無教会の平和主義

カルロ・カルダローラ

目次
序論  無教会の概要
第一章 日本国家主義の背景
第二章 無教会平和主義者
第三章 平和主義の理論
注釈

序論

 無教会は日本における最も良く知られたキリスト教運動の一つである。[1] 西洋教派主義の反作用として内村鑑三(1861ー1930)によって始められたこの小さな運動(信仰者約3万5千人)は日本におけるキリスト教運動の最も特ちょう的なものと考えられている。無教会はサクラメント、ミサ、職業牧師、教会建築、教派本部あるいは会員登録表を持たず、あらゆる形式的キリスト教の制度を拒否する。代わりに無教会は伝統的な先生−弟子関係を中心とした独立的な聖書研究グループを基本としている。教師は聖書の制度的訓練を受けず、啓示を受けたときに一つのグループを形成する。したがって、グループはその教師が死んだり引退したときに解散する。無教会教師の多くは一般にほかの職業、しばしば高校教師あるいは大学教授についている。無教会運動は日本のあらゆる社会階層からメンバーを引き付け、とりわけ知識人-- 学者、大学教授、大学院生、専門職業人にうったえている。この運動の精神的内容はキリスト教の精神と日本の最も倫理的伝統の一つの根源的統合をなしている。その基本的内容は十字架の義認、内面的葛藤、勤勉の奨励、現世的事物からの解放、世俗に対する非妥協的態度、神に対する全体的誠実、そして来世の最終的勝利である。こうした原理はあらゆる問題に対する基本的精神の枠組みをなしている。

 無教会キリスト者は日本において社会悪に対するその非妥協的態度によってよく知られている。無教会キリスト者は宗教的制度を築かないゆえに、苦悩の時代において制度の存続にとらわれることなく、道徳的政治的腐敗に対して独立した個人として自由に責任を追及した。無教会キリスト者は明治時代以来の物質主義の侵略に対して精神的、唯神的立場を保持した。政治的に、無教会キリスト者はしばしば個人の大きな犠牲を払ながら、神道国家主義と日本帝国主義に一貫して反対してきた。戦後、無教会は日本と海外の平和のために活発に活動している。この論文は現地調査を通して集めた無教会文献と資料に現われるこの運動の平和主義的態度に焦点を当てている。無教会の平和主義を理解するため、私たちは最初に戦前の制度的国家主義の背景を見なければならない。

第一章

 日本国家主義は「国体の本義」つまり天皇はすべての臣民が無条件の忠誠を捧げるべき現人神であり、日本はそれゆえ神聖な国家であるという信念によって成立していた。[2] この信念は1890年発布の教育勅語に盛り込まれ、新しい教育制度を通して日本全体に浸透していった。文部省は天皇に対する礼拝、国家への奉仕、そして優越人種の特権としての軍国主義的伝統、殺人、破壊、そして侵略の礼賛を教化慣習化によって権威主義的に大衆に信じ込ませた。社会主義、共産主義、民主主義、あるいはキリスト教のような対立する信条は政府の恒常的な攻撃の的となった。キリスト教はその外来起源と信仰の排他性によってとりわけ疑いの的になった。1889年、文部省が外来宣教師の主な改宗方法である私立学校での宗教教育と礼拝を禁止した。この禁止はさらに教育制度の枠を超えて一般の宗教礼拝の出席にまで広げられた。こうした政府の宗教支配は順次すべての宗教団体にまで拡大し、1939年の宗教団体法の成立によって絶対的なものとなった。この法によって文部省はすべての宗教団体の組織、資産、活動、そして教条を知事と地方官吏を用いて細かく管理支配した。すべての宗教は国家の承認監督する単一の統理者の下で統一団体になることを要求された。唯一カトリック教会を除いて、 すべてのキリスト教派は「日本キリスト教団」に強制的に組み入れられた。[3]

