井上柊哉(55期) 偽物

2018年度 校内意見発表
偽物
1年 井上柊哉(55期)


「正義」とは何か。私には分からなかった。辞書には「人が踏み行うべき正しい道」とあるが、正しい道とは人によって変わってくると私は思う。

 

私は中学生の時、正義であろうと思っていた。私にとっては、人に優しくすることが正義だった。困っている人を手伝えば、喜んでもらえた。悩んでいる人の相談に乗っても、誰にも咎められなかった。だが、その考えに疑問を持つようになった。それは中学三年生の10月頃、学校ではもうすぐ文化祭があった。それを文化祭実行委員が指揮を執って準備していた時だった。実行委員ではない生徒が「真面目すぎて面白くない。みんなそう思っている。」と私に言った。

 

私はすぐに注意しようとしたが、確かに、実行委員に融通が効かない所があることは私も感じていた。しかし、だからと言って精一杯仕事してくれている実行委員に向かって、「もっと融通を効かせてほしい」と頼むのは気が引けた。彼らには彼らの都合があるからだ。それを知らずにものを言うことは出来なかった。私は悩んだ。実行委員の味方になれば、実行委員にとっては良いが、文句を言っている生徒の不満をとることは出来ない。同様に、文句を言っている生徒の味方になれば、生徒の不満をとることは出来るが、きっと実行委員を傷つけてしまうだろう。どちらの味方にもなり切れなかった私は、結局何も言えなかった。その後も何か自分に出来ることはなかったか考えたが、それも何も思い付かなかった。誰かの味方になる事は、誰かの敵になるという事を思い知った。

 

「正義」とは何なのか、分からなくなった。誰かの味方になる事でもなければ、誰かの敵になる事でも勿論ない。では、正義とは何だろうかと考えていた。そんな時、私の好きな小説の中で面白い台詞を見つけた。「正義とは本物で、本物とは理想だ。」こんな台詞だった。私はこの台詞に救われた。自身の考えの着想を得られたのだ。人間にとって正義とは理想で、だからこそなかなか実現しがたいものなのではないだろうか。そう考えると、私の考えていた正義とは偽物だったのだ。人々がそれぞれ持っている正義は全て偽物で、この世界に本物は存在していないのだ。

 

ただし、偽物だから必要のないものだと言いたいわけではない。その小説にはもう一つ、面白いやり取りがあった。三人の中で一人が、偽物と本物だとどちらのほうが大切だろうかと聞いた。そのうちの一人が、「本物のほうが大切だ」と答えた。そのうちのもう一人は、「両方大切だ」と答えた。ところが、聞いた一人は「偽物のほうが大切だ」といった。理由は、偽物が本物になろうと努力している分だけ偽物の方が大切。と言ったものだった。つまり、正義である必要はない、正義になろうと努力することが大切な事なのだ。

 

本物と偽物は表裏一体なのだと思う。本物が無ければ、そもそも偽物はいない。逆もまた然りである。偽物が無ければ、それは本物とは言えない。だからもし、世界中の人々が、正義になろうとする偽物になったら、もしかすると、そこには本物を見出すことができるかもしれない。正義とは、正義の為ではなく、人々の為であるべきだと私は考える。

 

しかし、その正義が本当に人々から、争いや悲しみを無くせるかは分からない。ただ少なくとも私は、人を思いやる気持ちが争いを生むことはないと信じている。だから私は全うな偽物になりたい。
と、ここまで書いてみて私は物足りなさを感じた。何故なら、この文章を突き詰めていくと、少なからず分からない部分が出てくるからだ。だが、そこを明確にすることも出来ない。何故なら、「そもそもなぜ正義にこだわるのか」や、「偽物の正義は悪なのか」などと問われても、私は、答えられないからだ。私はこれからも悩み続けるのだろう。悩み続けることが偽物への第一歩なのだ。