エレミヤの新しい契約
1998年06月07日
今日はエレミヤの新しい契約について学びたいと思います。エレミヤ書31章31-34節を開いてください。
見なさい、私がイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来ます。その日、私は、私の法を彼らの内に置き、その心に印します。私は彼らの神となり彼らは私の民となります。人はもはやそのとなり人や兄弟姉妹に教えて、「あなたは主を知りなさい」、とは言いません。それは彼らが小さい人から大きな人まですべてが個別に私を知るようになるからです。その日、私は彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い起こしません。
ここでエレミヤは新しい契約が「心の律法」であり、「罪の赦し」であると言ってます。石に刻まれたモーセ律法と区別するためにエレミヤは心に刻まれた律法と言っているのですが、では「心の律法」とは何でしょうか。一体何がモーセ律法と違うのでしょうか。一言で言えば、石の律法とは形式的儀式的法であるのに対して心の律法とは内面的倫理的な心の態度です。これは以前私が「心の倫理」で話した、「聖なる法」に対する「聖なる心」の違いです。つまり「聖なる心」とは、イエスによって完成された「神の愛」を動機とし生活の原理とする心の態度です。そして、その型はすでにエレミヤにおいて示されているのです。
そこでエレミヤの言う「心の律法」つまり「聖なる心」を理解する上で重要と思われる所をいくつか見たいと思います。まずエレミヤ書4章4節を開いてください。
ユダとエルサレムの民よ。主に対し割礼を受け、心の皮を取り除きなさい。さもないと、あなたがたの悪い行ないのため、わたしの憤りが火のように出て燃え上がり、消す者がいないでしょう。
ここで割礼とは神への信仰を表明する今日でいえば洗礼の意味合いがありますが、その要点は神から離れていた生活を悔い改めて、神を真実に礼拝し神と共に歩む生活態度に生きることです。ところが、イスラエルの民はすでにその体に割礼の儀式を受けていたのですが、その心は頑なで神に背いていました。つまり形式的には割礼を受けていても心には割礼を受けていなかったのです。真の心の生まれ変わりはなされていなかったのです。エレミヤは人の心を見て、罪の根源は心の態度であることを知りました。彼らは口先では神を崇め賛美しながら、その心では神に不従順で神に背いています(12:2)。彼らの本心は神の事をないがしろにして、自己の欲と利益の追及を第一としている事をエレミヤは見抜きました。ですから「聖なる心」は第一に頑なな背きの態度を悔い改め、神に帰って生まれ変る心のことです。
次にエレミヤ書7章21-23節を開いてください。
イスラエルの神、万軍の主はこう言われます、「あなたがたの全焼のいけにえに、ほかの捧げ物を加えて、その肉を食べています。しかし、わたしは、あなたがたの先祖をエジプトの国から連れ出したとき、全焼のいけにえや、ほかの捧げ物については何も語らず、命じもしませんでした。ただ、次のことを命じたのです、『わたしの声に聞き従いなさい。そうすれば、わたしは、あなたがたの神となり、あなたがたは、わたしの民となるでしょう。あなたがたはさいわいをえるために、私が命じるすべての道を歩みなさい』。
ここでエレミヤは大胆にもあなたがたの捧げ物とぎせいを神は命じたことはない、ただ神の声に聞き従いなさいと言います。神はエレミヤにその声をもって語りかけ、背きの民にその言葉を伝えよと40年に渡って繰り返し言って来ました。エレミヤにとって神の声ほど確かなものはありませんでした。あなたは心において神の声に耳を傾けなさい、そしてその声を聞いたら、それに素直に従いなさいとエレミヤは言います。人は素直でなくては神の声を聞くことは出来ず、またその声に従うことは出来ません。つまり「聖なる心」の第二は神の声が聞ける心であり、その声に素直に従う心です。
次にエレミヤ書2章2節を開いてください。
さあ、行って、主はこう言われると、エルサレムの人々の耳に呼ばわりなさい。わたしは、あなたの若かったころの誠実、花嫁の愛、種のまかれていない荒野の地でのわたしへの従順を覚えています。
神は御自身をエルサレムの夫、またイスラエルの民を神の妻、花嫁と呼んで、神に対する初めの愛に帰りなさいと、言っています。「背信の妻よ、私はあなたと結婚の契りを結び、夫となったのに、あなたはその契約に背き、私への貞潔を捨てて、私を離れ、私に対して姦いんを行っています。悔い改めて、私の所に帰りなさい」、とエレミヤは叫びます。新しい契約とは心における神との愛の契りです。契約の相手方は神御自身です。神は契約を誠実に守ることを人に要求されます。二心のない純な心を求められます。私たちは心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なる私たちの神を愛さなければなりません。ですから「聖なる心」の第三は「神に対するひたむきな心」です。
以上エレミヤの言う「心の律法」とは心に悔い改めて、生まれ変わり、神に立ち帰って、神の声に聞き従い、神との結婚の契約を誠実に守る心の態度です。言い替えますと、エレミヤの「聖なる心」とは第一に「悔い改めた心」、第二に「素直な心」、第三に「ひたむきな心」です。
しかし「聖なる心」に生きるには、人間はあまりにも罪に染まっており、偽りに満ちています。「エチオピア人はその皮ふの色を変えることが出来ますか、レオパードはそのはん点を変えることが出来ますか。それが出来るなら、罪に染まったあなたがたも善を行うことが出来ます」(13:23)、とエレミヤは言い、「心はすべてのものより偽るものです。だれが良くこれを知ることが出来ましょうか」(17:9)、とエレミヤは嘆きます。この罪と偽りに満ちた心が生まれ変わらなければ人の救いはありません。その新生のためには「罪の赦し」が必要です。これがエレミヤの発見した「新しい契約」であり救いの道です。これはイザヤの信仰による救いの道の発見と並ぶ「真理探究史上不滅の功績」であると矢内原忠雄は言っています(『日々のかて』3月29日)。
これは言うまでもないことですが、新しい契約による罪の赦しの福音はイエスによって成就されました。キリストは新しい契約の「仲保者」であり、イエスの血によって新しい契約がうち立てられたのです(ヘブル書9章15節)。しかし600年前すでにイエスの福音を預言したエレミヤはじつに驚くべき存在です。
今日はエレミヤの新しい契約について学びました。私たちが心に留めて置くべきことは、新しい契約とは「聖なる心」であり、「罪の赦しの福音」です。エレミヤは「悔い改めた心」、「素直な心」、そして「純な心」をもって神を婚約の相手として愛することを求めています。最後に矢内原忠雄の「エレミヤを思う」を朗読して、今日の話を閉じたいと思います。
エレミヤよ、あなたを思うは私に霊感です。あなたの悲哀は万人の悲哀に勝ります。それはあなたの真実が万人の真実にまさったからです。あなたは秋の夜の星のごとくすみます。あなたを仰いで私たちは世と私たちとの偽善を知ります。
エレミヤよ、あなたのごとき生涯が世にあったとは!あなたの苦労に比べれば私たちの苦労はママゴトであり、あなたの信仰に比べれば私たちの信仰は妥協です。あなたは秋の野のリンドウのごとくすみます。エレミヤよ、私たちを深くまた強くしてください。