-- 日本の預言者、日蓮 --

 

矢内原忠雄が語る日蓮

1. 預言者として立つ
2. 立正安国論
3. 最初の迫害
4. 佐渡流罪
5. 開目抄
6. 法難を喜びとする
7. 預言の成就
8. 日蓮の信仰
9. 日蓮の性格
10. 日蓮の宗教
11. 信徒との愛の交わり
12. 真理を愛した日蓮


1. 預言者として立つ

日蓮は1260年「立正安国論(りっしょうあんこくろん)」を時の実権者、北条時頼に提出しました。日蓮は外房州(千葉県)海岸の一寒村小湊に生まれた(1222年)漁夫の子です。今は鎌倉松葉ヶ谷に草庵を結び、2,3人の弟子を持つ、一貧僧に過ぎません。この無援の青年僧の心に養われてきた護法の情熱が、火となって爆発する時が来たのです。幕府の政治的権力と、幕府の援護の下にある諸宗の宗教的権力とを向こうに回して、ここに一人の日蓮が起こったのです。時に39才でした。

2. 立正安国論

日蓮は経典に基づく正法を最高の権威としました。正法とは真理です。法すなわち真理は、国よりも師よりも親よりも高くあります。日蓮の血には熱烈な愛国心が燃えていました。それには一点の疑いもありません。しかし日蓮は国を法によって愛したのであり、法を国によって愛したのではありません。国は法によって立つべきであり、法は国によって立つべきではありません。立正が安国の基でありまして、反対に安国によって立正を得ようとするのは本末転倒です。日蓮が目的としたのは国家主義の宗教ではではなく、宗教的国家です。国家のための真理でなく、真理的国家であります。

3. 最初の迫害

時の権力者は日蓮を憎みました。上の憎む者を下は侮ります。「立正安国論」を提出してから約40日後に群衆は松葉ヶ谷の日蓮の草庵を焼き打ちしました。日蓮は危うく難を逃れ、ひそかに下総の富木氏の許に身を寄せていました。やがて鎌倉の草庵も新築が出来ましたから、日蓮はそこに帰って、再び正法の辻説法の旗をひるがえしました。しかし北条一門は日蓮をいよいよ激しく憎み、翌1261年に日蓮を捕らえ、問注所の吟味もしないで、いきなり由比ヶ浜に引き連れ、直ちに船に乗せ伊豆の伊東に流罪としました。

4. 佐渡流罪

日蓮は、1271年10月28日佐渡に移され、11月1日、塚原という地に追放されました。ここは死人を捨てる場所です。見渡す限り荒涼とした枯れ野原の中に住むべき所は破れ果てた一間四方の三昧堂があるのみで、カベも粗末で床にはむしろもありません。前回伊豆に流罪になった時も、海の中の岩の上に置き去りにされましたが、今度もまた雪の中に死になさい、とばかりに捨てられたのです。 ・・・

だれも食べ物を与えず、食事も絶えてすでに5日目です。その夜がふけて、一人の武士が日蓮の堂に忍び寄りました。この武士は遠藤為盛(ためもり)という念仏宗の信徒でありますが、かねてから聞いていた外道の日蓮を殺せば、千僧供養(くよう)の功徳(くどく)が増えるだろうと、勇んでやって来たのです。 ・・・ 会釈(えしゃく)もなく堂に押入り、「私は念仏の行者です。法華経以外の諸宗が間違いと言うその証拠はどこにありますか」、と日蓮をなじりました。日蓮は経典の文を引いて静かに彼をさとしました。彼はかえって恥じ入って、ただちに夫婦共々日蓮の弟子となりました。そして二人は米びつを背負いかごの中に隠し人目を忍び毎夜日蓮の堂に運びました。それが百日も続いたのです。日蓮はこれを喜び、その功徳は千日の修行にもまさると言って、妻を千日尼(せんにちあま)と呼び、夫を阿仏坊日得(あふつぼうにっとく)と名付けました。この二人が日蓮の佐渡で得た最初の実でした。

 佐渡への流罪は日蓮の伝道に一つの時期を画しました。彼に静思の時が与えられました。佐渡に流されたとき日蓮の年は50才でありまして、思想、信仰の成熟した時であります。しかも弟子や信徒から遠く離れて、この離れ島に死を覚悟しなければなりません。ここにおいて彼は筆を取り、法門教義を組織的に詳細著述して書き残す考えになりました。こうして彼はいくつかの大著述を佐渡で書きました。中でも『開目抄(かいもくしょう)』と『観心本尊抄(かんしんほんぞんしょう)』の二つは最も重要な著述であります。 

