百姓伝道者ハウゲの伝記

吉田源治郎 著(未完成・未発表原稿)

2022・1・10   直木 葉造

【 まえおき 】

以下に公表するものは、故吉田源治郎先生のハンス・ニールセン・ハウゲ(18世紀末から19世紀初期に北欧ノルウェーに生きた農民平信徒伝道者)に関する伝記の未発表遺稿(未完成のもの:出版に向けた文字の最終確認・統一整理が不十分な箇所もあります)です。

源 治郎先生は、1891(明治24)年10月2日三重県宇治山田生まれ、昭和初期に賀川豊彦先生らによって始められた農民福音学校(昭和二年開始)のスタッ フでもあり、賀川先生の協力者の一人でした。戦後は西宮一麦教会等の牧師もされ、1984(昭和59)年1月8日香川県飯山町紅山荘にて92歳で召天され た方です。

 以 下の未完成原稿は源治郎先生ご召天の後、ご子息が先生の遺品整理中に見つけられたもので、貴重な資料と考えられ原稿のコピーを撮られ先生と繋がりの深かっ た牧師鳥飼慶陽先生に託されたものです(鳥飼先生は神戸の賀川豊彦記念館のホーム・ページ上で長年源治郎先生について詳しく紹介されてこられた方)。

し かし、その後そのコピー原稿を直木が鳥飼慶陽先生から更に譲り受けました。実は直木自身独自に2018年8月17日に私家版のハンス・ニールセン・ハウゲ 伝を出版していました。その出版後、直木は先に記しましたように鳥飼先生がホーム・ページ上で源治郎先生紹介を掲載してこられた中に、源治郎先生がご生前 「ハンス・ニールセン・ハウゲ伝」の執筆に取り組んでおられたことを知りまして、鳥飼先生に私の私家版を差し上げたところ、鳥飼先生が源治郎先生のご子息 から託されていたそのコピーを直木が持っているようにと、鳥飼先生が2019年2月14日に送って来られたのです。直木はそのコピー原稿を拝見し、これは 未発表となったものだが日本人の中で最も早くにハンス・ニールセン・ハウゲ伝執筆に本格的に取り組まれた大変貴重な原稿であると受け止め、故源治郎先生が 生前取り組まれた大事なお仕事の一つとして公に知られる必要を感じ、公に出来るよう2019年2月14日以降今日まで時間をかけてWORDソフトを用い電 子版化してきたものです(源治郎先生がご生涯の何時頃の時期にこの執筆作業をしておられたのかは定かではありません)。

の 遺稿データは、神戸の鳥飼先生、賀川豊彦記念館主事の小野歩様とご相談し記念館のホーム・ページ上で、また、2021年3月まで直木の関係していました三 重県伊賀市にあります愛農学園農業高等学校のホーム・ページ上に開設されている「あいのう研究所」内のスイス・北欧部門から公にすることにしました。

手元に頂いたこの未完成原稿には欠落した章、判読の難しい箇所、また多少なおした方が良いと思われる箇所が多々ありました。そのため直木の判断で不明のまま赤文字又は??マーク(マーク数と未判明文字数とほぼ同じ数にしてあります))としたり、著者の意を尊重しつつ文字を部分的に修正したりと、基本的に問題の無い状況に落ち着け入力保存を終えさせて頂きました(39-58ページ 原稿不明・・・ この部分に第3章が含まれていたのではないかと思われます )。

ま た、この未完の原稿には題も記されていなかったので、鳥飼先生の付けられた仮題のままとしてあります。引用文献を示すための()付けナンバリングのある部 分もありましが、引用した著書の記述を記した参考文献ページは残されていませんでした。(直木の推測では、当時日本国内にはハウゲに関する日本語に訳され た書籍はなかったこと(2018年の段階でもありませんでした)、アメリカには19・20世紀以降ノルウェーからの移民が多くいたこと、源治郎先生が賀川 先生とのつながりの中でアメリカ東海岸地域の神学校等に留学していたこと、等々から、参考にされた著書の殆んどは、英文で書かれたハウゲ関連書籍であった と思われます)。記入文字(主に漢字に関して旧漢字とか、また、英語の場合スペルがコピー原稿のため読み取れない場合)についても、直木の判断で文字を追 加や断定し落ち着けてあります。文字(助詞とか)の欠落している場合とか、記号の 、ゃ 。の記入についても、文章の流れから、追加・削除等、直木の判断で落ち着けました。しかし、それらの箇所が多くて充分に統一して落ち着けられなかった面が あることを最後に申し添えます。さらに、ノルウェー人の人名で、英語的発音のカタカナ化の部分は本来のノルウェー語発音のカタカナ化までは修正していない 状況にあります。大筋においてこれらの点は源治郎先生の労作への大きな支障はない程度とも思います。章の無い部分がある点のみ多少残念なところです。

今 回この吉田源治郎先生の未完成未発表原稿を、わざわざ愛農学園農業高等学校ホームページ上の「あいのう研究所 スイス・北欧部門」から公にするのには理由があるのです。実は愛農高校の歴史における愛農生のスイス・ノルウェー農家研修の始まった初期に、愛農前理事長 の浦田善之氏と吉田源治郎先生とのつながりのあったことが、当時の愛農誌の記事からわかったからです。吉田源治郎先生は、先にも記しましたが三重県宇治山 田の生まれ、昭和初期に賀川豊彦先生らによって始められた農民福音学校(昭和二年開始)のスタッフでもあり、賀川先生の協力者の一人でした。その先生と愛 農高校とは歴史的に接点があったのです。さらに申しますと吉田源治郎先生の遺稿の伝記の主人公ノルウェーの農民伝道者ハンス・ニールセン・ハウゲともつな がっており、また、愛農会・愛農学園高等学校の創設者小谷純一先生も東洋の平信徒農民伝道者であったのです。

< 目 次  >

第1部 ノルウェーの農民の子  1771―1796 年

第1章 その当時のノルウェー

ハウゲの人間像

第2章 ノルウェーのハウゲ

チューネ(TUNE)における少年時代  ハウゲの宗教的遺産  良心の声  

孤独と労働  汝は汝の主なる神を愛すべし  ハウゲのノルウェー  

都市資本主義  農村での独立の後退 都市対田舎の対立 文化面での対照  

宗教的勢力(途中から原稿なし)

第3章 原稿なし39-58ページ 原稿不明・・・この部分に第3章が含まれて いたのではないかと思われます )。

第2部 ノルウェーのリバイバル説教者

第4章 ハウゲの伝道始まる  1796 ― 1800年

文書伝道と説教  法律――文字と霊と  1797年 ― 闘争と入獄

フレデリックスタトで捕縛  釈放と推薦  文書による証言  道を指し示す

再捕縛 ペン、再び怒る  長期伝道旅行の始り ベルゲンで

ベルゲンにおけるハウゲ クリスチャンサンドからエイケルへ

第5章 信仰復活運動  1799年のこと

認められはじめる  ラルス・ヘムスタッドをめぐって

  トルレフ・ベーチェの活動 マレン・ボエスについて

迫害、そしてそれは何の為だったのか?  放浪癖について  

ニイルス・リイス について ミッケル・グレンダール

トロンハイムでの出版  ハウゲとヘムスタッド  トロンハイムにおける受難

釈放後の南部への旅  家族のひとりの死

第6章 平信徒運動は確立された 1800 ― 1801年

デンマークへの初旅  逸脱をチェックする  エイケルの製紙工場  

ハウゲとKLOKKER  ハウゲと踊った人たち  ベルゲン市の市民権獲得

第7章 運動は発展をつづけた 1801 ― 1804年

漁師達と共に暮らしたひと冬  エイケルへ、そして帰郷  

極北地帯への旅  スキーでサルツダレンへ  

ラップ人とともに  旅程完了  一八〇三年の秋、フェーネフォスで  

一八〇四年、クリスチャンサンで  

ベルゲンへ ―― そして商売を

第8章 自由の身もあと幾月  1804年7月 ― 10月まで

監督ペーデル・ハンセン  その他の文書による攻撃

北辺からの報告  再びデンマークへ

第9章 ハウゲ逮捕される   1804年10月24日

第3部 ノルウェーの囚人  1804 ―― 1814年

第10章 なぜハウゲは迫害されたのか?

第11章 官僚式方式

監禁  宣告  遅遠  訊問  質問事項と訊問  

控訴は棄却された  戦争 そして 封鎖  政府委員の訴え  

ハウゲは釈放され製塩業に従事した  調査委員は裁判官を任命した 
 デンマークの政策  訊問の続行  判決言いわたさる

 ハウゲは控訴した  最後の判決  獄中生活の苦悩

第12章 ????

第13章 友らはその日を待ち望んで祈った

暗黒の中の光

第4部 ノルウェーの教父   1814 ― 1824年

第14章 バッケに住む自由人

ハウゲの富み  一八一四年のクリスマスの手紙  結婚と家庭生活

第15章 ブレッデゥヴェト農場 1817 ― 1824年

いろりとホーム  模範的農場  宗教活動の本部  

ハウゲが出獄後に書いた著書  ハウゲの臨終の日

第16章 ハウゲ派の核心

回 心  生ける信仰  聖化  律法主義とは  もう一つの俗念

個人の救い  警戒  福音主義

第17章 ハウゲ派と教会



第1部 ノルウェーの農民の子 1771 ― 1796年


第1章 その当時のノルウェー  

 ハ ンス・ニールセン・ハウゲは、近代のノルウェーが生んだ精神界の偉大な指導者であった。しかし、彼は主教でもなく、牧師でもなかった。彼は農民の子にすぎ なかった。しかし、農民としての彼にも傑出したところがあった。ノルウェーの国民が、ほとんど農耕に従事していた時代のことであるが、神は彼を起こして御 自身のメッセージを伝える器となし給うたのである。農民に対する福音の使徒が、農民の間から起こったことは正に、神意によるものであった。

  この事実は重要視されてよいことである。然し、もっと重視されねばならないことはハウゲの宗教についてである。彼が生い育った家庭では、いつも聖書が愛読 されていた。彼は宗教的な意味で、良い環境の中に育まれた。そのような彼ではあったが、自分の人生を自分のものとして享楽したいという考えを、彼がいっさ い放棄することが出来るまでには、一方では聖書を学びつつも同時に世俗的ないっさいの事物とも親しんでいた。神はこのハウゲを力ある説教者にしあげ、彼に よって古くて、しかも常に新しい福音を携え、ノルウェー全土に、宗教的復興を起こさせたのであった。

 当 時すでにノルウェーはキリスト教国であった。幾世紀も前からこの地にキリスト教会は現存していた。然し牧者は惰眠をむさぼり、その説教は録音されたテープ の繰り返しに似て、生命がなかった。だからハウゲの説教を耳にした時、人々は喜んで彼が説く福音に耳をそばだてた。彼が経験を通して福音を語る、その力強 さに人々は打たれた。ハウゲは人々に対して罪を悔い改め、神を信じるように訴えた。神は日曜日のみのクリスチャンの礼拝を喜ばないと彼は人々に警告した。 ハウゲにとって神を信じることは、毎日毎日全身全霊を神にささげる生活を意味したのであった。

彼 の説教に感動した多くの人々は、神の御心に叶う新しい人生に歩み、その住んでいる都市農村の姿を一変させた。当時の人々は、説教は牧師のするものと考えて いたので、それを証明する反古同然の古い法律を引っぱり出してまで彼の伝道を冷笑する者、物笑いの種にする者があとを絶たず、二、三年後にはハウゲは遂に 牢獄に送られることになったが、時はすでに遅く、ハウゲの蒔いた福音の種は良き地に深く根をおろしていた。そして、ノルウェー人が旧い殻を破って新らし い、よりよき国民として生れ変ろうとする胎動を始め、もはや何人もそれを阻止することは出来ないまでに発展していた。

数々 の事柄がハウゲの功績として挙げられるが、第一に下層階級の人々を、より良き社会をつくりあげる為に、団結せしめ得た最初の人として、彼はノルウェー人の 間で永く記憶されるであろう。彼はその深い自らの宗教経験を通して、愛国心、高い道徳性、独創的思索、経済的創意、古い封建的社会制度の追放に成功した。 1814年エイヅボル(Eidsvoll)において召集された憲法制定議会で、ノルウェーがその最初の憲法を採択した時、会議に参劃した代議員の中にハウ ゲの親友の多くが顔をならべていたという事実は大いに注目されてよいであろう。

ノ ルウェーでは、今日もなお、人々の間にハウゲのことが語りつづけられている。彼らはノルウェーの歴史を回顧するごとに、祖国に近代の空気を導入してくれた ハウゲの功績を認めないわけにはいかないのである。中世の暗黒は、それまでノルウェー全土の上に、暗く重たくのしかかっていた。宗教改革の波は、かなり早 くノルウェーに訪れたが、それもコペンハーゲンの王城に住む国王の指令にもとづいて実施され、教会の主教が、国王の指令に従って、一国の宗教を左右してい た状態で、信仰が国民の生命力になっていたわけではなかった。ノルウェー国民の宗教生活は、すでに久しくデンマーク国王の権威によって定められた法規法制 によって固定化され、牧師もまた、国民から遊離した聖職という特権階級の立場に安住し続けているにすぎなかった。

然 し、そういう事態のもとでもなおかつ本当に神の恩寵というべきことが起こった。それは二代にわたって国王が敬虔なキリスト信徒であった事実である。その一 人は、堅信礼の制度を制定したために、デンマークとノルウェーの領土内では、すべての少年少女に宗教的教育を施す制度が生まれた。このために用いられるこ とになった教科書は、ルターの小教理問答書に対するポントピダン(Pontoppidan)の解説であった。それは、真面目さと深い敬虔と、根本的なキリ スト教の真理に立つ解説でみなぎっていた。ノルウェーの国民は、キリスト教に対する最初の洞察をこの小冊子から学び取ったのである。

ハ ウゲが生まれた1771年は、あらゆる方面で激変しつつあった時代であった。先ず人口の増加が注目される。そして、彼らの大家族を支えるには足りない農耕 地が問題になり始めていた。そして、若い人々は職を求めて、都市へ移動しなければならなかった。新しく発明された機械が使用されるようになったので、人々 は今までの手仕事を失うようになり、農夫は生活必需品を購入するために、収穫の一部分を売渡さねばならないようになった。税金はますます高くなり、農村地 帯の住民の間で不平の声が高まりつつあった。都市で商業に従事する人々の間でもコペンハーゲンからの指令にもとづく貿易干渉に反抗して、貿易の自由化とそ の拡大を叫ぶ声が起こっていた。ノルウェーの知識人はアメリカで起こりつつあった独立戦争に注目し、反逆者側にむしろ同情と理解とを示すのであった。

ハ ンス・ニールセン・ハウゲは1771年に生まれ1824年に没したが、当時の宗教界における正統派の主張を、彼はことごとく継承していた。彼が直面したそ の当時のいわゆる啓蒙時代は、彼にとっての言わば実験室の役割を果たすものであった。彼は宗教、社会、経済、学問の各界にわたる家 的潮流の中に一身を投じた。彼の生存中にノルウェーは、永い期間にわたったデンマークの覊絆から脱して自国の憲法もとづく議会を召集することが出来た。そ れにはナポレオン戦争と、キール條約が直前の歴史的原因となっているが、独立を達成しようとする全国民の希望の底に流れていたもの、国内のあらゆる事物を 革新し開発しようとする精神の底辺に流れていたものは、ハウゲの感化と影響とによるものであった。ハウゲは経済企業の先駆者であったし、昔からの特権階級 に挑戦した指導者でもあった。

 

然 し、ハウゲの名を有名にしたのは、以上の領域における彼の貢献によるものではなかった。彼が今日もなおノルウェー国民の間に記憶されているのは、19世紀 初頭におけるノルウェー人の宗教生活を彼が革新したからである。今日ノルウェー人の国民的特質と見なされている、その強烈な個人的信仰、彼らの個人生活と 社会生活の両面に見られる清廉と潔白さ、それらはみなハウゲが與えたキリスト教信仰の成果だということが出来る。

ハウゲの人間像 

本 書のどこかでハウゲはどんな人物であったかという読者の質問に答えなければならないとすると、第1章が最もそれに適するであろう。なぜなら、そういう質問 が最初に飛び出すことが自然であり、また能うかぎりの回答が最初に與えられることを読者は望んでいるに違いないからである。卓越した信仰と勇気の持主だっ た一キリスト者の物語、それが本書の主人公ハウゲの生涯なのだが、日常生活の中の彼を紹介することも、彼を理解する上において大きな助けとなるであろう。

  今日のノルウェー人は一般に背の高い人種のように思われているようだが、百五十年前のノルウェー人はそうではなかった。ハウゲは僅か五尺六寸しかなかった が、それでも中位の背丈と考えられていた。彼は肩幅と胸の広い男だった。彼は腕っ節が強く、また健脚であった。永い牢獄の生活で健康を害し、姿勢を悪くし てしまうまでは、彼は胸を張ったまま真直に歩く男であった。同時代の人のひとりが、彼について次のように語っている。

  人間としても、また、説教家としても彼は若い人々の為に生まれてきたようなタイプ(型)の男であった。彼自身も未だ指導者としては年が若かったのである。 彼が最後に検挙された時にも年令は、僅かに35歳であった。彼は精力的で、明朗で、赤裸々で、また男らしい声の持ち主であった。彼が子供の時から教えこま れた福音の真理を誰にもわかる単純明白な言葉で彼が語る時、その力強い説得力によって、人々の魂は神に捉えられるのであった。そして彼の感化力は日毎に全 国的に波及して行った。

 ハウゲの容貌についてミッケ ル・グレンダル(MIKKEL GRENDAL)が書いているところによると、彼は金髪で、おだやかな容貌の持ち主であったという。また彼の青い目は大きくはなかったが常に輝いていたと いう。ハウゲの知人たちが一ように語っていることは、彼の表情には、いつも善意と愛とがあふれていたということである。

  ハウゲの肖像画は、どれもこれも1871年にトルステーン・フラッドモオ(THORSTEIN FLADMOE)がつくったハウゲの胸像から写し取ったものか、1904年にアーリング・グレンランド(ERLING GRØNLAND)牧師がつくった銅板の彫から模写したものである。グレンランド牧師はハウゲの容貌についてフラッドモオが彼に語った印象をもとにして 作ったと言っている。フラッドモオはハウゲの息子であったアンドレア・ハウゲ牧師の容貌を参考にし、当時なお生存中のハウゲの友人達の意見をも参考にして 作ったという。フラッドモオにせよグレンダルにせよ、彼らが描いているのは出獄後の中年のハウゲである。十八世紀の終わりごろコペンハーゲンで一枚の油画 が発見されたが、それは1800年に撮影のハウゲの写真であった。その写真に見られるハウゲは房々とした黒い、あごひげを生やした健康そうな若者であり、 その目は思慮深そうに澄んでいる。あごと鼻は彼のたくましさを現わし、その唇はよく整っていて、いかにも洗練された人物らしく見える。どこにも微笑みの跡 は見られず、その深刻な表情には、彼の決断と、燃える情熱とが伺われる。その高い額、輝く瞳、深刻で鋭い感受性を現わすその口もと、それらはみな彼の霊的 な献身、彼の知性、そしてその勇気を語るものである。

  旅行中の彼は、いつも、簡素なホームメードの赤褐色のジャケット、膝頭までの半ズボン、編みあげの長靴下といったふだん着姿であった。その肩から斜めにか けた小さな旅行用鞄の中には、トラクトや、食糧品やその他の生活必需品がつめこんであった。彼は衣服については、さっぱりしたものを好むいい趣味の持ち主 であった。それだけに、着飾った男女を見るごとに彼は露骨にしかめ面をしてはばからなかった。彼はどこへ行っても、その土地の風習を注意深く研究し、その 価値を尊重することを忘れなかった。

ハウゲはこう言っ ている「私はどこへ行っても、そこで出会った人々、特にしばらく生活を共にした人々に対して彼らの精神構造、彼らの話題、その習慣、その服装に注意した。 つまり彼らの隠されている内面的な性格をも、その表面に現された性質と共に理解しようと努力した。このような予備知識を基礎にして、神と神の言に対する絶 対の信仰を人々の心に植えつけようとする私の宗教的目的を、人々に悟って貰いたさに、どんな風に彼らの注意を呼び、私自身が今立っている宗教的立場まで彼 らを導くためには、どうしたらよいのかと、思案しつづけて、その結論を出したものである。」

  ハウゲはこのように、人間を観察し、人間を理解しうるよう自分自身を訓練することによって、彼の直観力を磨き、かつ補強した。彼の生れながらの特質は、霊 的判断力が具えられるに及んで、彼の心理的洞察力は、驚嘆に価する程度まで成長した。彼は苦しんでいる人を見ると、すぐにその事情を察し、元気づけるため に優しい愛の言葉を語りかけるのが常であった。彼のまれに見られる力強き説教に加えて、彼はまれに見る常識的な説得力をもっていた。彼は人々をしてその仕 事その家族、その信仰上の問題をことごとく主にゆだねるように導くことにいつも成功した。彼は農民のひとりとして、農民の言葉を語り、寡黙な農民の心をと らえて福音を説きつけることが実に巧みであった。

 謙 遜な彼は、いつも坐ったままで説教した。み言は、彼の豊富な聖書知識から泉のようにあふれ、人々の魂の救を思う彼の情熱はきく人々の心を捕らえずにはおか なかった。彼の語る言葉は、いつも的を射る矢のように人々が持つ問題の核心につきささった。彼の説教にほれこんでいた一人の信者はこう言っている。

  「神の言葉は私に圧力を加えて次のように証言させずにはおかない。彼の語る言葉には、真理そのものの迫力があった。私は彼の言葉には、どうしても逆らえな かった。彼は誰に対しても親切で、どこでも問題にされないような最下層の人々に対してさえ、優しかった。私は彼こそほんとうにキリストのような人物だと 思った。正直なところ彼のような人物に、今まで私はどこでも会ったことがない。」

ハ ウゲの説教は、人々を興奮させたり、大声をあげたり、踊りあがったりさせるような型のものではなかった。また彼は地獄の業火に焼かれて苦しむ罪人の最後の 姿を想像させるような話しを、しばしば用いて聴衆の反響を狙うようなことをしなかった。説教の中でも、個人的指導の場合でも彼はきき手が神にその心をささ げるように、神は地上においても、天国に於いても豊かな祝福を彼らに約束しておられることを、しみじみと人々に語りきかせるのであった。そのような神への 服従というものは、個人の人格の内面で、その意志までをも神にささげてしまうまでの回心経験を起こさせずにはおかないものである。もしも個人の意志が、そ の頑なさをかえない限り、どれほどの宗教感情をもち、どれほど敬虔な涙を流したところで、彼の霊魂が救われるものではない。ハウゲの集会に出席した者で、 神のご臨在をひしひしと感じない者はなかったし、神御自身が各自に決断を迫っていられる、そのような厳粛さと畏怖を感じない者はなかった。誰もがハウゲは 自らの神体験から語っているんだという神的権威に圧倒されキリストの優しい人類愛に、彼自身が全く心酔しながら語っているんだということを、しみじみと感 じとったのであった。

何千マイルを徒歩で旅をしたハウゲの ことである、彼の足取りが全く駆け足に近かったことは驚くにあたらない。「ハンス・ニールセンは歩かない、彼はいつも走っている」と人々は言った。彼が友 達に取り巻かれ、一緒に旅をしなければならなかった時だけ、彼は速度をおとして人並みに歩いた。多くの場合、彼は編針と毛糸を携えて、歩きながら靴下をあ んだり手袋をあんだりした。そして一夜の宿を貸してくれた親切な、然し貧しい人々の家に、御礼のしるしにそれを与えるのが常であった。

彼 は人々の家を訪れるごとに「あなたはここで幸福にお暮らしでしょうか?」と聞くのが口ぐせであった。彼はそれを礼儀正しく、然しながらその人の心の中の真 実をさぐるかのような風に問いただすのであった。その問いは、いつでも相手の心の中に重大な反省をうながさずにはおかなかった。その立派な容貌、その礼儀 正しいふるまい、ハウゲは人の心をとらえる魅力ある人格の持ち主であった。時にはあまり品のよくない相手が、困惑の色を顔に現わしたりすることがあると、 ハウゲは彼の手をその男の肩にかけて「あなたもキリストに在る私の兄弟になってくれるでしょう?」と語りかけ、相手のかたくなな心を和らげてしまうので あった。小さな子供達を見ればそのひざに抱きあげて、天においでになる父なる神がどんなに彼らを愛しておいでになるか、神はそのひとり子を十字架にかけて 贖罪の業を成就して下さったほどに、子供らを愛しておられるんだと、語るのであった。 年輩のクリスチャンも喜んでハウゲを彼らの霊的指導者として迎えた。彼らは、神がハウゲに非凡な知恵と円熟した人格をお與えになったものと信じていたから である。各界の成功者までが、この若い信徒説教者に敬意を払っていた。なぜなら彼は説教においてのみならず土地や農作物や、市場や、耕作用その他の機具に ついても常人以上の豊富な知識の持ち主であったからである。

 B.J.ホブデ(HOVDE)博士は、ハウゲの日常生活を要領よく語っているが、次の一文は、本書の主人公を最もよくクローズアップしたものと言うことが出来るであろう。

「ハ ウゲの説教は、いつでも聴衆の知的水準にピッタリと一致していた。不用意の間にこれが出来たのだから大したものである。彼がそのさすらいの旅の途中で、静 かに一軒の家を訪れたとする。彼は、その家の主人が出したどんな食物でも喜んで頂き、旅の間に耳にしたニュースを語りきかせ、それから聖書を御一緒に読み ましょうと言い出すのであった。彼の美しい声、八方破れの単純さ、彼の専売特許ともいうべき無類の正直さ、やがてその家の家族全員が彼のそうした風格に魅 了されてしまって、彼が語りつづける主の福音に聞き入るのであった。やがて主人の方から今暫らく滞在されてはとの申し出があり、やがて同じ近所の人々を交 えたより大きな霊的集会がその家族で始められるようになるのであった。ハウゲが語る単純で、ありふれた例話によって、多くの人々は福音の真理について教え られ、そして、力づけられるのであった。ハウゲの集会で、ざんげの涙を流さないもの、喜びの涙を流さない者はめったになかったという。次の日、もし彼がそ の地に滞在したとする、彼はその土地の人々の仕事の手伝いをしながら、生産と収益を上げる実際的な方法を教えるのであった。たいていの場合、ハウゲはその 伝道旅行の行くさきざきで、與えられた信者の指導にあたることの出来る権威と感化力をもった指導者を起こしてから、次の伝道地へ旅立つのが常だった。時に は彼の伝道を助けさせる為に、能力のある信徒伝道者を見つけては育成した。八年間、彼はノルウェー全国を駈け歩き彼が足跡を残さなかった場所はほとんどな かったと言ってよい。」

ハウゲは神がノルウェー国民に與え られた賜物であった。全国にわたる農民階級を闘争に決起させたのは、ハウゲが最初であった。彼が試みた事業上、また、生産上の努力は、幾世紀にもわたって 上流階級が独占してきた経済機構の没落を促す最初の原因となった。彼の平信徒としての勇気ある説教は、貴族的聖職階級の支配のもとにあったノルウェーの宗 教界を民衆に開放し、かくして彼は、信仰表現の自由を要求する民衆の声が、教界のどこでもきかれるようにしたのであった。ハウゲの主張に従った人々は、彼 から学んだ自己主張を、ただちに彼らの共同社会と、国家問題にまで実践発展させて行った。数名のハウゲの同志は、1814年に、政治的独立を要求してエイ ヅボル(EIDSVOLL)に集まった愛国者達の中に、顔をならべている。

また新聞発行の自由が與えられると同時に、その機会をつかんで、国民の中から文盲を追放するための、大規模な運動を展開したのもハウゲであった。彼の功績に帰すべき事業の数々を挙げるならば、19世紀初頭のノルウェーの社会組織全体に及ぶことを見出すであろう。

然し、歴史の中でハウゲが演じたことがらの中で特記すべき働きは、彼が全国民の運動に迄成長し た宗教的復興の指導者であったということである。彼の才能の中で最もすぐれたものは、圧倒的な説教力をもって、人々に回心をせまる説教であった。それだけ ではない、彼は神の前にある懼れと、おののきをもって教会の執事の務にも精励した。彼が説教者として立つように神から最初の召命を受けた時、彼は彼の代り に教会の監督を、お用い下さいと神に願ったと言われている。彼はそのような高貴な召命をむしろ苦痛に感じたのであった。然し、ハウゲは結局彼に與えられた 任務を使徒的な服従の精神で甘受した。彼の全生涯を物語る有名な次の一句はまさに彼にふさわしいものだ。「私は神の霊に服従を誓ったが、神は、私が神の御 目的に対していつも真実でありうるように力をかして下さった」と。彼は伝道者としての召命を受ける前に御霊の招きを受けていたのであった。

マグナス・ローン(Magnus Rohne)博士は説教者としてのハウゲの偉大な業績について次のように語っている。

「彼 は天使の翼にささえられていた。その聖霊に満たされた説教に、人々が深い深い印象をうけたことは当然のことであった。ハウゲは福音宣伝に夢中になって、自 分のことは全く忘れていた。彼の説教は、天国から来た人の話のようだった。ハウゲの信仰は燃えきってしまって、今はノルウェー人の霊性の中に生きている。 遠い山奥から、小さな村々のどこでも「わたしたちが救われるために、何をすべきでしようか?」という声がこだました。工場でも、農場でも、商店でも永遠の 生命に関する質疑が、秘かにまた公開の席上で論じられた。寡黙はノルウェー人の国民性といわれてきたが、その寡黙で冷静なノルウェー人が、この新しい福音 には、興奮して語りあい、喜びに陶酔したものである。ガリラヤの漁師に似た多くの平信徒が、ハウゲに倣い、仕事を捨てて、彼らが知ったただひとつの真理に ついて説き廻ったのである。全国民の霊性を呼びさましたこのような信仰覚醒は、他に例がないと言ってもよい。神のみ霊がノルウェーの一般男女の間で、この 時ほど、積極的な活動を示したことは未曾有のことであった。」

ハ ウゲをノルウェーに與えた神は、同国のキリスト教会に、溢れみなぎる霊的な力を與えたのであった。その霊力は今日にいたるまで国境を越え、時代を越えて外 に溢れ流れつづけている。現代人に一世紀前の彼の生涯のことを語るのは、ハウゲを活かした霊力が現代のキリスト教会に満ちあふれることを願うためである。 ハンス・ニールセン・ハウゲによって霊的慈雨に恵まれたノルウェーのキリスト教会は、彼より受取った霊的遺産を守ることと、そして、彼以上に教会に奉仕し たいと祈るべきであり、彼が成就した偉大な仕事の故に、彼を高く評価することと、彼の人物を愛慕することから多くの教訓を学ぶであろう。

第2章  ノルウェーのハウゲ

 彼 の伝記は、彼の堅信礼の日から始めるのがふさわしいようである。彼が同僚達と肩をならべて教会へ行く途中であった。それは1787年の秋のある日曜日のこ とであった。いつもは、なりふり構わないハウゲが、その日は妹に手伝ってもらって、髪をきれいにくしで撫であげて出掛けた。彼のおしゃれに気がついた友の ひとりが彼に言った。「きょうは、ハンス・ニールセンも、頭の毛をきれいに撫であげているぜ」

当 時十六歳の、真面目な青年であった彼は、からかわれて当惑しただけでなく、彼自身の虚栄心を大いに恥じて、次のように答えた。「そうだ、僕らがきょうこん なにお洒落をする位なら、僕らのうちにある不滅の霊魂を粗末にしないようにしたいものだ、そしてきょうはキリスト者としてこれから僕らがしなければならな い大きな約束についてもよく考えて見よう。僕らは悪魔とその業を捨てて父と子と聖霊の神を信じますとこの口で告白しなければならないんだから」

青 年時代のハウゲを物語るこの種の逸話の中には、予言的な要素があると言ってよい。後になって我々が見出すハウゲは、ノルウェーの田舎道を東西南北に駈け歩 いて、会うほどの人々に重大な生命の問題について考えるように誘い、聖書が要求していることと、彼らが子供のころに教えこまれた宗教的教育を思い起こさせ て、各地の教会へ復帰させるために一生けんめいに説得をつづける姿である。

ハ ンス・ニールセン・ハウゲは近代ノルウェーが生んだ最も偉大な霊的天才児であった。彼がもって生れた天分は、必ずしもセンセーションを捲き起こすようなも のではなかったが、しかし、非凡なものであった。彼の神に対する不動の信仰と、彼の同胞の福祉に対する献身的奉仕は、ノルウェーの歴史の中で比較すべき人 物を他に見ない。ここに見出す一農夫の粋は、神より極めて明確で拒み得ない召命を受けた男だった。だから、何としても彼の同胞を回心に導こうと必死に努力 したのであった。神よりうけた高貴なる精神を生かし、また、それに生きぬく道は、ただ生涯にわたる服従あるのみである。その服従と献身の道を歩いて、ハウ ゲは険しいふるさとの山々を越え、深い谷間を渉り、ノルウェー全土の隅々にまで、その足跡を残した。然し迫害と投獄の難が彼にせまって、その時代の啓蒙運 動に、暗影が投げかけられることになった。

チューネ(TUNE)における少年時代

ハ ウゲは1771年4月3日に生まれた。その少年時代をすごした生家は、チューネ(TUNE)教区のロルフソイ(ROLFSØY)という小さな一寒村にあ り、それはノルウェーの南東部スウェーデンの国境と、オスロ・フィヨルドの中間に見出される。チューネはノルウェーの首都オスロから、約五十里離れたとこ ろにあるフレデリクスタ(FREDRIKSTAND)市とサルプスボルグ(SARPSBORG)市の中間にある小さな町である。ハウゲという名は彼の父 ニールス・ミッケルセン(NIELS MIKKELSEN)がマリー・オールスダター(MARIE OLSDATTER)と結婚した時に、彼の所有となった農場からとられた名である。彼の父は有能で、敬虔で、厳格な人柄で、意志の強固な、性格のハッキリ した人物だったと言われている。一般の人々より、いろんなことをよく知っていたらしく、ハウゲ自身も彼の父のことをすぐれた、霊的洞察力をもった人であっ たと言っていたと伝えられている。それは家庭礼拝を熱心に守ったことを意味しているのであろう。ハンスが堅信礼を受けた後のことだったが、その夏、彼の父 は短かい旅行に出かけた。出発に先立って彼は息子のハンスに、次の日曜日、ルターの説教のひとつを家庭礼拝で家族に読んで聞かせるようにと頼んだ。ハンス は約束はしたけれどもその事をつい忘れてしまった。その日曜日の夜、ハンスの父は旅先から帰ってきて、ハンスの怠慢を知った。そこで彼は、たった十七歳の 息子に、厳粛な態度で、次のようにいって叱ったと伝えられている。「わしは、お前を叔父のハンス・ミッケルセンにあやからせたいと思ってハンスと名づけた んだよ。だがお前は叔父のような人物にはなれそうにないな」

「私 はハンス叔父のことを父から何度きかせられたか知れない。僅か22歳で召天した叔父だったが、どんなに彼が善人で、信仰深いクリスチャンであったか、耳に タコが出来るほど聞かせられたものである。私は思った。私がこんなしくじりをやるようでは、どうして叔父に似た人間になれるだろうか? と、ハンスは回顧している。」

父のちょっとした言葉にも、感じやすいハンスは、自分の欠点を深く恥じて、神の前に自分が犯した罪に対する責任を痛感するのであった。

  ハウゲの母は、柔和で、愛情があって、何でも出来る、よく働く家庭的な女性であった。ハウゲが十三歳の時、溺死しかけたことがある。その危機一発の瞬間 に、彼の胸中をかすめたことについて彼は詳しい思い出を書いているが、たまたまその一節に、ハウゲは彼の母の人となりについて照明を与えるような重要な記 録を残している。「第一に、私は母のことを思った。彼女は小さなことでも、深く気にする性質の女であった。もし父と弟と私の三人を同時に失うようなことが 事実起こったとする ―― その時の母の悲嘆、それは彼女にとって耐え難いものであったに違いない」と。

ハウゲの宗教的遺産

 彼 の宗教心の発達は、彼の家庭環境の賜物であったといってよい。われわれは彼の両親の、神をおそれる生活の中にそれを見出す。ハウゲは明けても暮れても働く ことを楽しみにしていたようだし、よく祈ったようだ。父の男らしい強烈な信仰生活の模範を目の前に見ながら育ったからであろう。彼の母が、これまた敬虔な 女性であったことはすでに語ったことであるが、霊的な問題に関する理解において、どの程度の深さをもった女であっただろうか? ハウゲの回心の時期がくるに及んで、彼女の霊性に新しい光がさしこんできたようである。ハウゲの家の書架には、その家の宗教的標準を、そして、ふんいきを 語ってくれる書物が並んでいた。そこには聖書があった、それはよく読まれていた。また、ルターの小教理問答があったし、ポントピダン (PONTOPPIDAN)の解説書や、キンゴ(KINGO)の讃美歌集があった。どれもこれもよく愛読されていた。ノルウェーにおける十九世紀後半の教 育の普及程度は大したものであった。1736年1月13日に発布されたノルウェーにおける堅信礼についてジェー・エム・ローン(J.M.ROHNE)は次 のような註解を書いている。

「堅信礼をうける為の準備、それ自体 が、一般国民教育に寄与するところが大きかった。教会の中で、最初の席を占めること、それはノルウェー人にとって名誉なことだった。ノルウェー国民が、そ の教育の普及度において、今日にいたるまで世の列国の先端を歩んできたのは、この法律(堅信礼)のお陰である。それはまたノルウェー人の宗教生活に、重大 な関連をもつものであった。なぜなら国民の大部分が読み書きが出来たということは、教会の講壇で、神の言が語られなくなった時にも、敬虔な人々は、自分達 の家で、読書によって自分自身を教育することが出来たからである。」

  カレン・ラーセン(KAREN LARSEN)は次のように書いている。「一般に考えられているよりも、もっと生命の脈うつ宗教的感情が、当時の人々の間に交流していた。」もし説教に よって恵まれることが少ない時には、彼らは古い讃美歌や、信仰上の文書に親しむことを心がけた。それは伝統的過去の宗教的遺産を燃やしつづけるためであっ た。

 ハウゲが受けついだ過去の宗教的遺産について は、後日ハウゲが書いた文献によって明らかである。彼の愛読書の中には次のような古典が挙げられている。ヨハン・アーント(JOHAN ARNDT)の「真のキリスト教」、ルター(LUTHER)の説教集(SERMONS)、ポントピダン(PONTOPIDDAN)の「信仰の鏡」、「類稀 な信仰の宝玉」、ブロルソン(BRORSON)の歌集。アーント(ARNDT)やルター(LUTHER)やポントピダン(PONTOPIDDAN)の書い たものは、みな楽に読める本ではない。どれもこれも、永々しくて難解なキリスト教教理の解説書である。このような種類の本が、広く読まれたという事実は、 宗教上の諸問題に対する人々の探究心が、どれほど深いものであったかを示唆するものであろう。信仰的な書物よりも、簡潔で、面白くて、実用的な書物の方を 選ぶ現代人には、ハウゲとその時代の人々の態度から教訓を学ぶべきであろう。

 良心の声

  ハウゲがその驚くべき記憶力からチューネ時代の彼、即ち少年の日の彼自身について語っているので、それにより彼の幼年時代、青年時代の全貌を知ることは容 易である。H・N・H・オーデイング(H・N・H・ORDING)教授は、ハウゲ自身の幼年時代から青年時代にかけての自叙伝を参照して次のように言って いる。「非常に興味深く思われることは、彼が鋭い心理学的感覚の持ち主だったことである。キリスト者としての彼がどうして素晴らしい霊的成長をとげたか? その心理学的理解に役立ついろんな手段を、彼は我々に残している」と。

ハウゲは自叙伝の著者にふさわしい性格の持ち主であった。正確な記憶力、彼自身についての卒直な理解、それに加うるにあくまで良心的な正直さを彼は発揮している。

ハ ウゲが自ら語るところによると、彼は七歳か八歳のころ、両親からきびしく懲罰されたことがある。彼は強情にも、自殺を計って両親に復讐しようと考えた。少 年時代にあり勝ちな反抗心を彼ももち合せていたわけである。その反面、彼には静かな反省的な性格があったので、彼は自身の人格の二重性に気がつき、どうし てこんな矛盾がありうるのかと彼は悩みつづけた。彼は読書力をもつようになってから、彼は天国と地獄の問題について夢中になって考えこんだ時期があった。 しかし、彼はその悩みを人には訴えなかった。「もし誰かが自分の悩みを察してくれたら、もし父親が私が苦しんでいる事情を知ってくれたら、私は天国と地獄 の問題について教示をうけ、慰められることが出来たんだが 」と、彼は告白している。彼が十三歳の時のこと、ハウゲは危ぶなく溺死から助かったことがある。彼は父と、その他に二人の男と共に、舟一杯の乾草を積んで 用水路を家に帰る途中のことだった。突然、舟がひっくり返って、水中に没し、ハウゲは暗黒と死に直面した。「私は神を愛していなかったので、暗黒の地獄へ つき落されることが恐ろしかった。・・・暗黒と死の恐怖、・・・私はその時のことを思い起こすごとに、肌に票が生じるほど、身にしみて恐ろしい経験をした のである。大人は皆、無事に岸へ泳ぎついたが、私は死体となって水の上を漂っていた。何分間かの後、私は人々にすくいあげられ、息を吹き返した。」このよ うな体験から、卒然として霊的に目醒めた彼は、熱心に聖書を読み出し、神の御旨に従って生活しなければならないと努力し始めた。その後も、彼はいくたびか 胸をかきむしられるような悲痛な経験をしたが、そのたびごとに、死に直面した当時のことを思い起こし、今度は大丈夫の如くに死ねるかと思い続けるのだっ た。

孤独と労働

ハ ウゲは自分自身の青年時代の思い出を語る時、いつでも霊性の成長過程を明るみに出すことに興味をもっていたようである。それだから彼の自叙伝の青年時代に ありがちな遊びごとや労働について彼が語っている場合でも、そこで彼がヒントを與えようと試みている、ある真実について補足する必要がある。彼が語ってい る唯一の遊びごとは、賭けごとや、捜しものと無関係のカード遊びぐらいのものであった。ハウゲにとっては、時たま招かれるパーティーに出席するよりも、農 場の仕事場で、コツコツいろんな仕事をする方が好きであったらしい。彼はダンスをしたことがなかった。それでも音楽は好きであったようである。馬鹿騒ぎと 喧嘩は彼の好むところでなかった。孤独と静かな場所を愛した彼は、自然、同僚から変わり者扱いされたが、彼にはその理由がよく分っていた。「私には若い者 らの馬鹿騒ぎに、調子をあわせる器用な順応性がなかった。それで、同僚は私を軽蔑していた。公然と馬鹿にされたことが幾度もあったし、事実大馬鹿者のよう に思われていたらしいのである」 時々年長者から褒められることがあると、ハウゲは、そのような賛辞に価しない人間であるはずだがと、自分自身で思うのであった。

然 し、他人の批評がどんなに酷であっても、そのために彼は自分の楽しみを味けないものと思うようなことはなかった。彼はたくさんすることがあった。父が彼の 助けを必要とするかぎり、彼は、農場で一日中働いたものだ。然し農場は小さく、よく働く父と、四人の息子の労力を必要とするほどではなかった。そこで、ハ ンスは外にすることを見つけた。彼は小さな土地を借りて、開墾した。彼は木を切り倒し、切り株と根を掘り起こした。石を取り除き、金槌で石ころを粉砕し た。彼は排水溝をつくり、鋤で土地を深く掘り起こし、その後で種を蒔いた。

こ のような仕事は、いい道具をもっていなければ、なかなか骨の折れる仕事である。ハウゲはそれらの諸道具を自分の手でつくった。彼は鍛冶屋の仕事から、陳列 棚を作ったり、蜜蜂の飼育まで手を拡げた。みんな独創的な工夫によるものであった。近所の人々はハウゲの作ったものを買ったり、彼を雇ったりした。彼はこ うして金を儲け、そのやることは悉く栄えた。然しながら、物質的な方面で成功すると、人間は物質的になり勝ちなものだということを彼は知っていたので、物 事がうまく行くごとに彼は良心的に悩むのであった。それは若き日のハウゲにとって、いつも重大な誘惑であったし、恐らく生涯を通じての誘惑であったかも知 れない。彼にとって唯一の不幸は、酒飲みであったことだが、それも結局は飲んだくれの生活を忌み嫌うことになった。然し、彼が作っていたもの、売ったり 買ったりしていたもの、それが彼をいらだたせることがあった。日曜日になるごとに、彼の気持は安らかでなかった。彼は神さまの不を買っていることを知っていた。

汝は汝の主なる神を愛すべし

青 春の日のハウゲについて書かれたものによると、彼は夜、ひる、次のような質問を問いつづけていたそうである。「神さまの求めておいでになるものは何だろう か?」 霊的問題のカウンセラーは、彼が罪の呵責に苦しんでいるんだと、彼に言い聞かせたかも知れない。然し彼は誰にも相談をもちかけなかった。彼がとうとう自ら の問いに対する回答をつかむまで、彼は孤独な人間だった。彼は世俗的な交りに心をひかれたことがなく、ただ熱烈にクリスチャンでありたいとだけ願った。然 し彼が知っている多くの有名無名なクリスチャンが、信仰問題をいい加減に扱っているのを見ることに、彼はあんな信者はつくらぬ方がましだと思うのであっ た。もし小教理問答や、聖書から神について彼が学んだことがらが真理であり、主の誡めもまた真理であるとするなら、(彼はそれを堅く信じていた)どうして も神の要求にかなう人間生活を営むことが至上命令となる。その高貴な至上命令にこたえるひとつの方法は、すべてのものにまさって神を愛することであろう。 しかるに、彼は此の世の持ち物を愛していた。このような現実への執着、そのものが彼の日曜日を不安なもの ・・・・・・・・・ ?

