あぶくまの由来

あふくま

現在の「あくま」の地名は、平安時代の文献に「あくま」と呼ばれていました。『三代実録』貞観5年(865年)の項で「阿福水神(あふくかわのかみ)」が出てきます。この神は『延喜式』(912年)の陸奥国亘理(わたり)郡に出てくる、あぶくま川河口の「安福河伯(あふくかはく)」神社と考えられています。『延喜式』の「安福(あふく)」は、本来は「安福(あふく)」であったろうと『大日本地名辞典』を編集した吉田東伍は言います。また「河伯」は『和名抄』に「かわのかみ」と記されいます。したがって「安福河伯」神社は9世紀には「あふくかわのかみ」と呼ばれたと考えられます。仙台藩の『封内風土記』によれば地方民がこの神を「阿武隈河大明神」と呼び、昔は「阿武隈川神社」と呼んだと記しています。

あぶくま河口の夕暮れ

また平安時代の和歌にも「あふくま」と歌われていました。『古今和歌集 』(905年)に「あふくまに/きりたちくもり/明ぬとも/君をはやらし/まてはすへなし 」(1087番)とあります。また『後撰和歌集』(951年)に、「よとゝもに/ あふくま川の/遠けれは/そこなるかけを/みぬそわひしき 」(521番)とあります。

そして「あふくま」に「遇隈」(『吾妻鏡』又の名を『東鑑』文治5年、1190年)、「合曲」、「青隈」、「大熊」の字が当てられたこともありましたが、「逢隈」の字が通例となりました。

逢隈

しかし現在は「逢隈」と書いて「あふくま」とは読まず「おおくま」と呼びます。あぶくま河口の「あふくまかわのかみ」のあたりは「逢隈(おおくま)」(宮城県わたり町)と呼ばれています。また中流の福島県郡山市内にも国道288号線がかかる「逢隈橋」があり、そこは戦前「逢隈村」へつながっていたところです。

それではいったい「あふくま」あるいは「おおくま」とは何を意味したのでしょうか。それは「逢う熊」または「大熊」を意味したのだとわたしは考えます。というのは、その昔あぶくま川はサケがたくさん上ってくる川でした。そしてサケを好物とするクマがよくあぶくま川に出てきてはサケをすなどったのです。その習性を知らない大和民族があぶくま川まで北上してきて、そこでクマに出会ったから「逢隈川」、つまり「クマ」に「逢った」川と名付けたのかも知れません。あるいは出逢ったクマが大きかったから、あるいは多かったから「オオクマ」と呼んだのかも知れません。そしてクマの難にあうことなく無事にあぶくま川を渡れますようにと、そこに「あふくまかわのかみ」を建て守りの神としたのでしょう。

これは余談ですが、熊本の「クマ」(球磨)川、愛媛の「クマ」(久万)川、あるいは長野の「チクマ」(千曲)川も動物の「クマ」に由来する名前ではないかとひそかに想像しています。

熊渡し

そして「クマ」と言えば、郡山市の「逢隈橋」から8kmほど上流には「熊渡し」の伝説の地があります。むかし坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(758-811)が「大熊」にのって「あぶくま」川を渡ったところと伝えられている所です。

そして熊渡しの地(郡山市田村町徳定)は将軍田村麻呂(一説には田村麻呂の子)の生誕伝説の場所です。その地の娘、あくたひめ阿口陀媛が田村麻呂を生んだ「室家山童生寺」、産湯に用いた「産清水」、その赤子を抱き上げた「抱上坂」、あくたひめ阿口陀媛を祭った「谷地神社(やちごんげん)」、田村麻呂が遊んだ「手玉石」と誕生伝説の場所の多さに単なる作り話とは思えない何かを感じます。また新井白石の「五十四郡考」の補遺(1822年)を記した、白川藩の広瀬曲の現地調査によれば、「当時もそこは田村麻呂の誕生の地のゆえに税が免除されている」(田村郡中、三代田村数畝之地、土俗伝称2田村麻呂降誕之所1、於今除2租税若干1、と伝えています。

田村麻呂は「坂面伝母礼麿(さかのものてもれまる?)」(陸奥話記)とも呼ばれ、「北天の化身、希代の名将」として、古代の東北の人々に同郷の英雄とたたえられていました(鎌倉大草紙、田村三代記)。歴史学者の喜田貞吉は彼が東人(あずまびと)であったと論じ、藤原相之助もこれを支持しています。そもそも戦争の指導者は最もカリスマ(天与の資質)を必要とする人物の一人で、血統では伝えることのできないものです。そして百戦錬磨の騎馬射手の訓練と戦争指導者としての資質の養成は京都や奈良の文芸と情事にうつつをぬかす貴族階級の地方でなしえるはずがありません。平安時代、東北征伐に名をあげた武将の多くは、都から離れた、戦争が絶えない、同じ東北か関東の出身です。彼らは東人と呼ばれ、九州の海賊の警備も、宮中・天皇のボデーガードもほとんどが彼らに任されたのです。