5. 開目抄

開目抄』は佐渡に来てから間もなく執筆を始め、翌2月に完成して、鎌倉の弟子、信徒一同に送ったものでありまして、法華経の行者として日蓮の使命について自他の疑いを解き、盲目を開くことを目的とした大文章です。 ・・・ 自己の使命につき、繰り返して自ら疑い、また繰り返しては確信する心理過程が痛々しいまで如実に告白されています。これはエレミアが「私は日々人の笑い者となり、皆が私をあざけります」、と述べたのと共通の内的経験でありまして、日蓮の自信がごうまんと異なる理由はここにあります。この告白があるので、日蓮は私たちの親しみ得る人間なのです。『開目抄』の文章は名文家である日蓮の書の中でも特に名文です。真理に対する彼の情熱と使命に対する彼の熱意とが、熱湯のごとくほとばしり出ています。 

世は終末に入つてすでに二百年余りが過ぎました。わたしは辺境の地に生をうけ、卑しい身分の貧しい者です。 ・・・ しかし、法華経(ほけきょう)を信じ行うようになってから、世間は幕府も、宗教家も、無法の人々も、私を迫害し、 ・・・ 皆ことごとく悪道におちてしまいました。日本国にこれを知る者はただ日蓮一人です。 このことを一言いうならば必ず父母からも兄弟からも師匠からも国主からも、そして幕府からも迫害されるでしょう。しかし、言わなければ、あわれみを欠くことになります。法華経や涅槃経(ねはんきょう)を見ると、「言わなければ今生は事なくても後生は必ず地獄におちます。言うならば、必ず三つの妨害、四つの苦難が起こるでしょう」と書いてあります。そしてこの二つの経典は「言いなさい。迫害に会っても退くのは一時に止めなさい」と命じます。 ・・・  今は勇気とあわれみの心をふるい起こして、退転しない覚悟です。

すでに二十年余りの間、この真理を述べ続けてきました。年毎に月毎に迫害はかさなり、小さな迫害は数知れず、大きな迫害は四度に及びました。松葉ヶ谷の難、伊豆流罪、竜の口の難、そして今度は私の身命に及んだばかりでなく、弟子も信徒もそして私の話を少しばかり聴聞した一般の人さえも捕らえられ、謀反者として重刑に科せられました。

法華経の第四書は言います、「この経の保持者はブッダの時でさえ多くの迫害、うらみ、憎しみをかいました、ましてブッダがいなくなった時はなおさらです」。第二書は言います、「この経を読み保持する者を見て、人々は軽しめ、賎しめ、憎しみ、ねたみ、そして恨みをいだくでしょう」。第五書は言います、「一切の世間はうらみが多くても、信じる人はほとんどいません」、又言います、「無知の人々が悪口を言い、あざけり、ののしるでしょう」、又言います、「国王、大臣、宗教家、武士に向つて、私を非難し、罪を上げつらって邪悪の人であると訴えるでしょう」、又言います、「数々の流罪に会うでしょう」、又言います、「木刀やむちで打たれ、石を投げつけられるでしょう」。 ・・・ 

日蓮の法華経の理解は天台(538-597) や伝教(767-822) には千万分の一も及びませんが、苦難を忍び、人をあわれむ心は敬意を抱かれてもよいと思います。確かに天の恩恵にあずかっても良いと思うのですが、そのしるしは少しもありません。反対にますます重刑に沈んでいます、これは私が法華経の行者でないからでしょうか。又天も善の神もこの国を捨て去ってしまったからでしょうか。ますます疑問はつのるばかりです。しかし日蓮がこの国に生まれなければ法華経の第五書は全くの妄言(もうげん)空虚になってしまいます。 ・・・ 今の世を見る時、日蓮より外の諸僧の中でだれが法華経のために人々にあざけられ、ののしられ、刀でおそわれたでしょうか。 ・・・  今の世の僧たちが日蓮を訴えて流罪にしなかったのなら、経文は空しく、法華経のゆへに日蓮が度々流されなければ「数々」の二字はどうなるのでしょうか。この二字は天台、伝教もいまだ身に読んだことはなく、ましてや他の人はです。終末の始めのしるしとして、この悪の世にあって、ただ日蓮一人がこの経文の金言を身に読んだのです。 ・・・ 

しかし世間の疑いといい、自分自身の問いといい、なぜ天は日蓮を助けないのでしょうか。天の守護神は仏の前に誓いを立てて、「法華経の行者を助けます」と言ったのに、その義が日蓮に現れないのは私が法華経の行者ではないからですか。この疑問はこの書の肝心(かんじん)、一期(いちご)の大事ですので、何度もこれを書き疑問を述べた上で答えを出さなければなりません。 ・・・ 