(39-58ページ 原稿所在不明 )・・第3章が含まれていたのか?

次 の世代の人々を、どんなにふるい立たせたか、はかり知れないものがある。然し、その当時の人々に與えた意義こそ、より重大であったに違いない。それはシー バーグ牧師に従う人々との間に起こった地方的な摩擦を解決するのに役立ったのみならずもっと大きな役割をも果している。なぜなら、ハウゲが「此の世の愚行 についての瞑想」の中で、論争を挑んだ相手は、当時の一般人であったからである。彼の論争はノルウェーの津々浦々にまで拡がって行った。バング (BANG)は次のように書いている。「現代のわれわれは、霊的な洞察力をもち、どうすれば迷える人々を主に導き、心の平安を得させうるかを知っている誰 かにどこでも会いうる時代なのである。然しハウゲの時代はそうではなかった。僻遠な地区に住んでいた人々はハウゲが書いた「経歴」を読んでも、そして、救 われんためにはどうすればよいのかと自問自答したとしても、何マイルにも及ぶ彼らの住家の周辺には、霊的な問題について彼らに助言を與えうる人が、ひとり も見出せなかった状況。従って、彼の「経歴」が、どんな風に読者に受取られたか? それを知ることは、ほとんど困難である」。

こ こで注目に値することは、ハウゲが「経歴」を書いた時、わざと、彼の最大の霊的体験を省略している事実である。あのような神聖な事件は、公開すべきでない と考えたからであった。後になって彼の心境が変り、事実を発表することが読者の益だと判断した。1796年のこと彼はその経験が一つの型であって、誰でも 同じような経験をなしうるものでないことを言っておかねばならないと思い、読者を警戒している。「此の世の愚行についての瞑想」の内容は、主として当時の 教職者に対する非個人的な攻撃であって、彼らの不注意な生活から、神の言は軽視されている点を指摘したものであった。ハウゲは言う「ほんとうの回心という ものは、心が改められることであり、聖なる生活を営むことであり、それこそキリストの贖罪にあずかりうるための不変の条件なのである」と。ハウゲは彼の聖 職攻撃の調子を落すように忠告されたが、彼は熟考の末、そのままにしておくように決意した。1796年6月30日、彼は自分の書いた小冊子を印刷するため に、その農場を出て、オスロまで五十マイルの道を歩いた。その道中の物語りは、それ自体とても面白いのであるが、その時以来、彼は人々に回心をせまる練達 した説教者として同胞の間で奉仕の生活を始めた、1796年のノルウェーは、彼の全国的伝道を待ち望んでいたのである。

ハウゲのノルウェー

ハ ウゲが若かった年代のノルウェーは、あらゆる面において国土開発の計画が進められ、重大な変革が彼の目前で起こりつつあった時代である。1771年、即ち ハウゲが生れた年には、コペンハ-ゲンの王室に於て、注目すべき政権の移動が行われた。王室の侍医ストルーエンシー(STRUENSEE)が、デンマーク 王クリスチャン七世の署名なしで、法律を発令しうる絶対的な権限をかちとった年であった。

ストルーエンシーの手段は専横的で、 彼の道徳性は民衆にとって鼻持ちならぬものであった。然し彼は彼の短かかった治世の間に、デンマークとノルウェーに、いい政府を與えた。彼の経済政策から 自由貿易と、同業組合の特権削減が生れ、生産工業への補助政策の徹廃が行われた。彼は宗教と道徳に対しては寛容政策をとった。ノルウェーにとって最も重大 であったことは、彼が新聞の検閲を廃止したことである。かくして出版印刷物を通してノルウェー人の国民感情が、盛りあがるチャンスがついに到来した。

出版の自由は、ハウゲにとっても、信仰復興運動の宣伝と強化の為に有力な手段を與えることになった。然し一方では、思想の自由の名において勝手な言動が行われることにもなった。一般的望としては啓蒙された個人主義と民主主義への方向に動きつつあるように思われたのであるが、ハウゲを生み、育てた、健全な正統派キリスト教の基礎は、いつのまにか脅威にさらされることになった。

都市資本主義

1770 年から1800年にわたるノルウェーの国内事情は、経済的に見て、都市と地方との間に格差が甚しかった時代である。原因は国外の戦争と、国内の飢饉のため であった。都市では、富裕な市民階級が、中立国の立場からくる貿易上の利益と、1772年に政権を握った反動政府の庇護のもとに繁栄をつづけていた。スト ルーエンシーの後、首相になったのはグルドベルグ(GULDBERG)であったが、彼は穀物の専売制を復活させ、関税を引き上げた。海岸沿いの都市に住む ノルウェーの富裕な商人達は、これにより従来にまさって、彼らの繁栄を保証することになった。

幸 いなことに、資本家階級は、社会の反動的傾向に油を注ぐようなことはしなかった。その代りに、王室の権力を抑えて、より多くの自由をかち取ろうとする独立 運動を指導した。然し、支配階級が階級的特権を存続させようとして、貿易の自由化をやかましく説き廻った事実は承認されねばならない。

労 働者は明らかに下層階級であったが、彼らには階級意識は存在しなかった。彼らは工場、鉱山、鋳物工場、製材所、山林、商船、漁船等で働いていた。旧いしき たりの徒弟制度がなお残っていたので、景気のいい間は、雇主と雇人の間に不平はなかったが、不景気がくる毎に、労働者は社会の負担になった。下層労働階級 が少数の富豪に依存している状態、それが十八世紀の終りまでつづいたのがノルウェーの都市生活の姿であった。

        

農村での独立の後退

富 豪や生活の安定した階級、地主の下で働いていた小作人や家庭労働者、それらの人々が直接的な関係において、いつでもその主人に依存し勝ちだという状況は、 どこの国にも見出されることである。農村地帯では、もっと強固な族長制度がつづいて、たとえ農村に不況が訪れても、農夫達の生活はある程度保証されてい た。けれども都市と農村との間の併行線はその辺ぐらい迄のものであった。ノルウェーの都市には、大農や小農に見られるような、特質と、伝統的な固有性格を 植えつけられた人々の社会階級というものがなかったからである。

小農は、自給自足が出来るという程度の事実に誇りをもち、自己所有の土地を丹念に耕作して家族と自分の為に、生活必需品を備えるだけで満足していた。然し国全体の経済的発展は、ノルウェーでも新しい習慣と、新しい生産を 生み出しつつあった。また、官僚的政権は、農夫から、より多くの税金を取り立てていた。そしてこれらの事情から現金の必要が人々の間で痛感されるように変 りつつあった。現金、それは小農にとって、それまでは第二義的なものであって、なくても済んだものであった。ところが新しい支出の為に、農夫はその収穫の 一部を、また妻の手芸品を、売り出さねばならない状態がやってきた。古い自給自足生活は崩壊し、それを存続させようとする努力は効を奏しなかった。農夫達 はそれを不満とした。

 農夫達が、平素は無縁の政府と ふれ会う機会は、徴税のために、ひんぱんに現れる、デンマーク語を喋る官吏の訪問の時だけであった。しかも彼らが納めた税金の使途については、彼らはめっ たに知らされなかったのである。たとえ税金がどんな風に使われいたにせよ、彼らの耕作地から遥かに遠いところで使用されていたので、彼らはそれについてあ まり関心を払わなかった。

1786年になって、高い税金 と、人民を馬鹿にした税金の取立てのために腹を立てた農夫達の政府に対しての抗議の声が、全国的に拡がりクリスチャン・ロフサス(CHRISTIAN LOFTHUS)がその代弁者として決起した。ロフサスはコペンハーゲンへ行きフレデリック王子に謁見して、民衆の声を伝えようとしたが、富裕な市民階級 と官僚が結託して、彼を捕縛した。ロフサスはその後十ヵ年にわたる獄中生活で残忍な目に会った。けれども彼の努力によってその後、数々の社会的経済的改革 が実現され、農夫達は、団結の力がもたらす「幻」を始めて見たのである。

 都市対田舎の対立

ノ ルウェーにおける都市と農村の対照は古くから知られていた。都市における資本主義社会の発展から、この両者の差は一層、甚だしくなって行った。富豪達は、 田舎に大きな邸宅地を求め、また、投資をした。彼らは農夫達に金を貸し、また彼らの農作物を売り出す市場の開拓に力をかしたりした。また彼らは、抗区開発 のため国内いたるところに資本を投下した。これらの施策が、農村地帯に経済的利益をもたらしたという事実があっても、なおかつこのような傾向に対して農民 は不満をもち、その感情は緩和されなかった。役人共が所有する大農場と、その召使達に取り巻かれた生活と小農の地味な生活との間に見出される対照には目を むくほどのものがあった。お役人の農場経営の方法は、伝統的な自給自足生活にしがみつこうとする小農の生活に脅威を與え、彼らを心の底から怒らせた。

文化面での対照

経 済面における都市と農村の相違は、文化生活の面において見られる一般的な相違にくらべると大したものではなかった。然し、農民達の伝統的な生活のいとなみ 方は、今や外部の影響によっておびやかされることになった。農民達は、彼らの社会的地位を重んじてきたし、農民であることに誇りを持っていた。その気持の 現れでもあろうか、ハウゲ自身も「自分はチューネ教区の農民の子」だと自分のことを自負している。

元 来農民達は自意識が強く、彼らの方言、彼らの服装、彼らの住宅の建て方、隣人とのつきあいの仕方などで、いわゆる田舎風であることをみなよく知っていた。 然しそれらの田舎風の中に、重要な意味をもたないものは何ひとつなかった。だから都会の風潮が農村に侵入してくるに従って、農村独自の社会的、文化的伝統 が害われて行くのではないかと農民達はおそれた。

監督ベルグラーフ(BERGGRAV)は、彼の鋭い目で見た、同情的な論文「農夫魂」の中で、農民達が他の社会層より、より古い歴史と、固定した文化生活の継承者であることを指摘している。

都 市文化は農村文化とくらべる時、何千年の開きがある、都会の文化は放恣で変りやすいが農村文化はそうでない。だから骨稽にも見えるのだ。都会の人々は農民 生活を見て、文化的要素のない原始的生活だと言うが、実際はとんでもない錯覚だ。農民達は、その生活の全般にわたって、永い歴史の間に先祖達が手を加えて 立派に彫りあげてきた生活の型を、或いはその言葉の使い方までも、理由があればこそ根強く守り抜かねばならないと考えているのである。都会生まれの人々に はそれがない。このようにして、農村文化の永続性に対する確信から、農民は平和で落つきのある生活を楽しんできた。だから新しい生活の型を導き入れる者が あると彼らの怒りを引き起こすのである。農民達は、新しいものに対しては、善かれ悪しかれ冷静な態度でまず観察する。彼らにはそれが奇異に思えるからであ る。

ベルグラーフはノルウェーの農民を、個人的であるというより、より社会的な性格の持ち主だと観察している。彼らの住む環境には内面的な団結力があり、それが彼らの強みなのである。だから、その団結から離れると、彼は直ちに目星をつけられ、不利な立場に立つことになる。

ハ ウゲは広い世間を渡り歩いた男だったし、職業的に見ても多方面な経験の持ち主だったので、前記の社会的約束に拘束されない例外的な存在だったと言える。こ うしたハウゲの伝道活動に腹を立てた多くの人達は、百姓というものを、その生れ育った土地にとどまるべきもの、その親譲りの仕事を大切に守るべきもの、そ れがハウゲの場合にも、彼に課せられた宿命のように考えていた人達であった。ハウゲはそんな意味では伝統と宿命を破る男だったのである。けれども彼は何処 へ行っても、何をしても、ノルウェーの農村出身者らしく振舞い、強固な社会の一員のみが與えうる忠信と信頼性を発揮して神の御業に励んだのである。

農 民の性格に関するより詳細な観察から個人としての農民の性格には二重の傾向があるとベルグラーフは論じている。そして、彼はそれを「依存性衝動」及び「小 君主衝動」と呼んだ。十八世紀のノルウェーの農村の姿がよくそれを説明する。彼らは層一層、経済上の理由から、官吏と商人とに依存しなければならないよう になりつつあった。けれども彼らの経済的依存への抵抗自体が、彼らの「小君主」的側面を助長する方向に作用したのである。季節と土壌に依存するのは農民の 伝統的な性質である。市場に依存し、市場を操作してきた人々はそうではない。一個の農民といえども、農場の主としては正に王者であったからだ。

農 民は自らの誇りと自信から、時に、驚くほどの確信にみちた行動をとるものである。たとえ王室の前においても懼れることなしに。1808年、スウェーデンと 戦ったノルウェー軍の司令官クリスチャン・オーガスト(CHRISTIAN AUGUST)王子は一ヶ年後、次のような彼の観測を記録している。

「ひとりの山奥の農夫がやってきて、無作法な態度で、私の前にすわり、忠告を求めた。会談中「お前さん」と私に言いつづけ、用談がすんで、去るに当って、私の手を、荒くれた手でぐっと握って去った。私にとってこれは全く稀有な経験であった。」

  信仰の深い農民達は、たとえ彼らが知っている聖書の言は数少くとも、神に頼る重厚な信仰の持ち主である。彼らは教会の永い伝統と、厳粛な日曜日の礼拝毎 に、教会で席を同じうする隣人にいつも頼っている。然し彼らが「小君主」であることには変りがない。彼らは、彼らの内面生活 ― 即ち私的な精神の領域を、外部からの侵入者から守ろうと警戒する。彼らは耳にしたことを念入りに調べようとし、決断を急ぐこともあわてることもなく、彼ら 自身の判断によって裁決しようとする。特に宗教上の問題になると、決断を急がれる場合、彼らは一層警戒する。この点において、ハウゲは全くの農民であるこ とを証明した。ベルグラーフ(BERGGRAV)は次のように書いている。「穀物は結実する前に、成長する時間を充分に與えなければならない」と。

結 論としていうが、ハウゲについて学ぶ場合ノルウェーの富農や、小農の性格を注意して研究する必要がある。第一には、その単純な伝統的性質の故に、第二に は、その国民の中に占める人口比例の大きさの故にである。ハウゲの時代には、農村地帯の過剰人口が、都市や町へと移動する動きが盛んになりつつあった。そ れでも農村人口は、全国民の九十パーセントを占めていた。このような背景から、農民の指導者とそれに従う農民層で形成されたハウゲの運動が、すばらしい発 展を見せたことは自然であろう。神は当時の宗教界の必要にこたえる、伝統的な性格をもった農民層を通して、ノルウェー全国に新しい生命を吹き入れたので あった。ハンス・ニールセン・ハウゲは、一農民の子であったが、彼によってノルウェーに信仰復興がもたらされたというのではない。神は御自身の知恵をもっ て彼を選び、霊的かつ、歴史的な全国民の要請にこたえそれを成就なされたのである。神は農夫の子ハウゲを召し出し、神の意志の代理者として、彼をノル ウェーの人々の間に送ったのであった。

宗教的勢力                

 十 九世紀のノルウェー国内で見られる、農民社会と、市民社会との間にあった分裂は、同時に教会生活の性格の分裂を示すものであった。ここでは両者の代表に よって、両者の相違点が大袈裟に解釈される可能性が多分にあったと言えよう。コペンハーゲン大学出身の若い合理主義に立つ牧師達は、農民達を、愚昧なやか らと見なす傾向が強かった。反対に農民達は、都市には、宗教がなく、農村には道徳があるときめてしまう傾向があった。当時の宗教界は、経済および政治問題 と同様、複雑な様相を示していたので、右に掲げたような見解は両者共に正しくはなかった。

  合理主義とは何か?ノルウェーに於いて合理主義者が実際に成就したものは何か? この両者の間に見出される相違点を明確にしておく必要がある。端的に言って、合理主義とは、人間の理論を賛美し、人間の理論で探り知り得ないことなら、ど んな事実でも否定するというものの考え方である。その発祥地はドイツである。その地で生れた宗教改革の霊的生命は、いつの間にか一種の知的キリスト教にす り変えられていた。

十七世紀の初頭になって、伝統的な思想 形式が崩壊し始めた。物理科学者達が、それぞれの発見を世に紹介し初めたからだ。それは全く新しい世界観を示唆するものであった。哲学者達は、人間心理の 一層深いところにあるものを捉えかつ証明しようと試みつつあった。彼らはも早、中世の人々のように知識の源は、第一に啓示によらねばならないという考え方 を捨てつつあった。

英国およびフランスにおいては、理神論 による生命の解釈が普及しつつあった。その教義の背景をなす思想は、自然的、世界的、合理的宗教で、迷信の要素を排除したものであった。彼らは迷信を定義 して、権威のもとで押しつけられたもの、盲目的信仰によって受け入れられたものであって、証明することの出来ないものだとした。理神論はけっきょく道徳的 宗教であるにすぎない。「神は実在する、人間は徳行をもって奉仕すべきである。人間は来世において、その善行に対する報償を受け、その不徳に対する懲罰を うけねばならない」と彼らは説いた。

 このような理神 論がドイツで勢力を伸しそうな気配が見えた時、それは聖書と教会に対する脅威に感じられた。そこでルター教会の神学者達は、彼らが使用しうる知的な武器を 総動員して、キリスト教信仰を養護しようとした、その主たる武器は理論であった。そんなわけでドイツの合理主義は、その初期においては、信仰の敵ではなく して、信仰の擁護者であったのである。

 キリスト教信 仰の妥当性を実証しようとする努力から、多くの正統派の神学者達は理論と哲学に訴えて大袈裟な要求をした。多くの人々はそれを見て、哲学が、実在の真相を 発見した以上、神の啓示にまたねばならないという未知の分野は、もうあまり残ってはいないのではないかという印象を受けた。

 合理主義の道は、ドイツの大学から、デンマークの大学へとすぐに飛火した。そこで神学教育を受けた若い人達はデンマークとノルウェーへ、新しい宗教的見解を広めるために出掛けた。

  十八世紀を通じて、合理主義の神学は、正統派の信仰を守ろうとする初期の努力から離れて、ますます聖書信仰を不利な立場に追いこむ結果になった。十八世紀 の終りごろには、コペンハーゲン大学の学生達は、神とは理性的人間にとっての、必要な仮定的実在だと教えられていた。合理主義は、それ自体の三位一体論、 即ち神と徳性と不滅性をもっていた。だがアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、イエス・キリストの父なる神について彼らは、ほとんど教えられるところ がなかった。

 コペンハーゲン大学を卒業した若い牧師達は、彼らの献身の目標を、迷信追放と、暗愚な人々の間に、もっと合理的な信仰を、植えつけることにおいた。それは、彼らが学んだ新しい神、彼らの懐いていた目的のためにのみ存在する、はなはだ便宜的な神への信仰を説くことにあった。

 合理主義が、コペンハーゲン大学を支配しつつあった実情は次の引用文によって明らかにされよう、これはコペンハーゲン神学誌からの抜粋である。

「イ エスは、旧約聖書についてのその博識さと、待望の救世主に関する、当時の人々が抱いていた種々雑多な、織りまざった、思想をよく知り抜いたことによって、 最高に偉くなった人物である。それだから、彼は我々にとって敬服に価する人物であり、また自由卒直に批判されてよい人物なのである。」

  ノルウェーにおける合理主義神学の影響については監督バング(Bang)が引用しているコングスベルグ(Kongsberg)のベルグ(Berg)牧師 (最も著名な当時の合理主義者)の左の一文が参考になる。一八〇四年、ハウゲが検挙された時、ベルグ牧師は、得意そうに「われわれにとって幸福な日がやっ てきた。世間を騒がす曲者が、その犯罪的なたぶらかしの言説の故に、捕縛されたからだ」といった。

  コンスベルグ(Kongsberg)では、堅信礼についての教育のために、ベルグ監督は、平民の子供達にはポントビダンの小教理問答解説を読ませ、上流社 会の子供達には、彼自身が書いた「宗教上の疑問」を読ませることにしていた。次にかかげるものは、その内容の一部である。

 「宗教の目的は何であるか?」

「人々を賢くし、善良ならしめ、それから幸福にするためです」

「イエス・キリストは誰であるか?」

「イエス・キリストは本当の人間でもある。然し彼は、より高い知恵と、立派な生活の模範を示して、自身を当時の人々より優越した存在とされた」

「神は、イエス・キリストを、どういう目的のために人類の中におくられたのか?」

「人々を贖うためである。それは彼らを次の束縛から解放することだった。(1)宗教と道徳に関する無知と、自殺的な迷信から(2)彼らの罪と悪徳から(3)罪と悪徳にもとづく人生の苦労と懲罰から解放するため。」

こ のような教えは、人間中心の哲学を反映するものであり、単にそれに宗教の名が與えられているにすぎない。このように罪科、贖罪、ざんげ、回心、審判といっ たような、根本的な聖書的要素を抜きにした教えは、道徳的努力と理性の啓蒙への憧れへとおいやる。合理主義は、当時の人々が解釈した自然人の宗教であっ た。

それでも当時、正統派の信仰擁護者がなかったわけで はない。ベルゲンには偉大な監督ヨハン ノルダル ブラン(Johan Nordal Brun)がいた。彼の有力な伝道によって、その教区はノルウェー最大の宗教的都市の伝統を守りつづけ、そこでは怪し気な自然宗教に影響される者はなかっ た。デンマークにおいても、監督バーレ(Balle)が、新しい教義に反対して、自分の牧会地区を守った。一七九三年になって、彼は聖書研究のための公開 集会を開いたが、しばしば野次に妨害された。彼と同の聖書信奉者達は、合理主義神学の影響が学園の中に侵入し始めた時、ことの重大さを予感した。

新 しいさんび歌集を要求する声が高まりバーレ(Balle)は、同出版委員会の委員長に選ばれた。一七九八年になって準備は完了した。バーレ(Balle) は、古い福音的さんび歌を出来るだけ多く、残そうと努力したが、結果は失敗に終った。新しい讃美歌集は「福音的クリスチャン讃美歌集」と名づけられたが、 それに編入された歌は、合理主義に偏したものになった。後日ノルウェーの教会史の大家が「この讃美歌集は、福音的でもなければ、クリスチャンらしくもな く、また、聖歌集でもない。これは決して冗談ではなく、全くほんとうのことなのである」としんらつな批判を下している。この讃美歌集はデンマークとノル ウェーの教会と学校で使用されるようになったが、そこには全く反対の声がなかったわけではなかった。

そ の頃、啓蒙思想もまた、新聞を通して国内に拡がって行った。トロンハイムのある新聞の読者は、漁期と木材の伐採期には教会も礼拝をお休みにするようにと社 説で書いて貰いたいと提案した。主筆は喜んでこの投書を紹介し、今や新人は、ポントピダン(Pontoppidan)の小教理問答によって育成されてきた 偏見と迷信をかなぐり捨てようとしていると書いて、この投書を歓迎した。しかし、トロンデラーグ(TrǾndelag)の他の農民たちは、同じ意見ではな かった。彼らは頑強に指摘した。ポントピダンの解説は、王命によってノルウェー国内で使用されることになったものである。この王命は未だ撤回されてはいな いと。彼らは更に抗議をつづけて言った。「聖日の礼拝厳守は、聖書の教えに基くものであり、聖書を世に贈り給うた神から、聖日礼拝を中止せよとの命をいま だわれわれは受けていない」と。

十八世紀直前には、こんな 風にし合理主義はコペンハーゲンを支配するにいたった。ノルウェーに於てはクリスチャンサンド(Kristiansand)管区の監督ピーダー・ハンセン (Peder Hansen)が最も多弁な合理主義陣営のチャンピオンであった。それから監督ブルン(Brun)を除いて、他のすべての監督達は、みな合理主義的見解を 述べていた。合理主義神学に立つ教職者達は、その説教の中で、しばしば、感傷主義と道徳の名において、福音を説いていた。興味深く思われることは、そこか ら「調節の理論」が生まれたことである。贖罪、義認の如き古い教理も、会衆が新しい概念を自分のものになし得ない限りに於ては、続けて説いてよろしいと彼 らは言った。合理主義者達が払った、今ひとつの努力 、― 即ち魔術に対する庶民の信仰と、その実試を根絶するために、彼らが庶民教育を通して払った努力についても一言しておかねばならない。ところが説教者として の、彼らは人々の霊的な飢えと渇きを満たすことには失敗をした。都市の住民の間においても、また教職者の間においても、彼らは共鳴者をかち得たが、農民達 の伝統的な素朴な信仰を左右するには至らなかった。その理由についてノルウェーの歴史家スヴェレ・ステーン(Sverre Steen)は次のように書いている。

「ちょうどそのこ ろ、農民社会の中には、燃えるような宗教的情熱にかられていたものがたくさんいた。然し牧師の教えと、人々の宗教的要求との間に見出されたへだたりは、あ まりにも大きかった。多くの人々がおのれの罪の意識に悩んでいた。然るに、牧師達は高い教壇から、会衆に理論を説いたが、個人個人に宗教を語ることをしな かった。」

 ひとりのアメリカの歴史家が、新しい世紀が始まる前日のスカンジナヴィア諸国の宗教事情について、次のような要約を書いている。

「自 然宗教」を発達させようとする合理主義者の努力にもかかわらず、スカンジナヴィア諸教会の神学は、根本的な意味で正統派の信仰を墨守した。自由な見解を抱 いていた牧師達に、お役人達は好感を示したかも知れない。即ち、グスターブ(Gustav)三世やスチューエンシー(Steuensee)のような人物 は、教会を濫用したかも知れない。そして、伝道精神も消滅したかも知れない。しかし、正統派のルター神学を追放するためには、これ以上のことが必要であっ たようだ。農村地帯の教職と信者達は、理論尊重の時代にありがちな功利的な考え方にとらわれることがしばしばあっても、理神論に対して、殆ど関心を示さな かった。一般に彼らは考えぬいた確信というよりも、単なる慣習から、古くからの宗教に固執していたといってよい。然しながら古い宗教形式は、新しい宗教理 論よりも、生命があり、十九世紀前半の宗教復興を促がすことになったのであった。

ノ ルウェーの場合とハウゲの運動について言うならば、理論尊重時代の功利的精神は、職業に対する人々の態度に大きな変化をもたらしたと言える。彼の直観的で 実行的な感覚と、その人々の間で示した頭の鋭さにより、彼は農民達の為に、ありふれた従来のやり方を打ち破って、利益のあがる方法を見つけた。ハウゲは 「知恵者」と人々から呼ばれていた。然し宗教上の問題になると、ハウゲと彼の信奉者達は、当時の社会悪に対して非妥協的であり、霊魂の再生の為に熱心で あったので、啓蒙時代の最も危険な敵であると見なされていた。

ハ ウゲは一七九六年代のノルウェーに対して、合理主義神学追放のためのクルセードを起こして、対決するような気持ちはなかった。彼の場合の召命観は直覚的 で、聖霊に導かれるままに、隣人にざんげと、神に従う生活へのすすめをしたことであった。かかる出発から、彼の特異な賜物は十二分に発輝され、彼の勇気あ る心情は全面的に神にささげられていた。かくしてハウゲはノルウェー国内に新しい霊的時代を出現させたのであった。彼は自らが受けついだ敬虔主義の豊かな 遺産 ― キリストに在って聖書を信ずる信仰の上に、新しい霊的時代を築いたのであった。啓蒙時代とは、個人個人に発奮の機会を與える黎明期の訪れだと、彼には解釈 されていたのであった。


第2部 ノルウェーのリバイバル説教者

第4章  ハウゲの伝道始まる 1796―1800年

文書伝道と説教

経 験は少なく、あまり本も読んでいない主の僕ハウゲは、彼の最初の著書を印刷に附すためにオスロへ行く途中であった。こうして彼にとって最も実り多き次の八 年の働きが始まった。永い田舎道と印刷屋との間の往復、それが当時のハウゲの活動の姿であった。おそらくハウゲは一万マイルからの道を、徒歩で、或いは、 スキーによって踏破した筈だと言われている。彼は生涯の間に三十三冊の書物を書いているが、そのうちの十九冊は一七九六年から一八〇四年にわたる彼が精力 を集中した八カ年の間に書かれたものである。彼の肉体的精力と組織的手腕は、彼が成就した事業によって明らかであるが、それは全く驚嘆に価するものであっ た。彼をそんな風に駆り立てたてたものは何か、それは彼がほんものの聖徒であったからである。

ハ ウゲが最初にオスロへ旅立った時の思い出話には、興味と同情をそそられるものがある。彼がやっとの思いでジェンス ベルグ(Jens Berg)の印刷所へ原稿を持ちこみ得たのは、彼に勇気と信仰があったからである。最初、彼が原稿を紛失した時、神は彼の著作を喜納なさらなかった結果だ と、彼は受け取った。彼は踵をかえして家路にもどる途中一友人を訪れることにした。そこで彼は、彼が落とした原稿を拾ってくれた男に出会った。この奇遇に 力を得た彼は、喜び勇んでもういちどオスロへ引きかえした。その出発前に、彼は路傍に跪ずいて神に旅路の平安を祈っている。彼が祈り終って立ち上がると、 そこにはひとりの見知らぬ男が、口を開き、耳をそばだて、好奇の目を光らせながらハウゲの行動を見守っていた。それから二人は連れ立って歩き出した。ハウ ゲは彼が狂人でも病人でもないことを納得させただけでなく、別れる前に、その男をして魂を主にささげさせることに成功した。

オ スロの塔が見え始めた時、ハウゲは突然混乱をし気を失いそうになった、彼のうちなる懼れと疑いとが、騒々しい声をあげ始めたからである。それらの声は計画 を全部放棄して家へ帰れと彼に迫った。一農夫の子が、牧師を批判した書物を発表するなんて、何という傲慢な態度だ。ハウゲは祈りのうちにこの問題と取り組 み、主の前に、彼の弱さと、絶望的なためらいをざんげして泣いた。そして永い自己克服の闘いの後で、ようやく心中に平和と確信をとり戻して、著書出版に踏 み切ったのである。

一七九六年の秋、ハウゲは再びオスロ へ姿を現した。そして再び原稿を印刷屋へ持って行った。この時の書物は、彼が農業に従事しながら僅かな余暇に書きあげたものである。その標題は「神の知恵 についての一試案」であった。これは、旧著の「この世の愚行についての瞑想」の主題に対しての補足として書かれたものであった。その内容は、秩序と読み易 い点では、さきの著書には及ばなかったが、回心と新生を、彼はその中で力強く説いている。それで読者はハウゲの挑戦を感じとらないわけにはいかないであろ う。悪の力は精神界と物質界の両面から、人間の心を脅かしつづけている。神の如くに生きる道はきびしい。誘惑と偽りの予言者は、われわれの四方を取り巻い ている。救いの道は、神の恩寵を通し、罪を承認することを通して、真の改心と、神の意志への服従によってのみ見出される、云々。

 この書物の外に、ハウゲは「主の祈り」についての注釈を自ら書いて出版にまわした。第三番目の著書は「キリスト者の為の指導書」であるが、それは間もなくドイツ語に訳され、更にデンマ-ク語にも訳出された。「福音的生活の基準」というのがそれである。

  ハウゲは聖なる生活の実践的訓練を重視していたので、聖潔を強調した同じようなトラクトを二冊、後になってから書いている。彼が選ぶ問題が、いつもそのよ うなものであり、聖化、日毎の罪との闘い、神のみ言の研究、そして祈りといったような字句の下に、彼は必ず墨線をひいている。「どんなことがあっても、諸 君は次の三つのこと、『 神の言から、イエス・キリストに対する信仰から、神に対するまことの恐れから 』 逃避してはならない」、と彼は説く。

  ハウゲは三ヵ月間、オスロに滞在して、印刷と製本の技術を学んだ。彼はクリスマス前に家に帰り、彼が印刷した書物の製本と配布に急がしく働いた。彼はま た、彼の熱意と精力を伝道に傾むけた、それは彼と彼の同労者の性格を表すものとなった。彼は家庭集会を盛んにひらいた。さきにも言ったように、彼の最初の 集会は、彼の家でひらかれた。それがチューネ教区の全体に信仰復興を起こす火点となったのである。一農夫の子が、立派な説教をするという噂が拡がった、それから後、彼は他の家で開かれる家庭集会に招かれるようになった。

  これらの集会の一例としてグラーラム(GRAALUM)の農場で起こったことを記そう。ハウゲと彼を招待した主客は教区長ウールダール(URDAHL)を 集会に招待しておくだけの注意を怠らなかった。彼はやってきたが、その地方の司法官を連れてきた。客間はハウゲが語る言葉に、熱心に聞き入る人々で一杯で あった。ハウゲが説教を終った時ウールダールは立ち上って、この種の集会は、一七四一年にデンマーク王によって発令された法令、即ちすべての小集会は、そ の地区の牧師によって管理されねばならないという法令に違反するものだと告発した。ハウゲは法令の写しをもっていたが、それを読みあげることは許されな かった。ハウゲはそこで、彼の説教の中に間違った箇所があったかどうかとウールダールに質問したが、それに対して彼は答えなかった。集会は中止され、農夫 達は激昂したが、しかしながらかかる不当で強制的な法律の適用に対する抗議はむだに終った。

法律――文字と霊と

 一 七四一年に発令された集会管理の法令は、ハウゲをいく度もいく度も困らせた。それはデンマークとノルウェーの国教に属するルター派の教会を教派的対立感情 の侵入から守るために、特にヘルンフートのモラビア兄弟団等、ツインツェンドルフ伯の保護下にあった敬虔主義の宗教団体の侵入を防ぐことを目的とする法令 であった。一七三〇年から一七四六年にわたってノルウェーに君臨した敬虔なクリスチャン六世は、ツインツェンドルフ伯を非常に尊敬していたが、ヘルンフー ト派への改宗者が跡をたたないという同派の牧師からの報告が王の許へ届いた時、王は一七四一年の集会管理の法令に署名することを承諾したのであった。

  ハウゲはこの法令を常識的に解釈し、時代遅れのものだと考えていた。彼は注意深く同法令を読んで、その目的と精神は、神に属する人々の集会の権利を守るも のだと確信していた。彼はこの確信をグラーラムで披歴する心の準備をしていた。「 自分自身が、また他人が啓発され、人間的に完成されることに純粋な関心を抱く者が、馬鹿にされたり、迫害されたりすることがあってはならない」と、その法 令の一節には書いてあった。今ひとつ、宗教上の集会を妨害する目的で、集会の行われている場所の近くで、騒を起こす者がある場合に、その者は、その節によって罰せられることになっていた。

た だし同法令の第十六條には「男子であれ女子であれ、単独または同伴者と共に、国内を旅行し、集会を開くことは禁ぜられている」と明示されていた。それは昔 ながらの解釈の問題である。ハウゲは自分自身を単なるクリスチャンの一農夫で、同胞の信仰と徳をたてるようにキリストの召命を受けたものだと確信してい た。思慮ある人間で、ハウゲのこの考え方に異存をはさむものは殆どあり得ない筈だ。然し、官吏や教職で、ハウゲの説教に反感をもった者は、彼を放浪者と見 做していたのである。彼らの見解によれば、そして前記の集会管理法の法文によれば、ハウゲは「神の名を借りて、正常な職業を離れ、神の召命も、按手礼も受 けていないくせに自ら教師と名乗り、人々の霊魂を目醒めさせるのだと言って、あちらこちらと放浪して歩く」であったのである。ハウゲが官憲の干渉を受ける 度に、後者の解釈がいつも勝利をおさめたのは、御時世というものであった。

ここで農民と官辺の間に緊張が生じ、それが重大な役割を演じることになった。即ち、ノルウェー国内の対照的な二つの社会が、集会管理法をめぐって対立することになった。アイナー ・モラン(EINAR MOLLAND)教授は、こんな風にその事を説明している。

ここでわれわれは、初めて、国民全体の覚醒をうながすことになるであろう特性をもった、社会内部の対立に直面する。国教教会の法令と平信徒の説教家との間に起こった対立は、同時に、農民と官吏との間の対立でもあった。集会管理法をめぐる対立は、即ち社会的対立であった。

こ の社会的対立感情は、ハウゲと教職者との衝突において、最も鋭く描き出されたいってよい。俗界の権威者、知事、地方司法官等々は、集会管理法を機械的に強 制することを常とした。教職の場合はそうではなかった。彼らは伝統と王室の任命によって、彼らの職業的領域に定められていた世界へ、一平信徒がもぐりこん できたという個人的な悪感情を体験していたのである。ハウゲの物語りは、この種の挿話でいっぱいである。

