8 月 6 日
私が父に在り、父が私に在る事を信じなさい。 ・・・ 何事でも私の名によって願うならば、父が子によって栄光を受けるために、私はそれをあなたたちに与えます。私を愛するなら、私のいましめめを守りなさい。私は父にお願いして、別に助け主を送り、あなたたちと共に居らせます。

ヨハネ 14:11-16

三位一体

 三位一体の神観(しんかん)より私たちの学ぶところは、神の唯一性を厳格に維持しつつ神の自己充足性を確立した事です。神は神自身において愛の主体と客体と愛そのものとを完全に備え、それ自体が愛の満ちあふれ(プレーローマ)です。神は、神が愛であるために、神以外の何物にも依存せず、何物をも必要としません。神はそれ自体満ち足りる愛ですから、被造物より愛を受ける必要がなく、よく自ら被造物を愛されます。神に背いた罪人のために自分の子を捨てるというごとき愛は、完き愛の自己充足性としての三位一体の神においてのみ始めて可能です。言いかえれば、キリストによる罪のあがないは、静的意味においても動的意味においても、神の三位一体性に基づくものです。静的とは、神が愛のプレーローマを神自身の本質の中に持つがゆえです。動的とは、父が子を使わされたという運動が、神御自身の本質の中にあるがゆえです。このゆえに三位一体論は決してどうでもよい神学者のゲームではなく、私たちの救いの基礎としての生きた愛の論理です。



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