 新教団に対する国家の支配は絶対的であった。神道国家主義と対立するあらゆる表現あるいは活動は取り除かれた。たとえば、教団の共通の信仰告白として用いられる使徒信条の「天地創造の神」と「生ける者と死んだ者を審きに来るキリスト」の条項が削除された。なぜなら、こうした表現は日本の神話的起源や「天地のごとく永遠」なる皇室の権威と矛盾したからである。賛美歌はその内容を改変され、いくつかの歌はまったく削除された。国家はすべての説教の題目をあらかじめ指示し、あらゆる宗教礼拝は5分間の天皇肖像の崇拝と国歌の斉唱からなる臣民の礼拝をもって始められた。[4] 太平洋戦争の開始で、教会は戦争の勝利のため協力を要求された。諸教派の会員は完全に国家的レベルの愛国団体に組み入れられた。日本キリスト教団は戦闘機製造の資金を教会で集め、そして45歳以下の牧師は労働愛国会を結成し同胞キリスト者の愛国的模範として弾薬工場で労働に奉仕した。地方教会は戦闘勝利の祈祷集会をひらき、勝利の度ごとにそれを祝し、戦地に赴く兵士を励まし、そして国家道徳を保持する政策に奉仕した。宗教の指導者は軍事支援のため征服地を訪れ、国内と同じ宗教団体を設立することを求められた。こうして初期キリスト教の反対は順次に神道との協調と妥協そして宗教的統合を目指す1930年代中期の方向へ姿を変えた。1936年、海老名弾道は神道を旧約聖書とみなし、新約聖書に取り入れる事で、キリスト者に神社参拝を奨励した。[5] 戦中、教団のパンフレットは天皇の礼拝を神の礼拝と等しいものとする皇道キリスト教と呼ばれる融合宗教を宣言した。[6] 教団統理、海老沢亮は東アジアにおける日本の新しい秩序の設立がキリスト教の目的とくしくも一致すると唱えた。

それでは東アジアの長期的建設の計画とは何ですか。それは世界一家族(「八紘一宇」)の合言葉にこめられた目標を達成することです。そしてこの目的は、私たちは認識を新たにしなければならないのですが、キリスト教の基本的信仰と奇しくも一致するのです。これがキリスト教の言う神の国です。日本精神の根本である「八紘一宇」がキリストと一つになる神の国を構成しているのです。ですから、「八紘一宇」は真に天地の正道なのです。[7]

 こうした神道軍国主義への制度的妥協が広がる中で、ホーリネス、セブンスデー=アドベンチストを含む少数のキリスト教グループが妥協同化を拒否した。この人達は国家によって迫害され、その指導者たちは捕えられた。こうした人たちは、日本化政策に抵抗したときに日本の支配者にひどく迫害された朝鮮キリスト者と比較される。少数の朝鮮キリスト者は神道神社の参拝を拒否したがゆえに処刑された。[8] 

 神道国家主義への制度的妥協を分析する上で、どのように教会が自らの歴史的状況を主観的に同定したかを考えることが重要である。[9] 日本軍国主義のまさに初めから、キリスト教会はすべてのアジア国家を解放し統一することは名誉ある目的と信じてきた。彼等は世界的情勢の中で聖戦は高貴な目標すなわち「大東亜共栄圏」の達成によって正当化されるとしてきた。中国とロシアに対する軍事的成功は優越な日本文明の価値の隣国へのひろがりとみなされてきた。日本のキリスト者は征服領域の伝道に従事し、「宗教をもって国家に奉仕せよ」とのスローガンを実行することで、自発的に軍国拡大主義を支援してきた。日本のキリスト者は西洋の世論が日本のアジア政策にかなり強く反対していることを認識したときにのみ、日本の政策を考慮するようになった。長い間精神的物質的援助を受けてきた母教会のアピールに対して、日本のキリスト者は海外の兄弟をなだめようといくらか試みた。1937年秋、日中戦争ぼっ発2〜3ヶ月後、30人の主な教団関係者は戦争を正当化する西洋諸国への公開状に署名した。1941春、日本と連合国とのきたるべき戦争を回避するため、特別の平和団が連合国に派遣された。全体として、教会は宗教団体法を歓迎した。なぜなら国家の物質的支援と保護が期待できたからである。教会は、神社参拝が実際の宗教的意味を持たず、そして明らかな良心によって神道主義を受け入れる事はキリスト教道徳上問題が無いと主張することで、神道礼拝の行為を正当化した。戦争への熱心な協力は宗教道徳的危機における福音教化と同様、キリスト教愛国主義の模範となった。まとめると、軍国主義に対するの日本キリスト教団の道具化の主な原因は、半世紀にわたる神道主義ヘの協調と順次の同化、戦争心理の作用、軍事的世論に対する恐れ、そして教会制度保持の必要であった。

第二章

 神道国家主義に対する無教会の対応はまったく違ったものだった。公式の組織を欠くがゆえに、無教会キリスト者は国家によって一つの団体として支配されなかったし、政府の方針に対して公式の立場を表明するよう求められもしなかった。おのおの個人が自分の良心と神への責任とにしたがって国家主義と対決することを任された。そのため、無教会キリスト者の軍国主義と国家主義政治への対応は耐えるべき寛容から明白な対決までさまざまであった。