一 七九七年の年が明けて直後のことである。ハウゲはモス(MOSS)、オスロ(OSLO)、ドラムメン(DRAMMEN)へと旅立った。信仰的で信頼の出来 る人々と近づきになりたいことと、彼の著書を廣い範囲に売りさばきたかったからであった。路上でも農家でも、彼は彼の心の中で実存として感じていた霊魂の 救いに就いて、神の御旨について、どうすればわれわれの生活を秩序あるものにすることが出来るか、地上で幸福で、しかも満足の出来る生活を営み、死後も祝 福された生活が許される望みに生きうるにはどうしたらよいかを語るのであった。フレデリクスターにハウゲの幸福を願うひとりの友人がいて、彼に結婚をすす め、自分の娘を貰ってくれないかと言った。ハウゲはその好意を、感謝したが今の段階において結婚することは、神の命令によって召命にこたえることと矛盾す ると考えて断った。

1797年 ― 闘争と入獄        

一 七九七年は、廿六才になったばかりのハウゲにとって、多彩な冒険と、霊的な成熟ぶりを見せた年であった。時には、彼から平静を奪うような内面的闘争があっ て、彼の召命観をにぶらせるものがあった。彼はそれでも男らしく誘惑に立ち向い、彼自身の主観的経験よりも神の言に対する確信に、彼の信仰の錨をおくので あった。しかし彼は、それらの闘争を通過するごとに、より廣い領域にわたって奉仕しなければならないとする、新しい情熱の盛りあがりを感じるのであった。 ある日曜日の午後、彼はラケスタット(RAKKESTAD)で四百人の民衆を前に説教をしたことがあった。七月二十七日、―その日は日曜日であったが、彼 は母教会の青年達が、訪問中の学校の訓育主任から小教理問答の解説を聞こうとしていた際に、ハウゲは証言のチャンスを求めた。その後、夏になってから、彼 の燃え上がる火のような証言に対する重大な応答がオスロフィヨルドの西側にある町々や村々から起こった。

秋 になって彼が家に帰った時、そして農場で働き出し、自由な時間には読書するという彼の昔の習慣に帰った。そうしたある日、彼はデンマーク語に訳された「タ ウラー(TAULER)の回心記」を読んで、彼自身の経験の上により明確な光と、新しい刺激を與えられたと感じた。そして平信徒伝道者として彼がうけた召 命とその事業を成就しようと決意した。ストラスブルグ(STRASSBURG)のジョン・タウラーは十四世紀の有名な説教家であった。ところがバーゼル (BASEL)のニコラス(NICOLAS)という一平信徒が、彼のパリサイ的偽善を責め二カ年間説教をやめろと忠告したことがあった。このニコラスの影 響でタウラーはその後、全く神に服従する説教者となった。二カ年の反省の後、彼が再び教壇に立った時、その説教は聖霊の油と力にみちあふれていた、聴衆は 彼の口から出る神の言の衝撃に打ちのめされて床上にうづくまるほどであった。

  ハウゲはこの両者から教訓を学んだ。タウラーの態度から彼が学んだものは、たとえわれわれが神のメッセージを、その時々において確かめることが出来ないと しても、神のために働き、神に奉仕しようとする精神がわれわれのうちにある限り、われわれは「子たる身分を授ける霊」が実在する事実を、確認することが出 来るということである。彼はまたタウラーにおいて、彼の説教の本質的な内容に対する確認を見出して喜んだ。タウラーは、信仰者は内なる人の生れ変りの経験 と、まっ正直な勤勉さと、単純な信仰がなければならないと説いていた。ワルデンシズ派の一平信徒であったニコラスからは、ハウゲは彼の召命が天的なもので あること、従って固守しなければならないという激励を受けた。ニコラスは博学なドミニコ派の修道士を、自己放棄と神への単純な、子供らしい信仰へと、よく 導いた。このように十四世紀の一平信徒の働きを祝福し給うた神は、また十八世紀の一平信徒の働きをも祝福し給わない筈はなかった。

 フレデリックスターで捕縛

 一 七九七年の終りに近いころ、ハウゲは初めて捕縛された。それは十二月二十七日の夜、彼がグレメン(GLEMMEN)で説教中のこと、デンマーク人教区の教 区牧師フエアマン(FEIRMANN)によって説教を、中止するように命ぜられた。この時のことを、彼自身語っているが、そこにもその不屈の精神が躍如と している。「人々は私を鳥籠と言われる牢獄の中に放りこんだ、そこで私は讃美歌を歌ったが、聞いていた兵隊達は胸をうたれた」。

  二日後、鳥籠から出されたハウゲは、執行吏の取調べを受けた。そして狂信的信仰を人々にすすめて迷惑をかけている男として詰責された。ハウゲは答えた、 「私がキリスト者の信仰に従って行動しているということ、人々が彼らの罪深い生活から離れて、償いをしようとしていること、それがどうして迷惑行為になる のでしょうか?」と。ハウゲは直ちにフレデリックスターへ連れ戻され、市の牢獄に監禁された。このニュースは近隣の町や村々へ直ちに伝えられ、人々は、こ の異常な人物をひと目、見ようとして集まってきた。ハウゲは彼がキリストの福音について説教をしたために捕縛されたんだということを人々に訴えた。そのこ ろハウゲにとって迷惑ないろんな噂が流されていた。彼は木の精を拝んでいるとか、姦通したとか、盗賊であるとか、酔っぱらいであるとか、淫乱な悪徳を働く 男で、また奇跡を行う力を持つ男だとも伝えられていた。

フ エイアマン牧師が、またハウゲを告訴したので、彼は取調べられることになった。彼が検挙されその説教の内容を聞かれた時、彼は次のように答えている。「私 はわれわれキリスト者の信仰について語っただけです。神の憎み給うもろもろの業を捨てて、よきことのために熱心に働くように」と。「なぜお前は資格もない のに教師を自称するのか?」との問いに対しては、「何故なら、聖書は私達に、人々の徳をたてるようにと教えているから」と答えている。

釈放と推薦

こ の時の取調べの結果彼は、地区の政庁へ送られたが、長官から、ハウゲが自分の家庭にとどまり、自分の教区から一歩も足を踏み出さないという約束をするな ら、釈放してもよろしいと回答してきた。ハウゲにしてみれば、まず神の律法を遂行して、王の命令は後廻しにしたいところだったが、官憲は、神の命ずるまま に、邪悪を罰し、善を保護することが彼らの役目だと考えていた。

し ばらくの後ハウゲに対する、無条件釈放の通知がきた。ハウゲはピリピにおける使徒パウロのことを思い起こして、彼を捕え入獄せしめた責任者フエイアマンに 対して、「汝、みずからここに来て私を連れ出すべきである 」と言った。しかし、フエイアマンは、彼の要求に応じず、ハウゲはフレデリックスターの牢獄を出てチューネの自家へ帰った。

ハ ウゲは帰省すると同時に、また次の書物を出そうとして執筆に余念がなかった、そのころ地区の長官、アンドレアス・ホックガード(ANDREAS HOKGAARD)は、グレンメン(GLEMMEN)に住む二人の男から、ハウゲに抗議する書簡を受取った。それはオスロ教区の監督宛てのもので、ホック ガードに托送を依頼したものであった。地区の長官はハウゲの支持者ではなく、彼の説教を支離滅裂でくだらぬものだと見なしていた。しかし彼は、自分の行政 管区をくまなく巡回中、彼はハウゲに対するどんな不平をも耳にしたことがなかったので、グレンメンの居住者から受取った訴状を、オスロの監督に送るに際し て、彼自身の意見書を添えた。そのなかには次のようなことが書かれている。

農 夫達の間で尊敬されていた家長達が、ハンス ハウゲの説教を聞き始めてから、みんな精神的に大いに裨益されたと言っている。ハウゲは人を怠惰に導くようなことを言ったことはないし、彼の説教を聞いた ために、彼らが損をしたことはなかった。農民達はカルタ遊びをしたり、酒を飲んだりするよりも、休みの日にハウゲの集会に出ることを有意義なことだと考え ていた。ハウゲの伝道集会があちこちで開かれるようになってから、どの地区でも、喧嘩と仲間割れが少なくなったと、彼らは異口同音に語っている、と。

文書による証言

オスロ地 区の監督が何の動きも示さなかったので、ハウゲは邪魔されることなく著書の脱稿に精励することが出来た。彼はその書物の中で、彼がフレデリックスターで逮 捕投獄された前後の出来ごとを説明をしている。彼は、自分の無罪をハッキリさせたかったし、この最初の投獄で、彼が官庁と衝突はしたものの、その理由は、 彼が真理を代弁したためであったことを証明するつもりであった。彼はその著書の表題を「救霊問題に関する真理についての確認」と名づけた。彼はその序文の 中で、牢獄の思い出を、読者に語っている。第一部は、黙示録七章の解説である。彼は同章一節の四人目の御使について彼の解釈を述べ、召命の名に価しない生 活をしている説教者を、はげしく非難している。第四の悪の使は神の言を、恥ずべき利得のために説く者である。彼は抗争を好み、欲に目がくらみ、キリスト者 であろうとしたことがなく、悪魔にまどわされているものである、とした。

聖 句の引用で、堅固な布陣をしいた上に、なおハウゲはルターの言葉を動員して、不信仰な教職者を次のような言葉で攻撃している。「凡俗な牧師は、神がつくり 給ひし地上で見られる最悪の被造物である」と。彼はルターの言葉を再び引用して「信仰者の義務は、イエスについて証言することである」と言っている。「ル ターはこう言っている、イエスが父なる神の前で、我々のために証言していて下さる限り、われわれもまた此の世でイエスについての証言をするのが当然であろ う 」と。イエスの血による罪人の赦しの次に尊いことは、イエスの名を公衆の前で告白することである。われわれが真実な信仰をもち、私生活の中で、神々しく、 生きるならば、悪魔はわれわれを激しく攻撃することが出来ない。然しわれわれがこのような生き方を、他の人々の間に拡げて行く時、そしてそれが彼らのため になるとき、悪魔は必死になって怒り出すのである。ハウゲは、「救霊問題に関する真理についての確認」の第二部でマタイによる福音書五章一〜十二節の聖句 を、彼自身が通過した捕縛と訊問の経験から目を開かれた者としての註釈を試み、「義のために迫害されてきた人達」への約束を、彼自身に対するイエスの個人 的な言葉であるとさえ言い切っている。とは言え、彼は謙遜であったので、「迫害されているということのために、自らを慰めたり、神への愛からでなく、自負 心から、あえて迫害をうけようとすることは間違いだと、自身に対し、また読者に対して戒告する」とも言っている。

ハ ウゲは「Some Refutation 誤解を論破する」という一文の中で、非常に有益な文章を書いている。彼はまず反論を掲げ、それに対する論駁を次に記している。たとえばこんな風に、「反論 第二、われわれは何も悪いことをしていないから、そしてつとめて善いことをしているから神の子達の中に数えられている」、答「あの愚かな五人の娘のように 自らをだましてはならない。彼女らは賢い娘達の仲間であったが、ランプとともに油を携えることを忘れていた。あなた方は、何も悪いことはしていないという が、それは気の毒なことだ。あなた方は人間の自己欺瞞の深さを知っていない、それは癒し難い人間の弱点である。主はそのことをよく御存知であり、またその ような弱さを癒しうる方である。彼に全身全霊をささげなさい」。

道を指し示す

原 稿を書き終えたハウゲはオスロへ行きコペンハーゲンで印刷するように手配した。三月の第一週、彼はエルヴエラム(ELVERUM)の北方二三マイルの地点 にあるグランドセット(GRUNDSET)で、数日間にわたる伝道集会をした。その時のこととして伝えられている小話の内容は、ハウゲについてのオーディ ング(ORDING)の回想目を裏切っている。「ハウゲは人々を会話の中へつれこむ、まれな才能をもっていた」。そして彼の会話は、いつも永遠の生命にか かわるものであった。ある時ハウゲは道を尋ねるために一軒の農場に立ち寄ったことがある。そこには二人の娘がいただけであったが、彼女達は、彼を案内する ために同行した。彼女達が帰ろうとした時、ハウゲは彼女達に言った。「おかげさまで、地上の道案内をしていただきましたが、私にあなた方の霊界の道案内を させていただけませんか?」、彼らは、別れる前に若い娘達は、ハウゲによって回心に導かれるだけの、そして生涯にわたって神と共に歩む生活に踏みきるだけ の、決意をせまる神の言を植えつけられていた。

一七九八年 の晩春のこと、ハウゲは彼がオスロで会った一青年に、最も働き甲斐のある仕事を教えた。その青年の名はクリストファー・グレンダール (KHRISTOPHER GRǾNDAL)で、さきにハウゲの集会で回心した男だった。グレンダールはハウゲにすすめられてコペンハーゲンに行き印刷と製本業を習った。一八〇三 年、彼はノルウェーに帰り印刷業を始めたが、今日に至るまで同じ事業が、つづけられている。H・N・H・オーデイング教授の編纂になるハウゲの著書の全巻 物は、このグレンダール・エンド・サン印刷所で製本されたものである。

再捕縛

オスロを 訪問伝道中のことだった、ハウゲと平信徒の同労者が、放浪と怠慢の理由で告訴された。そして感化院へ投りこむといって脅かされた。ところが市の司政官の取 調べが済んで彼に都合のよい証明書と自由が與えられた。八日の後、ハウゲは再び捕縛され彼は二人の官吏の監視つきのもとに、故郷へ送還された。彼らはハウ ゲを町外れまで送ったが、後はひとりで帰るように言って放免した。故郷の地区司政官は、ハウゲに家にとどまっているようにと忠告した。然しハウゲはそれら の官憲の命令に屈することなくより広範囲にわたる伝道旅行を試みるために、その第一歩を踏み出そうとしていた。

ペン、再び怒る

一 七九八年の六月、彼がさしせまった気持ちにかられていたのは、オスロで二度捕縛された事件を記録に残して、彼を批判する人々に、彼自身の正しさを証明する 考えであったゆえだ、そこで彼は「無学な者の学識と無力な者の力量」と題する一書を著した。この本の中の二章は建徳的な聖書解釈についやされ、第三章は論 証的である。ハウゲ自身が言っているように、この書物は彼がそれまでに発表したどの論文よりも、激しくその論敵をその中で攻撃している。ハウゲは徐々に、 彼の召命の確かさに自信を深めていった。彼の証言は、人々の心を力強く捉えてやまなかった事実、それが何よりの証明であった。彼の伝道によって多くの人々 が回心したという事実、それも自信の根拠になった。ハウゲに好意をよせていた官吏オスフォード(OSTFOLD)のホフガード(HOFGAAD)やオスロ 地区司法官のハゲラップ (HAGERUP)のような人物がいた事実も、彼の自信を強化させた理由である。彼の伝道に反対する者の声が高くなればなるほど、彼は、神が彼の説教を用 いて、人々の心を感動させておいでになるものと堅く信じた。従って彼は、彼に挑戦する者に対して、ますます強烈な攻撃を遠慮なく加えるのであった。

さきにふれた彼の著書の中で、ハウゲが教職者に加えたはげしい叱正は、デンマークの権威筋によって、数年後のことだが、ハウゲ攻撃のために引用されているので彼の大胆不敵な信念を示す一例としてここに紹介しよう。

世 俗的な人々はいう。人はその召されたままの状態にとどまっているのがよいと。(コリント人への第一の手紙七章二十節)牧師はいう、人々は神によってそれぞ れの場所におかれたものであり、王は神の言を説くべきであると。もし人々が、神によってそれぞれの場所におかれたとしたなら、彼らは神からそう教えられた 筈である。(ヨハネによる福音書六章)彼らは自由自在に受取り、自由自在に人々に與え得た筈である。(マタイによる福音書十章八節)彼らは機を得るも機を 得ざるも福音を説き、忠告し、奨励したに違いない。もし彼等がキリスト・イエスの心をもつなら、彼等は此の世の悪の故に、日夜泣き悲しむのが自然である。 ところが彼らの多くは、水の上に坐っている大淫婦そのままなのだ。(ヨハネ黙示録十七章一節)・・・彼等は赤い獣に乗る者、神を汚すかずかずの名でおおわ れている者、七つの頭と十の角をもつものである。(三節)この獣は、神に敵する権威をもつ者を意味し、その七つの頭は、主の祈りの七つの祈りを意味する。 彼らは口では祈るが、その心は石の如くに堅く、赦しを嘆願しては、再び同じ罪を犯す、・・・そのような常習者を、日毎にふやしているのである。

ノルウェーの歴史の中でハウゲが占めている高名は、彼の流暢な 文章のせいでもなければ、聖書釈義の正確さに基づくものでもないことは明らかである。彼が同胞の信頼と尊敬をかち得たのは、主として、偽善をきらった純粋 な熱心さと、迫害に屈しなかった勇気にある。彼がもし判断においておだやかであり、その表現に注意深くあったなら、あれほどの反対は起こらなかったであろ う。然し教会が眠りこけていたあの当時、信仰復興の巨火をたきつけるためには、やはりハウゲのような熱烈な人物が必要であったに違いない。

長期伝道旅行の始り

一 七九八年の七月、ハウゲがベルゲンへ伝道旅行を試みたその時から、この単純な一農夫は、救霊の熱情に燃えて、ノルウェー全国の無数の町々村々を隈なく訪れ ることになった。彼が試みた長期伝道旅行は実に八回にのぼった。そのうち四回はチューネにある彼の自宅を拠点とした伝道旅行であり、他の四回は彼がベルゲ ンの市民となってから後、本部を同市に設置してからの伝道旅行であった。これらの伝道旅行がハウゲの生涯を飾る物語りの中心である。ハウゲを知ることは、 彼の疲れを知らぬ伝道旅行の足跡をたどることであり、至るところで彼が創造した霊的なふんいきに、触れることである。アルフレッド・ハウゲは次のように書 いている。「ハウゲが行く処にはいつも春風が伴われて行った」と。マッヅ・ メェラー(MADS  MǾllER)と呼ぶドラメンの一商人は、ハウゲの親友のひとりであったが、ハウゲをベルゲンへ送ったのは、そして旅行の一切の世話をしたの は、彼であったと言われている。メェラーは、ベルゲンでなら迫害は少ないだろうし、霊的教育活動により大きな自由が與えられるであろうと思ったのである。 その後の出来事が、彼の判断の正しかったことを証明している。

ベルゲンで

一 七九八年のベルゲンは、ノルウェー最大の都市であった。合理主義の波が、ノルウェーの宗教に対する忠誠心を奪い去ろうとした時、ベルゲンは伝統の敬虔主義 と正統派の神学に堅く立って動かなかった。一七四七年、偉大な敬虔主義派の学者であったエリック・ポントピダンが監督としてそこへ赴任してきた。今日、ノ ルウェー人がポントピダンを「神格への真理」つまりルターの小教理問答の解説書の著者として記憶しているのがその人である。「聖書に次いで、本書ほどノル ウェー人に大きな影響を與えた書物は外にない。それは、その他のすべての書籍にまさって、ほんとうのキリスト教とはどんなものかという認識を、ノルウェー 人の心中に植えつけたからである」とイバア ・ウェル(IVAR WELLE)が書いている。一七九八年に合理主義者達が、新しい讃美歌集を編集出版した時、それを採用しなかった唯ひとつの都市、それはベルゲンであっ た。他の諸都市が合理主義の波に呑まれて行った時、ベルゲンを保守派の孤島として守り抜いた中心人物は監督ジョン ・ノーダール・ブラン(JOHN NORDAHL BRUN)であった。

ブラン(BRUN) の名は、愛国者として、詩人として、教会人としてノルウェーの歴史の中で光彩を放っている。彼は十四歳までに聖書全巻を、二回にわたって読み通したと言わ れている。青年として、彼はコペンハーゲンで教職者になる訓練と教育とをうけた。卒業後トロンハイムとビネセット(BYNESET)で牧師をした後一七七 四年にベルゲンへやってきた。一七九七年に監督代理となり、一八〇四年に監督に任命された。監督ブランは、人々の共感を誘う、恵まれた性格の持ち主であっ た。彼のキリスト者としての生涯は、不抜の信仰と天賦の知恵で光り輝いている。彼はすぐれた説教家で、彼の説教は正統ルター派の聖書解釈でつらぬかれてい る。彼の幅広い人生経験から湧きあふれる何ともいえない甘味は彼をしてベルゲン市民と社交界の花形とならせた。彼の庶民的な人気と、愛国的情熱は、国民の 間でよく愛唱されてきた次の歌の中に脈うっている。

ノルウェーよ 英雄達のふるさとよ われら今、汝のために この杯を乾す

  一八一四年ブランはノルウェーの独立を叫ぶ、最も勇敢な煽動者の急先鋒であった。然し彼の名を不朽なものにしたのは、合理主義の侵入を許さないで、ベルゲ ンの人々を伝統の保守的信仰の中に守り抜いたことである。彼がこのような重大な役割を演ずるにあたって彼にとって有力な協力者となった者は、彼以上に有名 な聖書信仰の擁護者ハウゲであった。

ベルゲンにおけるハウゲ

一 七九八年の七月ハウゲがベルゲンへ到着した時、彼はほとんど人に知られていない一箇の風来漢であった。けれども、彼の著書を読んでいた人々の間に、彼はた ちまち多くの未知の友人を発見した。彼らはハウゲの説教を聞きたがった。彼は当時三冊の書物の草稿を携えていたが、その出版準備のあい間あい間に、集会を ひらいた。そのうちの二冊については、すでに前文で紹介済みである。第三の書物は、書物というべきではなく、聖書全巻の輪郭に従って、聖句を併列したもの であった。ハウゲは聖書の読み方に熟達していない人々を助けて、聖書の核心をつかませたいと焦慮した。彼らが、キリスト者としての生活を鼓舞されるよう に、建徳的な聖句、教訓的な聖句に親しませようとして工夫したものである。本書と、その付録は二年後に出版されたが、これも黙示録を含むハウゲの聖書知識 の該博さをよく物語っている。

ベルゲンにおける彼の多忙な 毎日は、このようにしてつづいた。ハウゲを尊敬し、彼の集会によく出席した人々の中にマレン・ボース(MAREN BOES)女史がいる。彼女は監督エリック ポントピダンの家政婦だったが、ハウゲの説教によって、神との個人的交りに入ることを知った老婦人であった。彼女はハウゲの証言の中に、あの偉大なポント ピダンと同じ信仰の流れをくむ、そしてその深さにおいて優っても劣らない神の言の反響を聞いたのである。一八〇四年、彼女が天に召される日まで、彼女はハ ウゲの伝道に傾倒した。彼女は彼の名を汚すものがあれば悲しみ、彼が投獄されれば、共に苦しみ悩み、終生祈りぬいてハウゲを助けた女性であった。

今 ひとりハウゲに有力な信仰の友があった。それはサムソン・トービョルセン・トラー ( SAMSON THORBJORNSEN TRAAE)である。彼は軍人だった。ハウゲが霊性の問題で個人指導をした多くの他の人々の場合と同様、トラーもまた若き日に良心に目覚め、自分の力で、 古き性質を追い出そうと努力した。ハウゲは彼に神の御慈悲に信頼することを教え、すべての罪を洗い清め給うイエス・キリストを常に仰ぎ見るようにとすすめ た。彼は回心後、平信徒伝道者として国内を伝道して廻ったが、ベルゲンへ帰ってからは、ハウゲのグループに入り、商人として実績をあげて、ハウゲの運動を 支援した。

八月になって、突然、ハウゲは警察からの召喚状 をうけとった。彼は、著書の全部を提出することと、集会を中止するように命ぜられた。数日の後ハウゲの訊問が始まった時、彼は謙虚にその平素の主張をくり 返して述べた。「神を畏れ、人々が互いの徳を立て、悪しき業を捨てて、キリスト者にふさわしい生活をすることはいいことではないか?」と、ハウゲはまた 言った「権威者が徒らに刀を腰にしないということはいいことである。然し悪を罰し、善を保護したとすれば、それは一層よいことである」と。ハウゲにとって この確信は根強く、パウロと同じように「神によらない権威はなく、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものである」と、彼は信じてい た。こうした点で、ハウゲは素朴で非現実的だったと見做す者があるが、国家創建の初期からノルウェーは、ルター教会の信仰を、国民宗教として採用した国柄 だけあって、ハウゲのこの確信には、あらゆる根拠があったと言える。キリストの福音の説かれるところ、必ずその社会に道徳的、社会的福祉の向上が見られる というハウゲの主張には、ルターの思想を思い起こさせるものがある。だから、キリスト教は、それ故に寛大に処遇されるべきであるにとどまらず、公的にも保 護されるべきであるとした。

訊問が進んで、警察署長が一七 四一年の法令を引用し、公開伝道集会は明らかに制限されているではないかと詰めよった時、ハウゲは本然として次のように答えた。「神の言を涜し、また詛う 者は、曝し台にかけられるべきだという法令がある。もしこの法令が強制的に執行されるならば、全市は曝し台でいっぱいになるであろう」

  ハウゲは釈放された。彼は、彼の機知によって自由をかち取ったといえよう、然しそこには、今ひとつの事実があった。監督ブランはハウゲの集会のことや、ハ ウゲの著書の内容について地区の行政長官から彼の見解を求められていた。ブランの回答の一部分をここに紹介する。

「ハ ウゲの著書や、当地における彼の運動の進展状況については、私は最初から情報を受取っていた ―― 警察が彼を放浪者扱いをすることが出来るかどうかの判断は、私の権限外のことである。然しながら私はこの人物について、現在も同様に考えているのだが、彼 の純真敬虔な神への奉仕について知ることは、彼について報告されている騒乱の事実や、街頭での集会を抑止するためにむしろ役にたつ最善の方法であると信じ ている。彼はどう見てもフランス革命当時のヤコビン党のような扇動者ではない、彼のとるにたらぬ、何らの組織を背景にもたない集会は、教会にとっても国家 にとっても有害だとは思えない。むしろ有権者によって投票されない者を除外する法人団体の方が危険なのではないか?神を恐れる人々が、隣りの町の人々と共 に、夕の祈祷会をひらくことが誰にも許されているように彼の集会は許されるべきだ。彼は善良な人間には常に起こり勝ちな、とるに足りぬことを書いたり喋っ たりしているにすぎない。一七四一年一月十二日に発令された法令は、たとえ教職者であっても偏見から、自己主張を通そうとする者がある場合に取締り上必要 であったからである。更にその法令の全文に従えば ―― 附則によるのではない、事実によって言うのだが ―― 今では新聞の自由によって無効になっているものである。一知半解の記者が、神の言にさからった文を、百万の読者に向って発表することが許されているなら、無学ではあっても神の言を愛する者が、幾人かの人々の集る私宅で彼等のすきなように、学びかつ語る自由は與えられている筈だ」 ・・・。

監督の保証によって、ハウゲの運動は宗教的な性質のものであり、政治革命を志すものでないと知った官憲は、安心してハウゲを釈放した。それから後のハウゲは、宣教と出版の完全な自由を與えられた。但しベルゲン地区の官憲の威信の行われる範囲内に於てであったが ―― 。

ハ ウゲはベルゲンの人々を愛した。彼らの衣服に関する単純な好みは、彼自身の好みに合っていた。他の諸都市にくらべて、ベルゲン市民の間には虚栄の横行がみ られなかった。時にはしめし合わせて彼に石を投げつけるような若者もいたが、市民は全体としては、彼に友好的であった。

ハ ウゲはどこへ行っても、そこで出会った人々からうけた印象や彼の観測を記録にとどめている。そして彼の生涯の終りが近づいたころ、これらの記録を集録して 「ハンス・ニールセン・ハウゲの旅行と重大な冒険」と題して出版した。それは彼が書いた著書の中で価値のある文献のひとつとなった。

ホ ルダランド(HORDALAND)の農夫やステイリイラー(STIRILER)について、彼が書いていることは、ちょっと承認し難いことであるようだ。そ れによると彼らの大部分のものが半人半獣の生活をしていたというのである。彼らと寝食をともにすることは不気味なことであったであろう。そこでは真面目な 思慮分別があまりにも少なく、彼らの土地、彼らの心、そしてその理解を深く耕そうとする意欲が、少しも見られなかった、とハウゲは記している。彼らが父祖 伝来の単純な生活習慣に固執する姿を見ても、彼は辛辣な批判は下していないが、然し、彼らの生活の惰性が、彼らの後進性によるものに違いないと彼は嘆いて いる。

クリスチャンサンドからエイケルへ

一七九八年の十一月、ベルゲンを発ったハウゲは船に乗ってスタヴアンガー(STAVANGER)に行き、そこで上陸した。その時ハ ウゲは数百冊の小冊子を携えていたが、道みちそれを配布して歩いた。そして機会さえあれば、集会をひらくためにそこにしばらく滞在した。どこでも人々はハ ウゲと会っただけで彼を愛し、彼の滞在を歓迎した。「どこへ行っても、彼はただちにその土地の人々に馴染んだ」とシヴェルセン(SIVERTSEN)は書 いている。それは彼が人を喜ばせるような性格の持主だったばかりではなく、農村地帯の人々はハウゲの訪問が何を意味するかをよく知っていたからであった。 それは彼らから奪うためでなく、彼らに何かを與えるためであったし、種蒔きのために、家を建てるために、信仰の目を挙げさせ、信仰による勇気を與えるため に、ハウゲは来てくれるのだと、彼らは知っていた。

クリスマスまであと二週間という時期に、ハウゲはクリスチャンサンドに着き、印刷屋に頼んで古い「タウラーの回心物語 」を再販しようとした。彼は同書の中の「修道院」のくだりを削除したのでは、読者にとって教えにはならないと考えたからである。

海 岸ぞいの道を歩きつづけて、ハウゲはエイケルに着いた。それは、クリスマス直前だった。ハウゲがベルゲンに滞在中、各地で信仰復興が起こったが、エイケル で起ったそれは爆発的であった。エイケルの市民とその周辺に住む多くの人々が、みんなハウゲと話したがり、また彼の著書を盛んに買い求めた。「私は手に負 えないほど、多くの仕事を背負って忙殺された」とその頃のことを彼は述壊している。「しばしば、私は真夜中まで旅をしつづけた。そんな日が毎日のようにつ づいた」とも語っている。著書を買ってくれる者には売り、金のない人々には無料で與えたとも言っている。それは、人々の間に深刻な霊性の飢え渇きがあった 証拠である。彼らはハウゲをよく知り、かつ彼を信頼していたので、彼らは彼の著書を読みたがったわけであった。或る場合には、ハウゲの著書で啓発されたた めに、彼らは一層彼の説教を聞きたがり、またひとりひとりが個人問題で、ハウゲの意見を求めることを望んだのであった。

一 七九八年の新年のこと、有名なハウゲの挿話の中のひとつが実際に起こった。それは、エイケルに住むクリストファー・ホーエン(KRISTFER HOEN)の家で家庭集会が開かれたが、新任の教区牧師はシュミットであった。彼とホーエンは、後日、あの歴史的な一八一四年の憲法制定会議がひらかれた エイズボルの会議に両者とも出席している。シュミットはハウゲの集会のことを知らされたので司法官代理のグラム(GRAM)を同伴して会場に姿を現した。 集会がまだ始まりもしないのにシュミットは、集会管理法の写しを取り出して、会衆の前で読みあげ、このような集会は非合法であると宣言した。ハウゲは前方 へ進み出て「わたしは『 人間に従うよりは、神に従うべきである 』という神の命令をここに持っている」(使徒行伝四章十九節)と答えた。シュミットは法律の名において彼に服従をしいたが、怒号する農民達によってシュ ミットは沈黙せしめられた。ハウゲは説教をつづけた。シュミットとグラムは腰をおろし、黙示録から引用した聖句にもとずくハウゲの説教に耳をかたむけた。

説 教が終った途端に、シュミットは立ち上って、ハウゲの説教を一々こき下ろした。「引用聖句で、一杯つまっている、然しどれにも関連がない、説明はへただ し、適用は不適当だ。説教者は、他人を教えるように召命を受けたと豪語しているが、もっと正規の教育を受けることの必要をばくろしている」と。もっと悪い ことにはハウゲが引用した聖書のテキストに対してシュミットは機嫌を悪くしていった。「私の父は人も知る学者であった。然し決してヨハネ黙示録の解説を試 みようとはしなかった。何故なら黙示録は閉ざされた書物であるからだ」と。

「い な、それは閉ざされた書物ではない」とハウゲは答えた。彼は黙示録を大いに研究し、彼の著書の中で解説しようと準備していたのである。「もし黙示録が閉ざ された書物であるならば、黙示録の名は(アポカルプシス「隠れたるを顕す」の意)與えられなかったであろう」と、ハウゲは反論した。

シュ ミットは討論を継続することを好まなかった。彼は余儀なく司法官に対して、ハウゲを彼の教区外へ追放するように頼んだ。まわりにいた群衆は怒ってそれに抗 議したが、司法官は彼の義務を遂行するためにハウゲを捕縛しようとした。その時ハウゲを招いた家の主人公クリストファー・ホーエンが進み出て、彼自身がハ ウゲを司法官の家へ連れて行こうと申し出た。この申し出に両者が合意し、集会は閉ざされた。冬の夜だったが寒風をついて約束通りのことが実行されることに なった。司法官のそりが先行し、ホーエンとハウゲはそれにつづいて行くことになった。

頭 のいいホーエンは、自分のそりに、その地方で一番脚が早いので有名だった馬をつけた。彼らが荒涼たる雪原に出た途端に、ホーエンは馬に鞭をくれた、それで 馬とそりは疾風のように走り出して司法官のそりを追い抜き、追い越した。間もなくハウゲは司法官の権限外の土地に走りこんでいた。

ハ ウゲが劇的な脱出に成功した一七九八年を期して、彼の多難の年は終った。彼はフレデリックスタッドの牢獄で、彼の伝道生活の最初の年をくらした。彼はロメ リケ(ROMERIKE)からグランセット(GRUNDSET)まで旅をした。彼はオスロで二回投獄された。彼は二冊の書物を書き第三の著書の一部を書き あげた。彼はベルゲンへの最初の旅に出て、そこで多くの友人をつくった。そこでは監督を自分の保護者とすることにさえ成功した。ベルゲンとクリスチャンサ ンドで彼は四冊の著書を出版した。明けても暮れても、彼は数え切れないほどの集会をひらいた。個人的指導のために多くの人々と面談した。そして子供にも大 人にも、無学な者にも、学者にも神の言の約束と、聖書が人間に要求することがらを語り聞かせた。神は彼の頭上に、彼の活動とその有効な結果のすべてを、キ リストのために彼がかち得た多くの救われた霊魂で飾られた冠を、着せたもうたのであった。

第5章 信仰復活運動 1799年のこと

一 七九九年のはじめの三ヵ月を、ハウゲはノルウェーの東南部にあるロメリケ(ROMERIKE)、ソレェル(SOLǾR)、それからヘデマルク (HEDEMARK)地区で、暮らした。それぞれの地で集会をひらくためであった。ハウゲは四月に数日間の予定でTUNEの自分の家へ帰ったところ、ベ ルゲンの友人達から送られた手紙がたくさん彼を待ちかまえていた。彼はさっそく返事をしたためた。それは、ベルゲンにいる友人のみんなが、彼に早く来てほ しいというのであった。しかしベルゲンへ彼が帰るのは数日間おくれた。それはエイケル(EIKER)で、警察署に留置されたからである。官憲は、彼をエイ ケル(EIKER)からコングスベルグ (KONGSBERG)へ送り、そこで彼を釈放した。

ハ ウゲがヌンメダル(NUNMEDAL)を通過しようとして出発した時のこと、彼は彼の内部の霊性が、恐るべき恐怖に迫られていることに気づいた。彼は今や 全き不敬虔が支配する地区へ乗りこもうとしていた。そして霊的暗黒からくる妄動の波が、彼に向って襲いかかろうとしているかに思われた。彼はうれいに沈み 無力感に落入り、後戻りをしたい誘惑にかられた。しかし神は、彼の苦悩の中からの祈りを聞き、彼に初志貫徹のために前進する勇気を與えた。彼はスキーで山 山を越えてハルダンゲル(HARDANGER)に出た。そして、六月中のある日に、彼はベルゲンに到着して、親しい友人達に出会ったようである。七月に は、彼はトロンハイム(TRONDHEIM)に向けて出発する用意を完了していたからである。この旅行中、彼はトロンハイムを訪問すると共に同地の南方地 区で、数週間の伝道を試みた。同年の十一月には、彼は再び放浪罪に問われて捕縛された。獄中の彼は、一七九九年の終りごろまでに、せっせと執筆を継続し て、彼にとっての最大の労作である「キリスト教教理 CHRISTIAN  DOKTRINE」を書きあげた。それは九百頁にも及ぶ大冊の説教集である。それは年間を通じ教会暦に掲げられた使徒の手紙と福音書のテキス トに従ったものである。

以上が一七九九年のハウゲの活動を 地理的に追跡した大凡のりんかくである。すなわち最初の三ヵ月はノルウェーの東部で、春から初夏へかけては、ヌメダル(NUMEDAL)からハルダンゲル (HARDANGER)へ、それからはベルゲンへの旅に、年末までは、ベルゲンとトロンドハイムで過ごしたが、その間の大部分はトロンドハイム南方の地区 での伝道に専心した。

認められはじめる

ハ ンス・ニールセン・ハウゲが、ノルウェー国民を罪と堕眠から覚醒せしめるために、神の召命をうけて決起してから、ようやく三年になろうとしていた。孤独な 救霊者としてのハウゲの東奔西走の足跡は、聖職の間でも、平信徒の間でも、ようやく注目されようとしていた。ハウゲの証言は、多くの回心者を興し、これら の回心者の多くは、のち巡回平信徒伝道者となっている。だからこれは正に、真のキリスト教伝道の誕生だったといえよう。それがノルウェーで全国的運動に発 展した時に賛成する者から反対する者まで、あらゆる人々がそれぞれの態度を表明したのは当然であった。こうしたハウゲ物語は、一七九九年のドラマと共に生 彩に充ちあふれて、いつ迄も生きつづけるであろう。たった二十八歳のチューネ(TUNE)からきた農民伝道者の前に、友として、また敵として、多くの人物 がこれからこの物語の中に登場するのである。

ラルス ヘムスタッド LARS  HEMSTAD をめぐって

ラ ルス ヘムスタッド(LARS  HEMSTAD)はヘデマルク(HEDEMARK)出身の平信徒伝道者であった。彼は一七九九年の夏トロンドハイムに向って北上し、その年の 秋、ハウゲの運動に合流した。彼もまたその時までに一度検挙された経験をもっているが、ハウゲと一緒にレインストランド(LEINSTRAND)での伝道 中に再び捕縛されている。

トルレフ ベーチェ TOLLEF  BACHE の活動

ハウゲの同志の中で、重要な位置をしめた人物の中にトルレフ ベーチェ(TOLLEF BACHE)がいる。ハウゲが彼に始めて会ったのは、彼がヌンメダルを通ってベルゲン行っ た一七九九年の春であった。監督バング(BANG)によると、霊的事象に関する洞察力に関するかぎり、ベーチェ(BACHE)は、ほとんどハウゲに肉迫す る能力をもっていたといわれる。然しその後ベーチェ(BACHE)が、ドランメンに住んでいた頃、彼はハウゲ派の中でも指導者として重視されるほどの強烈 な自信家であったが、同時に強情な男であったらしいことが彼の不幸な結婚から生じた困った処理の仕方に現れている。ベーチェ(BACHE)の名は、アメリ カにいったノルウェー移民の間で、立派な牧会伝道をした若いデンマーク人クラウス・クラウセン(CLAUS CLAUSEN)の名と結びついて伝えられている。彼はクラウセン(CLAUSEN)に渡米をすすめたのみでなく、「古いマスケゴオ教会」の建築資金とし て四百弗を寄付している。

マレン・ボエスについて

 ベ ルゲンの年長のマレン・ボエス(MAREN BOES)については、さきにもちょっとふれたが、彼女は一七九九年の夏、ハウゲがベルゲンに滞在していた当時、ハウゲに全財産を提供するからぜひ、ベル ゲンに永住の本拠を定めるようにとすすめた。然し、ハウゲは彼女に答えていった、「たとえあなたがベルゲン全市を私にくれるとしても、私はベルゲンに落ち つきはしないであろう。一箇所に安住するということは、僕が確信し熱望していることと矛盾するし、同胞の救霊のために選ばれながら、その選びにそむくこと になるからだ」と。ハウゲは翌年ベルゲンに姿を現わしたが、その目的はベルゲンに伝道活動の本拠を置くことと、今一つ財政上の都合からであった。ハウゲが 結局マレン・ボエス(MAREN BOES)から伝道資金の援助を受けることになった時、彼は恩をきせられることをいとい、借用証書を彼女に渡した。

迫害、そしてそれは何の為だったか?

