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F. あとがき

1 ウィリアム・ペンの歩み

ウィリアム・ペン(William Penn)は1644年、ピューリタン革命の海軍提督ウィリアム・ペン卿(Sir William Penn)の子としてロンドンに生まれました。しかし、イギリスが西インド諸島のスペイン軍と戦って破れると、ペン提督はその職を解かれ、刑務所に一時閉じこめられました。失意の中でペン卿はロンドンを離れ、戦争に敗れる前にオリバー・クロムウェルから与えれたアイルランドの城と土地に1656年ごろ一家と共に一時移りました。アイルランドで一家は、イギリス国教会に従わない非国教派のクェーカー(Quaker)・キリスト教の伝道師トーマス・ロー(Thomas Loe)を城に招いて説教を聞いたことがありました。息子のウィリアムは12才になっていました。1660年、ペンは16才でイギリス国教会の中心オックスフォード大学に入学しました。しかし非国教派の主義を信奉したため大学の宗教方針に従わず、1662年に大学を追放されました。提督の父はウィリアムをヨーロッパ各地に旅行させ、フランスのプロテスタントの大学に二年間学ばせ、その後はロンドンの法律学校に一年間学ばせました。

1666年ウィリアムはアイルランドにある父の土地の管理を任されました。その地で彼は再びトーマス・ローの説教を聞き、クェーカーになる決意をしました。クェーカーの人々は、敬語を使わず、目上の人に対して脱帽の礼を取らず、神にかけて誓わず、兵役を拒否する、と言う、その反権威的、非妥協的態度のゆえに、たびたび、迫害、刑務所の苦難にあっていました。ウィリアムも1666年を皮切りに4度刑務所に入れられましたが、彼の信仰は動揺せず、かえって固まりました。その中にあって自分の教育と才能を用いて、パンフレット活動でクェーカーの教えと実践を守り伝えようと決心しました。1669年には彼の最も有名な著作「十字架なくして、王冠なし」をロンドン塔の捕囚の身で著しました。また1670年には「良心の自由について」というパンフレットを著し、人の良心は政治的あるいは宗教的権威によって抑圧されたり、強制されたりしてならないことを、いち早く書き記し、信仰の自由、宗教の寛容を訴えました。おなじ年の8月に逮捕され裁判にかけらた時、エドワード・ブシュネル(Edward Bushnell)を代表とする陪審員はウィリアムたちに無罪を宣告しました。裁判官は陪審員たちに有罪を宣告するよう、脅迫し監禁し罰金を科しましたが、ブシュネルたちは判決を曲げませんでした。当時の最高裁判長は「ブシュネルの判決」の正しさを認め、「裁判官は陪審員を強制してはならない」という原則を確立しました。ウィリアムの信教の自由の戦いが、イギリス法制史において陪審制を確立する画期的な判決をまねくことになったのでした。

1672年、彼は同じクェーカーのギュリエルマ・スプリンゲット(Gulielma Maria Springett)と結婚し7人の子供が与えられました(しかし、4人は幼くして亡くなりました)。1682年、ペンの父が国王チャールズ2世に貸した大金の証書をペンは遺産として受け継ぎましたが、その返済の代わりにアメリカの植民地ペンシルヴァニアの領地を与えてくれるよう請願し許可されました。ペンはこのペンシルヴァニアを信仰と良心の自由の地にして、迫害に苦しんでいる人を助けようと決意しました。歴史上未だかつて建てられた事のない、この「信仰の自由の国」の試みを、ペンは「聖なる実験」と呼びました。ヨーロッパ各地から信仰の自由を求めてクェーカーを初めとする多くの人がペンシルヴァニアに移りました。1693年、妻のギュリエルマが48才でなくなりました。2年後、ペンはハナ・キャロヒル(Hannah Callowhill)と結婚しまた。1696年に、ペンは最年長の子、スプリンゲット(Springett)を21才という若さで失いました。1699年、ペンは再びペンシルヴァニアに渡り、政治と法律の改革に取りかかりました。ペンが一番心に置いたことは、どのような政治と法律の仕組みが最も善く信仰と良心の自由を守ることができるか、と言うことです。ペンは歴史上初めて個人の信仰と良心が国の統制に置くことのできない不可侵の権利であると宣言する法律を作りました。ここに基本的人権が法律を制限する近代憲法の精神が生まれました。1718年、ペンは66才でなくなりました。

2000年8月、あぶくま守行



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