クリスマスを祝う
1998年12月20日
今日はクリスマス集会ですので、クリスマスの話をしたいと思います。始めに聖書を開いて下さい。マタイによる福音書2章9-11節を読みます。
博士たちが東方で見た星が、彼らより先に進んで、幼子のいる所まで行き、その上にとどまりました。彼らはその星を見て非常な喜びにあふれました。そして家に入って母マリアのそばにいる幼子に会い、あがめ、また宝の箱を開けて、黄金、香料、薬などの贈り物をささげました。
もう一カ所聖書を読みます、ルカによる福音書2章8-14節です。
羊飼いたちが夜、野宿をしながらヒツジの群の番をしていました。すると、主の使いが現れ、主の栄光が羊飼いたちを照らし出したので彼らは非常に恐れました。すると主の使いが言いました、「恐れてはいけません。見なさい、すべての民に与えられる大きな喜びの知らせをあなたたちに伝えます。きょうダビデの町に、あなたたちの救い主が生まれました。その子が主イエス・キリストです。馬小屋で布に包まれている赤ちゃんをあなたたちは見出すでしょう。それが印です」。そしてにわかに、天の大軍があらわれ、主の使いといっしょに賛美の声を上げました。「天には栄光が神に、地には平和が御心にかなう人にありますように」。
この二カ所はキリストの誕生をあらかじめ知り、その祝いのためにベツレヘムの馬小屋を訪れた二組の人たちのエピソードです。救い主の誕生を啓示によって知ったのは外国の博士と野の羊飼いであり、エルサレムの祭司でも、パリサイ人でも、聖書学者でもありませんでした。この点を矢内原忠雄は次のように解説しています。
真理を求め、道徳的に生きることを慕(した)った東方の博士たちと、自然を愛し、勤労に従事した羊飼いたちは、啓示によってキリストを知り、直ちに信じる事ができました。哲学者カントの言いましたように、「内なる道徳法則と天の星空の尊厳(そんげん)」を知る人にのみ救いの所在は示されるのであり、律法家や宗教家はかえって外の暗黒に置き去りにされます。人にキリストを知らせるのは聖書の研究ではなく、素直な良心です。それは何よりも道徳を慕い、そして自然と労働を愛する人でなければなりません。
(「日々のかて」 11月12日)
イエスは田舎の大工の子として生まれました。ブッダのように王子としてではなく、労働する平民として育ちました。イエスの山上の垂訓は神の国の道徳を示し、私たちに道徳的完全を求めます。またイエスは野の花と空の鳥を指して深い真理を教えました。イエスの倫理は人の生活態度を重んじる「聖なる心」の完成でありました。しかし、イエスが労働と自然と道徳を通して教えたことの中心点は「罪の赦し」であり、「信仰による救い」であります。
「私は義人ではなく、罪人を招くために来ました」(マルコ 2:17)と言い、「安心しなさい、あなたの罪は赦されました」(マタイ 9:2)と言い、「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ 1:15)といい、「信じる人は死んでも生きます」(ヨハネ 11:25)と言いました。イエスは罪の赦しと信仰による救いの「道であり、真理であり、命です」(ヨハネ 14:6)。これはイエスによって成しとげられた、まったく新しい出来事です。それまで人類が待ち望んだ「救い主」がイエスの誕生と共にこの世に来たのです。私たちはクリスマスにこの事を思い起こし、喜びと賛美を新たにします。
クリスマスはまた感謝と同情の時です。「神がその一人子を与えるほどに、この世を愛された」(1ヨハネ 3:16)事に対する感謝は、私たちの信仰を育ててくれた人々に対する感謝を呼び起こします。そしてこの感謝の思いが神の愛を必要とする心の貧しい人への同情とあわれみを私たちに呼び起こし、そのかわいた霊(たましい)へ愛を注ぐ実行力を私たちに与えます。再び矢内原の言葉を聞いて下さい。
クリスマスが来て、先ず思われるのは、神に対する感謝です。もしイエスが生まれはなかったとすれば、何と私たちの心はみじめで、平安も希望もなく、不平と不満の中に生きていることでしょう。私たちは神が愛であることを知らず、人生の意味もわからずに、空しく暮らしていたことでしょう。このことを思うと、神の子イエスがこの世に生まれたことは、いくら感謝しても感謝しつくせないことです。
クリスマスにおいて神の恩恵を思えば、私たちにイエスの福音を教えられた先生や、親や、先輩や、友人や、又キリストにあって私たちを愛された人々に対する感謝の思いが、おのずとわき出ます。それらの人々に対する感謝によって、私たちの思いが温められることは、クリスマスの楽しさの一つです。
神に対する、また人に対する感謝の心から、弱い人、悩んでいる人、病んでいる人、貧しい人への同情がおのづと心にあふれて来ます。これは自分が豊かで、相手が貧しいからではありません。そのような、自他の貧富を比較しての事柄ではなく、キリストにあっておのづとわき出る同情です。
(「日々のかて」 12月24日)
クリスマスはまた「信仰の友との交流を温めるときである」、と内村鑑三はいいます。年賀状ではなくクリスマス・カードによって、お歳暮ではなくクリスマス・ギフトによって信仰の友に心から感謝をあらわすと共になぐさめ合い、励まし合うことは、「キリストの誕生」を祝うのにふさわしいことです。
クリスマスの意義はこれだけでは、終わりません。クリスマスはまた子供を愛するときです。そして幼子の心に帰るときです。イエスは子供を愛しました。マルコによる福音書10章13-16節を見て下さい。
イエスにさわってもらおうと、人々が幼子を連れてきました。しかし弟子たちは幼子たちを止めました。それを見てイエスは弟子たちをさとしました、「幼子たちを私のもとに来るままにさせなさい。止めてはいけません。神の国はこのような幼子のものだからです。よく聞きなさい、だれでも幼子のように神の国を受け入れるのでなければ、そこに入ることはできません」。それからイエスは幼子たちを抱きかかえ、手をその上に置いて祝福しました。
「子供は大人の教師です」、とクウェーカー詩人ウィッターはいいます。子供の素直に信じる心、無条件に依り頼む姿、利害や打算にとらわれない純粋さ、そこに大人は初心に帰ることの大切さを学びます。その子供のためにクリスマスを備えることは、御心にかなっています。
私は今でも幼いときのクリスマスをなつかしく思い出します。クリスマス・ツリーを山から切り出し、ケーキ作りを手伝い、そして何よりもサンタクロースのプレゼントが楽しみでした。その時、「罪」とは何であり、イエス・キリストの誕生日がどのような意味を持つのかは解りませんでした。しかし、その特別な日のために準備を整えて待ち望み、目には見えないけれども子供を愛する天のサンタクロースの存在を素直に信じ、そのプレゼントを素直に喜んだ日々は「信仰の心」を育む大切な機会でした。
私たちは神と共に静かに、聖く、純粋にキリストの誕生を祝いたいと思います。待ちわびた救い主、罪のあがない主の到来を、私たち罪人は心から喜び賛美の歌を歌います。しかし、その一方で、この世の商業主義、人間主義におちたクリスマスを私たちは悲しみます。こうした毒麦のクリスマスにとらわれることなく、私たちは聖なるクリスマスを星のきらめく夜あるいは雪のふる夜に静かに心に迎えたいと思います。