  ハウゲがまだベルゲンにいた頃、ノルウェーの東部で伝道していた彼の同志のひとりが官憲に捕縛されたというニュースが伝えられた。その年の春なお浅いころ のことであった。ある官辺筋と聖職者の間で出版されていた新聞がノルウェーにおけるきわめて初期の出版物のひとつに、その頃、平信徒伝道の可否についての 激しい論戦を掲載した。そのころ平信徒伝道者数は国中で増加の一途をたどり、彼らの集会はあちらこちらの教区の注目をひくようになっていた。同時に信徒伝 道反対の声も高まるばかりであった。反対運動の代弁者は、多くの場合聖職者であった。当時の論争の記録からわれわれは、両派の論争のいきさつがどうして生 れたか、またそれが原因でハウゲが検挙され不当な投獄の浮き目にあったいきさつを見出すことが出来る。一七九九年に起こったハウゲ派に対する反対論は次の 四点に要約することが出来るようだ。

 

放浪癖について

(1)放浪癖は法律違反        

こ れには一七四一年の集会禁止令、及び「ひとはその天職にとどまるべきである」という、古くからの世論が引用されている。後者の考え方は、聖書から出ていた だけに、重視されたばかりでなく、これはノルウェー国民の社会常識になっていたものである。けれども経済事情の変化と、人口の増加から、この伝統的社会制 度にひびがはいりかけていた。そのことに気がついていた人々の中に、初期のハウゲ派の人々があった。

  1. へ たな説教 ―― やむにやまれず踊り出した平信徒説教者に対して、いっさいならずあびせかけられた非難は、彼らは説教らしい説教をする能力がないということであった。彼ら は関係のない聖句をごちゃまぜにして喋っているだけだという罵声が飛んだ。学校教育を受けたことのない彼らのことであるから、彼らは聖書的用語に通じてい なかったであろう。彼らは、自分が引用している聖句のほんとうの意味をつかんでいないなどという専門家側からの非難の声が絶えなかった。
  2. マ ンネリズムに堕した敬虔な態度の不評判 ―― 泣き声で泣きはらした目で見つめ、首をかしげて説教する。これはハウゲ派の説教家達に対する世間の定評であった。高貴な人間性に生きぬくことを、庶民に望 んだ、目覚めた説教家達にとってこの世評は、最も腹立たしいものであった。表面的なものにだけふれたこのような酷評に対して、正直なキリスト者の多くは、 合理主義者こそ、人間性の尊厳についての新しい理想像に対して、まっ正面から反対の立場にたっているのだといって反ばくした。
  3. 味 わいのない神学 ―― 平信徒伝道者の説教の内容に対する反対理由として挙げられたものの一つは、彼らの説教には神学がないということであった。合理主義者の使徒のひとりは、次 のような反対理由をあげている。「彼らはダビデ・ホラツ(DAVID  HOLLATZ)やマギステル・ピーター(MAGISTER PETER)、オリバリウス・ブッゲ(OLIVARIUS BUGGE)のことや、彼ら自身の伯母さん達のことについて述べ、ここに唯一の救いの道があるんだという。そしてもっとも不合理で、もっとも無慈悲な血の 神学を宣べ伝えている・・・彼らは、ひとりの人間が、自ら回心しようとする努力は、無用であり,むだであるといい、また人間は誰でも、神とイエスに叛くも ので、生来の敵意をもっているものだといい、もっとも正しい、そして徳望のある人間でも、なお審かれるに価する罪人であると説く・・・そして人間が自分の 能力に絶望する時、それはイエスを信ずる信仰が始まる時だと説く、彼らはこうしたかずかずの非キリスト教的なことをおしえている」と。
    ハウゲの同志達は、これらの反対論を耳にするごとに、彼らはハウゲの指導に従い、「われわれは同胞の救いのために召命をうけたものだ、われわれは彼らが、 その罪を放棄して、神々しい生活をするようにと、奨励しているだけだ」と応じた。彼らはまた言った「神の言以外にわれわれは何ごとも説かなかったし、悪魔 が人に與えたものについて注意する以外、他人の生活に立入ってその邪魔をした覚えはない」と言った。
    合理主義神学をはんばくする場合、彼らは聖書と、ルターとジョン アルント(JOHN ARNDT)の説を引用し、ハウゲがホラツ(HOLLATZ)やブッゲ(BUGGE)を推薦したことがあるという風説を否定した。ハウゲ派の人々はつねに 理論よりも信仰への従順を強調した。理論ではキリストを理解することは出来ない。聖霊を通して働く信仰のみがキリストを理解しうる。このような信仰が根を おろす時、神と、神の命令に対する忠誠と
    従順の精神が成長し、新しい人生にふさわしい信仰の実がみのり出すのは、それから後のことだ。何よりも先ずキリストの身体に接木されたままであることが大切だとした。

ハ ウゲが回心の後(一七九六年)、彼の家で訓練した平信徒伝道者のあるものが、オスロフィヨォルド周辺で盛んに伝道していたその直後のこと、ハウゲ派とその 反対派の間の論争は深刻な様相を呈してきた。まず司法官グラム(GRAM)がエイケル(EIKER)で伝道していたペーダー・ロエル(PEDER  ROER)を見つけて、オスロの懲治監に投獄した。彼は伝道をやめるという約束をしないかぎり、終身懲役に処するという判決をうけた。三日の 後、ハウゲ派の三人の伝道者が同じ運命に会った。それはヘムネス(HEMNES)地区の牧師の煽動によるものであった。

同 志の投獄を知った時のハウゲの態度については、彼が一七九九年七月十五日に、ベルゲンから出した次の手紙によって知ることが出来る。「私は悪いことを平気 でやる人々がいることを嘆かないわけにはいかぬ。彼らは、彼らの平和に役立つものが何であるかを、知らないし、善を行って、かえって迫害を受ける人達と共 に喜ぶことを知らないのである。私はこの時期において、もっと多くのほんもののキリスト者がいてくれさえすればと願うばかりだ。もし悪人らが善良な人々を 監禁するなら、懲治監は、たちまち満員になってしまうであろう。たとえそうなっても、神は大なる収穫を得るために、必要な働き人を確保し給うであろう」 と。

ノルウェーの東部地方では、もっと多くの迫害があっ た。九月には、ハウゲの兄弟のミッケル(MIKKEL)と甥のパウロ・グンデルセン(PAUL GUNDERSEN)が、説教したというかどで監禁された。浮浪罪に問われて、同じように監禁された七名の者が、説教の中止に同意しない限り重労働に処す という判決をうけている。そのうち三人の者は家族を扶養する必要があったので放免され、ひとりは僻地に移され、ひとりは一年間の獄中生活の後、説教をしな いという誓約をして放免され、残る二人の者は獄中にとり残された。その最後の二人というのは、トルケル・ガベスタッド(TORKEL GABESTAD)とミッケル・ニールセン・ハウゲ(MIKKEL NIELSEN HAUGE)であった。彼らは神の言に対する忠誠をあくまで守って、二ヶ年半の獄中生活に耐えた。シベルトセン (SIVERTSEN)が言っているように、彼らがこんな風に理解され逮捕されて、「放浪者」の罪名をきせられたということは、彼らにとって最も心外なこ とであった。かって労働をいとうたことのない農民伝道者達は、彼らの自給伝道のために、そして、その熱心な宣教の働きのために、高価な代価を支払わされた のであった。浮浪者として監禁されるということは、彼らにとって断腸の思いのする侮辱であった。

ニイルス・リイス について

ノルウェーの史上で、平信徒伝道者達が盛んに活動した時期に、幾多の魅力ある人物が輩出した。ニイルス・リイス(NIELS  RIIS)は、そのひとりで、彼の勇気と多彩な物語りはトロンデラーグTRONDELAG) の人々の間に、今でも語り伝えられている。ハウゲが一七九九年の秋に同地を訪れる前から、彼は、人々の魂を捉えずにはおかないその力ある説教によって、多 くの霊魂を救い、多くの信奉者を獲得していた。リイスは僅か十九才の青年だったが、非凡な信仰的情熱に燃やされていた。

リ イスは一七九九年の夏コングスベルグ(KONGSBERG)からモルデ(MOLDE)へはじめてやってきた。土地の人々は好感のもてる彼の人がらを愛し、 その説教を喜んで聞く人々の数がかなりあった。ところが、まもなく彼は逮捕されトロントハイムへ送られることになった。それにもかかわらず、その途中でさ え、彼は何とかして集会をもちつづけた。レンネブ(RENNEBU)でもメルダル(MELDAL)でも彼の説教を聞こうとして相当の人々が集った。彼がト ロントハイムで投獄された後で、一地方新聞は、彼とハウゲのことを嘲笑した次のような記事を書いた。

「リ イス(RIIS)は、聖書を読みすぎ、祈りすぎ、信心しすぎて、頭が変になっていたのである。・・彼にはどんな忠告も耳に入らない。彼は馬鹿で、押しが強 くて、人が話している時にも黙っていることが出来ず、朝から晩まで、口から泡をふかせて喋りまくるこの男には、手の施しようがない」

「ハ ンス・ニールセン・ハウゲ は、国内に散らばった放浪者の群れの主将として大祭司として悪名高き男だが、とうとう当地に姿を現した、然しいまだに逮捕されていない」と。チュグトウ セット(TUGTHUSET)紙の如きは、次のような記事を発表した。「これらの聖職をまねる浮浪者共が、説教をしているところを、どんな便法でも用い て、とっつかまえ、ほんものの浮浪者として懲治監へ投げこむべきである」ハウゲは直ちに記事の訂正をもとめて反論を書き、同紙に掲載させることに成功し た。

ニイルス・リイス(NIELS RIIS)は、出獄後ただちにメルフス (MELHUS)の南方地方へ出かけた。そこでも追い払われて、さきに伝道したことのあるメルダル(MELDAL)とレンネブウ(RENNEBU)へ帰っ た。その時、その地方でのもっとも強烈な庶民の覚醒と騒が起こりまたもっとも尖鋭で、もっとも劇的な闘争が起こった。庶民はニイルス・リイス(NIELS RIIS)を指示し、教職は平信徒伝道者リイス(RIIS)を抹殺しようとしたのである。

周 地の牧師パレリウス(PARELIUS)は、教会の礼拝が終った後で、リイス(RIIS)が集会を開いて説教をしているところへ飛びこんできてリイス (RIIS)の口にハンカチーフを詰めこんだ。そして彼がいうところの「馬鹿馬鹿しい説教」を聞くために集っていた会衆に向って、嘲けりの言葉を吐いた。 群衆は牧師の態度に憤激し、ひとりの婦人は声をあげて叫んだ。「リイス(RIIS)はジャガイモ相手の説教しかできない、あなたより、よっぽど立派な説教 をしてくれる」と。

リイス(RIIS)は捕縛されたが、二百人ばかりの野次馬が、法廷の傍聴席になだれこんで叫んだ「神の言葉を語るこの人をどうするつもりなのか説明しろ、彼は、小教理問答の解説をしてくれる牧師と同じことを語っているだけだのに」

リ イス(RIIS)が、いよいよ投獄されるときまった時、農民達の怒りを代弁してカリ・レッセル(KARI RESELL)とスチルカー・リグスタツド(STYRKAR RIGSTAD)の二人が、即興詩を歌った。恐れを知らないこの二人はニイルス・リイス(NIELS RIIS)を弁護するために立ち上がり、次のような歌を唄った。

ほまれの塔は 地にくずれ落ち   愛は冷たき石の如く、冷えたり

正義はすべて  その威力を失い   童心はいずこにも  見当らず  

虚言は   真理の衣をきて通り   真理は地に落ち 沈黙はつづく

不正は裁判官の目をくもらし     石はそれを眺めて 泣く

リ イス(RIIS)は二回目に釈放されてから、またメルダル(MELDAL)とレンネブ(RENNEBU)で、伝道を再開した。スチルカー ・リグスタツド(STYRKAR RIGSTAD)は、司法官の手からリイス(RIIS)を取り戻すことに成功し、この若き説教者を支持する人々に対する牧師のパレリウス (PARELIUS)の反感に油をそそいだ。

 ミッケル・グレンダール

  リイス(RIIS)よりも、少しばかりよく知られている男にレンネブ(RENNEBU)からきたミッケル・グレンダール(MIKKEL GRENDAL)がいる。彼はハウゲがトレンデラーグ(TRǾNDELAG)にいたころ、多事多難な伝道の戦いの中で獲得した回心者のひとりであった。彼 は後には政界に進出したが、ハウゲの親しい友人のひとりとして著名である。農場主であった彼は、その方面での繁栄を約束されていたが、ハウゲは彼に逞しい 商魂のあることを見抜いて、商業学校へ入るよう勧告した。彼はドランメン(DRAMMEN)とベルゲン(BERGEN)で、商科のコースをとり、後クリス チャンサン(KRISTIANSAND)で、商売を始めた。彼の事業は繁栄し、地区のキリスト者にとって大なる祝福の源となった。グレンダール (GRENDAL)は一八三〇年から一八四二年にかけてノルウェーの国会議員として活躍したことと、ハウゲと彼によって興された信仰復興に関する立派な著 書の作者として知られている。

トロンハイムでの出版

ハ ウゲのことにもどるが、彼は一七九九年の八月にトロンハイムにやってきて、彼の旅券の査証を貰うために、まっすぐに警察署を訪ねた。彼はそこで、直ちに逮 捕されそうになったが、彼は著書の印刷をするためだと言って正当な滞在許可をとることに成功した。彼が出版した初期の著書は大部分売りきれになっていたの で、再版の必要にせまられていた。新著はただ一冊でThe True Believers’Book of Selected Hymns(ほんものの信者のためのさんびか選集)であった。その中のあるものは、ハウゲ自身が書いたもので、他は数冊のさんびか集から抜粋されたもの だった。ハウゲの選集は、いつも成功だったとは言い得ないが、彼こそ、ノルウェーのさんびか集に、ハンス・ブロールソン(HANS BRORSON)のさんび歌を編入した最初の編集者だった。ハウゲは多くの悔改の心境を歌ったさんび歌を挿入したがルターの傑作の大部分が忘れられてい る。この事実は、贖罪を盲信して信仰に生きることを怠る者のあることをおそれたハウゲの心境を反映するものであろう。

  ハウゲは彼自身の信仰生活を通して彼がどんな風に恩寵を理解していたかを、その生き方で表現した。しかし悔悟と回心を説く偉大な予言者として、彼はキリス トの代償の死を信じると言いながら、回心の実を示さない者に対して、聖潔の名に価する生活を営むことなしに、聖餐にあづかることの功徳を信ずる者に対し て、不断の警告を発しないではおられなかったのである。ハウゲは、さんび歌集の編集者としても、信者に道徳的生活を要求する者であることを明かにしておく ことを忘れなかった。  

ハウゲは彼の友人の 印刷屋からクリスチャンサンドに印刷屋の賣物が出ていることを知った。まもなく彼は印刷業に多年の経験があり、その賣物の印刷所を買う能力のあるひとりの 男を見つけた。彼が印刷業を始めると同時に、ハウゲの平信徒運動はそれ自体の印刷所をもつことになった。ハウゲの数冊の著書もまた、そこで印刷された。

ハウゲとヘムスタッド

ト ロンハイムを去ったハウゲは一七九九年の秋を、同市の南東地区の田舎ですごした。ラース・ヘムスタッド(LARS HEMSTAD)も、彼と共にいた。彼らの単純卒直な説教に、不思議な力があって、地区の社会生活は目に見えて改善されて行った。特にラインスツランド (LEINSTRAND)において、着目すべきものがあった。「この教区では、おおよその人々が、飲酒と呪詛と、その他のもろもろの悪を放棄した」とハウ ゲは書いている。監督シェーエンヘイデル(SCHǾNHEYDER)は、信仰復興後の道徳生活の改善に目をみはった。然し彼のひいき目は、それ以上に進展 しないことがやがてあきらかになった。

ラインスツランド (LEINSTRAND)とメールフース(MELHUS)地区で起こった信仰復興は、地区の評議員長ディーン・ハンス・シュティーエンブーフ(DEAN HANS STEENBUCH)を当惑させた。彼は学者であったが、古い思想の持ち主で、説教は政府によって任命された牧師以外のものに許してはならないという主張 を固執していた。彼は教壇から狂信的信仰を激しく批判し、ヘムスタッド(HEMSTAD)とハウゲを捕縛すべきだと脅迫した。然し司法官のイヴァール・モ ンセン(IVER MONSEN)はシュティーエンブーフ(STEENBUCH)に手紙を書いて、彼が直接的に観察してきた地区の人々の生活改善と道徳的向上が、信仰復興の 結果であること、それ故に平信徒伝道者が、クリスチャンらしい態度で集会をもつことは、彼らに許されている当然の権利だと、ハウゲとヘムスタッド (HEMSTAD)の伝道を支持した。

トロンハイムにおける受難

信 仰復興の結果、道徳生活の改善が目につき始めた周知の事実を省みないで、監督シェーエンヘイデル(SCHǾNHEYDER)はシュティーエンブーフ (STEENBUCH)の抗議を鵜呑みにした。十二月一日のこと、ハウゲとヘムスタッド(HEMSTAD)は召喚され、訊問された。場所はメールフース (MELHUS)であった。

シュティーエンブーフ (STEENBUCH)は、牧師を誹謗したハウゲの記事について彼に抗議した。ハウゲは、その記事の中に、特定の牧師の名があげられていないことを理由 に、高慢で貪欲で、その他もろもろの罪科ある牧師のみが彼の攻撃文に対して怒るべきであると答えた。訊問の結果は、再び集会禁止法案の適用となってハウゲ とヘムスタッド(HEMSTAD)はトロンハイムへ送られ、投獄されることになった。

官 辺筋と、教会の権威者が、なぜこのように平信徒伝道者の活動を圧迫したか?  次にあげる監督の二つの論点は、彼らの考え方をよく説明している。シェーエンヘイデル(SCHǾNHEYDER)はコリント第一の手紙7の 20「各自は、召されたままの状態にとどまっているべきである」を引用し、職業は相続すべきものであるという因習的な社会通念を支持しようとした。農夫の せがれは農夫として一生をすごすことが期待された。もし農夫が伝道して歩くことになれば、按手礼を受けた牧師さま達はどうなるのだ?  いきおい牧師もまた彼の説教を、判り易い、興味本位のものにせざるを得ないことになるであろう。

監 督が苦心した第二の点は、「隣人」の解釈である。ハウゲの著書の中にふんだんに出てくる句である。この二字の中に、ハウゲは同胞に対するキリスト者の義務 を圧縮した。彼にとって「隣人」とは、誰かが親切な言葉、親切な行為を求めている時、その要求に答えるもののことであった。

監 督シェーエンヘイデル(SCHǾNHEYDER)は、ハウゲに対して、「隣人」とは「近親者と、となり人」のこと、と理解さるべきであると申し送った。こ の解釈は、庶民をその生まれた土地に定着させようとする官辺の不断の努力に一致するものであった。古い放浪罪が復活したので、旅行者は旅行許可証を携帯し なければならなかった。ハウゲがしばしば経験したように、旅行目的の合法性を証明する必要があったからである。

ト ロンハイムの監督の見解は、ハウゲに対する個人的な憎しみや、背教を責めるためになされたものではなかった。それはハウゲの運動が革命的性格をもっていた こと、それが権力をもつ上流社会が維持しつづけようとする社会的慣習に反するものがあったからである。彼ら自身によくそのことが理解されていたわけではな い。然しハウゲとその同志は、キリスト者の思想と行動の自由を、職業と地理によって制約していた当時の全機構に対して挑戦していたのである。

ハ ウゲとヘムスタッド(HEMSTAD)は、トロンハイムの獄中で、宣告を待ちつつ一ケ月をすごした。予期されたように放浪罪に処すという判決があった。ハ ウゲは一ケ月の監禁、兵隊であったヘムスタッド(HEMSTAD)は、軍営で一ケ月の重労働に服することになった。ハウゲは服役を苦にしなかった。彼は説 教集の執筆に没頭することが出来たし、トロンハイムから友人達がしばしば訪問してくれたし、獄中の日々は、意外に楽しくそして速かに去って行った。

然 しハウゲの心の中には、信仰復興の前途についての不安と動揺があった。平信徒伝道者の説教を、弾圧するこの掟の監禁がいつまでつづくのであろうか? 彼とヘムスタッド(HEMSTAD)は服役中だったしリース(RIIS)も、監獄を出たり入ったりしていた。エストフォルド(ǾSTFOLD)では、外に 七名の同志が官憲によって捕縛された。言葉を変えて言うなら、信仰復興の起こった二重要地区における平信徒伝道者の活動に恐慌を起したということである。 弾圧の結果、平信徒運動が行詰ってしまう時がくるであろうか?  四の状況から一七九九年の十二月から翌年の正月にかけて放浪罪を問われてトロンハイムの獄中にあったハウゲが、思い直して、ベルゲンで商人に転向しそうにおもわれたのであった。

け れどもハウゲは、獄中にありながら、同志を激励することができた。トロンハイム市の内外には、多くの回心者がいた。ある者は彼を獄中に訪ね、他の者はハウ ゲに手紙を書き、彼から霊的問題に対する忠告や解説をうけとることが出来た。彼は職業的機会に関する彼の意見として、回心者が、彼らの実践的能力を最高に 発揮しうる場所におき、彼らのクリスチャン・ホームが、より多くの隣人のための中心になるようにすることが大切だと説いた。誰もが説教するのではなく、お 互いに、己の仕事に励みながら、同時に信仰復興の波をひろげるために積極的な活動に参加することを、彼は望ましと考えていたのである。多くの者が説教を し、教育し、どこへ行くにもハウゲが書いたトラクトや、本を、頒布するために携行した。

平 信徒伝道者の中に、数名の婦人もまじっていた。もし婦人達にも説教の才能があるなら、そして家庭生活を立派に守るなら、聖書に「婦人達は教会では黙ってい なければならない」(コリント第一の手紙十四―三十四)とは書いてあるが、伝道の為の説教を彼は許した。パウロは婦人に説教させることを適切でないと考え たわけではなく、集会で、婦人達がつまらぬ質問をして説教者の説教を妨害する傾向があったので、婦人に沈黙の美を説いているんだというのがハウゲの確信で あり、主張であった。かかる場合、婦人は沈黙を守り、疑問に対する解答は後に廻すべきである。

一 七九九年は、ハウゲの平信徒運動にとって、発展の年でもあったが、また受難の年でもあった。ハウゲ自身それまでに数回逮捕されていたが、一七九九年は、彼 に従っていた同志もまた、神の言の故に投獄されるという大迫害が始まった最初の年であった。信仰復興の波が大きく広がって行って、それを阻止しようとする 反動的運動が起こるまでに勢力が伸びた事実を指摘するものである。

ハ ウゲがトロンハイムの獄中に静座していた時、彼は内面的な平和に満たされていた。神の御目的は、人間の戦略によって破られるものでないと確信していたから である。彼は冷酷で屈辱的な牢獄の環境に打ちのめされることなく「キリスト教教理」の執筆に没頭した。彼はそのころの気持ちを、次のように書いている。

「今 度は六回目の入獄であったが、私の精神は自由で、愉快で、喜びと熱心さに満たされていた。・・・私は、私と話し合うすべての人々に與える適切な二三の言葉 を常に持っていた。・・・私は私の使命を果たすための実力と、慰めをいつも與えられたし、どんな苦痛に直面しても、それに耐えうる特別な力と庇護を、いつ も與えられた。」

ハウゲの友人(STEPHANSON)は、印刷所からハウゲのトロンハイムの経験について次のように書いている。

「私 は獄中のハンス・ニールセン・ハウゲ と、しばしば会談した。自由な世界にいる時と彼の態度はちっとも変わらず、どんな状況のもとでも、満足しうる生まれつきの性質をもっているように見えた。 彼の忍耐は格別で、自分の感情に支配される男ではなかった。ハウゲを知っていた人々で、彼の精神の堅固さを疑うものはひとりもなかった。」

釈放後の南部への旅

ト ロンハイムの牢獄での刑期が満ちて、ハウゲは釈放された。彼が故郷へ向って出発したのは一八〇〇年の三月のことだった。彼がチューネ(TUNE)へ連れも どされるまで、ひとりの司法官の手から、他の司法官の手にと渡されたのであった。ほとんどの司法官やその助手は寛大で、途中でハウゲに会いにきた友人達と の会話を許した。そんなわけで故郷への旅路は、ふたたび伝道旅行になった。まもなく官憲は、ハウゲを信頼して、ひとりで家へ帰ることを許した。彼はドーヴ レ(DOVRE)山脈から、ギュデゥブランデゥダール(GUDBRANDSDAL)を通って南方へ出た。彼が休息する毎に、どこでも人々がやってきて、彼 の説教を聞きたがった。彼は神の言を明快かつ、燃えるような情熱をもって語ったために多くの悩みをもつ人々は初めて神の息吹きにふれた思いをした。

リ レハンメル(LILLEHAMMER)の北方オイエル(OYER)で、ハウゲがしばらく滞在していた時、そこでも大きな信仰復興が起こった。そして、それ らの者の中から三人の熱心な伝道者が起こった。地区の牧師は教壇から、それら三人の者を次々に公然と非難した。けれども彼らは、牧師の承認なしにその伝道 を継続した。四カ年の後になって、その牧師はつぶやかねばならなかった。「住民の半分までが、ハウゲの熱心な支持者になってしまった」と。

家族のひとりの死

南 方への旅をつづけながら、ハウゲは(MJǾSA)湖の東岸を廻って、数ヵ所で集会を開いた。彼は二三日をへて四月の九日にオスロへ到着した。彼が愛してい た妹のアンネ(ANNE)は、病弱であったが、そのころ霊的な悩みに苦しみ、病勢がいっそう悪化している時だった。彼女は家に帰ってきた兄を迎えた後、神 の恩寵についての喜びの音信を、もういちど深く確信する信仰を與えられて、平和な臨終をとげた。一八〇〇年四月十八日、彼女の亡骸はチューネ(TUNE) の教会の墓地に葬られた。いくたびも牢獄の苦しみをなめ、いくたびも暴行を受けたハウゲだったが、アンネの死に際して彼がうけた打撃ほど深刻なものはな かった。彼は悲しみのあまり「もっとも美しい光が地上から消え去った」と、友に書き送った。

第6章 平信徒運動は確立された  1800-1801年

デンマークへの初旅

一 八〇〇年、デンマークのコペンハーゲンですごしたひと夏は、ハウゲがその生涯を通じて、最もよく働き、最も豊かな収穫をあげた一時期であった。旅行の目的 は二つあった。一つは彼の初期の著作の再版のためで、ほとんどその残本がなくなっていたのである。第二の目的は、彼の事業に対して政府の援助は受けないと いう彼の信念を証明するためであった。ペーデル・メイエル(PEDER MEIER)とクリストファー ・グレンランド(CHRISTOFFER GRǾNLAND)と名乗るオスロの出身の二人の青年が彼に同行した。メイエル(MEIER)は、ハウゲの著書の荷造りとノルウェーへ積み出す仕事を手伝 うためであり、グレンダール(GRǾNDAHL)は、印刷術を見習う為だった。ハウゲは初期の品切れになっていた著作の再版の外に、新著「キリスト教について」(DEN CHRISTELIGE LǼRE)と題する九百頁の彼の説教集を出版した。さらにコリンス(COLLINS)著 CHRISTELIGE LEVNEDSREGLER も印刷された。本書は信仰生活の成長のために必要な日毎の霊的活動について教えるものだった。

第三の出版書は「キリスト教教育の基礎」(CHRISTENDOMMENS LǼRDOMSGRUNDE) であったが、これは大変、誤解を招きやすい題名であった。実は、本著は「ハウゲの平信徒運動情報」ともいうべき内容のものであって、二部作として出版さ れ、一八〇四年に、第三部が追加された。本書の目的はキリスト者のために一冊で、多方面の要求を満たすことをもくろみたもので、ハウゲが同志との間で交換 した手紙や、ハウゲ自身が書いた金言や、コリンス(COLLINS)やポントピダン(PONTOPPIDAN)など、 世評に高い信仰書からの抜膵などを集録し、それに、さんび歌をも加えた。ハウゲは編集と校正に当たったが、後で親友達の間に書簡を送り、特に彼らがよいと 思った書簡についての批評を求めた。これらの文献の中に、重要な人物や場所があげられているので、ハウゲの平信徒運動を研究する人々にとって今では非常に 価値の高い資料となっている。ハウゲはまた経外聖書の印刷にも手をつけたが、出版されたのは翌年のことであった。

ハ ウゲはヨハン・ティーエレ(JOHAN THIELE)と呼ぶ印刷工と以前から知りあいになっていたが、この男は印刷の全工程を扱い得なかったので、ハウゲは印刷業者を他に求めなければならな かった。ハウゲは次のように書いている「そんなわけで五軒の印刷業者が、私の著書出版のために働いてくれた。そのうちの一印刷業者は、私のおかげで、四か 月の間、手いっぱいの仕事をもったほどだった。」

ハウゲ自 身、執筆、編集、校正と寸暇をおしんで精励し、製本から荷造りの手伝いなどした。「私は殆んど毎日のように、朝の三時に起きて、夜の十時まで働き通した。 友人のペーデル・メイエル(PEDER MEIER)が傍にいてくれて、あれこれと手伝ってくれ、出来上がった製本は、彼の手によってノルウェーへ積み出された。われわれは秋が訪れるまでに、一 切の用務を済ませたいと思って、体力のつづく限り、昼夜をわかたず仕事に精励した。」ハウゲは出版の仕事に没頭しながらも、なお時間を盗むようにして、コ ペンハーゲンの製紙工場を見学し、その設備を、しさいにわたって頭に叩きこんだ。

  旧著と新著の印刷製本を完了したハウゲはコペンハーゲンの警察署長と、ノルウェーの各教区の警察署長あて、各一冊づつを贈呈した。官憲には敬意を表して一 冊づつの新著を贈呈しておけば、彼らもまた、ハウゲの運動に好意ある態度を示すであろうと、彼は憶測していたのである。

 ハウゲは少年のころから、「神によってたてられる立派な政府」の存在を信ずるように習慣づけられていた。それだけに、彼が神の召命によるものと信じていた運動が、国王および政府によって否定されうると考えることは、全く理解に苦しむところであった。

  ハウゲはコペンハーゲンでの一夏を回顧して、次のような正直な陳述をしている。「私にとって、正直であることと合法的であることとをさけて、外の手段に訴 えるということは全く私の思慮の中にないことだった」と。彼の贈呈本を受け取った権威筋から、何ら不承認の通告が来なかったので、彼の運動の前途には、こ こしばらくの間、干渉の危険は存在しないものと彼は結論した。

 逸脱をチェックする

ハ ウゲは、帰国してまもなく、ノルウェーの東方地区に住む彼の信奉者の間に、宗教的狂信行為があることを知った。宗教的諸集会に出席することが多くの人々の 間で、排外的な関心事となり、家庭と職場を省みない傾向が起こりつつあった。当時、年令僅か二十九才の青年ハウゲであったが、彼はキリスト者の家庭におけ る責任について成熟した立派な見解を説いて廻って、これらの狂信者の逸脱行為を是正することにつとめた。

彼はある時ビルド(BIRID)と呼ばれる小村で検挙された。そして、司法官の農場にあった留置場の中で坐っていると、司法官の老母がやってきて彼に言った。

「あなたのような若くて魅力のある人が、自分を捨てて、世間の見世物になるなんて情けないことではない?」

ハウゲは答えた。「あなたが、その年になって、なお暗愚で、不信仰であるなんて、もっと情けないことだと、私はおもいますよ」

ま もなく彼は釈放され、一八〇〇年の秋の大部分を、オスロ教区の全域にわたって伝道して歩いた。彼の説教の一例で、彼のメッセージを要約していると考えられ るものがミッケル・グレンダール(MIKKEL GRENDAHL)の著書の中で発見される。それは彼がその時の伝道旅行中、極力強調したことがらのくり返しであった。

ほんとうの信仰というものは、神の直接的な語りかけにまつまでもなく、われわれが学んだ小教理問答にある通り、福音と礼典の中に秘められている神の御約束に信頼をおくものでなくてはならない。それが信仰と、正義と救いの方法であるからである。

当時の彼は非常な努力で、仕事に集中していた一時期であった。彼はその体力と霊力の一切を傾けているかに見えた。彼に課せられていた仕事の分量から考えて、人々は彼の健斗と能力に驚いたものである。

「こ のごろの私が経験した悲しみと喜び、たくさんの仕事をかかえての不眠不休の努力、それはほとんど筆舌につくし難いものであった。私は毎日、二三時間しか寝 なかったし、旅行中も、家にいる時もいつでも多くの人々に取りかこまれて、神と聖書についての話をしなければならなかった。私は休むことなく、話しつづ け、読みつづけ、書きつづけた

ハ ウゲによって主に導かれた回心者達の中に、それぞれの職業を捨てて、霊的奉仕者を志す者が多かった。ハウゲは彼自身がそうだったので、別に驚きはしなかっ た。彼にも、此の世的な執着を断ちきる道が、所有財産を売り払ってしまうこと以外にないと思われた時代があったからである。さて彼が始めた平信徒運動は、 今や永遠の生命のために現実を忘れがちな一知半解の時期を通過しなければならなかった。

そ れにしても、問題の影響は深刻であった。なぜなら、ハウゲは彼に従う人々に対して、仕事を放棄し、食事の後の皿も洗わず、彼らの問題の解決を、さんび歌合 唱と聖書朗読に求めるよう教えているという悪評が流されていたからである。せっかく盛り上ってきたリヴァイヴァル信仰復興運動ではあったが、このような風 説が流されては、それをうち消すことは困難であった。もしノルウェー全国民の救霊を目指すなら、神の子達は、怠け者のそしりを受けるような者がひとりもな いように留意する必要があった。どうして人々は、こうもたやすく極端な生き方を選ぶのであろうか? ハウゲはその心理的観察に興味をもたないわけにはいかなかった。

「私 は以前から、無知の代りに迷信を選びやすい人間の傾向に気がついていたが、今ではそれが目にあまるようになってきた。無知と迷信から解放された中道、即ち 黄金律を発見するために、私は全力を傾けてきたし、私を信頼してくれる多くの人々に、その道を示そうとして、私は自らその黄金律を守ってきた」

一 八〇〇年ごろには、 ハウゲによる回心者の数は千人を超していたので、彼らの霊的教育について、個人的な指導と監督をすることは不可能なことだった。彼は出来るだけ多くの人々 と、個人的な接触をたもち、それが出来ない時には手紙を書くことにした。然し彼の同志であった地方に住む年輩の指導者達は、これらの欠陥を見逃し勝ちだっ た。このような傾向が、ノルウェーに起こったリヴァイヴァルのひとつの型だったとしても、それは自然発生的なものではなかった。ハウゲが真剣に努力したこ とは、各地の回心者の群の指導者に、霊的にバランスのとれた、信頼出来る人間を選ぶことであった。彼はたとえ年長者であっても、極端な男は、決してリー ダーに選ばなかった。彼が選んだ男は、神の言の確かさを、実生活の中で経験済みの男であった。彼らは日常の行為の中で、キリスト者の高い倫理道徳の実践者 であるという定評のある人物に限られていた。信仰復興運動の波が全国的に拡がっていくにつれて、その推進力となるものは、組織の力ではなく、第一に訓練、 それから安定を生み出す構想について、先見の明をもつ指導者に負うところが多かったからである。

エイケルの製紙工場

一 八〇〇年の十二月、エイケル(EIKER)に建設された製紙工場の創業を皮切りに、ハウゲによって開始されたリヴァイヴァルは、企業方面にも進出すること によって、その運動の目的を達成しようとした。ハウゲが製紙工場建設に興味を抱いた理由は自明である。彼にもせよ、彼の同志にもせよ、たとえ牢獄につなが れる身になっても、ざんげと信仰をすすめる使信の印刷物は、いつでも神の祝福を人々の間にもたらすに違いない。

ハウゲは彼の著書の売り上げからの収入でエイケル(EIKER)に建設されることになった製紙工場の経費を援助した。同志の 株主六人の共同出資によるものだったが、そのひとりにミッケル・ハウゲ(MIKKEL HAUGE)がいた。ハンスが共同出資者の中に名を連ねなかったのは、彼自ら言っている次の理由による。「私自身の願いは、他の人々に利益を與えること で、私自身の名誉や、利益など考えないで、仕事をやりとげてほしかったのである」

エ イケル(EIKER)の製紙工場はノルウェー南部のクリスチャン達の中心地として有名になった。一八四〇年ごろまで、そしてその後も、そこはハウゲの平信 徒運動のもっとも重要な集会地になった。同地はまたひとつの企業をめぐって、自治的共同社会を建設しようとした点でも、その生産性、効率性がすぐれていた 点でも模範として注目された。四五十名に達する従業員がこの製紙工場で働き、住宅と職業の保證が與えられていた。彼らは長いテーブルをかこんで食事を共に し、ミッケル・ハウゲを指導者と仰いで一家族のように一緒に働くことを喜んだ。多くの身障者にも仕事と宿舎が與えられ、家族に加えられた者の子供達も多 かった。

エイケル(EIKER)の製紙工場は、集会クリ スチャンになりがちな怠惰なクリスチャンに與える直感教育を目的に建てられたものであった。ノルウェーの経済概念から言って、このことは印刷出版業界に決 定的な貢献をすることになった。まもなくエイケル(EIKER)地方には、ハウゲの信奉者たちの出資によって建設された、砕鉱機(STAMPING MILL)、骨粉工場(BONE MILL)、製粉工場、毛皮工場、教会用の鏡や大砲などの鋳造場などが林立することになった。

ハ ウゲはエイケル(EIKER)から北方のハリングダール(HLLINGDAHL)へ、それからヘムセダール(HEMSEDAHL)へ旅立った。そこでは別 な宗教上の誤解が存在したので、訂正するのが彼の目的だった。平信徒伝道者オーレ・オルセン・バッチェ(OLE OLSEN BACHE)はその力強い説教によって、恵みの日のうちに神を見出すようにと、多くの人々の心をかきたてていた。しかし霊的に目を醒ました人々の中にバン グ(BANG)が指摘している通りの誤ちがあった。「熱烈な信仰はあった。然し知恵と霊的な思慮の深さに欠けていた」。多くの信者の中に、「一八〇〇年の 十月四日に審きの日がくる」という巡回伝道者の言葉を信じていた者があった。その日が無事に通過すると、審判の日は新年の夜に変更されたと彼は言った。ハ ウゲは彼らに対して「その日、その時は、誰も知らない」と、キリストが言っておられる聖書の箇所を示したので、彼らはハウゲの矯正の言葉に従った。

 ハウゲとKLOKKER

ハ ウゲがネス(NES)を通過した時、彼は逮捕されて地区の牧師の家に連れていかれた、訊問されるためだった。彼の逮捕を命じた二人の牧師と、教会の合唱隊 の指導者がそこで待っていた。彼らのひとりは「なぜ神様は、ハウゲとその同志の上に聖霊を下し給うたように、わたくし達の先祖達の上にも聖霊を下し給わな かったのであろうか?」と問うた。

ハウゲは答えた「神の相談役であったものは誰か?  神にさきに與えたものがあるので、それを返せと要求しうるものがあるだろうか?」と。

合唱隊の指揮をしていた老人は、狂気のように怒って、彼が四十年かかって達成したものを、ハウゲが、ぶちこわしてしまったと抗議した。

「そんなにかんたんにぶちこわされるような建物を、君はどんな風に建てたのだ。君は教会を、岩の上に建てなかったのだね」とハウゲは追究した。

美 しい自然の風景に恵れたヘムセダール(HEMSEDAHL)とハリングダール(HALLINGDAHL)地区へのこの度の旅行は、ハウゲにとって、特に事 件の多い旅行だったし、伝えられている逸話はユーモアと色彩に富み、この偉大なリヴァイヴァリストの人間性をのぞかせている。

それは冬季の山中の旅行だったので、ハウゲは毎日スキーを走らせて、二里から二十里 の旅をつづけその途中で、毎日二回から四回の説教をした。ある日曜日のこと、礼拝が終った後で、彼は教会の外に出て、降りつもる雪を頭にいただきながら、 農民達に語りつづけた。ある場所では、彼を捕縛しようとした地区の司法官に三百人あまりの彼の友人達が襲いかかろうとしたことがあった。然しハウゲは友人 達に向って静粛にしてくれと懇請し、司法官と連れ立って歩いて行った。

 ハウゲと踊った人たち        

ハ ウゲの逸話の中でも、もっともよく知れ渡っているひとつの事件が、このハリングダール(HALLINGDAHL)に近いオール(AAL)で起こった。ハウ ゲは日曜日のひる前に逮捕され、その日の午後多くの彼の友人達が面会に来たが、許可されなかった。しかしたったひとり司法官が面会を許可した女があった。 彼女は評判の悪い女で、敬虔なハウゲの面前で彼女にふしだらな振舞いをさせて、ハウゲを嘲笑してやろうというのが、司法官のたくらみであった。彼女はまも なく姿を現したが、その頬には涙が流れていた。ハウゲが彼女にキリストの愛について語ったため、罪深い女の心は砕かれたのであった。そこで表にいた群衆 が、ハウゲの部屋へなだれこんで踊り出した。その中にバイオリニストだった司法官の妻もまじっていた。監督バング(BANG)は司法官の妻が大肥満な女であったと、この物語を面白く描いている。ハウゲ自身は次のように事実を語っている。

