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E. 子たちへのアドバイスの書(第3章)

E-1 心の低い者

心の低い者となりなさい、人は造られた者、支えられている者です。人は自分だけで生きる事はできません。大地の水と空気、時間と空間の中に自分のものは何もなく、全く造り主の全能の意志による存在です。もしあなたがすべてを導く神の聖なる畏れの中で生きるならば、造り主の愛のゆえに、あなたに欠けているものは何もありません。あなたは自分のみじめさと無力とは対照的な神の素晴しさと偉大な愛を見るでしょう。ちっぽけな虫に対しても神が示す愛を思いなさい。神は毎日世話し、あわれみ、恵みを示します。それだからあなたは低く謙そんな者となりなさい。神の畏れと愛は心の低さを生みだし、神と人の前に謙そんな者にします。謙そんの徳があなたに住むならば、あなたは道を踏み外す事がありません。なぜなら、「神は心の低い者に道を教える」からです。心の低い者は神の子の喜びと平和を得るでしょう。「神は低い者を恵み、高ぶる者を拒みます」(ヤコブ4:61ペテロ5:5)。「主は誇る者を遠ざけます」(詩へん138:6)。「高ぶる者は神に近づかず、神は災いの日に高ぶる者の求めを聞かないでしょう」。しん言11:2しん言15:33しん言16:18-19を読みなさい。心の低い人は最終的な権威も、名誉の第一の席も求めません。謙そんはだれをも害せず、他人を高め、自分を低くします。暴力、大げさ、高ぶり、誇り、支配欲は謙そんの中にありません。謙そんを喜ぶ者は幸いです。キリストは言います、「私に学びなさい、私は柔和で謙そんだからです」。キリストは弟子の足を洗いました(ヨハネ13:5)。本当にキリストは謙そんの見本です。低い心には誉(ほま)れがあります(しん言18:12)。キリスト教以上に心を低くする事を教えている宗教はありません。キリストはその最も偉大な模はんとなりました。第一に、神の子、キリストは人の形に生まれる事で謙そんでした。キリストは自分を神に等しい者とせず、自分を低めて人となりました。彼は自分のどんな名声も求めませんでした。キリストはユダヤの王の子としては生まれず、かえって大工と結婚した低い身分の処女から生まれました。彼女は天の声を聞きました(ルカ1:47-52)。彼女は神の偉大な恵みを賛美しました、「私の霊は救い主によって神を喜びます。神がこの哀れなあなたのしもべを省みられたからです。神は低い者に誉(ほま)れを与えました」。第二に、キリストはその生活において謙そんでした。彼は宮殿に住まず荒野と山野に一人で住みました。彼は国に仕える事もなく、毎日の心配にわずらわされる事もありませんでした。彼は普通の麦とパンを食べ、奇抜な食事は取らず、控えめであったと考えられる十分な理由があります。第三に、キリストは苦難と死において低い者でした。彼は苦難と死の戦いにおいて忍耐強く、裏切りに対しても勝利しました。彼はあざけられ、ツバを吹きかけられ、むち打たれ、しばりつけられ、最後には二人の盗人と一緒に十字架につけられ、最大の罪人と呼ばれました。キリストはその苦難に決して不平を述べず、迫害に対しては沈黙と従順によって応答し、かえって何も知らずにに彼を死刑にする者をあわれみ、彼らのために死にました。ああ、何と低い心でしょう。あなたの目をいつも十字架に注いでください、それによって自分自身を見つめるためです。まことに、キリストの全生涯は自己否定の絶えまない連続でした。自分のためには必要ないのに、私たちがそれを必要とするため、キリストは自己否定の生涯を貫きました。「それによって私たちが従う見本をキリストは示しました」(1ペテロ2:21)。「あなたがたはキリストが歩んだようにこの世で生きなさい」と、キリストの愛した弟子ヨハネは言っています(1ヨハネ2:6)。キリストが私たちのために行った事は謙そんになる手段でなく、動機です。キリストが神のように歩まれたように、私たちもキリストのように歩まなければなりません。不服従の者、争う者、報復する者、暴力をふるう者、権力を求める者などに従ってはいけません。謙そんの徳を学ぶほど、自分の高ぶりのおろかさと危険を考えてほしいと思います。高ぶりによって天使は神の国から、人は楽園から落ちました。高ぶりによってソドムは罪を犯し(エゼキエル16:49)、アッシリアとイスラエルの国は亡び(イザヤ3:16)、そしてモアブ、アンモンは神の怒りを受けました(ゼパニア2:9-10)。この世の誇りは人を支配する最も虚栄な感情です。人は自分のなかに誇れるものが何もないのに自分を偉い者のように見せるからです。自分のものでないものを誇って、かえって、知恵と正直のない事をさらしています。人は決して自分を創造しなかったばかりか、すべての造られた者の中で、最も裸で、弱い者として生まれました。人は一生をとおして髪の毛の一本さえ白くも黒くも出来ないのです。人は全く他の力のうちにあります。つまり、すべてにおいて全能の神の意志によって、生活、健康、才能、そして財産を任された管理者に過ぎないのです。人は生活を喜び受けるほど、自分を誇る事はなくなります。なぜなら、人はますます多くの事で、他の力に依り頼んでいる事を知り、感しゃと謙そんを学ぶからです。

