佐藤一哉のこと

あぶくま無教会の始め

あぶくま無教会は佐藤一哉(いっさい)によって1950年に福島県田村郡船引町で始められました。佐藤は塚本虎二に師事し、内村鑑三の「初夢」、藤井武の「亡びよ」、矢内原忠雄の「哀歌」を「私の三つの歌」と呼び、深く傾倒し、その精神を語り伝えました。佐藤一哉はその幼子のような信仰と真理に対する情熱を自らの生きざまによって証しました。家業の医者をしながらその一生を伝道に捧げました。 


一哉先生の神体験

一哉先生は自分の愛してやまない一人娘を生まれて間もなく失いました。深い悲しみのなかで神に対して、「なぜ取り上げてしまったのですか」、「なぜこの重荷を負わせるのですか」と、ヨブのように泣き言をいい問い詰める日々が続きました。しかしある日、問診の帰り道で自転車をこいでいると、とつぜん神の声が 一哉先生に臨み、先生を叱りました。「いつまでぶつぶつ言っているのですか」、「私の愛がまだ解らないのですか」、「私があなたの娘を天に引き上げたのは、あなたが娘におぼれて、私を忘れ信仰を失ってしまわないためです」。このような言葉を前に、一哉先生がその場で自転車から倒れ、パウロのように動けなっかったかどうかは記憶が定かでありませんが、その圧倒的な神の臨在に接して、一哉先生の信仰と伝道の歩 みは定まりました。目は天に向けられました。

神の声を聞くより


一哉先生の思い出

子供の私は畏れと尊敬をもって佐藤一哉先生を仰いでいました。日曜集会は神聖でげんしゅくでした。その話は理解できなくても、一哉先生の一途で真剣な、また純粋で躍動している姿は私の心に深い印象を与 えました。私にも課せられた集会毎の聖句暗唱はよい訓練でした。私は好んで山上の垂訓を暗唱しまし た。それは私の心にイエスの言葉を植え付け、私の人生の指針として何度も私を正しい道に導きました。

佐藤一哉先生は幼子の心と喜びを失わなかった人でした。その純粋な信仰と全身をもって表現する真理の 喜びと悲しみは、先生に接する人がまず第一に受ける印象でした。先生は雇い人でなく、独立伝道者であり、生計は医者の労働で支えました。先生はいかなる組織や団体によらず、一人神と共に歩んで信仰と真 理を伝えました。しかし先生に最後まで人格的誠実をつくした人はほんのわずかしかいませんでした。その集会は一人か二人を相手に真理を説くのが常でした。その伝道の生涯は悲しみの生涯でありました。

でも、その純粋な信仰と真理に対する忠実のゆえに私の信仰は育てられたのです。信仰に立ち返った青年時代に、私は先生の奥さんの昇天追悼会に出ました。そこで一哉先生の天国への思いを聞きながら、この人こそ誠に私の信仰の生みの親であった、と感を深くしたことを覚えています。以来わたしは「あぶくま」 をもって自分の信仰名とし、三年前のアメリカ留学中「あぶくま無教会」を名乗ってホームページを開設し、そして今、あぶくまの地で一哉先生の後を継いで「あぶくま無教会」の信仰と真理のともしびを守るべく立っています。

羊飼いより


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