 「ひとりのバイオリニストと、踊りあがって喜ぶ一団の群衆が部屋へなだれこんできて踊り始めた。司法官の妻が私に手をさしのべて踊りましょうと誘ってくれた。私は、私が歌い出す歌にあわせてバイオリンを弾いてくれるなら、と、言ってさんび歌をうたい出した。 わが身に、罪の宿ることあらざれ  さきの日の如く  今は罪をば捨てし身なれば」

 その時司法官の妻は、私の手を離した。そしてダンスはやんだ。私は聖書を読み、福音を語った。その場に居合わせた人々は、バイオリニストを含めて、私が受けてきた取扱いに同情し、他の人々は泣きながら、私と同じように主の為の受難者でありたいと願った。」

  外にもこんなことがあった。ハウゲがリンゲリーケ(RINGERIKE)へ移送された時である。彼の信仰の友らは長い行列をつくって彼の後について行っ た。彼は法廷で、ある人の自殺についての責任を追及されたが、ハウゲは立派に彼自身を弁護した。その地でリヴァイヴァルが起こった時、地区の牧師はハウゲ を酷評して「ノルウェーが生んだ最大の無頼漢だ」と言った。だがその時のハウゲは、彼の集会に集っていた子供達を見つけて、よく見えるように、そして彼の 説教がよく聞かれるように、子供達を抱きあげて椅子に座らせたほどだったと伝えられている。

  一八〇一年の初春の数週間、ハウゲは国の中央部の山岳地帯に住む人々の間で、いそがしく働いていた。彼はハリングダール(HALLINGDAHL)を出 て、バルデゥレス(VALDRES)の渓谷に入り、そこから北西にあたるヘムセダール(HEMSEDAHL)の山脈に入り、フィーレフェル (FILEFJELL)から、ソグネフィヨルド(SOGNEFJORD)の奥にある小さな町レールダール(LAERDAL)へ行き、舟でガディアンゲン (GADYANGEN)へ、さらに徒歩で、あるいはスキーでボス(VOSS)へ行き、そこからベルゲンへ到着したのが月の中ごろであった。

ベルゲン市の市民権獲得

ノルウェー全国に散在する何百人に達する回心者の生みの親として、また彼らの霊的指導者としてハウゲは次の推進計画を伝えねばならなかったが、それは重大で複雑な問題を含んでいた。彼がベルゲンの市民権を獲得し、商業に従事するための認可をとる決意を発表した時、それをハウゲの平信徒運動の一歩前進だと認めた者は少数にすぎなかった。

  「私の知人の大部分と信頼していた友人達までが、そんなことをすれば、同志達は霊的な精神を失い、世俗の生活に帰ってしまうおそれがあると忠告するので あった」とハウゲは言っている。ハウゲは経外聖書のベン・シラの書(THE WISDOM OF JESUS THE SON OF SIRACH)の一節「商人にとって正義を守ることは困難である」を引用して次のように答えている。「困難だと言っているだけで、不可能だとは言っていな い。もし不可能だったら、私自身、実業界に入ることを誰にも望みはしなかったであろう」と。

 ハウゲが実業界入りを決意した理由の中にかずかずの要因がある。事業に対する彼の興味と、若々しい熱情を見逃すわけにはいかない。また、彼が卓越した才能の持ち主だったことも、彼がはり切って実業界に飛びこむことになった要因であったであろう。

  然しハウゲ派の社会全体に影響を與えるような要因は、個人的な問題に優先して考慮されなければならなかったし、まづ第一に彼がなさねばならないと考えてい たことは、彼と彼の同志にしばしば與えられてきた「浮浪者」の容疑を徹底的にくつがえすことであった。第二の彼の着眼点は、有利な事業を世俗的な人間に支 配させて、クリスチャンが搾取される側におかれたり、怠け者の悪評を受けやすい生活に甘んじなければならない理由はないということだった。第三に、キリス ト者が経営する事業は、信者に有用な働き口を與え、青年達が求めている明るい職場を、彼らの為に備えることになるという信念からだった。

  ハウゲは市民権の下付を待つ間に、ジョン・ハウグバルデゥスタッデゥ(JOHN HAUGVALDSTAD)なる一人物の要請にしたがって、彼に霊的な問題に関する助言を與えるためスタヴアンガー市へ旅した。この人物は、後日、ノル ウェーの教会史の中でも著名な働きをなし、一八四二年に創立されたノルウェー伝道会は、彼が中心となって発足したものである。ハウゲの死後ハウグバルデゥ スタッデゥ(JOHN HAUGVALDSTAD)が、彼の友人達の間に、與えた感化は非常なもので、彼の憂鬱?な人柄の影響は、ハウゲと同時代の人々全般の上に見られるとさえ言われている。

  ハウゲは市民権を獲得して、ベルゲンの市民となると、ただちに計画の実現に着手した。彼は旧友のマーレン・ボエス(MAREN BOES)から一千リクスダラー の資金を借りて、小さな船を買い、商売と伝道を兼ねた航海に乗り出した。彼は北上してスンフョルド(SUNNFJORD)地区へ行き、鰯を仕入れた。ベル ゲンへ帰ると、彼は委託された商品をオスロへ送り、売りさばいて相当の私益をあげた。

  一八〇一年の秋、ハウゲは四回にわたる長期伝道旅行の最初の旅に出た。それは一八〇四年の十二月に彼が逮捕されるまでつづいた。彼は当時なお三十歳という 若さであった。彼の健康状態は最高だったし、心理的、霊的能力においても最高の状態であった。彼がすでに背負っていた責任、彼がこれから着手しようとして いた事業上の責任、それらは彼の全身の力を必要とした。彼が北方の辺地にまで試みた旅行の場合、それは全く強健な体力を必要とするものだった。

第7章 運動は発展をつづけた 1801―1804年


漁師達と共に暮らしたひと冬

九月にベルゲンを去ったハウゲ はトロンハイムへ徒歩で行った。彼の船はトロンハイムフィヨルドの外にあるヒトゥラ(HITRA)と呼ぶ大きな島のアウネイ(AUNǾY)で、彼と会うこ とになっていた。いろんな出来事の多かった長い旅路の涯、一八〇二年の一月一日ころ、彼はトロンハイムに着いた。そしてすぐに彼の船を見つけに行った。悪 天候で他の船が船出を躊躇していた時だったが、ハウゲと彼の船員達は出航して、その目的地イェスリンガーネ(GJESLINGANE)へ着いた。そこは北 トレンデラーグ(NORTH TRǾNDELAG)のフォルデンフィヨルド(FOLDENFJǾRD)の北側にある、中洲と小さな島々からなっている場所である。冬の漁期になるとナム ダーレン(NAMDALEN)やヘルゲランド(HELGELAEND)から何百艘にのぼる漁船がそこに集ったものである。

ハウゲはその冬、漁師達と一緒に暮らした。彼は漁師達の、酒乱、喧嘩、獣的な生活をその目で見た。ハウゲの集会は彼らの注目をひくこととなり、やがては、彼がその日までに一度も会ったことのない激しい迫害に直面することとなった。

漁 期が終った時、漁師達はトロンハイム近郊の乾燥地へ捕縛した魚類を運んだ。ハウゲは船をおりて陸路ベルゲンへ帰ろうとした。然し彼がトロンハイムを出て南 方に向ったとたんに、彼は逮捕されてトロンハイムへひきもどされた。そのころある狂信家に関する二つのケースがトロンハイムの官辺に報告されていたが、ハ ウゲは連?者と目されていた。レクスヴィーク (LEKSVIK)で、ひとりの兵隊が小さな子供を殺した事件があり、ハルツダーレン(HALTDALEN)では狂人の二人兄弟が、殉教者を気取って、初 期の殉教者が耐え得たように、彼らも迫害に耐えうるかどうかを試みようとして、兄弟のひとりが、他の兄弟の腕を握って、燃える火焔の中へつっこんだのであ る。

ハウゲは長官の伯爵モルトケの前で、自分を弁護して、 彼が後で自らビックリした程、傲慢で激越な言葉を使った。もっともその理由は明白であった。彼は前記の二つの事件の発生当時その付近にいなかったのだか ら。狂信者に正しい霊的指導を、愛情をこめて與えるべき人達が、彼ら自ら気遣っている霊的狂信者の指導をおろそかにしていたのである。ハウゲは嫌疑を解く ことに成功し、ベルゲンへ送還された。然しハウゲが、その伝道説教を通し、文書伝道を通して、ノルウェー全国民の間に與えつつあった影響は、前記の狂信者 の事件と共に人々の口から口へ語り伝えられ、デンマーク、独逸にまで伝えられて行った。

エイケル EIKER へ、そして帰郷

ハ ウゲはベルゲンの事業を監督してもらえる数名の協力者をもっていた。そのひとりは彼の義弟であった。彼は協力者との協議、事業の発展情況などを視察した後 で七月にベルゲンを出発した。そして六ヵ月の予定で、山間地帯を訪問し、それからエイケル(EIKER)へ、それからベルゲンに戻る計画であった。彼の旅 行日記を見ると、彼が会った人々の性格と習慣についての興味深い比較観察が記録されている。ソグネフィヨル(SOGNEFJORD)の内部地区に属するリ ステル(LYSTER)の人々についてハウゲは次のように書いている。「人々は勤勉で、質素で、機智に富み、開けてはいたが、彼らが地上のことしか考えて いないことと、成上り者根性は、私を失望させた」と。

ハリングダル(HALLINGDAL)とヌンメダル(NUMEDAL)では、彼は多くの教区を訪問したが、どこでも現世に処する信仰者の態度と、永遠を慕う信仰を培うために、多くの教育指導の必要なことを痛感した。

山 間地区に住む人々は、殆んどといってよいほど、堅実な性格の持ち主であり、神の言に飢え渇いていた。彼らは信仰の証人として信頼の出来る人々であったし、 彼ら自身に対して厳格な人々が決して少なくなかった。それだけに、彼は彼らに対して、罪人を嫌うあまりに、無害な人々を傷つけないようにと、しばしば忠告 する必要があった。

エイケル(EIKER)の製紙工場は、 まだ操業を開始するまでには至っていなかった。しかしミッケル・ハウゲは釈放され、工場の指揮をとることが出来たので、まもなく操業が開始されることに なっていた。ハウゲはここに二週間滞在し、助言を與えることと、見逃されていた間違いの訂正をしなければならなかった。トーレフ・バッケ(TOLLEF BACHE)がハリングダル(HALLINGDAL)での伝道を終えて、エイケル(EIKER)に姿を現した。ハウゲはドランメン の彼の協力者の間に、有能な人物の必要を感じていたので、バッケ(BACHE)を説得して、そこに住みつくようにさせた。

  エイケル(EIKER)からハウゲはオスロへ行った。監督シュミット(SCHMIDT)が彼を呼んで逮捕したのである。監督はひどい聲で、ハウゲは釈明に 手こずった上で、釈放されてチューネ(TUNE)に帰ってから監督に手紙を書いた。ハウゲはオスロフィヨルドを渡ってテンスベルグ(TǾNSBERG)の 近くで、多分製塩工場を視察したらしい。そこから彼はシーエン(SKIEN)へ、そこからテレマルク(TELEMARK)を通過してベルゲンへ行った。

あ る家で開かれた集会は愉快な終幕で閉じられた。テレマルク(TELEMARK)のホーレン(HOLLEN)で起こったことである。ハウゲの伝道集会がちょ うど終ったころ、ブレーメル(BRAEMER)牧師がかけつけてきた。ハウゲはブレーメル(BRAEMER)を招待しておいたし、彼が時間に間にあうはず であったことを知っていたので、彼がした伝道説教の要点をくり返した。ハウゲの態度や話の内容はともあれ、ブレーメル(BRAEMER)は激昂してハウゲ に詰めより、いきなり彼の頬をなぐった。ハウゲは会衆の方に向って冷静な声で言った「さんび歌を歌うことにしましょう。 『 穢れた霊よ、去れ! 去れ! 』 を歌いましょう」と。会衆が歌い出すと、ブレーメル(BRAEMER)牧師はあわてて飛び出した。

  ハウゲ自身は、この事件のことを、彼の旅行日記から省略している。彼は山間地帯の人々と、海岸地帯の商業都市に住む人々との間に見出される性格的相違点を 挙げているだけであった。彼はテレマルク(TELEMARK)についたとたんに、そこに住んでいる人達の、単純で質素な生活を見て、テンスベルグ (TǾNSBERG)やシーエン(SKIEN)の住民の贅沢で虚栄の生活とくらべて目をみはったことである。

極北地帯への旅

 ハ ウゲがベルゲンに着いた時、それはクリスマスに近かった。彼の商売は繁昌していたので、彼は二艘の船でトレンデラーグ(TRǾNDELAG)へ種子を運ぶ 計画をたてた。深刻な種子欠乏に悩んでいることを知ったからである。一八〇三年の一月、彼は四艘の小船隊をつくってベルゲンを出航した。途中でその一艘が 難破したが、乗組員一同が無事だったので、ハウゲは損害を気にしなかった。トロンハイムでは、監督のシェーンヘイデル(SCHǾNHEYDER)がハウゲ に対して、伝道にきてくれるよりも、種子を運んで持ってきてくれることを歓迎すると言った。ハウゲは彼に次のように答えた。「伝道に関する限り、私は常に 信じてきた通り、会も信じている、人はまず神の国と神の義を求めるべきであって、そうさえすれば、他の一切のものがそれにそえて與えられると主が約束され ているからである」と。

 極北への永い旅路は、はつら つたる年小の事業家兼伝道者ハウゲに、あらゆる種類の珍奇な経験をさせた。いつものように、そこでも多くの身の上相談の要求があった。ハウゲがそこに到着 する以前に、二人の平信徒伝道者が、すでにその土地を尋ねていた。イヴェール・ガベスタッド(IVER GABESTAD)とオーレ・バッケ(OLE BACHE)はマールス(MAALS)河とマランゲン(MALANGEN)地区で、効果的な開拓伝道を試みたが、両人は土地の人々に、それぞれの職業に忠 実でなければならないと教えることを怠っていた。キリスト教は世俗的な働きをやめるべきだというのは、古くから一部の狂信者の間で犯されてきた誤謬であ る。ハウゲがこの度の旅行を計画した理由はそのような誤解は急いで訂正しておかねばならないと思ったからである。聖書の教える真理と、それについての説教 を、職業尊重の立場で説くこと、それがハウゲの旅行目的であったが、彼はそれ以上のことをした。この度の旅行で特筆しなければならないハウゲの仕事は、職 業的可能性の発見で、彼の友人達が、後で立証して見せたところである。彼のやったことは、国家の経済的発展に大きな貢献をしたことになった。人々は北へと 北へ移住し、自然資源を開発し始めたからである。

  イェスリンガネ(GJESLINGANE)では、ハウゲは彼の友人のアルント・ソレム(ARNT SOLEM)のために漁場を買った。ノールラン(NORDLAND)では、彼は有望な鉄鉱があることを耳にした。またロイ(LOY)島が売りに出ているこ とを知って、彼はクリストファー・ブラテング(CHRISTOFFER BRATENG)にそれを買わないかとすすめた。 バルデュダーレン(BARDUDALEN)では、彼はノルウェー最大の瀑布バルデュフォスセン(BARDUFOSSEN)を尋ねた。実践的で、空想的な彼 の心は、いつでもその目で、有益な仕事を追っていたのである。

 彼がここで注目したことは、瀧から落下する水流を減らすことと、その流れを変えることであった。そうすることによってそれも製材工場や????そ の他必要が痛感されていた数種の機械工場の動力源とすることであった。木材もそうすることによって低地へいかだにして送ることが可能となる。白樺や赤松の 林が耕地のため焼かれていたので、灰も適当に集められたならポタッシュ(ジャガイモ)の製造に利用出来るはずであった。「私はドーブレ(DOVRE)山脈 地帯のオップダル(OPPDAL)の人々に、ポタッシュ製造のボイラーをかしこに設置してはどうかとすすめた。」

スキーでサルツダレンへ

1 回の冒険で、ハウゲと彼の同僚達は生命を失うところであった。大吹雪でサルツダーレン(SALTDALEN)への道は、スキーにたよる外なかった。ハウゲ のために山地の案内役をしてくれる男がいた。四十八時間の危険な冒険旅行の後で、彼らは道に迷ってしまった。彼らが携えていた少量の黒パンと肉は食いつく してしまった。彼らは疲労で力がつきはて、ハウゲは病気になった。彼らは雪上に横になって休息をとることにした。ハウゲはコンパスを取り出して現在地を調 べたところ北東に行くべきところを南東に進んでいたことを発見した。方向を転換して数里進んだところで、高い山の背へ着いた。彼らはそこから目的地を望見 することが出来たが、なお十四里の距離があった。ま夜中ごろ、彼らは一軒の家にたどりついたが、倒れこむようにして、その家の人に迎えられた。食事を與え られた後、たった二時間の睡眠をとっただけで、ハウゲは床を出て、家族の人々と共に教会へ行った。礼拝後、彼は数名の人々と会談し、再びフンデホルメン (HUNDEHOLMEN)に向って旅立った。この事業は、ハウゲが異常な体力の持ち主であったことを示している。

ラップ人とともに

フィ ンランド人やラップランド人との接触から、ハウゲは多くのことを学んだ。彼らがバルスフィヨルド(BALSFJORD)で鯨を捕獲するやり方について、ハ ウゲは詳しい説明を書いている。彼が到達した極北の地点トロムソ(TROMSǾ)でも、ハウゲは教会を訪れ、後でフィンランド人に話しかけている。

「私 はトロムソ(TROMSǾ)市に着いてから教会を訪れた。そしてその後で多くの人々と会い、キリスト者の任務について語った。彼らのある者はノルウェー語 を理解したからである。彼らは私のメッセージをラップランドの人達に通訳してくれた。彼らのある者は、神の言を聞こうとする願いを明らかにし、数名のもの は泣いて神の言に聞き入り、福音を受け入れる態度を示した。」

 全 体として、北部ではハウゲはたいした迫害は受けなかった。しかし不親切な取扱いをうけた。それは文化の欠乏のせいもあったが、神の使信に対する意識的抵抗 が見られた。数カ所では、宿泊を断わられ、食事の提供さえ拒絶された、それほど土地の人々は疑いの目で彼を見、露骨な敵意を示した。

  彼はどこへ行っても、そこで交わった人々について、詳細な観察を下している。イェスリンガネ(GJESLINGANE)では、興味深いいろんな人々が集 まった。「どこの教区でも、われわれは言葉の発音、習慣、それから道徳観の違いを見出すことが出来た」 ハウゲはラムダーレン(NAMDALEN)とブリニーエ(BRYNIE)教区の人々を愛した。なぜなら彼らの中には、よく読書し、物事について深く考える 型の人々で、責任感が強く、礼儀正しく、そうした立派な生まれつきの徳性を発揮する者があったからである。

  ハウゲの船はイェスリンガネ(GJESLINGANE)より北上はしなかった。そこで彼は魚を積み、乾燥場へ輸送した。ハウゲがさらに北方に向って旅行を つづけている間に、彼の所有船の一艘の船長が専売法に違反する行為をした。それはセンヤ(SENJA)地区の交易権はトロンハイムの商人の独占するもので あったからである。ハウゲは罰金を支払わせられ、そのうえ嘲笑される結果となった。このようなことが起こる度毎に、ハウゲがその同労者と使用人に対して、 最低生活をしい、余分の金を聖なる献金箱に入れさせていたという悪評の種にされたのであった。

旅程完了

セ ンヤ(SENJA)からハウゲはブレンネイ(BRǾNNǾY)へ出帆した。そこでも力強い霊的目醒めが起ころうとしていたが、極北の各地の状況と同じで聖 書的な指導の必要性があった。ナムソス(NAMSOS)に近いスールヴィカ(SURVIKA)では、ハウゲはオタール・カルセン(OTTAR  CARLSEN)のために下宿屋を買った。やがてハウゲは、地方長官が、司法官に命令して彼を逮捕させようとしている事実を知った。そこで彼 は急いでトロンハイムへ行きギュデゥブランデゥダーレン(GUDBRANDSDALEN)へと旅をつづけた。彼はイェステルダーレン (ǾSTERDALEN)のトールゲ(TOLGE)へ行った時、クリスチャンの友のひとりが銅鉱を発見したということを耳にした。ハウゲはさっそく会社を 組織し、採鉱を始めた。しかしその繁栄は長続きしなかった。

ハ ウゲはオスロ地区へ着いた時、多くの町や、田舎の村々をたずねた。彼はその北辺地区訪問旅行について多くのことを報告したかったのである。聴衆の中には、 北辺地区へ移住して、事業を起こすと同時に、キリスト者としての働きをするよう、立ち上った献身者の数家族があった。いまひとつの目的は審判の日がきょう 明日にもせまっているという誤った信仰が再び芽を出さぬよう確かめておきたかったからである。

オ スロの監督下の人々に、ハウゲは特別な愛情と関心を抱いていた。彼はノルウェー国内のどこの地区よりも、オスロフィヨルド周辺の町村をくまなく訪問した。 ハウゲの単純な証言を用いて、驚くべき業をなし給う神を、彼が発見したのは同地であった。土地の人々が、ハウゲのことを「東方の人」と呼んでいたのは自然 なことである。彼もまた彼らの中から最初の回心者と、信仰復興運動の同志が與えられたことを忘れなかった。ノルウェー全国民の霊的生活のためにも、ノル ウェーの東部地区のクリスチャンの間に、正しいキリスト教の宣教と健全な生活が民家の間に営まれることが望ましかったのである。

ハ ウゲはまもなくふるさとのエイケル(EIKER)に帰り楽しいふんいきの中で暮す身になった。例の製紙工場はフルに操業していた。そこから彼はまたチュー ネ(TUNE)へ行った。彼の北辺地区への伝道旅行は、そこで完了したことになった。彼が一八〇四年のくれにベルゲンへ帰るまでに、彼がノルウェーの南部 で、どんな働きをしたか、別に語ることにしよう。

1803年の秋、フェーネフォスで

ハ ウゲがいつ家へ帰ったか、そしていつふたたび家を後にしたか、正確なことは分っていない。年が暮れるまでに、彼が成し遂げた働きの分量から判断して、彼が チューネ(TUNE)を去ったのは九月中のことであったろう。ひとつ確かなことは、彼がテレマルク(TELEMARK)の一部とセッテスダーレン (SETESDALEN)までの伝道旅行をしたことである。

こ の峡谷地帯の人々は、一般的にいって、彼らが受けた教育程度相応な、強健で質素で、生産的な人々であった。彼らはまた聖書についても、その他の書物につい ても、決して貧しくない理解をもっていた。彼らのある者は、その観察力において、尖鋭さと能力においてすぐれていた。私の目について最大の邪悪は、彼らが 強いブランデーとビールを聖日の御祝いに暴飲することだけであった。

セッ テスダーレン(SETESDALEN)のエブイェ(EVJE)教区にビグランド(BYGLANDFJORD)に源を発するオトゥラ(OTRA)河が、瀑布 となって落下するフェーネフォス(FENNEFOSS)がある。ここでもハウゲはキリスト者の労働と礼拝のセンターとして、また利潤の多い生産事業の開発 を夢みた。「ここに私は製紙工場をたてた」と彼は記録に残している。かくしてフェーネフォス(FENNEFOSS)は、イェステゥランド (ǾSTLAND)のエイケル(EIKER)のように、セールランド(SǾRLANDET)のキリスト者の中心地になった。フェーネフォス (FENNEFOSS)のひとりの友人が、ハウゲに書き送った手紙の中に、新しく出来た工場が、宗教生活に與えた貢献を、次のようにかいている。

「当地の多くの人々は、神の言を熱心に聞こうとしている。そしてわれわれが建設した工場の発展をみて驚いている」

ハ ウゲが峡谷を通って南方のクリスチャンサン(KRISTIANSAND)に向って進んでいた時、彼は多くの同伴者と一緒だった。ハウゲに対する彼らの愛情 と、情熱は無制限だったと言ってもよいほどで、ハウゲと語りあう機会を楽しみにして、どこまでもついて歩くことを厭わなかった。このことは、彼らがハウゲ に対して、信頼の出来る助言者、また友人として、彼らの中に占めていたハウゲの地位を格づけるものである。ハウゲは、彼らの情熱の行すぎを制御しようと努 力したことを書いているが、同時に、それらの人々の多くが尊敬に価するキリスト者の生活を営んでいたこと、彼らの実際生活を常に改善しようと努力しつつ あったことを喜んでいたのである。

1804年 クリスチャンサンで

ハ ウゲは、トロムソ(TROMSǾ)への 旅と、その帰り道で、二冊の本を書いているのだが、いつそんな時間があったのか、驚嘆に価する。北方への旅行中、彼は祈りについて一冊の本を書いた。著書 の題はそのまま内容を語っている。「神の子達の、創造者なる神との会話についての反省、父なる神に対する週日の朝な夕なの祈りと、食前食後の祈り」ノール ランド(NORDLAND)からの帰り道に彼が書いた著書の名は「マルチン・ルターの教理問答にしたがって、五部に分かれた律法と福音についての解説」で ある。

後者は、特に聖書研究者の興味をひいた。彼はその中 で使徒信条の第二項の言句を問題にしている。彼は「よみにくだり」は、「死して葬られ」の前に置かれるべきであると主張する。彼は「よみにくだり」とは 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という言葉に表現されているキリストの霊の苦悩を言い現すものだというのである。キリスト はその死の瞬間に「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と言われた。

ハ ウゲは次のように主張する「キリストがその死後に地獄へ降り給うたという事実は、聖書のどこにも書いてない。聖霊の証言もない。彼の霊が彼の肉体を離れて いた間に、彼は地獄へ行くことが出来た、彼の霊は神から離れて地獄へ行くことが出来たと考える根拠は発見されないと。キリストが「獄に捕われている霊ども のところに下って行った」(ペテロⅠ 三章十九節)という聖句とどう調和させるかという困難な問いに対してハウゲは言う「それは主の御復活後にあったことだ」と。

監 督バング(BANG)は、ハウゲのこの主張を批判して次のように言っている「ハウゲは、「よみにくだり」が「三日目によみがえり」の前におかれているか ら、キリストの死の直前になにかがあったことを意味すると考えたところに誤謬がある。キリストは「肉においては殺されたが、霊においては生かされたのであ る」(ペテロⅠ 三章十八節)。地獄にくだり墓にあったその肉体の御復活が成就する前に、獄に捕らわれている霊どもに福音を説き給うたのである」。ハウゲのこの点に関する 教えは、彼の個人的な冒険的提案に終ってしまった。重要なことは、ハウゲがそのような発見から何を学びとったかという点である。」

 この解釈に対して、人がどのように思うにせよハウゲが試みた系統的説明自体、彼がいかに独自の考察に徹し、その所信を表明するに大胆であったかを証明するものであろう。

  前記の二冊の本は一八〇四年の初めに、クリスチャンサン(KRISTIANSAND)で発行された。このころ「キリスト教教育の基礎」の第三部も出来上 がった。本書の初期にハウゲのリヴァイヴァル運動の機関紙の一種として紹介したものがそれである。古い著書のうち何冊かが再版された。それらの中には教職 に対して苛烈な批判を加えた「平凡人の学問と、無力なものの力量」がある。「最も攻撃的な表現」の一節は、後日内務省が指令したハウゲ逮捕の理由として引 用された。

 ベルゲンへ ―― そして商売を

 クリスチャンサンを出て西部へ旅立ったハウゲはセッテスダール(SETESDAL)での経験をくりかえさねばならなかった。あまりにも多くの人達が何里も彼と連れ立って歩くので、彼らの時間を尊重して、集会をするために時々休息した。しかし群衆を収容しうる大きな家を見つけることは容易でなかった。

スタヴァンガーからベルゲンへ行く時、ハウゲは便船を利用した。彼が市民権をとったベルゲン市へ帰還したのは、北辺地区への伝道旅行に出発してから一年と三ヵ月後のことであった。彼はほとんど徒歩で四千五百里を踏破したのであった。

ベ ルゲンへ帰ってからの彼は、経済企画の天才としてキリスト者の社会に奉仕した。スンフィヨルド(SUNNFJORD)のフローレ(FLORǾ)の南西に売 りに出されていた島があった。彼は今ひとつの霊的な灯台をたてたいまぼろしを見て夢中になった。キリスト者の愛情と、勤勉の模範を示すことによって、同地 区の人々を祝福することが出来ると思ったのだ。彼はただちにそこに出掛けて島を買い、ハリングダール(HALLINGDAL)から若い夫婦を呼んで、そこ に住まわせた。

ベルゲンの近くに、ハウゲが買入れ酒乱を克 服させるためにひとりの友人に貸し與えていた家があった。そこには三軒の製粉所があったので、彼に監督の責任を任せた。責任をもたせられると古い飲酒癖を 克服できるであろうというハウゲの念願からであった。それがうまく行かなかった時、ハウゲは同志の夫婦に、その仕事をやらせた。そして事業は繁栄した。

た だひとつ、ハウゲがやったことで完全に失敗した例がある。ハウゲはドランメンにもって行けばいい値で売れる見込みで、オスロで大きな船を買ったことがあっ た。それが売れなかったので彼は大損をし友人のトーレフ・バッケ(TOLLEF BACHE)から金を借りた。彼はその手紙の中で、自分のやったことが賢明でなかったことを認めている。しかし全体として彼の商魂によって、ハウゲの同志 達は、物質的に恵まれたといってよい。彼がベルゲンを去った時、彼の頭の中は計画でいっぱいであった。彼はデンマークへ、木材、鉄、馬を輸出して、その帰 り船で穀物を輸入しようとした。

第8章 自由の身もあと幾月  1804年7月―10月まで


一八〇四年の七月、ハウゲはベルゲンを去った。そしてクリスチャンサンへ向けて出帆し、デンマークへ渡った。バング(A.C.BANG)は、ハウゲが途中 で出会った漁師のことを語っている。ハウゲが彼にどんなことを語ったかは不明であるが、別れ際に一冊の本を手渡しひと言ふた言語ったようであった。この漁 師はその本を一生大切に持ち歩き、七十歳になってから、神への信仰を告白した。

ク リスチャンサンで、ハウゲが気がついたことは、彼が要注意人物になっていたことだった。彼のひとりの友人は、デンマークの国務省が、ノルウェーとデンマー クの監督および地方長官あてに出した通告を見せた。その内容は、ハウゲとその同志についての情報を提供されたいということで、理由はハウゲが非合法な事業 に従事しているという報告を受取ったからだということであった。「わたしは、この通告を見たときびっくりした。私自身、私の意図や、私のやり方に法律に違 反する面がないことをよく知っているのに、官憲は、単なる照会があったからとて、ただちに人を罪人扱いするとは信じ難いことだった。」とハウゲは回想して いる。

 ハウゲのこの驚きは、事実に対する政府の公明さについての、彼の素朴な考え方をばくろするものともいえる。後で明らかになることだが、彼の活動を抹殺しようとする計画が着々と進捗しつつあった事実について、彼は全くつんぼさじきにおかれていたのであった。

監督 ペーデル・ハンセン

ク リスチャンサン(KRISTIANSAND)の監督で、デンマーク人の合理主義者だったペーデル・ハンセン(PEDER HANSEN)は、前年彼が、発表した牧会書簡で、ハウゲの同志達に深刻な打撃を與えた。彼がクリスチャンサン(KRISTIANSAND)から、デン マークのオーデンセ(ODENSE)へ転任を命じられる少し前のことだった。彼は、自分の管轄区内の牧師達に、狂信的信仰の原因、性格、資料などを挙げ、 それを阻止する最善の方法は、浮浪者で予言者を名乗るハウゲと、彼に従う同志らを追放することであるとその書簡の中で述べた。

  合理主義神学の青くささは、狂信的信仰を批判する監督ハンセン(HANSEN)の牧会書簡にばくろされている。「純正キリスト教は、信者が子供のような信 頼と確信をもち、聖潔すなわちキリストがわれわれに対して與えられた義務をはたすために真剣に努力し、主の模範に似るものとなって、神を喜ばせることであ る」と彼は書いている。もっと悲むべきことは、このような人間的な意見しか述べられない合理主義神学にたつ牧師にとっては、真に福音的な信仰、謙虚な人々 によって信ぜられている信仰の内容を理解しうる筈がないということである。

  ハンセン(HANSEN)はポントピダン(PONTOPPIDAM)の解説を使うことをやめ、式文の中にある超自然的な表現を書き改め、新しいさんびかを 受け入れようとした時、反抗にあったためにクリスチャンサン(KRIST IANSAND)の平信徒達に対して悪感情を抱いていた。彼は、反対者はハウゲ一派のものと思っていたが、それは誤解で、彼の改革案に反対した者は外のグ ループの中にもあった。

 一八〇四年の四月、ハンセン(HANSEN)はレンネスェイ(RENNESǾY)のハイベルグ(HEIBERG)牧師からハウゲ一派に対する苦情の手紙を受取った。ハンセンはコペンハーゲンの政府に対して、ただちに強硬な手紙を書いた。

 私は、H・N・ハウゲが、個人として、また彼に属する者らと共に、いまやノルウェーの王国全土をわんとしつつある、無礼な、僭越な迷惑行為を、一刻も黙って見ているわけにはいかない。

  ハンセンは同一書簡のなかで、ハウゲは革命的野心を抱いているといい、マホメッド教徒の指導者アブデゥール・ヤハブ(ABDUL YECHAB)とハウゲを比較している。ヤハブ(YECHAB)はイスラム教の浄化をめざしてトルコに対して血みどろの聖戦を開始した男である。その聖戦 は、ハンセンが、ハウゲを非難して、国家にとり危険な人物だとデンマークの大使館書記官に書き送った年の前年一八〇三年には、なお交戦中だったのである。

  ニールス・シヴェルツセン(NILS SIVERTSEN)は、デンマークの大使館がハウゲに対して積極的な行動を起こしたのは、クリスチャンサンの監督の手紙によるものだという意見を述べて いる。今やハウゲはノルウェーの二重王国制の解体と独立獲得運動を煽動する政治的脅威と見られることになった。ベルゲンの監督ブルン(BRUN)はハウゲ のために、信書を與えて、彼は一七八九年の革命以来フランスのヤコービンス(JACOBINS)によって助成された政治的急進派に属する人物ではないこと を保証した。しかし彼はハウゲの同志達の企業精神とその活動に対して、政府は注目すべきであると言った。ブルン(BRUN)がこんな手紙を書いてから六年 後になってハウゲの伝道に対する政府の見方は大きな変り方をした。最初は全然危険のない宗教運動だと思われていたが、今や恐るべき下層階級解放運動の姿を 見せてきた。原動力は宗教的霊感によるものだが、今や経済的財政的基盤をもった運動となり、その指導者の統率力には、恐るべきものがあった。特に農民の間 でそうだった。

その他の文書による攻撃

 ハ ンセンの手紙は、ハウゲを警戒せよと政府に訴え出たノルウェーからの最初の手紙ではなかった。コペンハーゲンで発行されていた月刊宗教誌に、ノルウェーに 駐在していたデンマーク人の牧師エイレル・ハーゲループ(EILER HAGERUP)の手紙が掲載された。それは一八〇三年のことだった。ハウゲの名をけなすために、冷笑的な文句でうまく書かれていた。そのなかにはトロン ハイムに近いラインステゥランド(LEINSTRAND)で、ハウゲはお人よしの改宗者から二、三百リクスダラーにのぼる全財産を巻きあげたという報告が あった。ハーゲループ(HAGERUP)はまた、筆にまかせて彼が会ったハウゲとその一味の風采や、癖を冷笑的に書きまくった。その手紙は悪意にみちた次 のような文句で結んであった。「このような邪悪をまき散らすものよ、呪われよ・・・」

 ハウゲが執筆した書物は、とくにハーゲループ(HAGERUP)をいらいらさせた。彼は、彼の第二の手紙の大部分を費やして、彼がいう「特筆すべき全くの狂信」に対して、ありったけの悪罵をあびせかけた。

  「・・・これらの著作は、国家の位置と、土地所有者の位置を危くするもの、神の教えと道徳についての狂気じみた意見、真の宗教と道徳を傷つけるもの、何も のをも擁護するものではなく、全く狂気じみた、全く狂信的な著述である・・この世の中で発見されるナンセンスの中で、もっとも非難に価するもの、聖書につながりをもたない、聖書からの引用句で織りまぜた作文である」と。

  同誌はまたハウゲに対する悪評と、古くから伝えられている噂、たとえばトロンハイムであった殺人事件の責任者は彼だとか、彼はその企業で二十万リクスダ ラーを儲けたとか、飢饉に際して穀物で改宗者をつのったとか等々、書きたてた。そんなわけで監督ハンセンの手紙がコペンハーゲンに着いた時、当初、証拠の ない情報として伝えられていたことからが確証されたとして、教会の指導的地位にある聖職者の名声があがめられることになった。デンマーク政府は、今やハウ ゲを沈黙させることの必要を痛感しだした。ハンセンの非難はこうしてハウゲにとって大変な打撃となったが、今ひとつ、ハウゲの運動の非合法性を指摘する者 が別な方面から現れた。

北辺からの報告

 一 八〇四年の六月二十三日、政府は一通の報告書を入手したが、その内容はある特定の犯罪容疑に関するものであった。一年前のことであったがハウゲ所有の船の 船長が、トロンハイムの商人が交易を独占していた地域で、越境商取引をした事件があった。ハウゲは罰金を支払った。ところが当時の調書が政府へ送付され、 末尾に次のような意見がそえてあった。「ハウゲは聖人の仮面をかぶって、市民達の所得から利益をだまし取り、彼らの素朴さを利用して、自分の富をきずき上 げている」と。もちろん、ハウゲは同志達との合意で、使用者に支払った給與の外に純益として残ったものを、福音宣伝のために使用することと、使途について は一任されていたのである。地区の司法官が長官に送った報告書には「最低の生活を保証するだけの給與を支払って、その残りの金は悉く、神の栄光と、御名が あがめられることと、人々の回心のために使われることになっていた」と書いてあった。もしそれがハウゲと同志達の間で交わされてあった取りきめであった ら、そして使われていた人々に適切な給與が支払われていたとすれば、違法呼ばわりされる根拠は何ひとつなかったのである。

  地方長官は、地区の司法官がハウゲを罰金刑で済ませたことを残念がった。そこでハウゲが、被使用人の給與のピンハネをしているらしい含みのある言葉を発見 した時、彼はそれを追究することにした。事実、彼の報告書の中には、雇人の給與(FORTJENESTE)の一部をハウゲがピンハネしていたと書いてあっ たのである。

 大使館は、ハウゲのために犠牲になっ ている人々から事実を聞き出して、ベルゲンの長官のもとに報告するように命令した。フィンマルク(FINNMARK)のマランゲン(MALANGEN)か ら、ハウゲの有罪を確認する報告が到着次第、直ちにハウゲを逮捕せよとの指令がベルゲンへ送られたが、郵便の遅着により、マランゲン(MALANGEN) での諮問は六月まで開始されなかった。その間に、政府は別な行動を開始していた。

 一八〇四年六月日、 デンマークの大使館書記官はノルウェーとデンマーク両国のすべての教会の監督と、地区の長官達に対して通達を送った。ハウゲはそれを七月にクリスチャンサ ン(KRISTIANSAND)で読んだ。その内容は、短文であるし、重大な意味をもっているので次に収録することにする。

  「本省は、ハウス・ニールセン・ハウゲと、その放浪癖のある同志達が、狂信的な教と書物をノルウェーの庶民の間に配布し、献金をうけ、国家の最高権威者と 教職に対する不信感を起こさせ、生活の資をうるための勤労意欲を喪失させ、気の弱い人々を絶望させつつあるという報告を幾度も受取った。そこで本省はその 職責上、名誉ある各監督(および地方長官)方が、それぞれの管轄区域内のハウゲとその同志達の活動についての、正確な報告を提供するよう、また各位が、最 も効果的だと確信される、弾圧方法について意見を提供されるよう要請する 一八〇四年七月二十日 デンマーク国 大使館」

 七月の終りごろにはたくさんの回答が、コペンハーゲンへよせられた。それらは急いで書かれたらしく、事実無根の悪罵嘲笑がいっぱい書かれてあった。

  ハウゲの責任を問いうる材料を見出すには、彼の古い著述を調べればよかった。さきにも述べたように「平民の学問と無力な人々の力量」は、その年の初めにク リスチャンサンで再版された。それは一七九八年、ハウゲが回心してから二年目、そしてオスロで彼が八日間の間に二回逮捕された直後に書かれたものである。 同書の内容は、ハウゲ自身が認めているように、権威に対する無遠慮な言葉が使われていた。

 「此の世の牧師達は、悪魔の会堂で学び、シモンと同じように、聖霊を金で買へると思っている。彼らは私の著書を悪魔のように批判しながら、悪魔の道具になっている自覚がなく、彼ら自身の腫物を切開する必要を無視している」