 内村鑑三は国家主義を公に拒否した最初のキリスト者であった。明治理念史における内村鑑三不敬事件は有名である。辛らつな論争を巻き込み、さまざまな分析が展開されてきた。[10] 1891年1月9日、文部省の要請によって東京の第一高等学校は教育勅語の拝読の特別式典を催した。拝読終了時に、すべての出席した職員と生徒は通常の仏教や神道礼拝で行われる敬礼の作法によって深く頭をさげなければらなかった。これはキリスト教の信仰に従えば偶像崇拝であり、少数のキリスト者職員はこの問題を避けるためその日の式典を欠席した。内村はその日出席した唯一のキリスト者教員であった。勅語に最敬礼する順番が内村に来たとき、彼は敬礼をためらい、求められ最敬礼に反してわずかに頭を下げるにとどまった。[11] この不十分な敬礼は天皇を侮辱する行為とみなされ、内村は直ちに教員、生徒、そして報道機関によって攻撃され、非国民、無礼者、神聖皇室の冒とく者のレッテルを張られた。友は彼から離れ、学校は彼を解職した。内村に対する攻撃は日本キリスト者全体にまで広がった。東京帝国大学初代哲学教授、井上哲次郎(1856ー1944)はキリスト教反対論の学識的代表者であった。彼は、キリスト教が必然的に原理と実践のどちらにおいても教育勅語に対立すると論じた。唯一神宗教であるキリスト教は日本の伝統的な君主に対する忠誠と親に対する孝行を柱とした勅語に対して本質的に不寛容であり共存はできないと論じた。井上は、内村の例が示す如くキリスト者は天皇の忠誠な臣民になりえないと論じた。[12] 井上の議論は反響を呼び起こし、30冊の本と100あまりの論文に及ぶ長い論争を巻き込んだ。内村は、天皇が礼拝の式典ではなく国民道徳水準の高揚のために教育勅語を発布した、と応じた。キリスト者の誠実で勤勉な日常生活が示すように、この点でキリスト教は勅語の道徳の目的と合致していた。[13] 

 しかしながら、内村は彼の宗教的活動の後期になるまで軍国主義の反対論を展開しなかった。1894年の日清戦争ぼっ発時、内村は政府支援の世論に加わった。当時愛国キリスト者として彼は、神が世界に正義と平和をもたらすため日本に特別の使命を授けたと感じた。彼は日本の軍事的介入が正義戦であると論ずる「日清戦争の義」を書き著した。[14] 内村は、地上に正義をもたらすため行われた戦争はわずかしかないと論じ、そうした義戦の中にミディアン人に対するギデオンの戦い、ペルシャに対するギリシャの戦争、カトリックの圧迫に対するスェーデン王アドルフの抵抗を含めた。彼は日清戦争をこうした義戦の観点から受け入れ、この戦争の目的は中国の圧迫から朝鮮人を解放し、彼等に政治、宗教、教育そして通商の自由をもたらすことであると論じた。しかし、戦争が終わって日本が内村の主張を実現しないのを見たとき、彼は困惑し、とりわけ彼の英文論説の対象であった西洋キリスト者に対して立場を失った。日本は朝鮮に独立を与えず、かえって組織的に朝鮮の通商と産業の利益を搾取した。内村はこの現実を苦々しくこう評した、「義戦が略奪戦に転じ、これを義戦と称した預言者は今はずかしめを受ける」。[15] この幻想は内村を平和主義へ向けた。1904年日露戦争が起こると、戦争を支持する万朝報を辞職した。成功していたジャーナリストの道をあきらめ、内村は聖書の研究と道徳信念の演説に専念した。講演と論説によって、彼は日本社会の道徳的腐敗を責め、神の裁きを預言し、イエスのエルサレムに対する嘆きを繰り返した。

ああ、エルサレム、エルサレム、
あなたは預言者たちを殺し、遣わされたものを石打ちにした。
私は、親鳥がひなをふところに抱き入れるごとく、
何度あなたを集めようとしただろう。
しかし、あなたは集まらなかった。
見よ、あなたの家は荒れ果てるであろう。[16]

1923年東京の半分と横浜のほとんどを破壊した関東大震災が起きたとき、内村は日本に対する神の裁きを見、最後の審判の予兆であると考えた。[17]

 際立った第二の無教会預言者は日本のエレミヤと呼ばれる藤井武(1892ー1930)である。彼もまたキリストの嘆いたエルサレムと日本にまんえんする道徳的腐敗に共通点を見い出した。彼は自らを、神の意志を国に伝え、国の責任を追及する日本人預言者と称した。彼はこの預言を「聖書より見たる日本」に著し、1930年それが発行されて2〜3ヶ月もしないうちに死んだ。[18]

