主が人に捨てられたのは、神が選び定めた尊い生きた捨て石だからです。この主のもとであなたたちも生ける捨て石となって霊の建物のいしずえを築き、聖なる祭司としてイエス・キリストによって神に喜ばれる霊の犠牲(ぎせい)をささげなさい。ぎせい
失って惜しむのが後悔ですが、失って喜ぶのがぎせいです。人生はぎせいであり、ぎせいは損失ですが、その損失によって人生に意味と光栄とが生じるのです。ぎせいは人の最も愛惜(あいせき)するところのものを他者のために捨てることですが、何を最も愛惜するかはその人の個人的事情に基づく主観的判断であり、他人の容易にうかがい知り得ないところです。従って他人より見て大きなぎせいと推察されることが、当人に取ってはそれほどぎせいでなく、かえって何人も知らないところにおいてその人は最大のぎせいを払っていることがあるでしょう。右の手のするところを左の手に知らせないところに真の慈善があるように、人に知られない秘かなところに真のぎせいがあります。しかもぎせいの価値は、それを献(ささ)げる当人の主観的評価によっては定まりません。どのような目的のためにそのぎせいが払われるかによって定まるのです。目的が高ければぎせいの価値は大であり、目的が低ければぎせいの価値も小です。そして人生、神に仕えるより大きな目的はなく、神に仕えるために秘かに忍ぶ損失よりも価値あるぎせいはありません。神に仕える人が具体的にどのようなぎせいを忍びつつあるか、人は知らなくてもキリストはこれを知り、その人をあわれまれるのです。