神観の問題
1998年09月06日
今日は「神観念の問題」について話したいと思います。神観の問題は単なる概念の問題ではありません。これは神に対する、人の根本的態度の問題です。私たちは神に対して真実で純粋な態度を持たなければなりません。そしてそのためには心に抱く神観念を高く純にしなければなりません。このことについて矢内原忠雄は次のように言っています。
今日のごとく日本人の神観が整理と高揚を必要とする時はありません。神は人より峻別(しゅんべつ)されなければならず、汎神論的(はんしんろんてき)信仰は人格的唯一神の信仰に純化されなければなりません。政治の貧困は思索の貧困に基づき、思索の貧困は神観の貧困に基づきます。日本人の神観を高く、深く、純にしなければ、日本の民主主義化も徹底せず、平和国家の理念に対しても忠実かつ真摯(しんし)であり得ないでしょう。
(「日々のかて」7月20日)
正しい神観念を抱くことがいかに重要なことであるか、日蓮とイスラエル預言者の比較において考えて見たいと思います。日蓮の生涯を見ますと、彼が真実を求め、真理を愛した真の預言者であることが解ります。彼は、地震、ききん、戦争、疫病といった災いがひんぱんに国におそいかかるのを見て、それが民の宗教のだらくによるものであることを法華経によって発見しました。彼は民の偽りの宗教を責め、真の宗教に立ち返ること叫びました。かれは度重なる迫害にもくじけず真理を唱え続けました。その生き方は正にイスラエルの預言者を思い起こさせます。しかし日蓮は聖書もエホバの神も知りませんでした。彼の神観念に天照大神や八幡神はあっても、正義と倫理の神観念はありませんでした。そのため、民の邪宗は責めても、民の倫理的罪を責めることはありませんでした。彼は正義を踏みにじり、人の人格をないがしろにする人の罪を責めず、彼の預言には人を倫理的人格的生活態度に生まれ変わらせる力がありませんでした。かえって日蓮の教えは呪術的非人格的生活態度に人の心を停滞させてしまいました。彼の教えに合理的体系的生活態度への起動力が欠けていたのは、彼が偽預言者だからではく、彼が正しい神観念を持てなかったからです。彼とイスラエルの預言者を分けた点は、実に聖書の神観にありました。日蓮は歴史的に聖書とその神を知りえなかったのですから、この点において彼を非難する事は出来ません。もし日蓮が聖書を知り、正しい神観念を抱くことが出来たならば、彼は国民の不義と不正を責めたでありましょう。そして彼の預言は人を倫理的生活態度へと変革する力をもったでありましょう。日蓮の例は真の神観念を抱くことがいかに重要なことであるかを教えています。
それでは聖書に表わされた真の神観念とは何でしょうか。私は次の三つの点に集約して論じたいと思います。第一は創造神です。私たちの信じる神は天と地と人を造られた唯一絶対の超越的創造神です。第二は人格神です。神は私たち信じる者と個人的な関係を持ち、父なる神として私たちを信仰的にまた倫理的に訓練する人格的存在です。第三は愛の神です。私たちの罪をあがなうためその一人子を世に使わし十字架につけました。私たちはキリストの死によって、神の愛の何であるかを知りました。神は完全な愛です。それではこの三点を少し立ち入って、日本人の神観念と比較しながら論じたいと思います。
まず始めに神はこの宇宙のすべてを創造しました。神はただ一人であり、他のものは神の造られたものにすぎません。唯一の神のみが全知全能の完全な力を持ち、絶対的な存在であります。これに対して自然物や人間はすべて不完全で、神の前には無知無力な存在であります。神は聖なる方であり、一点の罪もけがれもなく、その御心は善です。これに対して人間は俗物を欲し、罪とけがれとに染まり、その思いは邪悪に満ちています。このように神と人とをはっきりと区別する神観念は唯一神教と呼ばれ、ユダヤ人によって最初に確立され、聖書に表されたものです。
一方、日本人はと言いますと、その神観念は多神教であり、汎神論的でありましたし、現在でも多くの日本人はそうであります。汎神論というのはすべてのものに超自然的な力を信じ、あらゆるものを神として崇める態度をいいます。すなわち太陽を神と拝し、山を神と呼び、岩や木を神として祀り、キツネとクマの偶像に祈願し、死人を崇拝する態度です。また日本人は戦前まで人間にすぎない天皇を神と崇めておりました。武士の時代には大名や高い位にある武士をカミと呼んでおりました。たとえば越前のカミ、対馬のカミ。そして英雄や偉人は神社に祀られ、神の地位に上げられておりました。また日本神話をみますと、そこに登場するほとんどの人物が神と呼ばれております。このように日本人はこの原始的な神観念に長く止まり、ユダヤ教のように神が人間とは全くかけ離れた存在であるとの認識が育っていませんでした。
もちろんイスラエルにおいても、はじめから唯一絶対の倫理的神の観念が確立していたわけではありません。イスラエルの民はその苦難の歴史によって、とりわけ預言者の戦いとバビロン捕囚によって、この神観念を学び取ったのです。私たちは今日その恩恵にあずかっているに過ぎません。
この唯一神教と多神教との違いは単なる観念の問題ではなく、神に対する人の根本的な態度の問題です。すなわち神のために人が存在すると考えるか、それとも人のために神が存在すると考えるかの二者択一の問題です。神が人を造り、神の栄光のために人があると信じるなら、そのひとは唯一の神に至ります。これに反して、人の欲求を満足させるために神が存在し、神を手段として利用しようと考えるなら、その人は多神教に至ります。「困ったときの神頼み」という言葉がありますが、人は自分の幸福のために超自然的な力を頼み、祈願し、助けを求めます。しかしその態度はあくまで自己中心であります。
