生命は生命であり制度以上です。制度は結晶体か、そうでなければ機械です。金剛石は結晶体として貴重であり機関車は機械として有力ですが、一本の草や一匹の魚にはるかに及びません。同じように教会制度はいかに貴くいかに優勢でも、一人の真信者に遠く及びません。 真信者には大制度において見ることのできない、新鮮な生き生きとした主体的自発的なところがあります。野草の輝きがあります。樹林のかおりがあります。真信者に組織神学はなく署名した信仰箇条はありませんが、神を父と呼びイエスをあがない主と仰ぐ、確固とした深い信念と実験とがあります。 ・・・
制度を重視する者は常に生命を危険視し、害をもたらすものと見ます。なぜなら制度と生命はその実在の根底を異にするからです。機械にあって生命は不法です。生命にあって機械は死んでいます。機械をこわすものは生命です。生命を亡ぼすものは機械です。二者の関係は律法と信仰のそれです。二者はとうてい両立し得ないものです。ゆえに真信者が世に現れると制度教会は必ずこれに反対しました。
預言者アモスが出て神の言葉を述べ伝えると、ベテルの祭司アマジヤは彼を王に訴えて国外に追放しようとしました。
そしてアマジヤはアモスに言いました。先見者よ、あなたはユダの地に逃げてそこで預言によって食物を得るがよい。(アモス7:12)
すなわちベテルの神殿(教会)はアモスの生きた言葉をもっては立つことが出来ないことを知ったのです。「彼のもろもろの言葉にこの地は耐えることが出来ません」(アモス7:10)と祭司は言いました。ここに制度と生命は衝突しました。そして制度を救うために生命は排斥されたのです。同じ衝突はエルサレム神殿の宮司(みやつかさ)の長(今日のいわゆる大監督)であるパシュルと預言者エレミヤとの間にも起こりました。
ここにおいてパシュルは預言者エレミヤを打ち、神の宮の上のベニヤミンの門の足かせにつなぎました。(エレミヤ20:2)
この時の教会(神殿)もまた神の生きた言葉を伝える預言者エレミヤにおいて最大の敵、大破壊者を見たのです。パリサイ人、サドカイ人、ヘロデの党らがナザレのイエスを憎みついに彼を民の中より除き去ったのもまた同じ理由によるのです。神の子イエスが現れるにおよんでパリサイ人らが拠って立っていた古い堅い制度がその根底よりくつがえされようとしたからです。制度の古い革袋は生命の新しいぶどう酒を盛るに耐え得なかったのです。・・・
制度と生命は両立しません。しかしながら、この世においては制度も必要であり、生命も必要です。ですから二者は衝突をまぬがれ得ません。そしてこの世とはかかるものです。この世は大矛盾です。しかし、その大矛盾の底に大調和があります。生命は機械力の圧迫に対抗することによって絶えず進歩発達します。創造の目的は完全な生命の出現にあります。イエスは言いました、「私が来たのは、ヒツジ(弟子)に生命を得させ、豊かにこれを受けさせるためです」(ヨハネ10:10)。そしてこの生命は外界の機械力の圧迫なしには得られないのです。圧制のないところに自由がないように、制度のないところに生命はありません。この意味から見て、制度は神の定められたものです。ゆえに敬うべきものです。反抗すべきではありません。制度が私を殺し、私は生命を完成すべきです。主イエスがピラトとカヤパに殺され、その生命を完成したように、私たちもまた今の世界勢力にその威力を振るわされて、自分の生命を完成すべきです。
(1916年9月)