土曜学校開講の辞

 

宇宙は広大です。真理は深遠です。私たちは百才まで年令を重ねても、その知り得るところはほんのわずかに過ぎません。しかし宇宙を究め真理を探ろうとする熱望がこの小さな体にあふれるのは、どうしたことでしょうか。これは神が宇宙の創造者、真理の根源であり、そして私たちはその神を信じるからではないですか。信仰は実に知識の基です。

学問の野は広く、その道は遠いです。しかしすべての学問のエッセンスは必ず人の知り得るものであると私たちは信じます。私たちはすべての学問への合いカギをもっています。それはキリストの十字架です。人生は私たちの研究室です。生活は私たちの実験です。研究の年限は無限です。なぜなら復活によって私たちは永遠の生命を有するからです。この合いカギと研究室と研究年限をもって、学び得ない真理は存在しないでしょう。

学問がまだ分化していなかった古代ではすべての学問が哲学に含まれていました。哲学(フィロソフィア)とは知識愛の意です。その後、科学的研究方法の発達に伴い、まず自然科学、次に社会科学が哲学から分かれて専門化しました。哲学は原理の学であり、科学は法則の学です。原理といい法則というのは知識の把握方法の差から生じたものですが、その根底において一元の知識に帰し、そして知識は神に属します。それぞれの専門的知識を学ぶには技術的準備を要します。しかしあらゆる学問の根本精神すなわち真理そのものは一つであり、少なくとも神を信じる人はこれを学び得るはずです。そして学問の歴史を見ると、分化によって発達した各々の専門学は今や総合を要求し、科学と哲学との距離は著しく狭くなりました。

ここに私たちはささやかな土曜学校の講筵(こうえん)を開きます。規模は小さいですが志は大です。私たちの学ぼうとするのは哲学および科学の全分野にわたる古来の偉大な思想と学問です。その根本精神です。人は私たちを指して誇大妄想(こだいもうそう)と言いいますか? 私たちも自らをあきれて微笑みながら永遠の生命を目指すのみです。

1939年1月

矢内原忠雄