神の声を聞く
1998年03月01日
はじめに佐藤一哉(いっさい)先生が神の声を聞いた体験を皆さんと一緒に思い起こしたいと思います。私はこの話を一哉先生から直接聞いたのではなく、両親から伝え聞いたと記憶しています。私の記憶で正確でないところは後で教えてください。それは次のような内容です。
一哉先生は自分の愛してやまない一人娘を生まれて間もなく失いました。深い悲しみのなかで神に対して、「なぜ取り上げてしまったのですか」、「なぜこの重荷を負わせるのですか」と、ヨブのように泣き言をいい問い詰める日々が続きました。しかしある日、問診の帰り道で自転車をこいでいると、とつぜん神の声が一哉先生に臨み、先生を叱りました。「いつまでぶつぶつ言っているのですか」、「私の愛がまだ解らないのですか」、「私があなたの娘を天に引き上げたのは、あなたが娘におぼれて、私を忘れ信仰を失ってしまわないためです」。このような言葉を前に、一哉先生がその場で自転車から倒れ、パウロのように動けなっかったかどうかは記憶が定かでありませんが、その圧倒的な神の臨在に接して、一哉先生の信仰と伝道の歩みは定まりました。目は天に向けられました。
このようにはっきりと神の声を聞く体験の出来る人は神からの特別の使命を与えられている人に限られていると思います。そのような体験は神からの一方的な賜物であるとともに非常に恐れ多く、げんしゅくなものであり、私たちの願望とは無関係に臨むもののようです。私はいまだかつて神の直接の声を聞いたことはありません。私はそのことをうらやみも嘆きもしません。ただ恐れるのは、神の声が臨んだ時に全存在をもってアーメンと言える心の準備が出来ているかどうかです。 なぜなら、大切なことは神の声を聞くこと自体にあるのではなく、その声を理解しその意味を知り、自分の信仰の道しるべ、励まし、力とすることにあるからです。
そして神の声は直接に聞けなくても、それは色々な媒介を通して聞くことが出来ます。その第一は聖書です。聖書は神が人を通して語られた神の声であり言葉です。そこに神の法、証、定め、さとし、戒め、さばきが色々な形で語られています。聖書を通して私たちは神の声を聞き、神を知ることが出来ます。しかしながら聖書だけでは神の声を聞き、知ることはできません。世に聖書読みの聖書知らずは多いのです。そこに聖霊の働きがなければなりません。聖書の言葉が読む度に新しくに感じられるのは、そこに聖霊の働きがあるからです。私たちはよく啓示や霊感(インスピレーション)を受けた後でそれが何であるか聖書によって確認します。そして信仰が進むと、自分自身の生活上の体験を通して聖書の言葉が真実であることを学びます。私たちは知性による以上に霊性によって聖書を学ばなければなりません。私たちは知識を得るためでなく、日々の信仰生活のかてとするために聖書を学んで神の声に聞き入るのです。なぜなら神を知るとは神と人格的交わりに入ることであり、それを通して神の声を聞くからです。
神の声を聞く第二の媒介は心の道徳法則です。人は生まれながらに誰でも心の律法を持っています。だから何が良いことで何が悪いことなのか、人に教えられなくても経験しなくても、正しく知ることができ、また判断できます。うそをつくことは良いことですか、それとも悪いことですか、子供にも無学な人にも、うそをついた経験のない人にでも、それは悪いことであると解り、また判断できます。もちろん人は弱い存在ですから、時々惑わされて判断を誤ったり、理解できなかったりしますが、それでもいざ自分の実際の行動の場面に直面すると、私たちの悪い行いを警告してくれる内なる人が心の中にいます。それは良心です。たとえ、何が善で何が悪なのか解らなくなっても、判断が出来なくなっても、良心は正しく人を導き、悪の行いから人を守ります。ですから倫理の問題は、「良心の声に従うか、それとも理屈をならべて良心の声を無視し、自己の欲望と利益を追い求めるか」、にあります。ここが人生の分かれ道です。
良心の声は神の声です。 ここであるアメリカのクリスチャン家庭のエピソードを紹介したいと思います。その家庭に一人の子供がいました。その子は小川にカメを見つけて、棒でたたこうとしたときに、「それはいけない」と言う、ある声が心の中に臨む経験をしました。驚いたその子は振り上げた棒を捨て、家に急いで帰り、その声のことをお母さんに話しました。それを聞いたお母さんは涙をエプロンでぬぐって、その子を抱きながら言いました。「人はその声を良心と言っているけど、それは神様の声なのですよ。あなたがその声に聞き、それに従うなら、その声はますますはっきりとあなたに語りかけ、いつもあなたを正しい道に導きます。しかしもしあなたがその声から耳を背けて聞き従わないなら、その声は段々聞こえなくなり、あなたを暗黒と案内人のいない世界に置き去りにしてしまいます。あなたの人生と生命はこの小さな声に聞くかどうかにかかっているのですよ」(Rufus Jones, The Nature and Authority of Conscience, 1920)。母はこのように語り、神の声を聞く態度を子供に植え付けました。まことに信仰によってこのように子を教育する家庭は幸いです。
