森田ゆりあ(51期) 気づきの中に

2015年度 校内意見発表
気づきの中に
2年 森田ゆりあ(51期)


急ぐような、焦るような足音が、教室の外から聞こえてきた。次に耳に入ったのは、また、焦るような声。「牛の股が開いてしまったから人手がいる、来れる人は来てほしい。」私は牛舎に向かった。するとすでに、何人かの人がいて、牛の足を元に戻そうと動いていた。その牛も、なんとか自分で立とうと頑張っていた。その時は、たくさんの人の協力もあり、とりあえず足の方向を元に戻すことができた。それからしばらくして、私はもう一度様子を見に行った。すると再び、股が開いてしまっていた。足の方向を戻したあの後、牛自身が立とうと頑張った結果であった。

 

それからは、何度やっても良い結果にはならなかった。そしてついに、その日の夜、淘汰が決まった。次の日の朝には業者さんが来て、牛がいなくなる。信じられなかった。悲しかったし、怒りさえ感じた。あの牛は、何年も自分たちのために働いてくれた。それなのに、立てなくなっただけで、「つらくなる前に楽にしてあげよう。淘汰するしかない」と言われたとき、「勝手すぎるだろう。」と思った。

 

経済的に考えて、立てなくなった牛を淘汰するのは、今やあたりまえ。それくらいのこと、わかっているつもりでいた。だが、いざその場面に直面してみると、“まだまだできることがあるはず”と、頭の中であがく自分がいた。牛を上から吊る、足を縛る、懲りずに足の方向を戻し続ける、立ってくれる奇跡を待つ。本当にもう何もできないのか、殺すしかないのか、奇跡なんてないのだろうか。もどかしくて、悔しかった。次の日の休み時間に牛舎に行った。業者さんが来るといわれていた時間は、授業の間にとっくに過ぎていた。牛がいたはずの場所を見た。何もない。たった数時間前までここにいたのに。息が詰まるという感覚を初めて体感した気がした。あの時思ったことは一つ。ごめんなさい。

 

1年前の意見発表で自分が言ったことを思い出した。「目の前で消える命に対して、何もできなかった」今も同じことを言っている。また何もできなかった。1年前から、自分が進歩していないことに気がついた。それどころか、あの頃の自分は、鶏の解体や、自分たちで育てた牛を食べるというプロジェクトをやったとき、それが一つの命である事、感謝を忘れていた。あの意見発表で言った言葉は結局、口先だけのきれい事に過ぎなかったのだろう。今、この発表で言っている事もきっとそうなる。実際に今でも、鶏の解体をすることに対して、感じることは少ない。首切りだって平気だし、むしろ楽しいからやりたいとさえ思う。こんな根っからの口先だけの自分が、一体どうすれば変われるのか。当然すぐには無理だろう。きっとたくさんの時間がかかる。だけど最近、無意識にはじめた事がある。「ごちそう様でした。」この時に、手を合わせて考える。今日のごはんの中に出てきた鶏肉や魚、豚肉に“ありがとう”と言うこと。小さいけど、これをやっている。物を食べるとき、その食べ物には命があったこと、そのことを少しでも考えてみる。すると“おいしい”と“ごちそう様”“ありがとう”は自然に心の中に浮かんでくる。

 

愛農学園に通い始めてだいたい1年半。残りの生活もだいたい半分をきった。これほど時間がたったのに、自分が変われたことはごく少ない。後の残された時間で、どれだけ変われるかわからない。だけど、確実にわかったことがいくつかある。それは自分が、心から酪農が大好きなのだ、ということだ。そしてそれを、将来の道にしたいと思っている事である。でも、ただ単に酪農がやりたいわけではない。牛たちの体や心のことを、第一に考えつつ、“使えなくなったらそれまで”なんて常識があてはまらないような所で働きたい。

 

そう思ったのには、最近学んだいくつかの農家の取り組みがある。そこには私の理想をはるかに超える現実があった。自分にはまだまだ知識も理想も足りない事を気づかされた。本当の命の在り方を考えるには、そのような生産者たちの中で、自分も同じような立場で向き合うことが必要なのだということがわかった。そしてそのために今の自分にできることは、私の中にある“本当の命の在り方”と“人の在り方”を膨らませつつ、気づきを増やしていくことだ。

この考えは、自分の中の一つの無力感から気づかされたことである。愛をもって接してきた牛が、全くの他人の手で淘汰されてしまう悔しさ。数時間前まで生きていたあの牛は、数時間後、知らない所で殺され、知らない所へ売り飛ばされる。それを見届けることもできず、その先を知ることもできない。そのことが、そう思わせたのだ。
私の通っている愛農学園は、たくさんの学びをくれるとてもいい所だと私は思っている。その学びの中から、これからも自分なりの気づきを増やしていきたい。

 

これから先、同じようなことが何度か起きるかもしれない。そうなった時自分は毎回、また何もできなかった、また同じだったって思うだろう。でも、いつか気づきたい。その後悔は、この先の何かを変えるためのきっかけだったということを。

 

最後に、今まで起きたすべての出来事、これから起きるすべての出来事に対して言いたい。気づかせてくれてありがとう。