 新しいシオンであるべき日本に対する神の審きに関する藤井のビジョンは矢内原忠雄(1893ー1961)に受け継がれた。東京帝国大学教授の矢内原は満州事変(1931)から太平洋戦争終結まで国家主義と戦い、軍国主義反対論の指導者であった。矢内原は事変の起こる前に満州を訪れ、日本が故意に事変を引き起こし、[19] 中国非介入を取り決めた1922年のワシントン条約を無視していることを確信した。彼は、詐欺的行為によって国際法を犯している日本が神の審きを招くことを予見した。彼は「民族と国家」を著し、国家主義と人種意識が狭い自己中心的利害に利用された場合他国に対する正義の原則を踏みにじる悪質な傾向があると論じた。[20] 1937年日本が中国への二度目の戦争を引き起こしたとき、矢内原は「国家の理想」をもって対抗し、 国は正義の原理の下に生活を共にする者の集団でなければならないと訴えた。[21] 正義は個人権と国際権の両方において相互認識によって表現され、それは国家の基本的精神であるから支配指導者が勝手気ままに定めることはできず、かえって国民の必要に対する客観的応答でなければならない。正義を基本とする社会秩序は当然平和であり、国家の理想は国民と国際の両方における、正義と平和の実現である。あからさまな貪欲によって、日本帝国の軍国主義者たちはこの国家の理想を無視し、また神から与えられた他国の権利を踏みにじっている。続いて矢内原は講演旅行と著作活動を展開し正義と平和の理想を訴え、藤井の日本に対する審判と破壊の預言に呼応して、「この国をほおむって下さい、死ぬことによってこの国を新しい国に生まれ変わらせてください」と言った。[22] 国家権威は彼の著書を発禁処分にし、彼とそのグループに対する取締を強めた。同じ1937年、矢内原は大学教授の辞職を余ぎなくされた。この歴史的危機の転換点に当たって、矢内原はキリスト教の原理によって日本を救うため聖書の講義と真理の探究に専念した。

 矢内原の軍国主義に対する戦いに同じ東京帝国大教授の南原繁(1889ー1975)も加わった。1942年南原は「国家と宗教」を著わし、日本とドイツの近代国家主義の起源と性質を批判的に分析した。[23] かれはナチス権威主義の基となっているニーチェの人種優性論と田辺元の人種主義と軍事国家論を批判した。1930年に発行された田辺の「人種の理論」はドイツ理念主義と東洋の多神論の統合を試み、たちまち流行のイデオロギーとなった。南原は、個人の生と自由を制限できる絶対的存在として国家を定義する田辺の理論を退け、誤った日本人種の観念と人類史の勝手な解釈にもとづいた人種的帝国主義の政策は多くの社会悪をもたらしていると指摘した。このため南原も国家の敵意に直面したが教授の職を何とか保持し、結果的に戦争終結を軍事権威に説得した知識人グループをひきいた。彼は1945年から矢内原に引き継ぐ1951年まで東京大学の総長を勤めた。二人の影響力ある無教会知識人がかくして戦後の民主的大学の建設を受け持った。

 それほど知られていないがほかに何人かの無教会者もまた、しばしば宗教信念に忠実であるゆえの高価な犠牲を払いながら、日本帝国主義に反対を表明した。鈴木弼美(すけよし)は戦争が不道徳であるゆえ日本は敗れるだろうと公に表明したため8ヶ月刑務所に入れられた。政池仁(めぐむ)は政府の軍事政策への反対によって高校教師の職を追われ、彼の出版した本は直ちに国家権威によって発禁処分にされ、高額の罰金を科された。ほかに数人の無教会指導者は天皇の神聖を否定したため刑務所に入れられた。最も知られている無教会の非戦論者は、内村の旧友であり、札幌の銭湯経営者であった浅見仙作(1868ー1952)であろう。[24] 彼は反戦宣教の罪で1943年に逮捕され、地方裁判所で三年の刑を言い渡された。浅見は最高裁へ訴えた。ほとんど80歳という高齢と8ヶ月の刑務所生活による深刻な病気にもかかわらず、浅見は宗教信念と無教会の名誉のため1945年アメリカ軍の空襲の最中にある東京へ札幌から赴いた。長い部分的な尋問期間浅見はそれなりの処遇を受け、最高裁判長は札幌地方裁の判決をくつがえした。この判決は宗教信念と世俗国家の難しい関係を理解する上で真に実質的な内容を含んでいた。