神の声は、多くの場合、小さく細い声です。心静かにそれに聞こうとしなければ聞こえません。かつて預言者エリアは自分の命をねらうイゼベル女王の追手を逃れて、荒野のどうくつに一人座しました。初めに嵐が訪れましたがその中に神はいませんでした。つぎに地震が起こりましたがその中も神はあらわれませんでした。そして火事がありましたがそこにも神はいませんでした。しかしその後静かなときに小さく細い神の声が聞こえてきました(1列王記19:11-13)。神はエリアに言いました、「そこで何をしているのですか。あなたは立ってシリアの国にいきなさい」。
このように神の声を聞くために必要なのは日頃心静かに耳を傾けて待つ態度です。ここに祈りとは違って心静かにしている事の大切さがあります。祈りは神への呼びかけですが、黙想は神からの示しを待っているのです。祈りは求めることですが、心静かに待つことは受ける事です。そして人格的交わりは呼びかけと応答の相互交通があって始めて成立します。
哲学者カントの有名な言葉に、「そのことを思いめぐらせればめぐらせるほど益々私の驚きと畏敬の念を深めるものが二つあります。それは天の星空と心の道徳法則です」、と言うのがあります。人ははるかなる宇宙と奥深い心の中に神の創造の偉大さとその栄光を見ます。神の声を聞く媒介には心の道徳法則と共に神の創造物である自然があります。天と地とそこに活動している生命に神の栄光と働きが現われています。詩篇第8篇の作者は言っています。
私はあなたの業なる天とあなたのさだめられた月と星を見て思います。人は何者なのであたはこれをみ心に留められるのですか。人の子のどこに見るところがあってあなたはこれを訪ねられるのですか。あなたは人を天使よりも少しだけ低く作って、栄光とほまれを授けられます。あなたは人にあなたの創造物を治めさせ、野のけものと、空の鳥と、海の生き物と地の全てものをその足元におかれます。おお主よ、あなたの名は地にあまねき、何と尊いことでしょう。
神は時々私たちをこの自然の中に招き入れ、安らぎと霊感と新たなる力を与えます。自然はこの世の煩いと人間関係のしがらみから人を解き放ち、神と一対一になれる空間です。この世の生活に疲れたとき、乱されたときは自然の中に入って静かに神の声に耳をすませ、神との愛の交わりに入るのが良いです。その愛の泉にひたることで、私たちは再びこの世に生きる力を与えられます。
以上私は神の声を聞く方法として聖書に親しみ、心の道徳法則に従い、自然に安らぐ事を話してきました。しかし、これら三つのものを真に生かし、神の声を聞き、神との交わりに入るために最も重要なものは心の悔い改めです。悔い改めなくして聖書を学べば聖書学者の知識主義に陥ってしまいます。心の生まれ変わりなくして、道徳法則を守ればパリサイ人の律法主義になってしまいます。神に返らずして自然を愛せば偶像崇拝的自然主義に落ちてしまいます。心の悔い改めがなければ神の声を聞くことは出来ないのです。いや、それを聞いても聞こえず、見ても見えず、知っても心に悟ることが出来ず、医やされることがないのです。心の悔い改めこそ神の声を聞くカギであり、全ての出発点です。
今日は神の声を聞くことを主題に話を進めてきました。これをまとめるのにふさわしいのは詩篇19篇です。聖書は開かなくてけっこうです。私の訳を朗読して今日の話を終りたいを思います。
天は神の栄光を現わし、星空は神の業を示します。
この日はかの日に神の言葉を伝え、
この夜はかの夜に神の知識を告げます。
語ることなく話すことなく、そのひびきも聞こえないの、
神の声は世界をおおい、神の言葉は地の果てにまで及びます。神は太陽のためにテントを天に設けました。
花むこがそのひかえの部屋からでてくるように、
またレースを喜び走る選手のように、
太陽はその軌道をかけめぐります。
それは天の果てから上って、天の果てにめぐっていきます。
そしてその温まりを被らないものはありません。主の法は完全で、霊(たましい)を生きかえらせます。
主の証は確かで、単純な人を賢くします。
主のさとしは正しくて、心を喜ばせます。
主のいましめは純粋で、心の目を開きます。
主を畏れる道は清らかで、とこしえに絶えることがありません。
主のさばきは真実で、ことごとく正義にかなっています。
それらは金よりも純金よりも慕わしく、
ミツよりもハチの巣のしたたりよりも甘いです。
あなたのしもべはそれらによって導かれ、
それらを守れば大いなる祝福があります。だれが自分の罪を知ることができましょうか?
どうか隠れた罪から私を清めてください。
あなたのしもべを罪のワナから守り、
罪が私をとりこにしないようにして下さい。
そうすれば、私は義しい人となり、
大きな罪を免れることができるでしょう。
私の力、私の救い主よ、
私の口の言葉と心の思いとが
あなたの前に喜ばれますように。