一方、唯一創造神を信じる私たちはそのような自己中心の態度に死んで、神中心の態度に生きなければなりません。神が私たちの主人であり、私たちは神の僕に過ぎない、という心に生まれ変わらなければなりません。神にすべてを、そうです自分の命までも、捧げる態度で神に仕え、神が自分の目的とならなければなりません。このような態度こそが、神と人との正しい関係なのです。私たちはそこに本当の意味と喜びを見出しますが、それを幸福と呼ぶにはあまりにも聖であり、げんしゅくです。
次に私たちの信じる神は人格神です。その意味するところの第一は、神が信じる者を子として受け入れる父なる存在だという事です。親が子を訓練するように、神は人を時には叱り、時にはほめ、時には罰し、時には赦し、その救いのために、すなわちその人格の完成のために共に歩まれます。人格神の意味する第二は「目的それ自身」であり、手段として利用してはならない、あるいはできない存在者だということです。(この「目的それ自身」という定義はカントの言葉であると私は以前紹介しました。)つまり神は人の幸福の手段として利用される存在ではないと言うことです。他者の手段や道具として利用されてはならない存在、それが人格の尊厳のよって立つところです。そしてこの人格の観念から、人は神に似せて造られた者、すなわち人格の尊厳を持った存在として、自らを意識するようになります。人はすべて一人の独立した人格として、神に似せて作られたのです。人は他の生命を持って取り替えることのできない、かけがえのない存在なのです。
カントは人格を定義して「統一体の自覚」とも言っています。またマックス・ウェーバーは人格を社会学的に定義して「生活態度の倫理的体系的統一化」と言っています。人は自己意識に目覚めると自分の中で争う善なる心と悪をしたう心を発見します。そしてこの分裂した自分を倫理的に善なる存在へと統一させようと試みます。この自覚と統一への戦いこそが人格の実体であるのです。この人格統一への戦いはだれよりもパウロにおいて明らかに示されています。ローマ人への手紙7章18-25節を開いてください。
私は自分のうちに善なる人が宿っていない事を知っています。なぜなら善を欲する思いは私にあっても、それを行う力が無いからです。それで、私は欲している善は行わず、欲しない悪を行っているのです。 ・・・ 私は内なる人としては神の律法を喜んでいますが、私の体には別の法則があり、私の心の法則に対して戦いを挑み、そして体に存在する罪の法則の中に、私をとりこにしています。ああ、私はなんとみじめな人間なのでしょう。だれがこの死のからだから私を救ってくれるのでしょうか。
人はここを読んでパウロを分裂人格あるいは二重人格と言います、しかし私たちは分裂しているパウロそれ自体ではなく、倫理的に統一した生活態度に向けて格闘している彼の姿にこそ焦点を当てるべきです。そしてこの人格の観念こそが人をほかの動物や生命から区別する一つの重要な点です。
人格という観念は、良心という観念と共にユダヤ・ギリシャ世界で生まれ、ルター、カルバン、ピューリタンの宗教改革を通して近代西洋社会で体系的に発達し、社会的に確立したものです。私たちはその恩恵を人権を尊重する憲法の社会秩序において、また人格の尊厳と完成を目的とする教育においても受けています。このように、正しい神観念は社会を変革する力になります。
次に私たちの信じる神は愛の神です。そしてこの愛の要請から生まれる神観念は三位一体の神です。この神観はキリスト教に独自であり、ユダヤ教にもイスラム教にも、もちろん日本の神道や仏教にも知られていません。これはアウグスチヌスによって4世紀のローマ世界で確立された神観です。この神観の説明は私の能力を超えていますので、まず矢内原の解説を聞いて下さい。
三位一体の神観(しんかん)より私たちの学ぶところは、神の唯一性を厳格に維持しながら、同時に神の自己充足性を確立した事です。神は神自身において愛の主体と客体と愛そのものとを完全に備え、それ自体が愛の満ちあふれ(プレーローマ)です。神は、神が愛であるために、神以外の何ものにも依存せず、何ものをも必要としません。神はそれ自体満ち足りる愛ですから、被造物より愛を受ける必要がなく、よく自ら被造物を愛されます。神に背いた罪人のために自分の子を捨てるという愛は、完き愛の自己充足性としての三位一体の神においてのみ始めて可能です。このゆえに三位一体論は決してどうでもよい神学者のもて遊びではなく、私たちの救いの基礎としての生きた愛の論理です。
(「日々のかて」8月6日)
私たちは三つにして一つにいます、父なる神、子なる神、聖霊の神を信じ、その三つの独立した人格(ペルソナ)の神がその意思において一体であることを信じます。私は知性においてこのことが理解できたとは言いません、しかし信仰の実験においてやがて解る日が来ることを信じています。私たちはキリストによる罪のあがないを信じます。イエス・キリストには罪がなかったと信じます。罪のない者によってのみ罪のあがないは可能であると信じます。罪のあがないは人によっては出来ず、神によってのみ可能であると信じます。私たちは聖霊の神による愛の降り注ぎを信じます。聖霊は私たちの内に宿り、私たちをなぐさめ、私たちを取りなし、私たちを教え、私たちに力を与え、私たちと共に歩むことを、私たちは信じます。夫婦はそれぞれ独立した人格ですが、同時に一体です。このたとえは独立した三つの人格の一体性が決して空論でないことを教えます。独立した人格同士においてのみ完全な愛の交わりが可能なのです。
今日は神観念の重要性を唯一創造神、倫理的人格神、三位一体の愛の神について学びました。人の前に、国に対して、また世界に対して、私たちはこの純化された神観の証人とならなけれればなりません。以上です。