  これに類する表現は、コペンハーゲン市の司法官の目にとまっていた。ハウゲが一八〇〇年デンマークへ最初に旅立った時、同書を彼自身寄贈していたのだか ら。当初は司法官自身、注意を払わなかったが、気がついた今、彼はこの危険な書物に、彼自身の報告を添えて当局へ提出した。

再びデンマークへ        

 そ うこうするうちハウゲはクリスチャンサンを出発してデンマークへ行くことになった。こんどは六月三十日に大使館書記官から発表された告示を見ていたので多 少は警戒していた。彼はまた監督ハンセンの「狂信者」に対する牧会書簡を見ていた。ハウゲはその後監督の書簡に対する反駁を書いたが、それを発表する機会 をもたなかった。

 ハウゲがデンマークへ旅立ったのは、同地の目醒めたキリスト者の群れから招かれたからであった。彼はまたコペンハーゲンの一流どころの権威者に集まってもらって、自分の見解を聞いてもらう計画をたてたが、それは中止した。

  一八〇四年ごろのデンマークの宗教界を構成していた数種の対立から、ハウゲのデンマーク訪問の結果は、ノルウェーにおけるような成功をおさめることは出来 なかった。彼のそのころの旅行日記は、かんたんで、断定的である。「少数の人々が私との話しあいを喜んでくれただけである」とハウゲは書いている。デン マークでも一八〇〇年から信仰の覚醒がみとめられた。信仰復興の形態もノルウェーの場合に似ていた。職業化した牧師でリヴァイヴァルの本質を理解しないも のや、新しく勃興した信仰的情熱を喜ばないものがいた。バング(BANG)は次のように言っている「デンマークの目醒めた信者達、いわゆる強いデンマーク 人達が、合理主義にかたむいた牧師達に加えた攻撃のしかたはノルウェーの場合よりも急ぎすぎたようである」賜物に恵れていた平信徒のリーダー格ペーデル・ ラールセン(PEDER LARSEN)は、合理主義者のさんび歌を用いようと試みた牧師達の計画を阻止しようとして、牧師の説教、礼典執行、その家庭生活等々をやゆした八項目に わたる告発状を発表した。

 ラールセン (LARSEN)は一八〇三年にハウゲに手紙を送り、ハウゲはオーレ・オールセン・バッケ(OLE OLSEN BACHE)をデンマークへ送って伝道させた。ハウゲの著書は広く読まれ好感をもたれていたが、ラールセン(LARSEN)と、その同志達は、祭壇での礼 典についてのハウゲの主張には失望していた。ハウゲは、ふさわしくない精神状態のまま主の卓上に近づいてはならないと警告し、信者が聖餐にあづかりながら 清められない状態で教会を去らないようにと望んだ。然しキリストの御臨在についての彼の教えは不明瞭であった。この点での見解の相違と、ラールセン (LARSEN)の側のいくぶんかの嫉妬心から、両者の間に張りあいがあった。たしかにラールセン(LARSEN)にはハウゲにまさる教養があった。しか し彼にはハウゲが多くの信奉者をその周辺に集め得たあの親愛感にかけるものがあったと言えよう。

  ハウゲはいつものくせで、デンマークでも、国民性と習慣の観察に興味をもち、デンマーク人はその霊性の救いを求めている人達の間でさえ、ノルウェー人にく らべて、より世俗的であり純粋さを欠いていると結論している。しかしデンマークの農民達が、ぜいたくな王様のような生活をしながら、ノルウェーほど酔っぱ らいがいないことに気づいていた。ハウゲは遠くホルスタインのクリスチャンフェルト(CHRISTIANFELT)まで旅して、モラビアンの会衆達と共に 四日を費やした。彼はそこで外から見たモラビアンの生活、教義上の大きな見解のへだたり、特に「??」には同意できなかったが、それでも彼らのキリスト者の友情に満ちた交わりを楽しんだ。

  ステネルセン(STENERSEN)教授は、一八〇四年度のハウゲのデンマーク巡回旅行を評して、結果がかんばしくなかったのは、あまり旅程を急ぎすぎた からだと言っている。彼の不成功の予感と、彼自身が言明しているように、政府が彼を追いつめている時に、彼は祖国にあるべきだと考えたのであろう、彼がま もなくノルウェーに帰還したのは驚くにあたらない。

  ハウゲがデンマークの首都を離れヘルシンゲェール(HELSINGǾR)へ行き、そこからフレデリクスハルデゥ(FREDERIKSHALD)へ出帆した 時、たった一ヵ月間の伝道の自由が残されていただけだった。しかもその最後にあたって、彼の援助を必要とする者があらわれた。

彼 がフレデリクスハルデゥ(FREDERIKSHALD)から彼の両親の家へ向かって歩いていた時、彼はヨン・セルブレーデン(JON SǾRBRǾDEN)を訪問するために立ちよった。ヨン(JON)は彼の年老いた父が死の床にあった時にハリングダール(HALLINGDAL)へ伝道旅 行に行っていた。ハウゲのその時の訪問は、悲しんでいた息子達や娘にとって、神さまがお贈りになった時にかなった助けであった。

  ハウゲの両親は特に喜び、今度は息子が家に帰ってきてくれたので救われた思いであった。なぜなら全国の官憲と教界の権威者達が、ハウゲの行動に関する多く の情報を集めていることを両親は知っていたからである。チューネ(TUNE)からハウゲはもういちど伝道旅行を試みた。そこの人々は、ノルウェーのどこの 人々よりも、彼の真直な姿勢と彼の朗々たる声に深い馴染みをもつ人々だった。それはオスロフィヨルドの周辺、オスロ、ドランメンを通ってシーエン (SKIEN)の近くのイェルペン(GJERPEN)へ、それからホクスンデゥ(HOKKUSUND)とエイケル(EIKER)へ帰る旅程だった。

  大勢のハウゲの友人達が製紙工場へ集まりハウゲを迎え、ハウゲに説教を求めた。やがて彼が姿を現した時、彼は会衆のひとりひとりと握手し個人的な挨拶をか わし、兄弟としての忠告を與えた。やがて集会は始まり、会衆は「神の言を伝えるすばらしい賜物をもっていた」この人物の、最後の説教に耳をかたむけたので あった。

第9章 ハウゲ逮捕される  1804年10月24日


ある日、私が製紙工場の全景を見守っていると、エイケル(EIKER)の監督管轄区の執行官が、司法 官から派遣されてきたと言って挨拶した。しかし彼が私に用事があるというのはうさん臭いので私は警戒した。私には逃亡のチャンスがあったが、私は官憲を怒 らせることをおそれた。執行官は、路上で私に向って逮捕にきたこと、鉄格子の牢の中に入れてやると言った。その通り私はホクスン(HOKKUSUND)の 刑務所へ入れられた。一八〇四年の十月二十四日の夕方のことである、司法官は私を鉄の鎖で縛っておくように看守に命じた。

 その夜私は静かにそして甘い眠りについた。私の心が全く落ちついていたからであろうか、この一年の間に、かつて経験したことのない安らかな眠りだった。私の良心はひと言も私を責めなかった。私は正しい意図をもって、私の根本が邪悪に支配されることを、全力をもって阻止しようと努力してきただけだった。私には、私が無実の罪に問われている確信があった。

  私の友人のあるもの、また会ったことのない人達がホクスン(HOKKUSUND)の私に会いにきてくれた。そんなわけで獄中の生活も案外たいくつではな かった。ここでも、私の初期のまたその後の企業についての訊問があった。また説教をやめる気はないかという質問もうけた。私は、私の子供らしい教えに従っ て、自分の生活を指導するつもりだと答えた。」

 ハウ ゲの逮捕を命じた政府の回状が十月三十日まで発表されなかったのに十月二十四日に彼が逮捕されたのは何故だったか?  エイケル(EIKER)の執行官イェンス・グラム(JENS GRAM)がハウゲに敵対的な行動に出たのは、個人的な敵意からであったと思われる。彼こそ司法官のコレット(COLLETT)に、ハウゲがホクスン (HOKKUSUND)で集会を開いていることを報告した男であり、欺瞞的な手段で、ハウゲ逮捕の命令を出させた男である。一七九八年のお正月の夜、冬の 夜の静けさを破って馬にはげしくむちをあてながらハウゲ逮捕に向ったイェンス・グラム(JENS GRAM)の裏をかいた大胆不敵なクリストファー・ホーエン(KRISTOFER HOEN)が橇でハウゲを脱出させることに成功したその夜から、彼のハウゲに対する敵意はつのるばかりだったのである。

  しかしグラム(JENS GRAM)にして個人的な敵意から、ハウゲを逮捕出来る場合は、その地区の情勢次第であった。一七四一年の集会禁止法は、平信徒の巡回伝道を禁じていた が、それは当時なお有効であった。一七五〇年の放浪禁止法は一七九八年になって、いっそう強化されることになった。それ以後、ハウゲは旅行許可証を携える ことを忘れなかった。一七九七年の独占法をハウゲが雇っていた船長のフィンマルク(FINNMARK)が破ったが、ハウゲは罰金を支払った。したがって事 件は解決済みであったのに、歪曲されて伝えられたハウゲの「聖なる目的のための献金箱」の真相追究を、政府が命じたのである。六月三十日気付の政府の回状 の中には、ハウゲを逮捕せよという指令はないが、政府が彼を国家にとって危険な人物と注目し始めたらしいことが読みとられる。

  十月三十日気付の政府発行の逮捕状を読むと、ハウゲに対する当局の疑惑は、彼がその著書の中で用いている、不遜な字句と、彼の企業について違法行為がある と事実を曲げてなされた報告書にあるらしかった。十一月一日からホクスン(HOKKUSUND)で開廷された訊問に際して、ハウゲは信仰的な集会を、今後 もやめるつもりはないと断言している。そのことは、彼の伝道使命感と、地区の官憲が危険視していたことを裏づけるものである。

  歴史は知る権利がある、「なぜ政府がハウゲ迫害の挙に出たのか?」彼が逮捕された直接の原因を明らかにするだけでは、結論的な答えは出てこない。内務省の 態度をきめさせた要因のあるものについては、すでにふれた。これらの要因を歴史的に見透し、後で縦横に論じて見たい。

こ こではハウゲ自身のことがらに帰ることにする。十一月一日に行われたハウゲの訊問の結果は大使館に報告され、処置についての指令が求められた。それに対す る回答はハウゲをそのまま監禁し、ハウゲ所有の書物と手紙を押収せよということだった。教区に住む富豪のあるものはハウゲの保釈を求めて、保釈金を積むこ とを申し出たが拒絶された。

ハウゲは完全に、聖霊に頼って いた。真実は明らかにされるべきだった。かりに彼がなおしばらくの間苦難に耐えねばならないとしてもそのことによって神の子らは目を醒まし、祈りに励むこ とであろう。ハウゲはホクスン(HOKKUSUND)の獄中で、多くの手紙を書いて友人達に送った。「私に千の生命があったとしても、神の言の為には、喜 んで鉄鎖につながれるであろう」と彼は言った。ホクスン(HOKUSUND)の獄中の一ヵ月間に、彼は「キリスト教会のための祈り」を書いた。彼は、彼自 身の為に、彼の友のために、また彼を迫害する者のために祈った

「父 よ、あなたは、頑冥な暗黒の中を歩み、あなたの証人、あなたの礼拝者を告発する者の無知の深さを御存知であります。彼らを耐え忍び、もっとも有効な手段を 用いて、彼らの目をさまし、啓蒙し、確信を與え給わんことを・・・またあなたの僕達をして、あなたの真理を擁護するために力を、勇気を、知恵を、謙遜を御 與え下さいますように ! またあなたが私達の中にお始めになった業をなさしめ、あなたの聖なる御名のために、御名を賛美するために、私達の霊魂の救いのために前進せしめ給うよう に」

十一月十六日、ベルゲンにあるハウゲの資産を没収するようにとの指令が出された。十七日には地方長官のラーフン(RAFN)に、ハウゲをオスロのまで厳重な監視をつけて移送するようにとの通達があった。二十日になってラーフン(RAFN)は、代理人のグラム(GRAM)に、その指令を実行するように命じた。護送は夜中、極秘裡に行われた。教区内のハウゲの友人達が集合していたので、ひと騒動持ちあがりそうな気配だったからである。

オ スロへの護送日の旅はことなく実行された。ハウゲは彼の宿敵イェンス・グラム(JENS GRAM)と同席したが、彼が宗教に無関心だったので、ハウゲは国内のあちらこちらに彼が建設した愛国的な企業や設備について語った。彼はそれらの企業が 閉鎖された場合、幾人の失業者が出るかということが、彼の頭痛の種だったのである。しかし彼には確信があった「私は、私も祖国と同胞のために、彼らの現実 の社会生活と、永遠の生命のために能う限りの努力をしてきたのだから」と彼は言った。

かっ ては無名の農夫のせがれだった男、彼が小さなパンフレットを印刷にふしたいと思ってオスロへの最初の旅に出てから八年半のことである。今は政府の手に捕え られ、鉄鎖につながれ、囚人用の車に乗せられて、オスロへの道を揺られながら護送されて行く。行く手に待っていたものは、不当な裁判であり、永いそして残 酷な監禁生活であった。

第3部 ノルウェーの囚人  1804 ―― 1814年

第10章 なぜハウゲは迫害されたか?
       

ある人々は首をかしげて言う、ハウゲは、ノルウェーの囚人だったのか? それともデンマークの囚人だったのか? と。 手続き上の経路を調べてみると、デンマークの首都から発生したハウゲに対する不正な処置に抗議し、ハウゲを保護しようと真剣に努力した官吏がノルウェー人 側にあったことは明らかである。しかしたとえそうであったとしても、ハウゲが本国人のために迫害され、嘲笑され、逮捕され、彼の生国の首都で久しく獄中生 活をしているのだから、国際的係争にするわけにはいかなかった。当時、ノルウェーはデンマークの支配下にあったので、ハウゲの生涯の事には、外国の支配か ら独立をかちとろうとするノルウェーの黎明期に関する興味ある側面を提供するものである。ところで、ここでの問題は「なぜハウゲは迫害されたか?」ということである。その回答は、二重王国制の両方から求めなければなるまい。

  ハウゲ・ニールセン・ハウゲの生涯を各時代の聖徒と並べて展望する時、彼が福音の証人として受難した人々の間に座を占めることはもちろんである。彼は後の 世代の人々からも、その召命に忠実であった者として、また残忍な迫害をうけつつ冷静と威厳を、保った男として、いつまでも聖徒の列に加えられることが適切 であることを認められるであろう。

 ハウゲが不当な取扱いを受けたという事実こそ、彼のための、歴史的証明の必要がいっそう痛感されるわけである。もしハウケが祖国の信仰復興に貢献した男であり、模範的な愛国者であったとするなら、彼の逮捕と投獄を理由づけるものは何だったのであろう。

  ハウゲ伝を最初に書いたのは、後になってからオスロ大学の教会史の教授となり、またオスロの監督になったノルウェー人の牧師A・クリスチャン・バング (A.CHRISTIAN BANG)であった。彼の著書は一八七四年にあらわれた。「青年の新鮮さに満たされていたので、ハウゲと彼の仕事に対する燃えるような情熱を抱いたのであ る。」バング(BANG)はハウゲを迫害した合理主義者の教職者に非難の指をつきつけることをためらわなかった。彼らは、誤謬と迷信をなくして、人々の理 性的な宗教を與えようとする彼らの計画にとって、ハウゲを恐るべき強敵だと見ていたのである。クリスチャンサン(KRISTIANSAND)の監督で、か んしゃくもちで有名だったペーデル・ハンセン(PEDER HANSEN)は「教区の社交場」維持にけんめいだった。それは教会員の小さなグループが集って、よき道徳行為および愛国的感情を養うための読書会、討論 会をもつことであった。この教区の社交場が失敗に終った時、ハウゲの影響によるものだとハンセン(HANSEN)は判断した。彼が一八〇四年の四月に書い た致命的な「牧会書簡」はその結果のひとつの現れである。ハウゲの運動に警戒の目を光らせるよう政府を動かした首謀者が監督ハンセン(HANSEN)で あったこと、当時、合理主義者の教職者の間に、一般的に見られた驚くべき霊性の枯渇状態から、ハウゲが合理主義者によって犠牲にされたんだとバング (BANG)が見たのはうなづけることだ。これがハウゲ迫害の大きな要素をなしていることはもちろんであり、ハウゲの生涯についていつまでも一般に信ぜら れる基礎的な意見であろう。

 いまひとつの考え方を もった一派は、世俗的な歴史家で、ハウゲが監禁され罪の宣告をうけたのは、彼の企業に法律に反する点があったからだと言う。スベーレ・スティーエン (SVERRE STEEN)は次のように書いている。「寛容な時代だったし、無資格者の伝道者がモグリの伝道をやって、人の霊魂を救ったとしても何も文句をいう者はな かった筈である。然し法律を犯して、商売をする者があれば、逮捕されるのはお定まりだろうしマランゲン(MALANGEN)で起こった不幸なエピソード は、この見方を支持するものである。ハウゲが投獄された諸原因を要約する場合、このような見解があったことを無視することは正しくない。」

 最 近出版された最良のハウゲ伝に、ノルウェーのニールス・シベルテゥセン(NILS SIVERTSEN)が書いたものがある。彼はハウゲが投獄された理由について、啓発的な論証をしている。彼はバング(BANG)がいうようにハウゲに対 する迫害は、合理主義に反対する者を掃滅しようと決意していた敵意に満ちた教職者の陰謀だという結論に反対している。ハウゲが教職者が煙たがる批評を書き 初めた時、彼らが示した反応はハウゲに教えることではなくて、攻撃であった。それのみでない、正統派の教職者達も合理主義者の教職者達と同様に、ハウゲの??の鞭を感じたのである。生命のない正統派の信仰は、合理主義と同様に、ハウゲにとって霊的な脅威と見なされたのであった。ハウゲが彼の経歴の中で、最初に出会ったのが、その前者であった。

  国際な場面では、一八世紀の後半になって、重大な事件が相次いで起こった。全欧州に革命騒動があり、庶民達が運命の日の到来をかぎつけていた時である。大 西洋の彼方の新大陸では、新しい国家が生まれようとしていた。シベルテゥセン(NILS SIVERTSEN)はノルウェー国内に起こった政治的不安の例を幾つか挙げ、一八〇四年になって、騒動が起こりそうだというので初めて政府が警戒の目を 光らせるに到ったいきさつを述べている。

 一七六五年 に起こったベルゲンの商船戦争(STRIL WAR)は、農民の勝利に終った。ロフトゥフス(LOFTHUS)で起こった暴動は、改革をもたらした。一七九七年に当時の主謀者は獄死したが、農民によ る暴動の起こる気配はそのままつづいた。一七九〇年になってデンマーク政府は、自国の銀行をもちたいというノルウェーの商人達の強硬な要求を受け取った。 然しこの要求と共に自国の大学を持ちたいというノルウェー人の要求は拒絶された。

  これらの出来事が背景となって、ハウゲの運動は政府を驚かせたのだとシベルテゥセン(SIVERTSEN)は結論する。なぜなら、ハウゲは下層階級の人々 の強固な団結を築きつつあったからである。さらに彼の平信徒運動が、経済的背景をもち、財産の共同所有を示唆するに至っては、十二分に監視しなければなら ないと彼らが感じたのは当然なことであろう。

 然し、 この要素よりも、もっと重大なことは、根本的な感情として反感があったことだとシベルテゥセン(SIVERTSEN)は書いている。ハウゲのような説教を して、人を躓かせない藝当は誰にも出来るものではない。彼の非妥協的な説教は、人々の回心を促す力があったが、ざんげしない者を敵に廻すことにもなった。 この敵に廻った人々の中に政府の役人もあったであろうし、心中の不安から当局に訴え出て、人々の良心を傷つけて歩くこの巡回伝道者を取り締まらせようとし たのかも知れない。ハウゲを誹謗するためのこのような説明が、一八〇四年の夏、大使館(THE CHNCELLERY)に提出されたのである。根本的に言って、ハウゲに対する反感は人間性の現象の中に根ざしているのである。ヨハネによる福音書三章十 九節に「人々はその行いが悪いために、光よりもやみの方を愛した」とある通りである。

  宗教的反感と併行して、社会的反感も現れだした。ハウゲを生んだ下層階級が、おとなしく従順であることを期待されていたが彼らの「迷信」と「無知」は、目 醒めた使徒達よって、矯正の手段がとられねばならない状況にあった。市民や、官吏や、牧師達は、彼らの旅行と読書から、人間が理性を指導者とする場合に起 こる壮大な可能性の幻を見た。同時にまた新時代の教師としての自覚に燃え、指導される者の従順と彼らの感謝を期待した。彼らはこんどの啓蒙運動も、伝統の 示すとおり上より下に降るべきものと思われた。彼らはハウゲの運動が、どの角度から見ても、純粋に庶民階級に根を張った啓蒙運動の表明であることを認めて いなかった。個人の価値、自らの職業を選ぶ個人の権利、個人の才能と所有物の適切な管理権、表現の自由、平信徒にも與えられるべき説教と教育の権利、それ らはハウゲの同志によって信奉された原則であり、人間的自覚と解放の精神を、日常生活に発揮した初期のノルウェー人は、彼らだったのである。トロンハイ ム・タイムスの主筆が、ハウゲと彼の同志を評して、「啓蒙運動の、もっとも危険な敵だ」と言ったのは、彼が、そして彼らの仲間が、平信徒運動の目的も、啓 蒙運動の目的も、正しく理解していなかったことによる。

  ハウゲに対する政府の態度を決定した要因も、つきることがなかった。そのもっとも重要なひとつは、神の業に反する敵意によって動機づけられた伝統的な反対 要因で、此の世のつづく限りいつまでも存続するはずのものである。それは宗教における合理主義的解説者がやっていることとは別なやり方においてではある が、彼らは、宗教的勢力によって推進される、下層階級の革命運動を恐れたのであった。監督ハンセン(HANSEN)が、マホメッド教徒のアブデゥール・ベ テャブ(ABUDUL VECHAB)のことを例にあげていることが思い出される。第三の重要な要因は、ハウゲの同志達の活躍によって、階級の特権が蚕食され初めたことである。 教職者達はハウゲの説教を、そうした意味で怒ったのである。教師達も、彼の著作と出版に腹をたてた。商人達は、彼の企業を心よく思わなかった。そして官憲 は、彼の伝道旅行を迷惑視したのである。第四の要因としていまひとつ挙げたい事実がある。それは、ハウゲの入獄期間中にむしろあてはまることなのではある が。それはハッキリ言い現すことがむずかしく、また文書にすることの殆んど不可能なことである。それは官吏の不感症とか、責任回避とでも言うが、人間の福 祉に関することを取扱う場合の官吏的態度に見られるものである。ハウゲはこの冷たい非人情な無関心さの犠牲になったのだ。次章「官庁のやり方」の中で、ハ ウゲの事件を扱った、官吏の大げさで、時間を浪費する無関心な態度をばくろすることにしよう。

 最後に、「何故ハウゲは迫害されたか?」という質問に答える三つの声明書をここに紹介する。そしてハウゲを長期にわたって訊問し、監禁した決定的要因についての討議をこれで終ることにする。

ハウゲ・ニールセン・ハウゲ・オルディング(HANS NIELSEN HAUGE ORDING)、ハウゲの直系にあたる子孫で、オスロ大学で組織神学の教授であった彼は、次のように結論している。

 政府がハウゲの運動に対して抱いた関心の主要なるものは、宗教的活動に付随して起こりつつあった社会的、政治的影響だった。

 Dr.カーレン・ラールセン(KAREN LARSEN)は「ノルウェーの歴史」の中で、次のように述べている。

  ハウゲとその同志達に対して取られた手段は、宗教的迫害というよりは、長期にわたって安定を保っていた権威と特権を、そのまま維持しようとする努力であっ た。商業上の新しい企画は、時に、市民達が固執しつつあった特権を脅かすことがあった。また平信徒の伝道は、牧師の専門と考えられていただけに、彼らに とっては、やはり干渉と受取られたのである。第三の声明は、DR. B.J.ホブデ(DR.B.J.HOVDE)が、彼の書いた「北欧諸国」の第一巻に掲載されているもので、それは中産階級の登場に関する研究を発表したも のである。恐らくハウゲのような正直な男は、ノルウェー国内にめったになかったであろう、しかし彼の会計簿のつけかたは確に放漫であった。彼の敵はそれゆ えに、ハウゲの宗教活動は大規模な横領をカモフラージュするためのものだったと人々に疑惑の念を起こさせるような悪宣伝をまきちらしたのであった。それに 加えて彼はいろいろな事業に手を出していたということ、彼の同志達が先祖代々の職業(主として農業)を守るという神聖な天則を破っていたということ、それ らが官憲をしてとうとう彼を監禁するにいたらしめたのであった。註釈者の間に意見の一致がないということは、すっきりしたハウゲ観の出現を要求するが、そ れは歴史の上に彼が残した経歴の数々を含むものでなければない。キリスト教信仰の根本的な含意を見破る目をもっている人達はハウゲがまれにみるキリスト的 人格のもち主であったことを認めるにやぶさかでない。彼は弟子の立場についての聖書的認識に従うことに忠実だったし、神と隣人を愛する者の義務を、単純に そして極めて自然に実践する男だった。彼の努力はあらゆる面において非常にダイナミックであったので、官憲が、彼を評して、イエスの弟子達に與えられた評価と同じように、「この男は世界をてんぷくさせた」とまで言ったが全くその通りだった。

第11章 官僚式方式

監 禁

ハウゲが最初に監禁されたオスロの牢獄は、じめじめした泥んこの床の地下の一室であった。彼がそこにどのくらいの期間監禁されていたかは不明である。なぜなら彼は二階の狭いそして薄暗い部屋に移されて、そこで七年の永い歳月を費したのであった。

一八〇四年の十一月二十二日の夕暮、イェンス・グラム(JENS GRAM)が彼をオスロへ連行した日の前日、ハウゲはホクスン(HOKKUSUND)の牢獄から次の手紙を彼の友人達に書き送った。

「いまグラム(GRAM)がやってきて、逮捕状を見せた。私はCHRISTIANIA(オスロ)へ連行され警察署長の手に渡されることになった。地区の総督の指令は厳重で、グラム(GRAM)は必要な場合軍隊の護衛をつけるつもりでいるらしい。

私 の心は平静で、私がさきにも言ったように、神が力をかして下さる確信があるので、死ぬことを何とも思っていない。かりにそうなっても、私は私の主ととも に、危機の中で耐えぬき、祈りをするであろう。私は諸君にもそうしてほしい。私に対するあなたがたの心配、また諸君自身の心配が、人間的な不安に終結しな いように気をつけてほしい。あくまで神を信じ、神の言と御業の前進のためにつくしてほしい。そして柔和な心で、福音を鮮やかに説き、救ひの業を推し進めて ほしい。患難をものともせず、耐えぬいてほしい。もし神がそうされる場合は、彼らをして、諸君を牢獄へ送らしめ給うとも、恐るな。

時 がたてば、私はこの身に霊の衣を着せられることになるのだ。私自身に関する限り、私は喜びにあふれている。しかし諸君に「さようなら」を言う私の心は、泣 いているんだ。感謝しつつ、今、この数語であなたがたと訣別しなければならないと思えば。私が人々に願うことは、救いの道が喜びの道であるようにというこ とだ。それが私の祈りであり、願望であり、関心事であり、そして喜びである。あなたがたと、永遠の御国で再会出来ますように、一八〇四年十一月二十二日  ハウゲ・N・S」

し かし、ひとたび彼がオスロの牢獄に入れられるや、彼は筆をとることを許されなかった。しばらくの間、彼は読む本さえ與えられなかった。彼に許された仕事 は、ただミットと手袋を編むことだけだった。彼はそれを売って得た金で、やっと数冊の本を入手することが出来た。独房の空気は濁っていてカビ臭かった。最 初の一年、彼はたった三回外出をゆるされただけだった。彼に許された貧弱な小遣いでは、彼は必要な品物を買入れるのもやっとだった。彼は厳重に監視されて いたので、友人の誰も彼に面会することが出来なかった。

「最悪な事態は、時のたつのが遅いことである。私は何にもすることがないし、読む本はないし、特に、話し合う相手がないことがつらい」

ハウゲはこうして、逮捕令状が正式に発行される六日前に投獄された。彼の罪名は、友人や隣人の集会の席上で神の言を語ったこと、罰則のない古い法規を破ったこと、事実無根のかずかずの容疑のためであった。

宣 告

十一月十六日、二人からなる調査委員が任命された。そのひとりは警察署長の

ヤーコブ・ヴルフスベルグ(JACOB WULFSBERG)であり、もうひとりは地区の裁判長ヤーコブ・オース(JACOB  AARS)だった。任命書の語調から判断して、デンマーク政府が期待していた結果がどんなものであったかが充分に読み取れた。

ハ ウス・ニールセン・ハウゲなるもの、ベルゲン市の一商人・・・彼は集会の中で・・・著書の助けをかりて・・・彼自身の私益を追求するもの――盲目の群集の 頭を困乱せしめ、馴れた父祖代々の職業を放棄せしめ、国家の憲法と、特に教職者に対する不信感を助長することを目的とする教理をひろめてきたものである。

そ の後で、ハウゲの活動についての報告をもとにする五点の論争が起こり、調査の必要が起こった。政府へ報告された内容は次の通りである。(1)ハウゲは人々 に対して、家を捨て、仕事を捨て、彼とその同志達の説教、すなわち彼らが聖霊の直接的な感動によるものだと主張する説教を聞くために、集会に出席すること をすすめた。(2)彼は「神聖な目的の口実」のもとに、単純な人々にすすめて、彼らの給料の大部分を「神聖な献金箱」にささげるよう説得していた。(3) 彼は子供たちをだまして彼らの両親のもとを去り、彼に同行して、伝道者になるようにすすめていた。(4)彼はその著書の中で、教職者を侮辱する言葉を用 い、国家にとって有害な意見をのべている。(5)彼は初期の訊問に対する答の中で、私的な祈祷会を持つことと、教育的な説話を自粛することを拒否した。

委 員の大勢は「どの犯罪と、またどの傲慢不遜な行為を、彼が犯したか」を明白にすることだった。そこで「この甚だしく危険な人物とその同志達に、当然の懲罰 をあたえることだった。一八〇五年の一月六日 オース(AARS)とヴルフスベルグ(WULFSBERG)は、ハウゲの訊問を開始した。その後まもなく、彼らが辞任を申し出たので、彼ら以上に非良心的 な男が委員に選ばれた。税額査定者ペーテル・コレッテゥ(PETER  COLLETT)はヴルフスベルグ(WULFSBERG)の後任に選ばれた男だったが、つむじ曲りで法律を曲げて悪用することと、役目を怠る ことで、評判の男だった。彼は金持の変り者で、巨万の富を持ち、オスロの社交界では、オスロと、彼のロマンティックな場所に建てられた邸宅との間を往復す る車上で、いつも古典文学を沈読していたといわれている。」

遅 遠

官 僚的な仕事のやり方が、どんなにのろいか、その代表的な一例として、ハウゲの事件の初めから終りまでをみるがいい。一八〇五年の初めにヴルフスベルグ (WULFSBERG)が調査委員をやめた時、地区の総督が後任をみつけたのが十二月の末であった。しかもコレッテゥ(COLLETT)のような明らかに 不適任な男が選ばれたのである。しかしながら非能率だけが、遅延の理由ではなかった。警戒を要する訊問であっただけに、任命をうけた強力な人物も、事件か ら手を引きたくなったのである。コペンハーゲンから送られてきた書類も、全面的にあいまいなところがあったし、同胞のひとりを罪におとすことはノルウェー 人の弁護士にとってのがれたいことであった。彼らにとってはハウゲを罪におとそうとするデンマーク政府の態度が、腑に落ちなかったのである。

訊 問

第 二回目の訊問が開かれたのが一八〇六年の三月二十七日であった。そのころハウゲの弁護士は国王にハウゲの釈放を願ったが、成功しなかった。一方ペーテル・ コレッテゥ(PETER  COLLETT)は、調査委員が入手していた不確実な資料を基礎に、ハウゲを罪におとしていることは、ほとんど不可能であることを発見した。 彼はハウゲを国外に追放することが、最良の問題解決策だと政府に彼の意見を提出したが、回答がなかった。そこで彼とクリスチャン・イングスタッドゥ (CHR.INGSTAD)は、再びハウゲの訊問を開始した。何とかして彼を罪におとしいれる口実を、ハウゲの口から抽き出すためだった。彼らはハウゲを 呼び出して五ヵ月にわたる、訊問を開始した、それは一八〇六年の七月二十一日に終ったが、ハウゲはくたくたに疲れていた。

質問事項と訊問

調 査委員のハウゲに対する態度、詐欺横領と非道徳的行為についての訊問は、残忍を極めた。彼らが訊問を終った時、質問事項をノルウェーの郡裁判官に送った、 そこでまた再訊問が行われることになった。全国のハウゲの友人達のもとにも長々しい質問書が送られ、ハウゲ派の中で演じた彼らの役割、特にいわゆる「聖な る献金箱」または「社会金庫」と呼ばれたものに、ど れほど献金したかについて答えるよう要求された。そして約六百人の証人が査問された。一八〇七年の晩秋になって、この全国的な査問の報告が集められた。十 一月と十二月にハウゲは再び訊問された、そしてコレッテゥ(COLLETT)とイングスタッドゥ(INGSTAD)による調査は終った。一八〇八年の三 月、彼らはその報告書と調査資料をまとめてコペンハーゲンの国務省へ送った。手続き上の次の段階がとられるまで、しばらくの時があった。

控訴は棄却された

 一 八〇七年から一八〇八年にかけて、ハウゲを釈放せよという国民感情は強かった。ミッケル・ハウゲ(MIKKEL HAUGE)が、彼の兄の釈放を求めた時、彼は行き届いた、そして感動的な上訴の手紙を書いた、社会的に影響力のある幾人からの人々が、彼に支持を與え た。警察署長のヴルフスベルグ(WULFSBERG)、地区総督のモルトケ(MOLTKE)伯爵などはトロンハイムでハウゲを知って、彼を尊敬するように なった人々であるが、オスロの司法会議の議長ヨハン・ブル(JOHAN BULL)と共に、ハウゲの調査委員に対しハウゲを釈放するよう強硬に訴え、保釈金を積むことを自ら申し出た。しかし同委員が拒絶したのでモルトケ (MOLTKE)はコペンハーゲンの政府に直接手紙を書いて、彼およびヴルフスベルグ(WULFSBERG)の確信をひれきし、ハウゲを釈放することは、 ハウゲおよび彼の有能な同志達による、正直で、有益な企業の再建を意味すると申したてた。

国王クリスチャン(CHRISTIAN)七世は一八〇八年五月七日、次のような回答を與えた。

  ハウゲ・ハウゲについては、彼が危険な狂信家で、彼がひろめた狂信熱によってすでに数多くの不幸なことが起こっている。彼を逮捕した目的は、これ以上に狂 信熱を拡めないためであり、彼をいやすためではない。なぜなら狂信熱こそ不治の病であることがその根本的な特徴なのだから。

 それだから、現在のハウゲに見られる改善も、いずれは偽装であるか、それともそれ以上のもの、狂信家というよりも、いかさま師であったと信じる理由があると我々は確信する。

 それゆえにハウゲの事件は、法廷の裁定に委ねることが、もっとも正しい手段だと我々は判断する。

  シベルテゥセン(SIVERTSEN)は、この手紙は、恐らくF.J.コース(F.J.KAAS)が代筆したものであろうと言っている。コース (KAAS)は一八〇二年から一八〇八年までデンマークの大使館の議長であった。彼の地位は総理大臣に比較すべきものであった。一八〇四年にハウゲを逮捕 するように命じた令状の署名者の筆頭に、彼の名が見出される、その年の初めに出された、ハウゲに関する情報を求める回状にも彼の署名がある。コース (KAAS)がどんな動機から、こうした行動をとったかは別の問題として、長長をきわめたハウゲ事件に、彼の影響力が重たくのしかかっていたことは 否めない。

戦争 そして 封鎖

一 八〇七年の八月、対英戦争が勃発した時、ハウゲはすでに三十四ヵ月間、牢獄でちっ居していたのである。当時の政権下の司法組織が、平時においてさえハウゲ の事件を解決することが出来なかったのである。戦時になっていっそう期待がもてなくなり、判決が下される日はいっそう遠のいてしまった。ノルウェーの海岸 線が封鎖されたため、国内に政府をもつことの必要が痛感された。宣戦布告の後一週間たって、皇太子クリスチャン・アウグステゥ(CHRISTIAN AUGUST)を議長とし、モルトケ(MOLTKE)伯爵をふくめて三人の会員からなる政府委員が任命された。

政府委員の訴え

デ ンマーク国王は、ハウゲの釈放を要求するヴルフスベルグ(WULFSBERG)、モルトケ(MOLTKE)、ブル(BULL)の訴願を却下した。そして ミッケル・ハウゲ(MIKKEL  HAUGE)の手紙に対する回答はついになかった。そこでミッケル(MIKKEL)は、何とかして兄を生存中に釈放させなければと決意して、 事件を政府委員に訴えた。「私にとって兄がいつまでも犯罪者以上に残酷な取り扱いを受けている事実、彼は無実の罪をきせられているにもかかわらず、そのこ とが証明される前に、彼が健康を失い、生命までも失う危険にさらされている状態を見るのは、私に とって耐え難い悲しいことである」と。政府委員は、事件がきわめて不公平に取り扱われてきた事実に驚き、不正が公然と行われているのではないかという可能性を 信じた。そしてハウゲにとって有利な証言をブスケルーデゥ(BUSKERUD)(ノルウェーの中央部)とクリスチャンサン(KRISTIANSAND)の 高官から入手した。これらの証言を基礎に、政府委員は会合して、新たに訴願状を認め、一八〇九年の三月十七日気付で、新に王位についたフレデリク4世 (FREDERIK Ⅵ)あて、発送した。

王よ、私たち は、あなたがその慈悲によって、ハウゲ・ハウゲを、保釈金積立ての上で、保釈をお許し下さるようお願いします。あなたが正義の味方であられることは、すべ ての人々によく知られておりますので、デンマークおよびノルウェーの市民で、裁判にかけられることなく、多年に渉って牢獄に監禁されているものがありうる などとは考えられないことでしょう

この訴願状は最高の権威 者を網羅した政府委員から出されたもので、ノルウェーの他の政治家のグループに比し、圧倒的な政治的圧力をもつものであった。著名者は皇太子クリスチャ ン・アウグスト(CHRISTIAN AUGUST)、モルトケ(MOLTKE)伯爵、マルクス・ローゼンクランテゥ(MARCUS ROSENKRANTZ)、J.C. H. ヴェーデル・ヤールルスベルグ(J.C. H. WEDEL-JARLSBERG)らであった。いずれも能力があり、社会的影響力のある人物であった。最後のJ.C. H. ヴェーデル・ヤールルスベルグ(J.C. H. WEDEL-JARLSBERG)のごときは、戦争中の食糧難時代に、穀物確保のために功労のあったので国民に感謝されていた人物であった。彼はその後ス ウェーデンとの同盟を支持した政党の指導者となった。シベルテゥセン(SIVERTSEN)の意見によると、前記の訴願状は、たんなる一片の助言でなく、 政府委員よりの強硬な嘆願状であった。にもかかわらず大使館側は、ハウゲを獄中にとどめおこうとする態度をかえなかった。訴願状はかえりみられず、ハウゲ は監禁されたまま、五周年を迎えることになった。

ハウゲは釈放され製塩業に従事した

敢 為の気性に富んだミッケル・ニールセン・ハウゲ(MIKKEL NIELSEN HAUGE)と警察署長のブル(BULL)は、こんどはより便宜的な方法に訴えることにした。それが成功してハウゲは一八〇九年の二、三ヵ月間を、牢獄の 外で暮らすことが出来た。当時政府委員は、国内の塩不足を解消するために、製塩工場を建てるものがあれば資金を貸そうという案があった。国内にあったたっ たひとつの製塩工場の能力では、英国によって海岸線を封鎖され輸入の道がとざされていたために、国内の需要に応じることが出来なかったのである。そこでハ ウゲは「製塩に従事することによって、同胞に奉仕したい」という名目で釈放を要求し、彼の弟が嘆願状を書き、裁判官のブル(BULL)が大金の保釈金をつ んで、ハウゲの身柄を引受けることになった。そんなわけで政府委員は、一ヵ月以内にハウゲを釈放した。一八〇九年の二月二十七日から十月二日までの間に、 ハウゲはもっとも濃度の高い海水のある場所を発見して、南部および西部の海岸地区数カ所に製塩工場を建設した。