国家主権と地上に再臨するキリストの権威に関する被告の理解には議論の余地があるにもかかわらず、人の信念は純粋に直観的であり...知的理解の範囲に属さない。したがって...被告の信念の不十分な説明を理由に有罪とするのは誤りである。[25] 

浅見に対する裁判は無教会裁判として知られ、信仰を圧迫する国家主義に対する戦いの最終的勝利として無教会者の誇りとなっている。

 以上は神道国家主義に対する広範な無教会の反対運動のいくつかの例にすぎない。しかしこれをもってすべての無教会者が同じように戦ったと思うのは誤りである。一部の無教会者はまったく沈黙を守り、二人の指導者は戦争を肯定した。(強固な無教会の戦いの歴史におけるこうした影の部分もまた、この運動が制度的組織を欠くことに原因している。)[26] しかしながら、このわずかの影は制度教会のあからさまな妥協とは比較にならない。前述のごとく、無教会の独立性の主要な原因は組織的制度の欠如にあった。教会団体が組織と経営の生き残りにまったく囚われていたのに対して、無教会は自由な個人として行動の責任を取り、それゆえ誠実と一貫性と個人の自由をもってその信仰を証した。無教会の戦いの第二の強さは内村の弟子に対する精神的遺産の中に見い出される。内村は真のキリスト教愛国者の模範を示し、彼の著作はキリスト教愛国者の苦難に対して計り知れない霊感を与えた。最後に、無教会が抱いた強固な「われわれ」意識はこの信仰集団を結び付け、個々の信仰の戦いを支え、この試練の時代の中で信仰者をはげました。

第三章

 平和の理念は無教会人の世界観の中心的役割を担い、内村以来平和をテーマとした数多くの文献を生み出した。無教会平和論の多様な側面に統一した観点を与えるため、次のような一般化を試みたい。[27] 平和は、人の罪を赦し永遠の生命を与える神との親しい交わりを通して得られる根源的な心の状態である。すべての人が救いと生命の喜びあふれる経験を持ち、神と一つになるならば、真の平和が困難なくこの世に実現する。平和を策する政治人の根本的誤りは、人の力を過信し自分の主義を他人に押し付けることにある。こうした態度は今なお独善的な律法主義者の方針であり、これは限りない対立と争いを生み出す。平和は単にあれこれの主義を押し付けることで達成はできない。ある主義がどんなものであれ、それはいつも部分的で不完全なものに人間の関心を向かわせるイデオロギーに過ぎず、決して人類全体に平和をもたらす事はできない。こうした人類の空虚な努力に反して、キリスト教はすべての人に精神の自由と神の聖霊に従う自由を与える。この自由の相互確立においてのみ、この世における最終的平和は可能である。キリスト教は、規則を押し付ける律法とイデオロギーの奴隷状態から人を解放する。人類の歴史は律法からの解放の前進的過程であり、キリスト教はその決定的役割を担ってきた。キリスト教自体は、しかしながら、一つのイデオロギーではなく、神との個人的な出会いであり、救いと生命である。平和を見い出す問題は結局のところ救いと生命を見い出す問題である。キリストは、私たちの罪を赦し、私たちを神に導くことで、人類に平和の道を示した。したがって、この世におけるキリスト者の使命はあらゆる律法主義と戦い、すべての人を神にすなわち歴史の目標である平和へ導くことである。普遍神学の歴史観からすれば、あらあゆる歴史の社会秩序は神の要求する理想の秩序を反映しなければならず、またその完全な理想の前進的実現でなければならない。国家は人類の物質的精神的発達に仕えるために神が作り出した一つの制度である。国家を通して人類は、その存在と歴史に意味を与える道徳、法律、政治、そして社会の理想を前進的に実現しなければならない。この理念は、国家が単に人間の自己中心的な利害に仕える共同体的技術的制度に過ぎないとする超国家主義にも反対する。無教会は国家を道徳的責任のともなう制度的法人とみなす。国家が人類の社会生活の必要に仕え、人類を神に導く使命を果たすためには、国家はその理想の秩序を認識しなければならない。現実には、しかしながら、国家はしばしばその理想を投げ捨て、真の人間の自由と人格の尊厳から国民を引き離してきた。国家権威はその政治的権力を欲しいままにし、権力を維持するためその民を圧迫してきた。

