本当の礼拝 

1998年01月04日

霊と真実の礼拝
祈り
ぎせい
神に献げなさい


霊と真実の礼拝

最初に聖書を開いてください。ヨハネによる福音書4章23-24節です。朗読します。

真に敬虔(けいけん)な人たちが霊と真実をもって父を礼拝する時が来ます。いや、今来ています。父はそのように礼拝する人たちを求めています。神は霊ですから礼拝する人も霊と真実をもって礼拝しなければなりません。

今日は本当の礼拝とは何かを考えて見たいと思います。礼拝とは神を敬うこと、すなわち神の人格を尊重し、神を愛することです。そして今朗読しましたように、本当の礼拝とは霊的礼拝であり真実をもってする礼拝です。物質的利益を期待する礼拝は本当の礼拝ではありません。心理的あるいは感情的満足を求める礼拝も本当の礼拝ではありません。なぜならそうした礼拝は自己満足が目的となってしまっているからです。霊的な礼拝とは自己否定の礼拝です。自分に死んで、神に生きる礼拝です。肉の自分を捨てて、十字架の道を歩む人生こそが霊的な礼拝です。

そして礼拝はまこと、すなわち真実をもって行わなければなりません。真実な礼拝とは神のみを目的とする礼拝です。そこに人の利害を混ぜない純粋な礼拝のことです。人の顔色をうかがったり、人の関心を買うための礼拝でなく、神のみに喜ばれる礼拝です。神の最も喜ばれるものは何ですか。それは人の心です。罪の赦しを求める心、救いを求める心、砕かれ悔い改めた心をもって神に面するのが真実な礼拝なのです。

霊と真実の礼拝はまた形式やうわべにこだわりません。形式に心が伴わないとき、それは儀式的な偽りの礼拝になってしまいます。心の伴わない儀式化した礼拝は神を型にはめて操作することで神の超自然的力を引き出そうとする人間の作り出した偽りの礼拝です。その目的は人間の願望をかなえることでそのために神は手段として使われているに過ぎません。その意図は神を敬うのでなく利用するにすぎません。神の人格を無視し、神を道具としています。

見返りを期待するのも本当の礼拝ではありません。これだけのものを貢(みつ)いだのだから、これだけの祈りをしたのだから、引き替えに私の願いをかなえてください、というのは取り引きではあっても、礼拝ではありません。真の慈善が人に知られないところで何の見返りも期待せずに、天国に宝を積むことにあるように、真の礼拝も人に見られないところで何の見返りも期待しないところに行われるのです。

しかし今日この世に行われている礼拝を見てください。他の宗教ばかりでなくキリスト教の中でも、物質的利益や人の関心を買おうとする偽りの礼拝があふれています。ご利益があるから礼拝するというのは本当の礼拝とはいえません。いや私たち、無教会の間でもややもすると無意識的に物質的な偽りの礼拝が行われています。心しなければならないことです。

もちろん私たち人間は罪に染まった弱い存在です。なかなか純粋な霊的で真実な礼拝をするこが出来ません。しかしうれいる必要はありません、聖霊が助けてくれます。私たちはどのように礼拝すべきか、知らなくても、聖霊が私たちをその方向へ引き立てて導きます。私たちは信頼して従っていけばよいのです。

祈り

私の学問の先生マックス・ウエーバーは礼拝の特徴的要素として祈りとぎせいを上げています。

祈りは神との対話であり、秘密の愛の交わりです。祈りによって人は神と人格的関係を結びます。神と直接つながることによってのみ神を敬い、愛する態度はあらわれます。祈りは真心のあらわれであれ、その極致は感謝と賛美です。

そして、何を祈るべきかは、イエスが『主の祈り』によって見本を示されました。

天にいます私たちの父よ、
み名が聖(きよ)められますように。
み国が来ますように。
み心が天に成るように、地にも成りますように。
日々のかてを今日も与えてください。
私たちの罪を赦(ゆる)して下さい。
私たちに罪を犯す人を私たちが赦せますように。
私たちを試みに会わせず、悪より救ってください。

マタイ 6: 9-13

もちろん、主の祈りが形式化してしまってはいけません。その精神を聖霊の助けによって、形にこだわらず、自然に祈るところに本当の礼拝は現れます。また、どのような態度で祈るべきかも、イエスが『隠れた所での祈り』によって見本を示されました。

あなたが祈る時は自分の部屋に入りドアを閉めて、隠れた所に在ますあなたの父に祈りなさい。そうすれば隠れたことを見ている父は公開であなたに報いてくださるでしょう。

マタイ 6: 6

ぎせい

もう一つの礼拝の要素はぎせいです。ぎせいは自分の大切と思うものを捧げる事です。自分の家庭、仕事、財産、能力あるいは命を神が要求されるときに捨てることです。愛着のあるものを失って、神のみを所有物とすることです。

アブラハムは愛するイサクを神に捧げました。士師時代にエフタは娘をぎせいとしてエホバに捧げました。ペテロやヨハネはそれまでの家庭や仕事をそくざに捨ててイエスに従いました。しかし、最大のぎせいは愛のため自分の命を捨てることです。イエスは彼を信じる者を愛して自分の命をぎせいにし最大の愛を現しました。

ぎせいには他に二つの意味があります。、とりわけ食べ物を捧げる事には、神との会食という意味があります。礼拝は神との交わりであり、愛の交わりは会食を通して深められます。イエスは最後の晩さんで「このパンは私の肉、このぶどう酒は私の血である」と言い、「私の新しい契約の肉と血を食べないものは永遠の生命を受ける事が出来ない」と言って、神との会食の最も深い意味を教えました。さらにぎせいには償(つぐな)いという意味があります。罪の赦しのために、あるいは罪の代償として神はぎせいを要求されます。イエスの十字架のぎせいの血は罪のあがないとして神に献げられた福音の成就でした。

このように大事なものを失う覚悟、神との会食、そして罪のあがないの意味において、ぎせいの最も純粋な型はイエスによって完成し、私たちに見本を示されました。今や、イエスによって霊と真実をもってする祈りとぎせいの礼拝が来ているのです。

今日は少し短いですが内村鑑三の「神に献げよ」の詩をもって話を閉じたいと思います。

神に献げなさい

あなたの財産を神に献げなさい。そうすれば神はそれがいかに乱れたものでも神自身のものとして整え守り、再びその財産をあなたに委ねて神のものとして使います。

あなたの体を神に献げなさい。そうすれば神はそれがいかに病いに重いものでも神自身のものとして医し養い、再びその体をあなたに与え神のものとして使います。

あなたのたましいを神に献げなさい。そうすれば神はそれがいかに罪に染まっていても雪のように純白に聖め、再びそのたましをあなたに帰し神のものとして使います。

神に献げなさい。あなたのものを神の所有物とし、神に自由に使わせなさい。そうすればあなたのすべての困難はなくなり、すべての病いは医され、すべての罪は清められます。

乱れたそのまま、病んだそのまま、汚れたそのまま、これを神に献げなさい。そしてその整理、治療、救済を神に行わせなさい。

(1913年9月『聖書之研究』158号)

以上です。


ホームへ