ある人は言います、「当世に三種類の敵は現れていますが、日蓮を法華経の行者というのは大きなまちがいです。なぜなら法華経は、“天が使いを送って、行者を刀やむちから守り、毒もその人を害することは出来ません”と言い、また、“もし人がののしり、あざけれるなら、たちまちその口はしゃべれなくなります”と言い、 ・・・ また、“行者は現世では安穏で報酬を受け、後世では善い位に生れます”と言い、また、“経典を受持する者に罪がないのに、それを偽って訴える人はこの世でらい病になります”と言っているからです」。

私は答えます、「あなたの疑いはもっともです。その不審を晴らさなければなりません。法華経の第四書は言います、“無知の人々が悪口を言い、あざけり、ののしるでしょう”、又言います、“木刀やむちで打たれ、石を投げつけられるでしょう”。真理に背く世を神は捨て天は守らないから、正法を行ずる者にその守護のしるしがなく、かえって苦難に会うのです。金光明経はいいます、“善業を修する者は日々に減少します”。この国は悪に染まり、今は悪い時代であることは、すでに『立正安国論』で論じたところです。結論を言いいますと、天が捨てた国では多くの苦難にあって命を捨てる覚悟が必要です。しかし法華経を捨ててはいけません、それは地獄の業です。 ・・・ 真理の前にはどんな苦難も風前のちりに過ぎません。私は日本の柱となります、私は日本の眼となります、私は日本の大船となります、と立てた誓いを破りません。

開目抄(抜粋)

実にこの『開目抄』は日蓮のかたい信仰と真実な人格がひとつとなってあふれ出た大文章です。

6. 法難を喜びとする

日蓮は法華経のために苦難に会うこと度々でしたが、信仰によって彼は苦難を喜びました。その心境を日蓮は次のように書いています。

このように思いますと私たちは流罪の身ですが心も体もうれしくなります。真理の法を昼も夜も思いめぐらし、救いの恵みを一時も離れず味わっています。こうして年月を過ごせば時間のたつのもわすれます。歴史始まって以来親や君主の怒りを買い遠国の島に流罪された人で私たちのように喜びが身にあふれる人はいません。私たちのように真理を一途に求める人にとってはどこに住んでもそこは常に光の輝く都となるのです。

最蓮房御返事

そのように思いますと私たちは流罪の身ですが喜びはあふれます。うれしいときは涙、つらいときも涙です。涙は善いときも悪いときも共通するものです。文殊(もんじゅゆ)聖人は仏のことを思って涙ながらに法華経を唱えていると、仏は涙ながらに「私はあなたの祈りを聞きました」と答えました。今の日蓮もその心境です。このような心境になれたのも法華経の真理を伝えてきたからに他なりません。・・・ 現在の苦難を思うもなみだ、未来の救いを思って喜ぶもなみだが止まりません。烏と虫とは鳴きますが涙を流しません。日蓮は泣きませんが涙の止むときがありません。この涙はこの世の故ではありません、ただに法華経の故です、ですから甘い露のなみだとでも言いましょう。

諸法実相抄 (1273年)

これはやせがまんの言葉ではありません。日蓮は真理のために会った苦難を心の底から喜んでいるのです。彼の言葉に偽りはありません。少しでも真理のための戦いが何であるかを知る人は、彼が信仰によって苦難を喜んでいる心を理解するでしょう。

7. 預言の成就

日蓮が幕府に向かって、内乱反逆の難と他国侵入の難を警告したのは3度にのぼります。この預言が成就した後、日蓮は次のようにそれを振り返っています。

私に三度の高名(預言)があります。一つは1260年7月16日に立正安国論を提出した時、宿谷の入道に向って言いました、「この書の言葉に耳をかたむけないならば、北条の一門で反逆が起こり、さらに他国からせめられます」。二つには1268年9月12日に平左衛門尉に向て言いました、「日蓮は日本国の棟りょうです。私の命を取るのは日本国の柱を倒す事です。すぐに内乱が起こるばかりでなく、外国の侵略に会い、この国の人々が打ち殺されるのみならず、多くの人が捕らえ移されます。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者、禅僧等の寺塔を焼き払い、彼らの首を切らなければ、日本国は必ず亡びます」。第三には1271年4月8日左衛門尉に語って言いました、「私はこの世の王の地に生まれたので身体は王によって支配されますが、心は支配されません。念仏は地獄です、禅は悪魔の仕業です。とりわけ真言宗はこの国に大きな災いです。モンゴル国の調伏を真言師に仰せ付けてはなりません。もし調伏を真言師に任せるならば、いよいよい、この国は亡びます」。頼綱はたずねました、「いつごろ、災いは起こりますか」。私は言いました、「経文にはいつごろとは書いていませんが、天の怒りは少なくありません、今年中に起こるでしょう」。

