2 月 5 日
ああ、エルサレム、エルサレム、あなたは預言者たちを殺し、神から使わされた人たちを石で打ち殺してきました。親鳥がそのつばさの下にひなを集めるように、私はいくたびあなたの子たちを集めようとしたことでしょうか。しかしあなたちは応じませんでした。見なさい、あなたたちの家は見捨てられるでしょう。私は言います、「『ほむべきかな、主の名によって来る人』とあなたたちが告白する時の来るまでは、再び私を見ることはないでしょう」。

マタイ 23:37-39

ああ、エルサレム

 この聖句には限りなき悲しみ、極(きわ)みない憂国(ゆうこく)があらわれています。エレミヤのイスラエルに注いだ涙、ダンテのフィレンツェに寄せた情も、これには及びません。たとえ史上すべての愛国者の嘆きを一篇の詩に合わせつづっても、このイエスの短い言葉の前には、太陽の前におけるロウソクのようでしょう。怒りは溶けて悲しみとなり、悲しみは愛によってうずきます。あなた亡びようとしていますか、亡びてはいけません。あなた亡びなければならないのですか、どうして亡んでよいでしょうか。審判の厳正(げんせい)が極まるところ、すでに復興(ふっこう)のあわれみはたたえられています。見なさい、エルサレムの家はあなたたちの罪のゆえに廃きょとなるでしょう。あなたたちは今私を捨てます。しかし後であなたたちは私を迎えて、「ほむべきかな、主の名によって来る人」と言うでしょう。私が再びあなたたちを救いに来る時、あなたたちの枯れた骨はことごとく新しい生命を吹き入れられるでしょう。旧約のすぐれた預言者たちと同じく、イエスもまた復興の希望を掲げることなくしては、国民の亡びを預言しなかったのです。



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