調査委員は裁判官を任命した

十 月になってハウゲはオスロへ呼びもどされた。政府が調査委員から送られた報告書を検討し、判決言い渡しの用意が出来ていたからである。F.J.コース (F.J.KAAS)の策謀の結果、ハウゲに対して判決をいいわたす裁判官として選ばれた人物は、ハウゲを訊問した調査委員であった。こんなに法廷を愚弄 した前例はない、しかしコース(KAAS)の謀略で、彼はハウゲに対し無慈悲な判決を與えうる有利な立場にあった。彼は国王の個人的な助言者だったので、 ハウゲ事件の調査中、いつまでも彼を獄中にとどめておくように指令した手紙も、彼が書いたものである。いよいよ判決言い渡しの委員を任命する段階にきたと き、彼はコレット(COLLETT)とイングスタ(INGSTAD)を再任命することが安全だと考えた。彼ら両人が、ハウゲに対し敵意をもっていること が、その前歴によって証明されていたからである。

デンマークの政策

一 八〇九年の四月、政府は突如として、モルトケ(MOLTOKE)伯爵を、その地位からの転任を命じ、デンマークのコース(KAAS)をアーケルスフース (AKERSHUS)地区の総督、また戦時下の政府委員に任命し赴任させた。コース(KAAS)はその新しい地位を利用して、ハウゲ事件にいっそうの圧力 をくわえることになった。検事顧問としてコース(KAAS)はヤン・ブロム(JAN BLOM)を任命した、彼はハウゲを終身奴隷の刑に処すのが適当だと考えていた男である。コース(KAAS)はまた被告の弁護士にニールス・ルムホルテゥ (NIELS LUMHOLZ)を任命した。

コレット (COLLETT)とイングスタ(INGSTAD)は、八月二十三日を最初の集会の日にきめた、ハウゲが製塩事業の使命を帯びて釈放されていた事実を、彼 らは知らなかったのである。ハウゲが出頭しなかったので、役人共はおかんむりで、ハウゲに急いで釈明の回答をよこすよう要求した。十月になって、調査委員 と二人の弁護士がハウゲと会った。ルームホルツ(LUMHOLZ)はハウゲの釈放期間をのばして、製塩工場での仕事を完了させるように要求した。しかし委 員は大使館の初期の指令に支配されて、ハウゲに対し人道や常識に動かされることなく、彼を監禁する方針を固執したので、ハウゲは獄中にとどめられた。

訊問の続行

こ の常規を逸したハウゲ事件の遅延に対して正義と人情の名において是正を叫ぶ声があがろうとしていた時、新しい調査が全国内に行われていた。このためにハウ ゲに対する判決言い渡しまでに、さらに四ヶ年が空費されることになった。しかしそこにはいくらかの待遇の緩和があった。

そ のひとつは、いまではハウゲは、訊問と次の訊問との間で、そうとうな自由時間を與えられていた。彼はロルフセェイ(ROLFSǾY)への最後の旅行を許さ れ、エイケル(EIKER)の製紙工場を訪問した。そして彼は彼の友人メーレル通り(MǾLLERGATEN)のハルボール・アンデルセン(HALVOR ANDERSEN)の家で住むことさえ許された。彼はしばしば裁判官のブル(BULL)の家を訪ねたが、そこでは遠近から彼を尋ねてきた友人達との交り が、敬虔な感謝集会の形式になることがしばしばであった。

最 も重大なその後の発展は、ノルウェー全土にわたるハウゲ派に対する一般感情にいちじるしい変化が現れはじめたことである。戦時の困窮生活の中で、リヴァイ ヴァルの経験者達が同胞の間で示した、旺盛な労働意欲と、犠牲的精神に感動したのであろう。恐らく弁護士のルームホルツ(LUMHOLZ)も、訊問の再開 始によって、この新しく現れた社会の一般感情が反映されるであろうことを先見したのであろう。もし訊問の再開始がなかったなら、ハウゲに対する判決は、曲 解と最初の訊問の結果報告だけを基礎にして行われたであろう。

判決言いわたさる

月 日が流れて、ハウゲに関する善意ある報告がなされつつある間に、ハウゲは彼の健康と神経の疲労を感じつつあった。彼は一八〇九年から一八十三年にかけて、 しばしば裁判官の前に呼び出された。そのうち二回、彼は重患のため出廷出来ないほどだった。とうとう 一八十三年の十二月四日になって、判決の言い渡しが行われた。疲れはてた、病身のハウゲにとって「アーケルスフース(AKERSHUS)城塞での重労働 二ヶ年、裁判費用の負担額一一五〇リクスダラー(RIKSDALER)」の宣告が、どんなに耐え難いものであったか、察するにあまりがある。こんなにひど い奇怪千万な判決はあったものでないが、それでも裁判官は、ハウゲの永かった未決拘留を考慮しての軽い刑罰だと説明した。刑罰の理由は最後には二つにしぼ られていた。放浪禁止令違反と、教職および、文官に対する侮辱罪であった。ハウゲとその同志達を、称揚に価する市民だとする証言が洪水のようによせられた ために、ハウゲに対するその他の容疑は、ついに却下されたのであった。

ハウゲは控訴した

二ヶ 年アーケルスフース(AKERTHUS)で重労働に服することは死を意味することをハウゲは知っていた。そこでハウゲは、対英開戦後オスロに最初に設けら れた最高裁判所に、彼に下された判決を不当として控訴した。彼はまた友人達の勧告にしたがって、弁護士を通じ、国王に嘆願状を提出した。そして、最後の判 決を待つまでのまる一ヶ年間、なおもハウゲは身をきざむような苦痛に耐えなければならなかった。

最後の判決

一 八一四年の十二月に、ハウゲは、裁判費用一〇〇〇リクスダラー(RIKSDALER)の罰金を支払うだけでよろしいという判決を受けた。彼の友人達の募金 によってただちに罰金は支払われた。彼は十ヵ年と二ヵ月の獄中生活から、初めて完全に自由な身となった。この最後の判決によって、彼に向けられていた悪意 にもとづく一切の容疑は晴れ、ハウゲの罪名は、「放浪禁止違反」と、「教職者に対する悪口雑言」の二つに限られた。オールディング(ORDING)教授 は、この点について、次のような重要な結論を下している。

告発理由は消滅した。事件は最終的に分析してみると、彼が生涯をかけた召命が罰せられたことになる。彼は平信徒として、庶民の眠っている霊的生活を覚醒させるために、全国にわたる伝道旅行をやったのである。この平信徒伝道が狂信主義と見なされ、そして処罰されたのである。

獄中生活の苦悩

本章ではハウゲが直面した獄中生活の模様を、実情にもとづいてくわしくしらべ、彼の健康と、道徳性と、霊的生活から奪った受難の程度を明らかにしよう。

最 初の二ヵ年は最悪であった。ハウゲのような八面六臂の活動家にとって、とつぜん、独房にちっきょを命じられることは、拷問にひとしかった。しばらくして、 彼は読書を許された、しかし一八〇七年まで、彼は執筆することを許されなかった。モルトケ伯爵が工作してミッケル・ハウゲ(MIKKEL HAUGE)に兄との面会を許すまで、ハウゲを訪れる小数の友人にさえ面会は許可されなかった。そのような場合、守衛や、看守によって、会話はいつも盗聴 されていた。

「一年たったが、その間私はたった三回、新鮮な空気を吸っただけで、後はうす暗い壁にかこまれた、不健康な牢獄の中で暮らした」。そして病気になった。それが、ハウゲの健康状態の悪くなり初めだった。そのことはハウゲが後になって書いた苦悩の回想記から知られる。

この部屋は、不健康で、ばいきんのうようよする、有害なよどんだ空気でみたされていた。私のような屈強な肉体と健康の持主が、徐々に健康を失ったのはそのためだった。私は血液障害、寒胃?、おこり、リュウマチズム、癌?痛、 壊血病、水腫、便秘、神経過敏に悩まされた。その結果全身が腫れ上り、顔面は黄色から蒼白となり、空気と天候の変化に対する奇妙な感受性をもつようになっ た。これらの病気のために、私は毎日悩まされつづけた。二人の医者の努力、私自身の食事についての注意、そして出来る限りの運動も、ついに治療的効果をあ げることにならなかった。

一般には知られていない事実だ が、一八〇六年に、ハウゲが釈放の嘆願をした時、彼は自ら、伝道旅行を中止してもよいと言っている。もし釈放されるなら、亡命者として国外に追放されても よいとも言っている。この事実は、神の召命に対する忠誠心が弱くなっていたかのように見える。まもなくハウゲが霊的な後退を示していたことを明らかにする であろう。しかしこのことは、牢獄生活がどんなに耐え難いものであったかを物語ることにもなろう。「自由を失うことによって、人間は一切を失うものです」 とハウゲは国王に書き送った。その国王が、平信徒の伝道説教を非合法的行為と見なしていることが判明した時、ハウゲは失望し、彼の苦難に対して、違った判 断を下すようになった。

ハウゲはまだ若かったので、愛する 神と隣人への奉仕を中心に、いつも物事を考えていた。彼の健康状態が徐々に悪くなるに従い、彼の判決が下る前に獄死する危険があった。一七九七年にクリス チャン・ロフテゥフス(CHRISTIAN  LOFTHUS)が会ったように、彼が釈放され健康を恢復した暁には、彼はスウェーデンにとっての祝福となり得た可能性があったし、国内情勢 の変化いかんによっては、祖国に帰って、彼の事業を、同胞の間で再開し得たかも知れない。

ハ ウゲが陰惨な牢獄の一室で座して、独りで苦しんでいた時、彼の霊的活力に後退が見られることを怪しむのは当たらない。彼の牢獄生活の最初の二ヵ月が苛烈な ものであったことを思う時、すでに一八〇七年に、彼が霊的活力の復活を見せていることは、注目に値する。ハウゲが牢獄から書いた手紙によると、彼がいかに 不必要な心配と、邪悪な思いに悩まされたかが判る。「私は経験から語るんだが、何もさせないということは、悪魔の工作であるにちがいない」彼の聖書研究へ の興味は下火となり、彼の記憶は鈍くなり、彼の思考力も不鮮明になった。これらの事実をおぼえて、ハウゲがそのころ彼の弁護士を通して、釈放の嘆願状を出 した事情を汲むべきであろう。

ハ ウゲが、その信仰を啓発された宗教上の愛読書の差入れは許されなかった。彼の信仰を破滅させようと企らんだ敵対者の方針だったのである。彼はこう書いてい る「後になって私は本の差入れを願った。それは買ったものもあったし、借りたものもあった。獄吏が新聞を見せてくれていたので、新聞の出版廣告を見ては、 興味をひかれた本を注文したり借用を申しこんだりしたのであった。私はあらゆる種類の著書を読んだ、宗教、科学、法律―――漫画まで、」

ハ ウゲは後日、彼が著した「宗教感情」の中で、当時の感想についてくわしく述べている。彼はいろんな本から何かを学びとったと言っている。それでもそれぞれ の本について価値批判をしており、ボルテールの本などは、もっとも価値なきものだと言っている。聖書を曲解し、キリストとその奇跡について、自然科学的な 解釈を下している書物は、最悪の読みものだとも言っている。

私 はそのような著述を信じてはいなかったけれども、悪意にみちた悪魔は、それらの著書の中で、私を陥入れる機会をねらっているようだった。私は告白するが、 それらの反宗教的な本を読んでいるうちに、私は小教理問答や、聖書のような、純粋なキリスト教書を愛読する興味を失ってしまったことに気がついた。

ハ ウゲ自身が、この種の読書から被害をうけた事実は、その証言によって明らかであるが、彼の信仰にゆるぎがなかったことは次の言葉によってみとめられる。 「私はあのような著作を信じない」。 誘惑されたということは、捕らえられたということではないだろう。さらに注目に価することは、彼の生涯を通じて、この時に初めて、神学や説教と直接関係の ない広い領域にわたっての知識を検討する機会をもったということである。彼は啓蒙運動の原理が、神の家の破壊をくわだてる意図をもつものでないことに気が ついた。職業の自由、信仰と思想の自由、最大多数の最大幸福等々人間愛を理想とする啓蒙運動のプログラムの中に、ハウゲが彼自身の生涯をかけた計画を見出さなかったはずはない。

一 方、ハウゲが獄中で読んだ書物の消極的影響と見られることがらもある。この視点から、ハウゲが一八〇九年に製塩事業に従事していた当時、彼に会った彼の古 い友人達が「精神の変化」にふれたと言っていたことをバング(BANG)は記録している。彼が集会をもたなかったことが変だったのではない、もっと悪いこ とは彼の「認識が拡大されていた」証拠だった。彼は旅行し、日曜毎にひげをそった。彼は以前のような粗末なものでなく、立派なものを編んだ。ハウゲの「拡 大された認識」は、彼の生涯終りまでついていたようである。それは彼の霊性の後退を示すものではなかった。彼は危険な霊性の試練を乗り越え、中心的な問題 に思索を集中して、より円熟した人間となって行った。

ハウ ゲの獄中生活を、かなり楽なものであったように描いている人々も数名ある。モルトケ(MOLTOKE)伯爵は、最初の年に、ハウゲの兄弟の面会を許してい る。一八〇七年の春、弁護士の ルームホルツ(LUMHOLZ)は裁判官のブル(BULL)を訪ねたが、その時の彼の報告に驚いたブル(BULL)は、ハウゲのためにすぐに行動を開始し た。ルームホルツ(LUMHOLZ)は言った。「これは私の意見だが、ここでは確かに大変な不正が行われている。もしこの男の殉教に早く何らかの終止符を うたなければ、法廷で働く人々は、殺人罪の責任を問われることになろう。この表現は決して言いすぎではない。彼は巨人的な体力の持ち主だった。それなのに 今では完全に参っている。彼のケースが今までのように延引に延引を重ねるなら、彼は法廷で判決をうける前に死んでしまうであろう」

裁 判官のブル(BULL)は、信念のために入獄の苦をいとわないこの人物に、前々から興味を抱いていたし、今では彼の個人的努力によって、ハウゲは新鮮な空 気にふれるチャンスが與えられていたのだ。一八〇七年の初めごろにハウゲに與えられた執筆の自由も、おそらくブル(BULL)の努力によるものであったで あろう。ふたりは親友の間柄となり、ハウゲはしばしばテェーイェン(TǾYEN)にあるブル(BULL)の豪華な邸宅へ招かれて客となった。

裁 判官のブル(BULL)氏ばかりではなく、オスロの警察署長ヴゥルフスベルグ(WULFSBERG)と、彼の後継者バイデマン(WEIDEMANN)もま たハウゲに対する同情をひれきした。ハウゲがロルフセェイ(ROLFSǾY)にいた年とった父を尋ねることを許されたのもエイケル(EIKER)の製紙工 場を訪れることを許可されたのもバイデマン(WEIDEMANN)の努力のお蔭だった。ハウゲは彼について「出来るかぎりの自由を私に與えてくれた」と書 いている。一八〇九年に、製塩事業という愛国的使命を終えてから、再び監禁の身に帰った後、ハウゲがメーレル通り(MǾLLERGATEN)のハルボー ル・アンデルセン(HALVOR ANDERSEN)の家に時々宿泊したことはよく知られている。一八一 〇年にミッケル・ニールセン・ハウゲ(MIKKEL NIELSEN HAUGE)はアーケルス(AKER河にあるバッケ(THE BAKKE)農場を買った。その年の秋、ハンス。ニールセンがひどい病気にかかって直った後、 彼はこの農場の経営を弟の手からひきついだ。一八一一年の秋には、そこに彼は自分の家をたてた。

  イプセンは英国によって封鎖されていた当時のことを書いた叙事詩テェルイェ ヴィーケン(TERJE VIKEN)の中で「国内の農作物は不作で、人々は食糧に困った」と書いている。ところがハウゲのバッケ(BAKKE)農場では、どうしたことかジャガ芋 の大収穫をあげた。彼はアーケルス(AKERS)河に製粉工場をたて、穀物との交換条件でアーケルスフース(AKERSHUS)兵営のために、穀物をひき つづけた。彼はまたノルウェーの西部に住んでいる友人から魚類を買った。これらの主食を確保することによって、当時 ノルウェー全土の人々が痛感していた飢餓から、近在の人々を救ったのである。バッケ(BAKKE)農場は、戦時の困難時代を通じて、何百人という飢えた 人々を養った。

 ハウゲは一八一七年までバッケ (BAKKE)で住んだ。それは幸福で有意義な歳月であったが、彼が完全に不安から解放されたのは一八一四年になって、法廷で最後の判決を聞いてから後の ことである。彼が体力を恢復し、バッケ(BAKKE)農場が、彼の経営下でますます収穫をあげるにしたがって、彼は誠実な旧友との親交を回復し、彼のハー トは喜びで燃えるのだった。一八一〇年に彼がわずらった病気のため、彼はひとたびは死に直面したのであったが、そのころ彼が書いた手紙からうかがい知りう ることは、どれほど彼のような偉大な人物でさえ、苦しみと悲しみからいろいろのことを学んだか知れないということ、またそのために、愛する人々の霊性の幸 福を思う願いを深くしたか知れないということである。彼はひと言も、迫害者に向って不平を言っていないし、彼の友人達に向っては自省すること、へり下るこ と、隣人に福音を伝えることを忘れないようにと忠告している。

  われわれが暗黒の世界から救い出され、主の聖火に注目するようになるまでに、どれほど神が、我々の心を動かそうとして、働きつづけられたことか。われわれ はこの世を盲目的に愛して、神から離れ、神の愛をわすれていないだろうか? 私の心の中にはただひとつの願いがある―――それは一八〇〇年と一八〇一年に見られたような聖霊による信仰復興の焔が、もういちどノルウェー全土に燃えあ がる日を見るまで、生きのびたいことである。

12章????

第13章 友らはその日を待ち望んで祈った

ある日ヨン・ソルブェールデン(JON SORBǾRDEN)は、彼の家族と召使たちを集めて礼拝をもった。彼が聖書の一章を読んだところ、霊感にふれて小さな群の前で奨励をした。しかし彼はふ と口ごもった、法律で平信徒がこのようなことをすることを禁じていることを思い起こしたからである。彼はがっかりして泣いた。キリスト者の証言がこの国で は禁ぜられている霊的な束縛を思い越したからである。

  平信徒による信仰復興運動は、ハウゲが捕縛される前から痛手をうけていた。一八〇四年十二月一日、政府は宗教的集会に対する制限令の施行を厳重にするよう に命じた。ハウゲが取調べを受けていた間、平信徒が活動をつづけて官憲を刺激しては、ハウゲのためによくないと考えられた。ハウゲも牢獄から「王の意志に さからってはならない」と同志達に警告を與えた。ヨン・ハウグバルデゥスタッドゥ(JOHN HAUGVALDSTAD)は短期間の伝道旅行を二回試みた。ある地区では彼の友人達が、集会禁止令を破りさえした。キリスト者の平信徒運動は、個人的、 家族的礼拝にとどまるようになった。聖書とキリスト教書類を愛読することはつづけられたが、兄弟達の互いの建徳のためには、私的な会話に訴えること以外に 方法はなかった。

 一八〇五年の七月、ハウゲの著書 は、出版されたものも、未刊のものも、すべて没収するようにとの指令が出された。ハウゲの著書に対する苦情を受け取っていた国務省の態度としては、これは 予期されたことだった。ところで政府の指令を実施するに際して多くの地方の司法官や代理者に行過ぎの行為があり、家毎に捜査をつづけて、ハウゲの著書や、 手紙を片っ端から没収した。この官憲の行為は全ノルウェーを震撼させた。ある者は所有のハウゲの著書を隠し、ある者は頑強に抵抗して没収をこばんだと言わ れている。ハウゲの本が水の上を流れながらいたまなかったとか、火中に投じても焼けなかったなどという疑わしい噂が流されたのはこのごろである。全体とし てハウゲが獄中に監禁されていた年代は、ノルウェー全国を通じてキリスト者にとって閑散な時代であった。彼らの霊性の友であり兄弟であったこの紳士のため に流された涙や、主の前にささげられた祈りについて残された記録はない。失望させられるこの年代の霊的損失について誰も確実なことをはかり知ることは出来 ない。確に福音宣教の働きは停止した。それは嘆かわしい損失だった。けれどもシベルステン(SIVERTSEN)が指摘しているように、ハウゲ派の理想は キリスト者の生活と行為であり、巡回伝道をすることではなかった。当時は回心した人々が神を恐れて、日常生活の中で、謙遜に主の恵みの証言をすべき時代で あった。どちらを向いても、世俗主義と、なまぬるい信仰生活だけが目につく時代だった。しかしハウゲ派の人々は、全体として信仰に徹していた。

  ハウゲに短期間ではあったが釈放が與えられた一八〇九年になって、ハウゲと同志達との接触がひんぱんになってから、新しい望みがもういちどもてるように なった。一八一一年後、バッケ(BAKKE)に住んでいたハウゲを訪問した友人達は、彼の励ましの言葉を、家郷に持ち帰った。ハウゲの手紙もまた、人々の 間で回覧されて、喜びの涙で溢れる目で読まれたものである。

暗黒の中の光

 ハ ウゲに関する挿話の中で、もっとも愛着を感じさせるものは、多分彼の長期に渉る獄中生活の最初の年の出来事だったと言えよう。人々はハウゲの身辺に、そし て福音伝道の全領域に、不祥なことが起こるようであってはならないとおそれ初めていた。ハウゲが獄中にある限り、将来のことは悉く暗黒に見えた。彼らは福 音の光が、もういちど彼らの間で点火され輝き出るようにと祈って待った。

  一八〇四年の十二月のことだった。オスロの冬は灰色に包まれうっとうしくそして寒かった。雨がよく降り、日中もうす暗く喜びがなかった。ハウゲはひとり 座ったまま、窓辺により、窓から人影のない街路を見つめていた。彼の目はふと汚ない溜り水に落ちて跳ねあがる雨だれに注がれた。長身の男の通りすぎる姿が 彼の目をかすめた。ハウゲはその男の帰宅を待って食卓をととのえながら、彼の足音の接近を耳をそばだてて待っている彼の妻のことを心に描いた。それは外出 が厭になるようなお天気の日だった。しかし少なくとも彼は自由の身であり、楽しく帰る家があるのだ。

と ころが、その男はふり返って後戻りを初めた。気がつくとその男は牢獄の窓を見上ているではないか。牢獄の二階には二つの窓があった。例の男は初めに右側の 窓を見上げ、次に左側の窓に目を移し、さらにもういちど右側の窓を見上げた。ハウゲはハッとした。それは彼の友人だった、彼に会いに来たのだが面会を断ら れたのであった。彼はハウゲが二階の一室に監禁されていることを知っていた。しかしどの窓がハウゲの部屋なのだろうか?

  叫んでも路上の友に聞える望みはなかった。彼に「よく来てくれた」と無言の回答を與える方法はないのか? 路上から見あげた場合、牢獄の窓は二つの陰影のつながりに見えるはずだ。そうだあの男はノルウェーの西部から来た男だ、旅装から判断してベルゲンの近くか らやって来た男に違いない、とハウゲは想像した。もし彼がその永旅の目的を果さず、ハウゲに会えなかったと帰ってから人々に語らねばならないとすると、全 く彼に気の毒である。

 窓から見下ろしていると、彼は なお路上を行きつ戻りつしている。落胆したその姿・・・ハウゲはふと気がついてローソクを握って窓辺を照らした。路上の友はハウゲの合図に気がつき、立ち どまって窓辺を見上げた。ローソクの火が揺れ、ハウゲの手が見えた。ハウゲはローソクの芯をつんだ。火は赤々と燃え上った。

  遠い山地からはるばるやってきたハウゲの友は、ハウゲの挨拶を知った。彼は心を躍らせながら家路へ急いだ。帰路、彼はハウゲの無言の使信を次々に語り伝え た。人々の前に輝き出るようでなければならないキリスト者は、一つの不純な動機を捨てなければならない。清められた光は層一層その輝きをます、そして、祝 福の光を、夜の闇をついて遠くまで送る。

 この小さな挿話は数代にわたる神の子らの間で、いく度も用いられて、彼らは、その信仰の兄弟、ノルウェーが生んだハンス・ニールセン・ハウゲのよき音信を、引きついで来たのである。

第4部 ノルウェーの教父  1814 ― 1824年

第14章 バッケに住む自由人

 ハウゲの富み

 ハウゲ事件のために提出された無数の文献の中に、ノルウェーの最高の地位にある人々に属する証拠お よび証明書があった。弁護士ルームホルツ(LUMHOLZ)は一八一〇年に、これらの物件を塊集したが、ハウゲと彼の事業に対する最も信頼の出来る一般感 情が、彼にとって有利であることを発見した。ハウゲはこれらのものを、「教職者」と「文官」の二部門に分類して塊集している。それらは圧倒的な証言でみた されている。どれもこれもハンス・ハスゲとその同志達は、みな道徳性の高い模範的市民であり、彼らの宗教上の諸集会は有害なものでなく、みなそれぞれの天 職に精進して、その居住地域内で信頼されている人々であることを立証するものであった。

  引用された証言の執筆者の中に六人の監督、王宮のチャプレン、四人の大学の部長、ひとりの牧師、ひとりの内閣の閣僚(ヴェーデル・ヤールスベルグ (WEDEL-JARLSBERG)伯爵で、前のブスケルーデゥ(BUSKERUD)の総督)そして四人の地区の総督や長官があった。

  これらの人々が書いたハウゲについての称賛の声はノルウェー全国民の間に、疑問の余地のないハウゲの人格的価値を確立した。ハウゲがその著書の一冊の中 に、これらの証言を取入れている事実は、彼にとって、これらの高位高官にある人物によって、彼の伝道と事業が支持されていたという事実を、彼が重視してい たことを意味する。ところで、ハウゲが出獄を許された時、そして彼の所有財産のしめくくりをした時、彼の財産といえるものは、無形なものに限られているこ とが判明した。彼ももはや以前の健康体ではなかった。長期にわたる監禁生活で、彼の肉体は全く弱くなっていた。彼の財政上の所有物は、ほとんど無にひとし かった。

 ハウゲが一八〇四年にホクスン (HOKKUSUND)からオスロへ船で移送されるその前でさえ政府は彼のベルゲンにあった所有財産を没収したのである。ベルゲンにはハウゲ所有の家があ り、船と貸物があり、相当量の塩があった。それらは競売にふされ九千リクスダーレル(RIKSDALER)になった。戦争による貨幣価値の変動で、この金 の価値は六分の一すなわち一千五〇〇リクスダーレル(RIKSDALER)になっていた。一八一年の六月になって、ノルウェーが自国の憲法をもち、内政処理の独立をち取った時、十リクスダーレルを一スペシエダーレルとする幣価の切り下げが行われた。ハウゲの親族のものが、没収財産の返還を要求した時、それは一四四スペシエダーレルになってしまっていた。

 ハウゲが逮捕された時、彼は二リクスダーレルと二マルク(MARKS)二五〇ペニヒしか持っていなかった。三週間の間にハウゲはその金を使いはたしてしまった。それからの彼は、手袋を編んで食費と。時々買入れた本代を稼いだのであった。

  彼の没収された書籍は返還されることになってはいたが、実際彼の手にもどった数冊の書物は、みな価値のないものばかりだった。バッケ(BAKKE)農場 は、彼の弟のミッケル(MIKKEL)が彼のために買い取ってくれたものだった。彼が遂に自由の身となった時、彼の妹の(KAREN)とその夫は、彼に、 一〇〇〇リクスダーレルを貸し與えて、オスロ貧民基金(THE OSLO POOR FUND)と、裁判費用として九〇〇リクスダーレルを支払わせた。後になってノルウェー政府は、ハウゲが受けた損失をある程度カバーする補償金を支払っ た。

 

 1814年のクリスマスの手紙

 ハウゲが最後の判決と自由を得たのは一八一四年の十二月二十三日のことだった。彼がその親しい友達の間に急いで書き送った手紙には降誕節気分が満ちあふれている。

  「きょうの私はあなた方に私の喜びをわかちうる身分になったので、私はいそいでこの手紙を書く、私は最高裁判所の判決で、一切の懲罰から放免された。私が 罰金として一〇〇〇リクスダーレル(RIKSDALER)を支払わされたのは、私が神のおとづれを語ったためと、私が著書の中でぶしつけな表現を使ったた めである。」 彼の手紙には賛美と感謝がこだましている。彼はその友らに対して「主のいいつくし難い恩恵のために、彼の聖なる御名をひろめる御業に参加しよう ―― 神を愛し神をおそれる者らのために、天に貯えられている富は無尽蔵なのだから」と呼びかけた。いまだ救われざる霊のために彼がいつも抱いていた関心の度は 変っていなかった。「何千という人々が神の救いの力を知らないでいるのに、われわれにそれが知らしめられているということは何という恵みであろう」

  ハウゲが彼に対する訊問の進行情況を報告するにあって、製塩事業に参加させるために彼に自由を與えたのはノルウェーの政府委員であり、その前後を通じて、 彼を監禁しておこうとしたのはデンマーク政府であったことを、彼が心に留めている事実は興味あることがらである。彼の語るところによると、一八一四年にな るまで、彼が自由になれる日があるとは思わなかったそうである。権威者のたったひと言で、彼のバッケ(BAKKE)の生活が、終幕になることを、彼は知っ ていたのだ。一八一三年に、彼に下された二ヵ年の重労働に処すという判決によって断腸の思いをさせられた彼は、彼の控訴の結果を待ちながらも、決して期待 はしていなかったのである。

 彼はその手紙の中で、い つも彼のことを思っていてくれる友人達に対する感謝を、心いっぱいに告白している。彼はいつもキリストと一体であることを如実に感じていたし、彼自身の幸 運を、神と教会への奉仕の限界でのみ評価するくせがあった。彼は、彼の「稀有といってもよい事件」が、最初と最後では全く意外ともいうべき結果になったこ とを、神の有難き摂理として、御名をたたえている。彼が一八〇四年に、恐るべきかずかずの罪名をきせられ、徹底的な調査をうけた後で、結局一八一四年に なって、単に二つの罪名の下に告発されることに落ちついた経路を回顧した時、神が真実を生かすために勝利を與えられたことの確かさを知った。彼が市民の義 務を怠らせるような狂信的キリスト教を説いたという容疑は晴れた。金を巻きあげるために、宗教家の仮面をかぶっていたという容疑も晴れた。彼が子供達をお だて巡回説教家となるため家出をさせたという容疑も晴れた。彼が一部の教職者達に浴びせたきびしい批判は、全国の教職者達を対象としたもので、彼は革命を 意図していたのだという容疑も晴れた。

 ハウゲの手紙はあふれる喜悦と神への感謝で終っている。

  わたしが釈放された暁、私は御名をほめたたえることを誓い、必ずそうするだろう。神よ、われに恩寵を與えたまえ。神よ、あなたの霊力と生命と喜びに、みん なが預かりうるように、そのためにもろともに、いと高き神をさんびしようではないか。わたしは主の名において、みなの者に挨拶をおくる。そして諸君が永遠 を目指して、正しい生活をいとなむように ! わたしは主に在って、あなたがたに対する熱心な教友として生きぬくであろう。

 結婚と家庭生活        

  一八一五年の初め、ハウゲが四十三才の時のことである。彼は肉体的に、もはや昔の彼ではなかった。巡回伝道を強行し得たあの健康は、もう彼になかった。 八ヵ年にわたって、彼がノルウェー全土に試みた伝道旅行の際に、彼が全力をかたむけて説いた福音の中心課題は、キリストを家庭の中心におく家庭生活のいと なみであった。彼が始めから終りまで、常に参照したVӔR BARNELӔRDOM(わ れわれの少年時代に與える教訓、すなわち小教理問答)は、彼がキリスト者の家庭を、最良の教育センターと考えていた、その信念の現れであった。彼は口の重 い独身者の男をつっついて、積極的な求婚者にしあげ、幾組もの結婚の仲人として成功した、羨ましい記録の編集もやっている。

  今や彼自身の番がやってきた。休む暇さえなかった伝道旅行の連続と、永い永い歳月にわたる監禁生活のために、彼には結婚のチャンスがそれまでにはなかっ た。バッケ(BAKKE)農場は、結婚生活を始める者にとって、理想的な環境であった。都合のよいことには、若い結婚適令期の女性がそこに住んでいたので ある。彼女はアンドレア・アンデルスダッテル・ニーフス(ANDREA ANDERSDATTER NYHUS)で、四ヶ年もバッケ(BAKKE)農場の家政婦として働いてきた女性だった。ハウゲはロメリケ(ROMERIKE)の彼女の両親の家で集会を もったことがあったので、彼女の家族関係のこともよく知っていた。

  アンドレア(ANDREA)がハウゲの妻となったのは一八一五年の一月二十七日のことだった。結婚式の司式をしたのは王室附き牧師パーヴェルス (PAVELS)で、彼の日記を見ると、ハウゲのその後の半生に関する多くの興味ある事実が記録されている。彼がしばしばハウゲ家の賑やかな食卓のことを ほめている事実は、「ノルウェー第一の健啖家」というハウゲに與えられた定評を裏づけるものであろう。

  結婚後一年もたたぬまに、ハウゲはこの貞淑な妻を失った。彼女は男子をハウゲのために生んで、一週間の後に死んだ、十二月のことだった。伝えられるところ によると、パーヴェルス(PAVELS)牧師が葬式の司式の途中で、ハウゲの心中をかえりみないで、約一年前、棺がおかれているこの同じ場所に、花嫁が 立っていたのだがと口走ってしまった、それは深い悲みの中にあったハウゲにとって耐え難い言葉だった。パーヴェルス(PAVELS)はそのことに気がつい た時、ハウゲは倒れそうになっていたという。

 生まれ た赤ん坊に、その日幼児洗礼が授けられアンドレアス(ANDREAS)と母の名をとって命名された。彼は後日、教職としてプレスト(PREST)の位置ま で昇進し、ノルウェーの教会の中で、尊敬される地位をしめた。彼はその在任中に外国伝道を盛んに奨励し、特別な努力を払っている。ヴェーレ(WELLE) によると、彼はノルウェーの牧師間でも、もっとも尊重されていた者のひとりであり、目醒めた人々の間で、限りない信頼をよせられていたということである。

  妻をうしなってから二日の後に、ハウゲが友人達に書き送った手紙は、彼が書いた文章の中で、もっとも深刻で、また情味にあふれたもののひとつである。ハウ ゲは大きな喜びや、大きな悲しみを経験する度に、本能的に、彼に所属した信者のサークルに訴える傾向があったようである。一八〇〇年に彼の妹が召天した 時、彼は同信の友らに手紙を書いている。彼が永い獄中生活から釈放された時にも、そのような手紙を書いている。それは彼が自分が経験した大きな喜びがどん なものであったか、それを同信の友らに知ってもらいたいという気持のうかがえる適例のひとつである。「ハウゲは信者の交りの中で生きぬいた。彼は信者のた めに、また信者とともに繁栄することを望んでいたが、彼自身のことはいつも忘れていた」

  釈放された後のハウゲは、従前にまさって平信徒伝道の指導的精神の権化として仰がれた。放浪禁止令はいぜんとして、平信徒の積極的な行動を制約したが、ハ ウゲが無罪放免になってから後は、将来に向っての望みが湧き上りつつあった。ハウゲはバッケ(BAKKE)の農場から、同志達の全活動を監督し、より強力 な奉仕団体に発展するよう指導した。それには巡回説教よりも、???物心両面のバランスのとれた生活指導)によって、よりよく本来の目的がはたされるように思えた。自然と彼は手紙と著書出版を武器として使った。ハウゲがその農場で指導していた小集会は、時には遠来の訪客をもまじえて、より緊密な個人的接触と友愛が生れる場所となった。

  バッケ(BAKKE)農場自体の成功は、やがてキリスト者の生活態度を誇示するものとなった。バリバリ働き、倹約出来るものはいっさい倹約する生活態度、 それは農場でも利潤を生み、家庭でも利潤を生んだ。バッケ(BAKKE)の農場の規模は二三人の働き人を必要とした。みんなハウゲの愛情にみちた監督下 に、家族的生活を楽しんで、苦楽をともにした。ハウゲの妻の死は、赤ん坊を母なし子にしただけでなく、多くの問題を残すことになった。多くの働き人をかか える大家族の食事、衣服のつくろいもの、お洗濯それをやってのけるには、よほど手腕のある婦人の献身的努力が必要であった。

  これが表面から見たハウゲの環境だった。彼ががまんしていた心中の孤独、そして憂鬱、彼が祖国全土に信仰の霊火をもういちど燃え上らせようと祈っていたこ とをも考慮する時、彼の心中の苦悶は、誰にでも察せられよう。農場のためにも、幼児アンドレアス(ANDREAS)のためにも健康を害していたハウゲ自身 のためにも、彼の再婚は考えなければならないことだった。

  一八一七年の一月になって、ハウゲは再婚した。妻の名はインゲボルグ・マリエ・オールスダッテル(INGEBORG MARIE OLSDATTER)である。彼女はエイケル(EIKER)の製紙工場で働いた数年間に、何をさせてもよくやる女としての評判をとった女である。ミッケ ル・ハウゲ(MIKKEL HAUGE)の妻が、ハウゲの妻アンドレア(ANDREA)の出産の前に、お産の手伝いにバッケ(BAKKE)へ送ったのだった。一月二十二日彼女はハウ ゲの妻となった。パーヴェルス(PAVELS)は彼の日記にこう書いている「今朝わたしはハンス・ハウゲと、その美しい花嫁との結婚を荘厳なものとした。

  インゲボルグ(INGEBORG)は、彼女に與えられた新しい責任を立派にやってのける過去の経歴と才能をもっていた。彼女は深刻に物事を考えるキリスト 者を両親に持っていた。ハウゲ派の家で雇われたこともある。そこからエイケル(EIKER)の製紙工場へ送られ、そこの多忙な、しかしながら幸福な生活の 一部となっていたのである。彼女はバッケ(BAKKE)の大仕事を、急がずあわてず立派にやってのけた。彼女は温和な性格で、思慮深かった。彼女がもって いた多くの才能は、訪問客の、ほめたたえるところとなった。彼女は織物が上手で、美しい作品をつくった。そして多くの若い娘達にその技藝を教えた。インゲ ボルグ(INGEBORG)はハウゲの死後久しく生き残ったが、彼女が生んだ三人の子供は、比較的若くて死んだ。ニールス(NIELS)は五歳で、オリー ネ(OLINE)は 三歳で、そして二番目の娘はその父の死後二ヵ年目に死んだ。インゲボルグ(INGEBORG)はハウゲの死後再婚し、一八七二年に召天した。彼女は信仰に よって、幸福で、確信にみちた生涯を送った。

第15章 ブレッデゥヴェト農場  1817 ― 1824年

一八一七年の春、ハウゲはブレッデゥヴェト (BREDTVET)農場を買った。それは彼の最後の地上生活の場となった農場である。バッケ(BAKKE)は、ますます発展して行ったハウゲと同志の家 族の必要を満たしうるほどの大農場ではなかった。ブレッデゥヴェト(BREDTVET)農場は、巧妙に工夫された、生産性の高い理想的な農場経営のモデル として、社会に奉仕することになる必然性をもっていた。ハウゲほどノルウェー全土を隅から隅まで旅行し、農場経営についての広い観察と、豊富な資料を持っ ていた者は数少ないであろう。ブレッデゥヴェト(BREDTVET)に移住してから後のハウゲは、キリスト者の理想を集団生活に活かしてみたいという特異 な彼の多年にわたる夢を実現しようとして、あらゆるチャンスを利用した。

 いろりとホーム

ブ レッデゥヴェト(BREDTVET)は、ハウゲにとって、最初の会心のホームとなった。テューネ(TUNE)にあったハウゲ農場で彼が少年の日を過ごして から、神に選ばれた巡回伝道者として放浪の生活をおくり、その青壮年時代を、楽しい家庭生活を顧みないで暮してきた彼である。その彼も、まずバッケ (BAKKE)で、それから今はブレッデゥヴェト(BREDTVET)でおそまきながら結婚の問題や、親の立場や、家庭生活の諸問題についていろいろと教 訓を学ぶことになった。いずれの場所でも、彼は愛する者を奪い去る死の使いの入 にあった。彼はかつての強壮な肉体を失って、人間の弱さというものについて、個人的な体験をした。彼は痛みと疲れを知ってから、健康の有難さを発見したの である。彼が一八二〇年にわずらった重病の場合のように肉体的などうにもならない弱さを通して、彼は忍耐を学び、神のよき意志を信じてあきらめることをも 学んだ。彼はあらゆる人生経験を通じて、喜びにも悲しみにも、やさしく彼に奉仕してくれる妻をますます愛するようになった。

父 としての彼は二人の愛児を奪われる不運な目にあった。彼が最初の妻が残した愛児アンドレアス(ANDREAS)を愛した愛はことさらに深かった。アンドレ アス(ANDREAS)は一八一五年に、彼らがまだバッケ(BAKKE)に住んでいた時に生まれた。ハウゲ家がブレッデゥヴェト(BREDTVET)に 移った時、彼は僅か二歳であった。父が一八二四年に死んだ時、彼はようやく九歳であった。彼は偉大な説教家であった父の家族的な黎明期において、父のよい 遊び仲間であった可愛らしい子供だった。ハウゲの伝記を書いた人々の中に、父と子がブレッデゥヴェト(BREDTVET)の美しい丘を手をとりあって散策 している美しい風景を描いていない者はない。一世紀前のノルウェーの読書界に正確で美しい読みごたえのあるハウゲの伝記を書いて紹介したのはヤーコブ・ B・ブル(JACOB.B.BULL)だった。彼が書いたハウゲ伝の第十九章に、次のようなハウゲとその愛児との美しい描写がある。