この三つの大事は日蓮が言ったのではありません。ただにシャカの御霊が私の身体に入り、私の代わりに語ったのです。私の身体を通してシャカが語られたことはまことに私の身に余る喜びです。。

選時抄

もちろん、ここで日蓮は国難の臨んだことを喜んだのではありません。法門の真実なことを喜んだのです。・・・ 日蓮の預言の実現したことは悲しむべきことです。畏れおののいて経文を信じ、国の救いを祈らなければなりません。それに反し、「まるで町中を物を売り歩く者のように預言の的中をやかましく叫び、誇り歩く浅薄な者はわたしの弟子ではありません」と日蓮は叱りました。多くの者が愛国を自分の商売とする世の中で、日蓮は真実に私のない愛国者でした。

8. 日蓮の信仰

日蓮は自己の信念の基礎を常に経典に求め、自己の言説を一々経典によって裏打ちしました。日蓮の文章は経典の引用で満たされています。これは自己の言葉を飾るためのペダンテック(衒学的)な引用ではありません。自説の貧弱なことを隠すためのカモフラージュ(偽装)ではありません。ある意味で日蓮に自説というのはありませんでした。彼は経典にある事のみを語ったのです。日蓮の言葉は彼一人の私言でなく経典の言葉でした。この事実が日蓮の言論にあの強さを与えた根本の原因でした。

彼の言論が経典に立脚し、彼の生涯が経典に符合するとき、日蓮は大磐石の勇気を持ったのです。

日蓮は聖人ではありませんが、法華経を説のごとく受持すれば聖人のごとくです

佐渡御書

私自身はかいのない平凡な人間にすぎませんが、経典を持つものとしては、当世日本第一の大人です

選時抄

この確信が日蓮の戦闘力の根源であったのです。

9. 日蓮の性格

日蓮は強い性格の人物でありました。彼は敵を仮借しませ んでした。妥協と打算は、彼にみじんもありません。彼が 敵を責めた言葉は激越をきわめました。・・・ 彼の毒舌 激語は君子の組しえないところでありましょうか。彼の自 信はあまりに強すぎて、ごうまん、ひぼうの罪におちいっ たのでありましょうか。たしかに、これは日蓮の欠点であ りましょう。欠点のない人物などいません。もしいるとい うなら、それは偽善者です。日蓮に欠点がありました。し かし日蓮の欠点は、少なくとも偽善ではありません。彼の 性格は真実であります。純真であります。彼は真理を生命 としたために、真理の敵に対しては、両立を許さないほど の激しい憤りを発したのです。日蓮の怒りの底には真理に 対する熱愛があったのです。 

10. 日蓮の宗教

浄土というのも、地獄というのも、外のことではなくて、ただ私たちの胸の中にあるものです。これを悟る人が仏であり、これに迷う人が凡人です。またこれを悟ることが法華経の教えです。ですから法華経を保ち守る人は、地獄とは光のないことと悟ることができるのです。

上野殿後家尼御返事

私の弟子また信徒となる人は一歩も行かなくても天国の霊山を見、その光の浄土へ昼夜に往復することが出来ます。うれしい限りです。

最蓮房御返事

そもそも地獄と言い天国と言い、それはどこにあるかと言えば、あるいは地の下という経文あり、あるいは西方という経もあります。しかしよく考えれば、それは私たちの体の内にあると言えるでしょう。

十字御書

日蓮の宗教は心の宗教であり、経文の宗教であり、悪人、女性、平民、万民の宗教でありました。日蓮は有力な政治家や宗教家、すなわち権門勢家の間に多くの敵を持ちました。しかし武士と平民の間に、少数でありますが、真実な弟子を得ました。数度の迫害受難によって態度をあいまいにし、日蓮を棄て去った信徒は少なくありませんでしたが、残った少数の弟子や信徒と日蓮との交わりは世にも美しい友情でありました。日蓮が真実の人でしたから、かれを助ける者もまた真実をもってしました。