あぶくま征伐

田村麻呂が「奥州田村庄」(現在の福島県郡山市田村町と田村郡)で生まれたとする説(坂上系図浅羽本)を積極的に支持する学者を私は知りません。しかしこれを否定するには、あまりにも多くの田村麻呂伝説が「奥州田村庄」に存在します。それらは田村麻呂が「奥州田村庄」に生まれ、武将としてそこに成長したと仮定すればよく理解できるものです。以下の「あぶくま征伐」は史実を反映すると思われる「田村麻呂伝説」に対する私の試論です。

田村麻呂は「熊渡し」の地に生まれ、武将として成長しました。彼は生れた家からほど遠くない、「騎陣取(郡山市田村町徳定)で騎兵を訓練して陣取らせていました。また、そこからすこし離れた「田村森(郡山市田村町手代木)で兵士を駐軍させていました。近くには田村麻呂が休息した「腰掛石(郡山市荒井町)や矢を掛けた「矢掛松(田村郡三春町沼沢)がありました。

やがて田村麻呂は「あぶくま征伐」を行い、武将として名をあげます。「賊はどこにいるか」と田村麻呂が問うと、里人は「あの山(郡山市荒井町)と答えました。「あの山」を越えて「過足(よぎあし)(田村郡三春町過足)で里人の家に泊まったところ背が大き過ぎて寝具から足がはみ出でました。さらに進んで一夜を「明石神社(あかしのみや)(田村郡船引町堀越)で明かしました。そしていよいよ決戦が近づき、「大越(田村郡大越町)で兵に大声を出させ、「大滝根山(田村郡滝根町)の「鬼穴」に立てこもる賊の大多鬼根(一説には大岳丸)を征伐しました。

帰り道には「船引(田村郡船引町)まで負傷兵(一説には戦死者)を舟で引いて運び、田村麻呂の残した大きな鏑(かぶら)の矢は「大鏑矢神社(田村郡船引町)に祭られ、高柴に残した馬、あるいは見張りの駒は「高柴木馬、三春駒(田村郡三春町)となって賊やわざわいを「見張る」、「三春」の里人のお守りとなりました。

こうして「あぶくま」に平和と秩序を作り出した田村麻呂は里人に英雄とたたえられ、彼の残した事跡は今日まで絶えることなく語り伝えられました。以上の田村麻呂にまつわる地名や伝統は進軍の経路に沿っています。英雄の事跡を地名や伝統として残すのは人類の習わしです。この他にも数多くの田村麻呂伝説が郡山市田村町(旧田村郡)と田村郡に存在します。そして、これほど多種多様の田村麻呂伝説が存在するところは他にありません。その理由はここが田村麻呂のホーム・グランドだったからと、解するのが自然です。
結論

このように見て来ると、「あぶくま」の名前は「あふくま」に由来します。そして「あふくま」は動物の「クマ」に「逢ふ」ことに由来すると考えられました。「あふくま」を今日「あぶくま」と発音するのは、「ふ」と「く」のウ音の連続が発音しずらいので「ぶ」とにごったのだと思います。江戸時代の二本松藩相生集によれば、「和歌者はあふくま川とにごらず、地方民はあぶくま川とにごる」(阿武隈川、武字於和歌者清音、於俗語者濁音)と記しています。

「あふくま」川は「おおくま」川とも呼ばれました。その由来の一つは、あぶくま征伐を行った将軍田村麻呂が「オオクマ」にのってあぶくま川を渡った「熊渡し」伝説から来ています。さらに田村麻呂はあぶくまに初めて平和と秩序を作り出した、あぶくまの「父」、「英雄」でありました。つまりクマと田村麻呂が「あぶくま」由来の主人公でした。


参考文献

「蝦夷の馴服と奥羽の拓殖」、喜田貞吉著作集9巻『蝦夷の研究』
『奥羽古史考証』、藤原相之助、1930年
『大日本地名辞典』、吉田東伍
『五十四郡考』、新井白石、(補遺、広瀬曲)1822年
『三春町史』、三春町編、第1巻、通史編1、自然・原始・古代・中世、1982年
『船引町史』、船引町、民俗編、1982年
『田村郡郷土史』、田村郡教育會、1904年
『守山郷土誌』


99.06 公開、99.09 追加、 あぶくま守行