 無教会は一貫して日本であれ海外であれ平和の実現を阻むいかなる政策にも反対する。したがって、無教会キリスト者は現政府の憲法改悪、防衛目的の再軍備に反対する。また、無教会が「罪深い」戦争と見る過去の軍事行為のいかなる賛歌、たとえば戦死者を祭る神社を国営化しようとする靖国法案に反対する。[28] 同様に、1986年の建国記念日(2月11日)の祝日化を天皇崇拝の継続化とみなし強く反対した。古い伝統をよみ返らせ国家道徳を維持しようとするこうした動きとは対照的に、無教会は日本帝国の拡大政策で破壊されたアジアの国々との精神的和解、物質的援助によって国の精神的統一を築こうとしている。たとえば、日本は韓国朝鮮にたいして十分な賠償金を払う絶対的義務があると感じている。また、戦争の被害を最も受けた朝鮮韓国に対し、アメリカ経済帝国主義にならった経済援助によって賠償金に代えようする日本の政策をきびしく批判する。無教会はこうした日本政府の態度を経済利益の追及を隠した偽善とみなし、国際的合意と慈善の名のもとでの新たな搾取の政策とみなしている。要するに、無教会は、国家共同体の前提条件として政治道徳の普遍法、他国民の不可侵の人権の遵守を日本政府に求めている。また、無教会は、日本が単に世界に対して法律的物質的義務を果たすだけでなく、開発途上国の発展のためにも奉仕しなければならない、と主張する。[29] 無教会はより共感的精神的和解の必要を強調する。無教会は、韓国への親善訪問や日韓平和会議を含め韓国との関係改善のため特別の努力を払っている。日本と韓国の無教会者(韓国にも少数の無教会信仰者がいる)による平和会議が日本で開かれた。会議は過去の痛ましい経験を踏まえて、共同の祈りと聖書の研究によるキリスト者の親交をはかった。[30] 無教会のキリスト教平和主義の原理はほかの国にも等しく適用される。アメリカのベトナム介入戦争は、アジア人が自国の運命は自らが決定すべきとする無教会活動者によってかなり批判された。[31] 

 無教会の平和主義哲学は非戦論と呼ばれているが、この中心的信条はキリスト教の信仰を前提としてのみ理解できるものである。戦争は人間の罪深い性質から生じ、国家の罪の罰として神はその存在を許してきた。戦争は殺人と破壊を招くため、それ自体が罪である。いかなる理由によっても、たとえ不意の攻撃に対する防衛であっても、戦争は正当化されない。真の平和と秩序は、キリストの再臨すなわち社会展開史の最終段階においてのみ訪れる。(再臨の信仰はとりわけ無教会の強調する点であり、社会的危機の時代に強烈な預言的精神とともに表明された。) 要するに、真のキリスト者はどんな状況にあっても戦争を非としなければならない。いいかえれば、戦争を止める力は神のみにあり、人は無力であると信じているにもかかわらず、キリスト者は戦争に反対しなければならない。平和主義の使命は平和の福音をのべ伝え、戦争は個人と社会の罪の結果であると主張し、そしてキリストの再臨の新世界を準備することである。平和主義は戦争つまり人類の最も破壊的行為を人類救済の道具に変容する。

 逆説的にも、この平和主義は兵役の良心的拒否の形をとらず、かえってキリストが他人の罪のために死の十字架についたのと同じ原理によって信者に戦場に行くことを求める。一人のキリスト教平和主義者の戦場での死は不信仰者の死よりもはるかに価値のある犠牲として神に受け入れられる。神の意志に従わなければ、他人を自分の代りに戦場に向かわせる兵役拒否者はおくびょうである。こうして、たとえば、内村は弟子たちに兵役を避けないよう呼びかけた。内村は、悪が善の行為によってのみ克服されること、それだから戦争は他人の罪の犠牲として平和主義者が自らの命をささげることによってのみ克服される、と論じた。彼は、ある論説で、「神は天においてあなたを待っている、あなたの死はむだではなかった」との言葉を戦死者の弟子に捧げた。[32] 同様に、矢内原は若きキリスト教兵役者に身体の復活とキリストの再臨(前者は個人の救い、後者は社会の救い)の信仰に固く立つよう勧めた。[33] 戦争政策への反対と戦争自体に直面したときの無抵抗という二重表現は、無教会主義者があらゆる暴力と破壊に対する抗議に積極的に参加したと同時に不義の戦争時において兵役を受容したという事実に明らかである。[34] これは日本の伝統とキリスト教の原理の根源的結合の逆説的結果である。日本文化における権威の極端な強調は、日本人に権威に対する従順性と同時に権威に対抗するユートピア的英雄主義を植え付けた。[35] この文化的特質が、無教会の場合、日本的キリスト教平和主義の創造という最も首尾一貫した形で見い出される。その代表は世俗の価値を拒否し、キリスト教の価値の証と神の義しい言葉の伝達を使命とする啓示的預言者である。