11. 信徒との愛の交わり

日朗は日蓮最愛の弟子です。日蓮は1271年10月10日、依智を出発して佐渡に向かいましたが、その前日、次の手紙を鎌倉で牢に入れられている日朗に書き送っています。

日蓮は明日、佐渡の国へわたります。今夜の寒さに付けて、牢の中にいる、あなたの事が思いやられて、いたわしいです。あなたは法華経の真理を身にも心にも読み現した人ですから、父母も親戚も一切の生ける者があなたを助けるべき存在です。しかしこの世の人は法華経を口ばかりで読んで心に読まず、たとえ心で読んでも身体に読んではいません。あなたが心身共に正法を読んだことは貴いことです。「天が使いを送って、行者を刀やむちから守り、毒もその人を害することは出来ません」と説かれているのは、まさにあなたの事に他なりません。牢を出たならば、すぐに私の許に来て下さい。再会が待ち遠しいです。

土籠御書

これがその全文です。自分と同じくびきにつながれ、法のために迫害を受け、身をもって経を読みつつ初冬の寒い牢に夜を過ごす愛弟子の身を思う切々とした愛があふれています。

佐渡流罪一年後の1272年の暮れ、鎌倉の牢に入れられていた日朗が釈放され、塚原の雪の中に日蓮を訪ねて来ました。日蓮は夢ではないかと、驚くほどの喜びでした。鎌倉と佐渡とは、片道15日を要する旅路ですが、日蓮が佐渡にいた2年半の間に日朗の訪問は8回に及びました。師弟の交わりの深さは私たちを感動させずにはおきません。

四条金吾は鎌倉の武士ですが、武家信徒の中、日蓮の最も愛した者でした。竜の口法難の夜、彼は鎌倉から日蓮に従って来、切腹して殉死しようとしました。その純情を愛して、日蓮は次のように書き送りました。

さて、去る12日の難の時、あなたは竜の口まで来たばかりでなく、「腹を切ります」、と言ったことは、まことに驚くばかりでした。 ・・・ 私が天国に行ったときは、まず最初に、「四条金吾こそは法華経のために私と同じく腹を切ろうとしました」、と報告するつもりです。 ・・・ 信仰にかたく立つことこそ何よりも大切です。

四条金吾殿御消息、1271年

阿仏坊、千日尼夫婦は終生日蓮によく仕え、日蓮も二人の純情と誠実をこの上なく喜びました。阿仏坊は佐渡から、身延に隠退した日蓮を5年間に3度訪れました。千日尼の女人成仏の心配に対して日蓮は次のような返書をしています。

法華経だけが女性の救いを述べ、悲しむ母の恩に報いる、本当の報恩経です。救いを悲願する母の恩に報いるために、この経の題目をすべての女性に唱えさせたいと願います。 ・・・  たとえ私が間違っていても、日本国の一切の女性を助けたいとの志は捨てません。ただ法華経の語るままに言うだけです。 ・・・  しかし私は佐渡の国へ流され、その国の守護らは幕府の命令によって日蓮を憎み、民はその命令に従っています。 ・・・  地頭や念仏者たちが、私の住まいに誰も通さないように、昼夜とおして見張りを立て、来る人を責め追い払っているとき、あなたは夫の阿仏房におひつを負わせて夜中に度々訪ねて来たことを、いつの世に忘れることができましょうか。あなたは天母の生れかわりに違いありません。 ・・・  その上、人は目の前に居る間は心を向けますが、離れれば心は忘れなくても訪ねることはありません。それなのに、あなたは去る1273年より今年1278年の5年間にはるばる佐渡から3度までも夫をこの身延の山中まで使わしました。何という心ざしでしょう。ああ、大地よりもあつく大海よりもふかい心ざしです。

千日尼御前御返事 1278年 

「立正安国論」を書いた剛毅の日蓮はまたこの繊細な愛の手紙を書いた人であります。世にさげすまされる女性、殊にやもめとみなしごに対する日蓮の同情はこまやかでありました。強い日蓮は同時にこの優しい日蓮でありました。彼の強さも優しさも、その根は一つです。すなわち彼の真実な性格であります。そうしてこの真実な性格は彼の真理に対する愛によって養われたものであります。 

12. 真理を愛した日蓮

日蓮は情によって義を曲げることをしません。孝は真理に従うべきであり、法が親に依って妥協すべきではありません。人情をぎせいにしてでも真理を教えることこそ真の親切です。日蓮は真実純粋な仏法の正統を明らかにしようと努力し、真理高揚のためには一切の妥協迎合を排しました。この生活態度には心から尊敬を払うものです。

日蓮は真理のために真理を愛し、真理によって国を愛し、真理の敵に向かって強く「ノー」と言うことの出来た人であります。そういう人が昔の日本にいたという事は、私たちのなぐさめであります。

 出典: 矢内原忠雄全集24巻、「余の尊敬する人物」


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