論文レビュー:

将基面貴巳(しょうぎめん・たかし )著「矢内原忠雄と『平和国家』の理想(思想、2002年6号、27-47ページ)

2003/1/25 あぶくま守行

将基面さんの「矢内原忠雄と『平和国家』の理想」の中で注目に値する論点をまとめると次のようになります。

平和国家の理想を追求した矢内原の言論と実践の活動は、マックス・ウェーバー政治学における『心情倫理』の純粋型を示しました。『心情倫理』とは自分の価値理念や信条に従った行動原則を、いかなる状況下でも、どのような結果をもたらそうとも、首尾一貫して守り通す生活態度のことを言います。つまり、軍国主義の吹き荒れるただ中にあって、自らの職ばかりか命の犠牲をも覚悟して、平和国家の理想を守り通した矢内原忠雄の生活態度は一つの「心情倫理」の純粋型を歴史的現実に現しました。そして戦後の天皇の勅語や平和憲法にさらなる神の啓示をみた矢内原は平和国家の理想を実践することこそ日本の使命であるとの確信を強め、この価値理念を生涯追い求めました。このように『心情倫理』の純粋型を現した事こそ、日本思想史における矢内原忠雄の独自的意義です。

矢内原の理念史的意義を見いだした将基面さんの論点は重要です。私はウェーバーと矢内原を師としておりますが、このような定式化までは思い至りませんでした。さらに将基面さんに指摘されるまで、私の気づかなかったことに天皇の『平和国家』勅語があります。ちょっと、私の精神訳を紹介したいと思います。
「日本国民の皆さん、終戦に伴う多くの苦難を克服し、国家理念の粋を発揮して日本の信義を世界に示し、平和国家を確立して人類文化に貢献してくださ。私は日夜いつもこの理想の実現を心憂いるばかりに願い続けています。」(1945年9月4日、第88回帝国議会開院式勅語)
この勅語が昭和天皇の発意によって述べられ、自らの本心を語ったのであれば、私はそう信じるのですが、私たちはこのような天皇を持ったことを誇りとすべきでしょう。

将基面さんの矢内原忠雄に対する理解は信仰的内容まで的を得ています。ただ惜しまれるのは、矢内原が晩年になって平和国家への情熱を失ったかのような論述を最後の部分で展開している事、そして、たとえ国民の大部分が平和国家の理想を捨てても、少数のキリスト者が必ず守り受け継いで行くという『七千人の遺り者』に対する矢内原の希望の論述が欠けている事です。この論文の学問的価値に関しては、ウェーバーの『心情倫理』と『責任倫理』の対極コンセプト(概念)を用いて特徴づけるあまり、矢内原が結果に対する責任を放棄したと述べている部分は問題です。むしろ、矢内原にはウェーバーの次の論述が的を得ています。
結果に対する責任を痛切に感じて責任倫理に従って行動する成熟した人間(老若を問わない)がある時点まで来て、『私はこうするより他ないのです。私はここに立ちます。』(ルターの言葉)と言う時、私たちは測り知れない感動を受けます。これは人間的に純粋でたましいをゆり動かす情景です。なぜなら精神的に死んでいない限り、私たちは誰でも、いつかはこのような事態に直面することがあるかも知れないからです。この限りにおいて心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両方相まって『政治への天職』をもつことができる真の人間を作り出すのです。
(ウェーバー『天職としての政治』、脇訳103ページ相当部分)