「そ れはアーケル(AKER)渓谷に春が訪れたころのことである。せきれいと椋鳥がもうとっくに飛び廻っていた。雷鳥の雄がノールマルケン (NORDMARKEN)(有名な森林公園)の周辺でやかましく囀り、太陽の光をいっぱい吸いこんだ朝の空気は、春の喜びでおどっているようだった。草の 葉はますます青く、たんぽぽやアネモネがいっぱい花を咲かせていた。色の乱舞だった。

森の中の小鳥達は、みんな総出で、悲しげにふるえる笛の音が芽を吹いた枝から枝と伝わり、やましぎの鋭い泣き声が、ロマンチックにひびいた。

ブ レッデゥヴェト(BREDTVET)の広々とした野原を横切って、温かな春の日射しを浴びながら歩いてくる二人がいた。青白い顔、おだやかで平和な表情、 口許に一抹の悲しみをたたえながら、五、六歳の少年の手を引きながら歩いてくる二人、それはハンス・ニールセン・ハウゲと愛児アンドレアス (ANDREAS)だった。

「お父さん。花が目をさました よ」アンドレアス(ANDREAS)は花の上にかがみこんで、そのひとつを摘んだ。「そうだな、とうとう目を醒ましたね」ハウゲの顔に微笑が浮かんだ、少 年の目は父を見上げた。ハウゲの顔に微笑みが浮かんだ、少年の目は父を見上げた「誰がお花の目を醒まさせたの?」「神さまだよ。アンドレアス」彼は蒼白い 顔をほころばせながら、息子を見つめた、彼は満足だった。「どこに、お花のベッドがあったの?」少年は考え深そうに尋ねた。「雪の中にさ、神さまは雪の毛 布を、お花の上にかぶせておきなすったんだ。その下で冬の間、お花さんは眠りつづけていたんだよ。」少年はまた考える「ぼくらもまた冬中、眠ることがある の?」父を見上げる小年の目は大きく開けていた。ハウゲの痩せ細った顔に、不思議な憂鬱のかげが走った。「そうだよ、アンドレアス、われわれが死んだ時、 みんなそうするんだ。神さまが雪の毛布をかけて下さるんだ。そしてみんな眠るんだ。」「それじゃあ、ぼくらのベッドは地の下にあるの?」少年は驚いたかの ように問うた。ハウゲは愛児の手をとりながら、「そうだよ。われわれがお墓といってるところが、そこだよ」「冬はきっと寒いだろうね、お墓の中は」少年の 父を見上げる目は不審げである。「そんなことはないよ。あの下には心地のよい場所があるんだ」二人の間に、永い沈黙がつづく。「だけど、太陽が現れると、 ボクらもまた顔を出すのネ、そうだろう」「その通りだ、息子よ、お前はお花が地面の下から顔を出したのを見たね」「だけどさ、どうしてそうなるんだろ う?」少年は興奮して父に問う「お花は、その実の中に生命を持っているんだよ、判るだろう」ハウゲは少年の澄んだまなざしに見入る「ああ、そうか!」少年 は父の手を取って歩き出した。永い沈黙がまたつづいた。「お父うさん、もうぢきに地面の下に行くの?」とつぜん少年が尋ねた。「そうだよ。お花がその活力 を失う時、枯れてしまうだろう。そして春がまたやってくるまで、地の下で眠るようにな」「それじゃ、春はまたいつくるの?」少年は足をとどめて父を見上げ た「神さまの太陽がまた輝き初める時だよ、神さまの時がくる時にさ」「そうだな、神さまの時はきっと来るんだね、神さまはいい方だもの」そうして二人は永 い道を、一緒に歩いて行った ―― ハウゲと、彼の生き残ったたったひとりの息子は・・・

模範的農場

ブ レッデゥヴェト(BREDTVET)での生活もまた、理想的生活のひとつの見本であった。神の言は、すべての活動の中心におかれていた。ハウゲは全従業員 を、家庭礼拝のさんび歌合唱と祈祷に招いた。その日その日の仕事の上に、天来の祝福を彼は祈り求めた。ハウゲが生涯守った格言通りに、朝の食卓での感謝の 祈りの後で、能率的で努力的な一日の労働がつづいた。それこそハウゲ農場の繁栄を約束するものであったし、訪問者のすべてに、敬虔につきものの満足心は、 正直な勤労生活によって得られるものであるとの印象を與えた。

ハ ウゲは、職業に対する正しい態度と、信仰的脱線という問題について苦々しい体験をしていたので、とかく新しい回心者が此の世的と見なしがちな、日常生活の 諸要素を聖化するためには、宗教的情熱の方向づけについて指導が必要であることを痛感していた。ハウゲと彼の同志達は、ノルウェーの農民をかどわかせて、 耕作することを捨てて、祈祷会へ行かせるようにし、ノルウェーの経済界に打撃を與えたと非難されたのは、つい最近のことであった。その非難が的外れである ことは証明されたが人生を物心両面に割り切った考え方を抱く人が、ハウゲ派の周辺にいた。彼らは霊的事実を優先的に強調したハウゲ派にとっては異端的存在 であった。ブレッデゥヴェト(BREDTVET)の農場は信仰生活を、祈祷と聖書朗読と証言の生活に限定する、極端な生き方を説教や著書による宣伝にま さって、より有効に否定するものであった。オスロの北東にあたって起伏する丘陵に位した彼の農場は、霊的生活と、農耕生活との調和を生かした模範的農場と して、その名を天下にとどろかせたのである。

宗教活動の本部

ブ レッデゥヴェト(BREDTVET)の農場は、第三の任務をも果たした。それはハウゲのチームであったし、キリスト者の生活の模範を示す場所でもあった が、同時にそこは全国的な宗教運動本部の所在地となった。こういうとハウゲの運動は一大組織をもっていたような印象を與えるが、実体はそうでもなかった。 ハウゲは一八二一年に「われわれはいままでに何の記録ももたなかったので、私にしても、われわれの仲間の誰にしても、同志が何人いるのか知っているものは ない」と書いている。しかし、ハウゲの指導力と権威を問う者はなかったし、彼の農場が、同志達の大集会場として使用されていたのは、偶然の出来事ではな かったのである。ハウゲと彼を訪問した一婦人との間で交わされた会話によって、ハウゲがブレッデゥヴェト(BREDTVET)に農場を開いた目的が明らか にされている。「あなたが大農場を経営して苦労される理由が私には判りません」と彼女は言った。「見方を変えて下さい。あなたは今わたしに会いに来られた が、まもなく多勢の仲間があちこちから集ってくるでしょう。私は彼らを愛していますし、彼らは私を愛しています。それだからお互いに話し会う時間をたくさ んもつことが必要なのです。もしそれが出来なければ、お互いが満足しうるまで話し合うチャンスをつかむまで、ここに長居することが出来ないでしょう」

ハ ウゲが考えていたキリスト者のための計画は、そのように単純なものであったが、驚くべき団結的能力がそこから生まれたのである。そこでは個人個人の神との つながりは最高だった。ブレッデゥヴェト(BREDTVET)の農場は、かくして個人的な救いの問題を解決する格好の話し合いの場所となった。複雑な煩悶 をかかえて悩みながら理解と同情と適切な助言を與えてくれる友をもたない人々は、重荷をおろすために遠い処から、ブレッデゥヴェト(BREDTVET)に いる親友達に会いに行った。ハウゲ自身悩んでいる人達の相談相手として、生まれながらの才能をもっていた。彼はその幅広い生活経験によって、みんなの者か ら霊の父として尊敬され、その謙遜な態度のゆえに、誰からも愛された。彼はいつでも偽りなき同情をもって、彼の許へやってくる人々の相談相手になった。

ハ ウゲは彼が活動を開始したころから彼自身の霊的諸経験を書きつづることをさけた。それは傲慢のように思えたし、兄弟達が彼の経験を絶対的なものとして盲従 することがあってはならないと思ったからである。ところでブレッデゥヴェト(BREDTVET)時代に彼が発見したことは、試練をうけて悩み苦しんでいる 兄弟達にとって、それでも神の恩寵のうちにあるのかどうかという疑いと惑いに苦しむ時、彼自身牢獄の暗黒の中で光を求めつづけた体験を語ることが、大きな 助けとなることであった。彼が出版した後期の著書の一冊の中で、彼が一七九六年の四月五日に経験した決定的な霊的体験について語っている。彼はその日、神 の前に彼の全意志と全生涯を明け渡したのである。それは神との個人的な交りと、神への服従から生まれる、喜びと信念にくらべうるものは、この地上にないこ とを知ったからであった。彼のこの時の体験談を読むことにより、また聞くことによって内面的な平和を獲得した者は少くない。

ハ ウゲの友人達が、彼に会いにきたように、愛児を伴ってこの偉大な人物に会わせるためにやってくる父親達も多かった。青年達は助言を求めて、古い友だちは彼 の証言によって生かされた御礼に ! 彼らはハウゲの口から、かつてノルウェー全土で聞かれた精神と実践生活に訴える正義の訴えを、じかに耳にしたのである。彼の偉大な心は、より強烈な同情心 で燃えていたし、青い目は老年の熱意で輝いていたし、彼の鋭い感覚は人々の霊性の内奥にかくされている秘密を見透していた。彼に欠けていたものは、青年の 熱心さと健常者の活動力であった。

彼は牢獄から釈放された 後、彼自身の持っていた富と幸福について、彼の「旅行記」の中でこう書いている。「私は祖国で最も人々から尊敬されている知識人の友情と敬意を集めている んだと思って自惚れている」と。これは彼がバッケ(BAKKE)に住んでいた時もブレッデゥヴェト(BREDTVET)に移ってからも、同様に言えること であった。ハウゲを訪問した有名人の中にはオスロにそのころ出来た大学の神学教授ウベレド・ヘルスレブ(SVEND HERSLEB)やヨハンネス・ステネルセン(S. JOHANNES STENERSEN)等などがあった。伝えられるところによるとヘルスレブ(HERSLEB)教授は、ハウゲが書いた後期の著書を手伝ったらしい。大きな 宴会の席上でステネルセン(STENERSEN)教授が、平信徒伝道の根拠についてハウゲと論争したことがある。その時ステネルセン (STENERSEN)教授はアウグスブルグ信仰告白の第十四条を尊奉することが正しいと主張し、「正規の召命を受けた者」とは、国教会による正式の按手 礼を受けた教職者にのみあてはまることだと言った。後になってステネルセン(STENERSEN)は、教会史を著述したが、ハウゲによる信仰復興運動につ いて彼は頑迷な国教会の見解を固執して、相変わらずの冷たい註釈を加えている。

ハ ウゲはクロウ(KROGH)監督、ブッゲ(BUGGE)監督、セレンセン(SǾRENSEN)監督らと個人的な交際をするようになった。彼はまた何人かの 牧師の訪問を受けた。チャプレン・プァベルス(CHAPLAIN  PAVELS)と後に監督になったヒェルショウ(KJERSCHOW)は、ブレツドベツド(BREDTVET)の訪問者のうちの定連であっ た。国会議員中にも、ハウゲのサークルに属する人々が多数あり、ハウゲの農場をひんぱんに訪問した。

ハ ウゲは祖国と、彼の友人達の利益となるような生産的企業に対する興味と感心を忘れたことがなかった。一八二三年の十月、彼は金物類の生産を目標とする、野 心的な計画を回状で発表したことがある。彼は財政上の手配についての提案をし、工場設置の候補地としては、人口稠密なアケルスフス(AKERSHUS)地 区を提案した。彼は友人達に、各自の出資額(金または物件による)を申し出てほしいと要求し、最終的な結論を出すために、全国集会をすることにしようと呼びかけた。然し一八二三年の冬から二四年にかけて、彼は全く健康を害し、ハウゲを中心とするこの計画は、ついに進展を見せなかった。

ハウゲが出獄後に書いた著書

ハ ウゲが一八一四年以後に書いた著書は、前期のものにくらべて文体においてすぐれている。旅から旅への巡回伝道時代から、バッケ(BAKKE)とブレッデゥ ヴェト(BREDTVET)での瞑想的な生活への転換を考える時、それは予期されたことであろう。とはいえ、ハウゲの著書を読むものは、ハウゲの物の考え 方に従って読んでみる意欲をもたねばならないであろう。彼の文体は驚くべき文法的飛躍と宙返りの連続で、句読点がほんとうは何を意味しているのかハッキリ しない場合が多いからである。幸なことには、彼の著書から教えられた人々は、主として宗教上の内容に関心をもっていた人々であり、それこそ彼の文体の巧稚 を超えて、豊富に盛られていたからである。

一八一五年、ハ ウゲは宗教的詩歌を集めた本を出した。翌年また彼は一冊の本を書いた。ニールス・シベルトゥセン(NILS SIVERTSEN)の意見によると、それはハウゲがもっていた知識の中心的な要素で、彼が全国を行脚した当時に塊集したものである。書名は「ハンス・ ニールセン・ハウゲの旅行と、もっとも重要性をもつ冒険談」と、つけられた。その第三部は、ハウゲ自身の宗教的確信の根拠を示すもので、「私自身の宗教上 の認識を要約したもので、私が同胞の間に伝えたいと願い求めて来たものである」と題された。この重大な文献の翻訳は、本書の附録にある。

一 八一六年になってハウゲはさらに一冊の小冊誌を発行した。彼はその中で、一七九六年から一八〇四年にかけて彼が出版した十四冊の本の書評を試みている。一 八一七年には、彼は「宗教的感情とその価値について」を書く用意が出来ていた。シベルトゥセン(SIVERTSEN)は「本書は、その文体と形式におい て、その豊富な宗教的内容において彼の著書の中で、最高の位置に値するものである」と評している。

ハウゲは本書の中で、一七九六年に起こった彼の重大な内面的経験についての詳細な記述と、それから後に、彼が経験した霊性の成長発展過程を公開している。それは苦と苦痛の記録である。彼は信じようと努めながら、疑いと疑惑に悩まされつづけたのであった。彼は嘲笑する者らとった。彼の精神の内面では、召命感と死によるこの苦しい世界からの解放を願う祈りとが、入りまじって彼を苦しめたのである。彼はまた、邪悪な思念の虜となって苦しんだこと、選びの教義に対する困惑、神と天国と地獄の実在についての疑い、世俗に溺れやすい人間性とのいについて述べている。

彼 は伝道を志したころの説教の準備をどういう風にしたか、その課程についてまで語っている。彼はまず即席でやることにした。前に準備をして説教をしたことも あったが、結果は失敗だった。彼にとって人々のハートに迫る効果的な方法は、自ら全く無力になって、徹底的に神の恩寵に依存することだった。ハウゲがもっ ていた驚くべき聖書知識の量を知る時、彼が全くの準備なしに、次から次へと説教することが出来たということも、全く考えられうることである。ハウゲは神の 言葉を彼のハートに蔵しこんでいた。彼が立ち上った瞬間、その場に居合わせた聴衆の欲求にこたえる適切な神の言は、聖霊によって、彼の心からただちに引き 出された。彼が語り始めると、キリストの愛が、権威と力をもって、彼の言を肉づけるのであった。そして彼の語る言が神よりの言であることを認める人々の心 の中に入って火のようにうち側で燃えるのだった。

このころ彼が出版した著書は、次のような順序で世に出ている。「死に直面した生 活」一八一八年、「聖書のある箇所に対する註釈」「祝祭日用のテキストについての註釈」一八二〇年、「ジョン・タウラー(JON TAULER)の著述の要約」一八二一年、「キリスト教の信頼性についての証言」一八二二年、「日曜日および祝祭日の朝拝および夕拝用テキストに対する諸 家の註釈を集録し年間の使用に便利なよう配列したるもの」一八二二年、「教会史要略」一八二二年、「コリント第一の手紙十五章について」「真のキリスト教 の可能性について討議」一八二三年、「著者不明の一週七日間の生活規定」「平民間に用いられてよい建設的な会話、瑞典語よりの翻訳」一八二四年。

これらの著書よりも、重要価値をもつものは、彼の最後の著書「H.N.ハウゲの友人達に対する証言」である。これは一八二一年に書かれたが、彼の死後まで出版されなかった。

前 に掲げた著書のリストを見ても判るように、あるものは翻訳であり、あるものは他人の著書の再版である。教会史はルデゥイ ホルベルグ(LUDUIG HOLBERG)その他の著作を参考にした彼自身の著述だった。彼がその教会史の中で追究している題目は宗教的寛容である。彼は、あらゆる角度から光が問 題点に集中照射される時、真実が明瞭に浮き出されると信じていた。「もし人々のハートと理解が真実の前に開かれているなら、最も明確に真理を把握している 者、聖書とキリストの教に従って敬虔な生活を送っている者は、彼の教えによって、最も多くの信者を獲得しうる筈である。」と。ハウゲは聖書的真理を把握す ることと同様に、キリスト者の真実な生活を重要視していたのである。

一 八二一年の初頭、ハウゲは彼の体力が目に見えて衰えてゆく事実に気がついた。余命いくばくもなしと思ったのか、ハウゲはせっせと筆を走らせて、彼の死後、 彼の友人達に守ってもらいたい原則を書き残した。彼の遺言は彼の生活と教の基準を示すものとして価値あるものである。それはまた二〇世紀に入るまでのノル ウェーの教会生活の中でハウゲ派が占める将来の位置を指示するものでもあった。遺言状の全テキストは附録に掲載されている。ハウゲが同志に訴えた十ヶ条を 要約すれば左の如くなる。

1.恩恵と聖潔の霊が、友人達および将来の回心者の上にあるように、

 2.神の言が、この世のいっさいのものにまさって尊い宝と見なされるように、

 3.基督教文書の選択に思慮分別を用いるように(ここでハウゲは教理の純不純をためす方法を與えている。)

 4.同様の思慮分別は、著述家の側でも働かせてもらわねばならない。信仰的書冊に対する社会的検閲が必要である。

 5.彼の同志達がアウグスブルグ信仰告白を、われわれの国家宗教を守り、教会に出席し、礼典にあずかり、牧師司式のもとに結婚し、葬式その他のことについてもよき習慣を守るように、

 6.同志達が、特に留意して、a. 生ぬるさと、いっさいの保証に依存することを拒絶し

7. 不和を警戒するように !「調和以外に大切なものはなにもない」

 8.知識人、センチメンタリスト、偽善者を重要な地位に潜入させないように、厳密な監視を怠らぬように、

 9.巡回伝道者および教師の資格を厳重に試験するように、霊の賜物において円熟していることと、キリスト者の経験を豊富に持っていることが必要である。長老達は、このことに意を用い、巡回伝道者および教師達の仲間の間の諸問題を解決すること、

 10.他派の人々とは、温和と寛容の態度であたること。「神はあなたがたの知らない人々の内に、彼を愛する者を多くもちたもう」。故に「すべての人々に対し親切でなければならない」。

 ハウゲの臨終の日

  ハウゲが一八二一年から、彼の死に至るまでの期間に、彼が出版した著書の量から判断して、彼が一八二〇年から二十一年にかけて苦しんだ重い病気から恢復し た後、比較的健康な日々を楽しんだことは明らかである。さきにもふれたように、彼は一八二三年から二十四年にかけて重態におちいった。その冬は大部分彼は ベッドの上で暮したのである。三月のある日曜日、彼は全家族と農場で働いている同志達みんなを集めて最後の礼拝をもった時、彼は重態の床で洋服を着せても らった。その日は彼の声を聞くことが出来た最後の日だった。

 三月二十八日、日曜日、彼の容態は悪化した。彼は胸部の激痛に耐えながらベッドに寝ていた。口をきくことも出来なかった。彼の妻のインゲボルグ(INGEBORG)が、彼の顔に唇を近づけた時、彼が何かを言いたげであって苦しんでいることを知った。

 「あなたがいいたがっていることを、私はどうしてもしりたい !」

その時ハウゲは口を開いた。ハッキリした声が彼の口から出た。

「イエスに従いなさい !」 それから「おお汝、永遠にいまし給う愛なる神よ !」

彼の妻は言った。「主はいま御許に、あなたをお連れしようとなさっているのネ」

「そうだよ」ハウゲは答えた。

そ の日の午後、彼の容態は少しばかり恢復した。彼の肉親の人々がベッドのまわりで祈り、彼に「さようなら」を言うために待機した。翌朝の四時、彼は静かに息 を引きとった。平和な姿だった。四月六日に葬式が執行された。ハウゲはオスロのガムレアーケルス(GAMLE AKERS)教会の墓地に埋められた。彼の墓は教会の南側の近くにある。一八二四年の暮れトーレフ・バッケ(TOLLEF BACHE)によって、彼の墓石の上に鉄碑が飾られた。その東側に次の言葉を刻んで。「ここに、われわれの兄弟であり、親友であったキリスト者として同志 ハンス・ニールセン・ハウゲの遺骸が横たわる。一七七一年四月三日生れ、一八二四年三月二十九日死亡」。墓石の北側には、彼の二回の結婚と、彼の子供達の ことが記録され、その西側には次の言葉があり、「彼は最後の息を引とる時まで、彼が広めたあの信仰、あの望み、あの愛に固執した。そして言葉と、行為と、 著述と、キリスト的商業によって強化した」と。

そして墓石の南側には、彼は主に在って生き、主に在って死んだ。イエスの恩寵に彼は救いを与えられた」と刻まれている。

第16章 ハウゲ派の核心

この章の見出しが、「ハウゲ派」と呼ばれる事について述べ ているのは、他により適切な表現がないからである。ハウゲ自身の遺書に述べられた彼自身の願いは、彼の友人達が、一派を形成する事を差し控えてほしいとい う事であった。その願いは、首尾良く果された。そこで起こった事は、彼の友人達と継承者達が、ハウゲ派復興の精神を、キリスト教活動のより広い範囲に伝え るものとして、彼等の責任を正しく解釈した事であった。そこに於ては、彼等の指導者によって設定されたいかなる組織上の取り決めに対しても、何の義務感も なかったのである。しかし、彼が求めて来た諸原理を生かしておこうとする最も聖別された決意がそこにあった。

回 心

真 実の回心への要求が、最初に起こり始めた個人が彼自身の罪の大なることを知り、みちびかれるようにのみ回心は起こった。そしてそれは、彼の破れた状態に絶 望した、更に回心は、彼自身を悔悟的に神のあわれみに任せたのであった。聖霊の示しを通して、彼はキリストの赦しの約束を受け、彼の意志を神に任ねた。自 己満足と軽率さとを埋め合わせるために、不断に反省する態度は、この事に合った。この回心の経験は、現在の霊的献身の試みとして呼び戻された。勧告は、し ばしば「はじめの愛」についての主題の意義を持った。キリスト教徒達は、神と共にある彼等の歩きぶりの特徴となっていた善への聖なる熱意と罪についての聖 なる恐れを思い出させられた。彼等は、強いて聖霊の実について、彼等の生活を吟味するよう熱心に勧められた。そして聖霊の実の中では、キリストのために、 他の物に打ち克とうとする真剣な願いが重要であった。真実の回心をするためのハウゲ派に関する事柄の重要な特徴は、突然の霊的変化に対して極めて慎重な姿 勢をとる事があった。ヴェーレは、それを次のようにのべている。即ち「彼等は、キリストへ向って容易に飛躍する事には心配であった」。ここにおいて年長者 達は、彼等が新しく発見した信仰において、喜びに溢れている新改宗者を抑止しようとする手を働きかけた。神に転向する事について、深く関係をもたされた人 間は、しばらくの間熟考し祈るべきである事が期待された。この事は、人がキリストにある新しい生活は、疑いや誘惑の暗影から全く自由ではない事を発見した が、自発的な熱狂のための時間を次第になくしていった。その結果として、ハウゲ派を踏襲するキリスト教徒達は、彼等の信仰における深さと安定性を認識する ようになって来た。

生ける信仰

人 間に対する神の意志を概説するのに、ハウゲは、「使徒性」という言葉で考え、語りそして記した。更に使徒性の定義のために、彼は四つの福音書にあるキリス ト御自身の御言を資料の一部にした。その大要は、主イエスに従い、イエスのようになるために努力する事であった。この事は、ハウゲと彼の後継者達にとって は、「生ける信仰」の本質であった。「生ける信仰」という言葉に含まれている概念より、ここでハウゲ派と呼ばれる概念の核心により接近している概念は他に ない。ノツトヴェツト博士は、ハウゲがここで義認と聖化に於ける正統的ルター派の見解とは、全く一致しない教義を有していた事を指摘している。即ち、信仰 の「服従」という点を強調したとき、ハウゲと彼の門下達は、神の恵みにある信仰者たちの「安息」と「信頼」について殆んど語っていなかった。

こ れらの時代の霊的状況を評価する事は、容易ではないが、日常生活の問題において、国民を助けるのに、正統派及び合理主義の両方の不十分さと広く行きわたっ た道徳的堕落について理解されている事から、ハウゲ派の復呉が、「生ける信仰」に強調点を置いた事は適当であった。この事は、教理における誤りの場合では なくて、むしろ、死んだ信仰と霊的眠りに対する有益な機敏さであった。ハウゲ以後のキリスト教徒達の時代は、キリストの完全な業と聖い生活を生きつづける 恵みの場において、子供らしい信頼をさらに十分に教える事であった。

聖 化

生 ける信仰」とは、日常の処世への最も強い意味を含んでいた。個人的救いは、決して信仰的訓練の分野に閉じこめられなかった。更に、教理の点の正しさもまた 真の基督教の目安としては決して強く説得されなかった。それにおいて重要なのは「生活」であった。チューネ教区に於ける一少年のように、ハウゲはいわゆる ゼーベルギアン、(地方的モラビア兄弟団)の矛盾した生活に恐れすくませられた。彼等は、「神の子羊の血」について、大変感動的に語る事ができたが、しか し、彼等の生活は、しばしば面目をけがすものであった。勇敢な一人の青年作家として、ハウゲは合理主義的、及び正統派のような聖職者についての価値のない 生活を公然と非難していた。ハウゲは、偉大なる巡回信徒伝道者として、不信仰を非難し、正しい生活をするために神が要求をしている事によって、次から次へ と町々を改革していった。ブレッデゥヴェトでの老いた長老として、ハウゲは、彼の友人達の前で偉大な使徒ヤコブの精神において、聖書の道徳的命令法にとり かかった。彼は、自分の臨終から「イエスに従え」と叫ぶ日まで、彼は行為のない信仰は死である ―― 使徒である事は、聖き生活を意味するという確信をもってしっかりと踏まえたのであった。

律法主義とは

何 人かの人は、ハウゲが倫理的に強調していた「律法主義」という名札をつけた。デンマークキリスト教徒たちの幾人かは、ハウゲを律法と行為の効果のない、そ して奴隷的に用いられた問題でもって、占められているとみなした。ノルウェーの国中いたるところに、ハウゲについてのみ知っている人がたくさんおり、彼の 友人達が現代社会の快楽に逆らって行った厳格な禁欲の訓練を受けた身である事が期待されねばならなかった。彼らの批判的でない眼に対して、その復興運動 は、良い行状についての一宗教であった。今日でさえも、ハウゲの名はあまりにもしばしばそれが良き行為による救いの意味における粗野な律法主義に結びつけ られていないにしても、少なくとも消極的で偏狭である生活と結びつけられるのである。

個人指導という特殊な問題に関しては、ハウゲはある難問についての彼の知識と彼の価値あるものに対する一つの霊感であった。

彼の初期の訓練の力で、彼の直感的態度は、凡てのいかがわしい活動を完全に放棄する事であった。彼は敬虔という一形式に向って、その方向を最も正しく定められたので、一人のキリスト者にはふさわしくないものとして、笑いものにした。彼の友人達は、ハウゲからもっとも奮的 な他の現世的事項を期待していた。そして、その大部分は、彼が彼等を失望させなかった。しかしながら、彼が自分の注意を事業の世界に向け、そして一商人と なるために、ベルゲン(BERGEN)にある彼の市民権を放棄すると、友人の多くは思い惑った。彼の確乎たる裁断についての限られた活動によってだけ、ハ ウゲは信仰復興運動を貿易、産業及び事業等の業務をもって生き生きした感覚にひき入れる事ができた。友人達の不審と静寂主義にもかかわらず、彼は伝道の目 的を進めるために、この世を用いるための場面をくりかえしつくった。この世を否定する事は、それを卑しむ事を意味するものではなかった。

ハ ウゲは、一八〇九年に、刑務所から出所して、製塩所を建設する事になった時、彼が人をつまずかしめる原因をつくるという事がより早くのべられた。彼は、深 い関わりをもつ目的として、古い友達の中にあらわれた。なぜなら、今彼は、平らな手袋の代わりに、愛玩物を編み、日曜日には鬚をそり旅行した。彼の数年後 のブレッデゥヴェトに於ける指導は、より容易ならぬものにみえたのであろう。それは、酒が祝日の場合に用いられるのみならず、ブランデーも亦なお農場での 働きの中で保存された。一八一八年にハウゲは、一通の手紙を受け取った。その手紙で彼はブランデーを製造する事を、はげしく非難されていた。彼は、自分が それを製造する事が罪であるという事を発見していなかったというように返事した。しかし、もし彼がその意見に達するならば、彼は「ただちに、彼のやかんを こなごなにたたきこわしたであろう。そして、それがどんなに興味のあるものでも、ノルウェー教会の歴史についてのイヴァール・ヴェーレの著書は、“ HAUGES MERSKUMS-PIPE MED SǾLVBESLAG ”という一つの描写を公表した。

兄 弟達の間でこのような問題について、ハウゲは専制政治と寛大との間の困難な課程を図表にした。友人達の間には、共通の紀律があった。しかしまず第一にそこ には愛があった。オルディング教授は、ハウゲが飲酒の習慣とたたかつている一友人に書いた手紙を引用した。最も思いやりのある方法で、ハウゲは、この不幸 な人を助けるために、兄弟らしい手を伸ばした。彼は父なる神が、父の立ち返ってくる息子をうけ入れるためにのばされた腕で、立っているキリストの聖座に 向って、しいて彼を向けかえようとさせた。

もう一つの俗念

し かし、過度な敬虔的マンネリズムでは有名であったジョン・ハウグヴァルトシュタットにとって、ハウゲはきびしく且つぶっきらぼうであった。ハウグヴァルト シュタットが一八一八年にブレッデゥヴェトを訪問したときに、ハウゲは彼に、「あなたのもっているこの関係は引き受けられるのであって与えられるものでは ない」と云った。ハウゲはハウグヴァルトシュタットの疑問とされぬ(確固たる)献金についての一人の人間の態度を注目したときでさえ、あいさつをした頭、 ふるえている声、ゆううつな顔つき、といったキリスト者の生活の漫画に対して反応を示した。

彼 等の指導者の態度を実例にも拘らず、ハウゲ派の人達は、外面上の行動において、厳粛さへの彼等の情熱においては、否定されなかったであろう。というのは、 それは彼等の実例になった同じジョン・ハウグヴァルトシュタットであったからであった。ジョン・ハウグヴァルトシュタットは、立派なキリスト者であり、著 名な説教家でもあり、且つ又ノルウェーにおける外国伝道の仕事において、最初の偉大な指導者であった。彼は、一信徒説教者として巡回した。ハウゲが投獄さ れたり、又他の信徒説教者たちが沈黙しているわずかな時間でさえ、一信徒説教者として巡回旅行をした。又彼は、デンマークを三度も訪れ、スウェーデンに三 度、ドイツに一度訪れ、これらの国々で外国伝道の計画を知るようになった。ノルウェーの伝道協会が、一八四二年に設立されたとき、ハウグヴァルトシュタッ トは主要な組織者の一人であった。彼はスタヴァンガーに、住居を構えたとき、彼は親睦会を催すために、彼の周りに多くの人々を集めた。そして、それは一八 四五年に、祈りの家を建てるために必要となった集会であった。

ハ ウグヴァルトシュタットを知っているものは、みんな勝利を得た人々の仕事における彼の堅実なキリスト教徒の性格と賢明な指導性のために彼を愛した。 M.O.ヴィーは、「神の恵みにより、彼はキリスト教徒達を一つにさせる事に役だった。そして、平和と調和の精神を持続して行く愛において役だった。彼の 住んでいる町(スタヴァンガー)の少年たちは、彼を「聖なるヨハネ」と呼んだ。そして、彼の敵でさえ、「もしだれかがキリスト教徒であるなら、それはジョ ン・ハウグヴァルトシュタットである」と彼について語った。

そこで、この愚にもつかない結果でもって、この人の励まし合いは、彼の偏心はマンネリズムの再現を含む事に関して、遠くへ行ってしまったという事になった。マツヅ・ヴェフリングというハウゲ派の信徒説教者は、のちに牧師となった。そして、この物語を語った。

「その事に気づかないで、私は何かある危険な歩みと直立した態度をとった。友人の一人は、この世の子供のように歩くために、私をそばへつれていき、私を責めた。私は、私が書かなければならないと、その時どのように考えたかを彼にきいた。」

「ジョ ン・ハウグヴァルトシュタットをごらんなさい、そしてこの方をあなたの模範にしなさい」といった。「私はやってみます」と私は答えた。それは、私が人のま ねをするのは容易であるから、その試みは順調に行われたので、その事に注目していた友人は、私がそれを重んじすぎるといった。

「なぜならば、今あなたには全くジョンがしている通りに歩んでいますから」と、彼はいった。

そ こで今、彼は私に自分の旅行の友アンダース・ハーヴを手本として命じた。彼の歩み方をまねする事は、私にとって容易になって来た。全体の事は、私に歩き方 についてたずねる友達で終わった。しかしながら、それは当然攻撃する事になった。私は、本当にこの事が議論の余地のない程に正しい事だと述べた。私は、こ の原理を、この時までに強力に進めて行った。そして私はその事に従いつづけようと思った。

キ リスト者の行為の模範は、ハウゲ派の人たちが異なった教理的強調を体験したので、少しばかり変った。しかし大体において、彼等はいつも俗念に対して用心を していた。他の世俗的な見解の可能な両極端は、ありふれた次の表を作った。即ち、自己義認、偽善、圧世観、律法主義、取り澄まし、及びヴェーフリングが笑 わねばならなかった不自然な種類のものであった。凡てこれらのものとそれ以上のものは、ハウゲ派の人々に反対して差別をとりさり、一掃された。しかしいつ も裁きをもって一掃はしなかった。当時ハウゲ派は、ノルウェーに根を下しはじめた。公衆道徳は、宗教的復興の浄化の効果が必要であった。他方において、キ リスト教徒でない人間は、その人間が、彼等がお互いに示し又その人間に対して示す利己的でない愛によって存在するように、神の民によって追究されて来た厳 格な規定によっては、必ずしも成功させられないという事をだれも否定しないであろう。

個人の救い

個 人的なハウゲ派の外面的な敬虔についての消極的な面は、ちょうど、ハウゲ派の社会倫理の積極で勇を鼓す面と同じように明らかであった。個人指導と共同体の 改革は、ハウゲ派の見解には高い姿勢をとっている。しかし、根本的に宗教的な経験の派生物としてのみたっている。彼等のための最高の問題は、いつも「我々 は救われるために何をすべきか」という深く厳粛な問題に集中した。ハウゲ派の人たちが語り、行なった他の凡ての事は、個人的救いの問題をもつこの大事な仕 事に関して評価されねばならなかった。彼等が彼等の厳密な行為でもつて云おうと努力しはじめた事は、神との個人的な関係は、人間が永遠の救いの目標から注 意をそらせる何かをよろこんでさけているという事は、このように凡て用いていくに重要であるという事であった。この事は完全な回心における彼等の云い張り の理由を明らかにする。それは、その「方法」が凡てのものであるのでなく、その目標が永遠の救いであるという事だった。

警 戒

付 け加えるべき事は、「目標」とみなされている救いについて云うべきである。初期のハウゲ派の人々は保証された財産としての救いについて語る事には極端にた めらったのである。彼等に対して救いは、究極の目的、天及びキリストの現在についての首尾よい逐行を意味した。人が死にのぞんで永遠の祝福を迎えいれるま で、信仰者のための巡礼にとどまった。そして、野道にそって彼には余りにも強力に示された平安と試練を待ちうけていた。それゆえに、巡礼者にもっとふさわ しい態度は、歓喜ではなくて慎重さであった。

教理的強調に おいて明白な工夫が、一八三〇年におこなわれるまで、ハウゲ派の人々は、讃美しはじめなかった。そして、歓喜も又罪のゆるしと信仰による義認への彼等の応 答を特徴づけている。しかしながら、キリスト教徒が、注意深く存続する必要性は、決して忘れられなかった。たとえどんな世代であっても彼等は生きた。ハウ ゲから学んだ人は、キリスト者の生活を到達としてみるのでなく、日々の戦いとしてみる。これをうみだす心の敬虔な状態は、人に罪の力の強襲を用意させる。 罪への誘惑は、その後は悪魔と、この世と信仰者に対するより大きな狂暴さをもつ肉の怒りを期待させた。そしてこの信仰者の唯一の避け所は、ただちにイエス へ向って逃げこむことである。

福音主義

 魂 の救いについての関心も又人間の隣人の霊的幸福について関心をもつ事をいみした。私的な会話や、家庭での集会において、ハウゲ派の人達は、自分たちの信仰 を立証するのに忠実であった。彼等は常にいかに神がそのようにあわれみ深く彼等を救ったかについて語った。それから、彼等は厳粛に神が見出されるまで、神 を求めようとしている非回心者を戒めた。それはもっとも直接的で個人的な方法で実現された、簡単で宣教的プログラムであった。それなくしては、ノルウェー において信徒運動は一つもありえなかったであろう。福音を広めるための燃えるような強制力は、ハウゲの生存時代から現在までのキリスト教徒を動員する事に 重要な働きであった。ニイルス・リイス(NIELS RIIS)、ミッケル・グレンダール(MIKKEL GRENDAL)、ラルス・ヘムスタッド(LARS  HEMSTAD)、ペーダー・ロエル(PEDER  ROER)、トルレフ・ベーチェ(TOLLEF BACHE)、ミッケル・ニールセン・ハウゲ(MIKKEL NIELSEN HAUGE)、パウロ・グンデルセン(PAUL GUNDERSEN)、トルケル・ガベスタッド(TORKEL GABESTAD)、オーレ・オルセン・バッチェ(OLE OLSEN BACHE)、ジョン・ハウグバルデゥスタッデゥ(JOHN HAUGVALDSTAD)、ハルボール・アンデルセン(HALVOR ANDERSEN)、JON SǾREBRǾDEN 、ELLING EIELSEN 、BORSOEN ANDERSEN 、NILS YLVISAKER 、等は凡て信徒伝道者であるが、このような原動力になった人々は他にいなかった。そして、その中の何人かは、ノルウェーやアメリカにおいて牧師になった。

  信徒伝道の仕事から、一つの方法が自ずから本国と海外伝道への関心へと導き入れた。一八五〇年から、「ハウゲ派」という名はもちいられなくなった。その間 に、これまで記載された諸原理によって、彼らの生活を導く個々のキリスト教徒は、祈りの家において営んで来た信徒運動によって、益々会員が増加して行くの を発見した。それから独立したキリスト教徒の組織の時代が到来した。これらの事は、キリスト教徒が、神の救いの福音をたずさえて、更に遠くへ手を伸ばすた めに、たたかい、立証する権利を、又、与える権限を勝ち得たゆえに、ノルウェーと遠い範囲に亙る伝道圏に対して、このようなただ一つの祝福を受けたという 事であった。

第17章 ハウゲ派と教会

よく似た宗教運動のように、ハウゲ派は、その初期の霊的熱 情を伴っていた明白な形を、その独自な霊性を結び合わせる傾向があった。即ち、その支持者たちは、家庭集会が持たれていた方法や、宗教復興運動を普及させ るのに必要な聖書販売の場及びエイケルとブレッデゥヴェトが指導したような「伝道所」的機能等々に自然な愛着をもっていた。

  しかし、辛辣に公共の組織体の中に併合する事に対して、予め指示したハウゲとともに、彼の後継者達は、宗派心の強い傾向との戦いをやめる事に成功した。こ の宗教的現象は、教会史において、無類の復興運動としてハウゲ派の復興運動は、その価値を尊重するのにうとかったその教会を豊かにするために、尚継続して いった。

 しかしながら、ハウゲ派の貢献を教会の主 要な流れに持ちこむ事は、単に十年間では完成されなかった。「教会」という聖書的理解から、最初の発端よりハウゲと彼の改宗者、彼の協力及び彼等の業に参 加した人凡ての者が、最も力強く信仰者とキリスト教会の交わりの中にあったという事を指摘する事は、不必要であると思われる。ここでその目的は、それがノ ルウェーの国教会自身に関わるようにハウゲ派の道程を捜し出すことであった。ある教理的問答を論争する事は、最初は都合がよかった。それから、この国の偉 大な霊的天才であり、開拓者であるハンス・ニールセン・ハウゲの後を追う事ができる、ノルウェーの宗教的生活における発展をよりわけようと企てる「歴史的 な概略図」に対する機会であった。