 無教会キリスト者の立場は絶えることのない葛藤の中におかれている。世俗に対するその非妥協的態度は、無教会者を日本社会から離し、加えて日本の制度教会からも離している。つまり無教会者はキリスト者として日本社会から仲間外れにされ、さらに無教会者として日本の教会クリスチャンから歓迎されないという二重の疎外に甘んじなければならない。しかし、この疎外は社会からの断絶、逃避を意味しない。無教会は少数派であることを十分承知している。それは盲目な社会の圧力に対抗し、現存の社会と文化の制度に対して新しいキリスト教の理想と目標を与えるために選ばれた少数派である。それゆえ、無教会者は神を頼りとし人に頼らない、この疎外を名誉あるものと受け止める。無教会者は自らを社会に対する本当の精神的指導者と感じている。その使命実行の態度はキリスト教価値観の啓示に基づく預言者的なものである。内村はまさに旧約聖書の預言者、日本のピューリタン、そして「キリスト教精神の注がれた真のサムライ」であった。[36] 無教会キリスト者は現世の中で積極的に生活し責任を果たす、しかし現世に属することを求めず、かえって現世を変革しようとする。無教会者は日本と世界に対して明確で権威的な預言を啓示するカリスマ的人格として自己をあらわす。

注釈

[訳者の注]  これはCarlo Caldarolaの論文「Pacifism among Japanese Non-church Christians」--「アメリカ宗教研究ジャーナル」(Journal of The American Academy of Religion)41巻 (1973年)、506ー519ページ-- のほん訳である。このホームページは「アメリカ宗教研究ジャーナル」(Journal of The American Academy of Religion)の許可を得ている。

カルロ・カルダローラ (1928-1994)はイタリア、ナポリ生まれ、カリフォルニア大学バークレー校で社会学博士号を取得、カナダ、エドモントのアルバータ大学教授を歴任。 著書に 「内村鑑三と無教会; 宗教社会学的研究」( 田村光三ほか共訳。 東京:新教出版社 1978年)他がある。

[1]Carlo Caldarola, "Japanese Reaction to the Institutional Church,"Journal of Ecumenical Studies, 9, 3, (1972): 489-520 ページを見よ。文献についてはその491ページの注を見よ。

この論文は無教会の一般化研究の中ででき上がった。無教会運動の現地調査は1968年から1971年夏にかけて行われた。 この調査の目的は日本における無教会運動の性質と特長およびその起源と展開に関する社会学的要因の分析の開拓的研究である。 資料は面接、アンケート、そして膨大なこの運動の文献の内容分析によって集めた。 この論文は、しかしながら、この宗教グループの平和主義の側面のみに制限し、主に文献と歴史的資料を基にしている。 この研究を可能にした、国立科学財団、カリフォルニア大学日本研究センター、そしてカナダ日本研究会に感謝したい。

[2]文部省発行の「国体の本義」の英訳は、Cardinal principles of the National Entity of Japan, tr. J. O. Gauntlett and ed. By R. K. Hall, (Cambridge, Mass.: Harvard University Press, 1949)をみよ。

[3]ローマ本部からの日本カトリック教会の分離は、カトリック信条の本質からして不可能であった。 しかしながら、バチカンからの指示によって、信者は神道神社の行う愛国的礼拝に出席が許可された。 実際、カトリック教会は国家神道とその礼拝が宗教的意味を持たないとする日本政府の見解をそのまま受け入れた。

[4]Kun Sam Lee, The Christian Confrontation with Shinto Nationalism (Philadelphia: The Presbyterian and Reformed Publishing Co., 1966), chap. 5, pp. 111-151.

[5] Lee, p. 140

[6]久山康編「近代日本のキリスト教」(東京:創文社、1960)、第二巻、334ページ

[7]海老沢亮「東亜新秩序の建設とキリスト教」、国家キリスト教委員会会報、1939年6月、183、1ページ。 ホルトム・ダニエル、「日本の天皇と神道」、深沢長太郎訳(東京:しょうよう書院、1950)。英訳は、by Bishop J. C. Mann. Reported in D.C. Holtom, Modern Japan and Shinto Nationalism: A Study of Present Trends in Japanese Religions (Chicago: Chicago University Press, 1963), pp. 109-110.

[8]武田清子、"日本キリスト教の土着化"「日本キリスト教年鑑1962年第2章15ページ。

[9]Morioka Iwao, "Japanese Churches and World War II," The Japan Christian Quarterly, 34,2 (Spring, 1968): 75-85. またホルトムもみよ。

[10]この事件に関する小沢三郎の批判的研究「内村鑑三不敬事件」(上智大学出版会、1961) をみよ。

[11]ベルへの手紙1861年3月6日。内村鑑三全集20巻(岩波書店1932)、207ページ。小沢、66ー7ページもみよ。

[12]この議論は井上の有名な論文「教育と宗教の衝突」(1893) に展開されている。前述久山、第一巻、203ー5ページをみよ。

[13]内村全集、2巻、177ー85ページ。

[14]内村全集、16巻、26ー36ページ。 彼はまた日本主義を支持する一連の論説を書いている。 たとえば、全集2巻、212ー21ページをみよ。

[15]内村全集、20巻、289ページ。

[16]マタイによる福音書23章37ー8節。

[17]山本泰次郎編、「内村鑑三日記書簡全集」(教文館、1964)、178-80ページ

[18]藤井武全集、3巻(岩波書店、1931)、473ー608ページ。

[19]矢内原全集、24巻(岩波書店、1965)、103ー4ページ。

[20]矢内原忠雄「民族と平和」(岩波書店、1936)。

[21]この論説は初め中央公論1936年9月号に掲載されたが発禁回収処分を受ける。 矢内原全集、18巻、623ー46をみよ。

[22]矢内原全集、18巻、647ー54ページ。

[23]矢内原忠雄、「国家と宗教」(東京大学出版会、1942)。

[24]武田清子、「土着と背教」(新教出版、1967)、第4部2章、"浅見仙作と平和の理想"、325ー56ページ。

[25]浅見仙作、「総十字架」(札幌、1952)、66ページから引用。 英訳は、by Owade Yasuyuki, "The Japanese Christian Conscience During the Pacific War," The Japan Christian Quarterly, 24, 4 (fall, 1958):297.

[26]W. H. G. Norman, "Non-Church Christianity in Japan," The International Review of Missions, XLVI、184 (Oct., 1957): 387-88.

[27]平和に関する無教会の議論をより総括的に展開している現代の活動者の一人は高橋三郎教授(現在独立伝道者)である。 彼の優れた論説は、たとえば、「平和を作る人」(政池仁編、『現代とキリスト教』、2ー29ページ)、「個人の目標と国家の目標」(同上、20ー69ページ)、それから高橋三郎、深瀬忠一、「聖書の平和主義と日本国憲法」(聖燈舎、1967).

[28]たとえば、高橋三郎「個人の目標と国家の目標」(同上)、高橋、深瀬「聖書の平和主義と日本国憲法」(同上43ー46ページ)をみよ。

[29]高橋、同上

[30]第1回韓日会議(1966年5月19ー21日)の文献は政池仁編「むくげと桜」(聖燈舎、1968)、高橋三郎「韓日キリスト者友和セミナー」(『十字架の言葉』31巻、1967年7月号、97ー100ページ)。

[31]アンケート調査では、「アメリカは現在のアジア政策を放棄して、アジアの諸国に自国の運命をゆだねるべきか」との質問にたいして、賛成85%、反対8%、どちらとも言えない5%、無回答2%であった。 最近の無教会の文献は、戦争が今日世界の秩序を建設する上でもはや無効の手段であり、国際関係はまったく異なった基礎の上にたてられるべきだとする論説であふれている。 約50%の回答者は国際連合に賛成している。

[32]内村の平和主義については、藤町隆之、「内村鑑三の非戦論」(名古屋学院論双、3号、1964)。 またJ. F. Howes, "Kanzo Uchimura on War," The Japan Christian Quarterly, XXIV, 4 (Fall, 1958): 290-92. をみよ。 同じ著者による、Nobuya Bamba and John F. Howes, Pacifism in Japanese Christian and Socialist Tradition, (Kyoto: Mineruva, 1978)もみよ。

[33]藤田若雄、「矢内原忠雄ーその信仰と生涯」(教文館、1967)、174ー75ページ。 また、H. Bamba and J. F. Howesも参照せよ。

[34]不義の戦争の場合の兵役の義務に対する道徳的対応に関するアンケートの調査は以下のとおりである。 「法に従うべきである」49%、「そのような道徳的義務はない」20%、「一概に答えられない」20%、「無回答」7%であった。 「一概に答えられない」とした人のほとんどが、個人の最も重要なときに神の啓示したところにしたがって、それぞれの状況に対し主観的に決定されるべきであると書いている。

[35]中根千枝、「タテ社会の人間関係」(講談社、1971)

[36]Uchimura, "Who and What We Are." The Japan Christian Intelligencer, I, 1 (March, 1926): 7-8.