それだから、あなたは悪を避けるように、誇りを避けなさい。あなたは死ぬ存在であり、死とともに誇りの惑わしとなっていたものはすべて消え去る事を覚えなさい。そして、あなたの快楽と義務の両方の行いについて裁かれる日の来る事を覚えなさい。

E-2 柔和な心

謙そんから柔和な心が生まれます。モーセは彼のまれな学識、知恵、そして勇気とともに柔和な心を保ちました。柔和は他の能力を引き出し、欠けているものを補います。「神は謙そんな者に道を教え、柔和な者に判断力を与えます」。謙そんを良く学べば柔和な心が自然と備わるでしょう。柔和な人はめったに惑わされませんが、よく悲しみます。その人は悪意を抱かず、試みず、かえって親切で、何の害も与えません。私の愛する子よ、あなたがこの徳を備えたら何と祝福された事でしょう。聖書は柔和な人に偉大で高貴な約束を与えています。「神は柔和な人に救いの服を着せます」(詩へん37:11)。「柔和な人は幸いです、その人は地を受け継ぐでしょう」(マタイ5:5)。キリストは自ら見本を示しました、「私に学びなさい、私は柔和だからです」(マタイ11:29)。キリストは救いを求める人に幼子のようになる事を求めました(マタイ18:3)。柔和で静かな心は主の素晴しい恵みです(1ペテロ3:4)。これは聖霊の実りです(ガラテヤ5:22-23)。他の箇所でも柔和な心は多くの実りを生み、誉(ほ)めたたえられています(エペソ4:2コロサイ3:12テトス3:2)。

E-3 忍耐

忍耐は柔和な心の結果であり、そこからあふれてくるものです。忍耐は苦しみを静かに耐え忍んでいる態度です。忍耐は単なるがまんでもまた怒りに転ずる直前の状態でもありません。忍耐は判断と行動を急がず、苦しみを聞き入れ担う心の用意です。モーセが柔和の見本であったように、ヨブは忍耐の見本です。忍耐なくして、天のかんむりを勝ち得る競争で走れるキリスト者はいません。忍耐なくして、神の働きを経験する事はできません。パウロが言っているように、「忍耐は経験を、経験は永遠の希望を生むからです」(ローマ5:3-5)。ヤコブも言っています、「忍耐によって仕事を完成させなさい」(ヤコブ1:4)。忍耐は信徒を練り清めます、「ここに聖徒の忍耐があります」(黙示録13:10)。忍耐があなたをキリストの国につなぎます(黙示録1:9)。それだから、「忍耐しなさい」(ルカ21:19ローマ12:12ローマ15:42コリント6:41テサロニケ5:14)。「すべての人を耐え忍びなさい」(テトス2:2ヘブル6:12ヘブル10:36)。忍耐の必要と価値は人格の本当の尊げんを形作る事にあります。忍耐は知恵であり、すべての事に益をもたらします。情と欲は人をめくらとし、人の弱さをあざむきます。一方、忍耐は人の価値を見つけ、それを発達させます。忍耐は正しい判断力を見い出し、発達させ、そして成熟させます。忍耐なくして、あなたは市民としてもキリスト者としてもこの世の中で賢く平安に行動する事はできません。それだからこの祝福された徳をあなたに勧めるのです。

E-4 あわれみ

あわれみが心にあるときはいつでもそれを現わしなさい。あわれみは赦し、いつくしみ、助け支えようとする心です。あわれみは神の属性です(創世記19:19出エジプト20:6詩へん86:15エレミア3:12)。聖書はとりわけあわれみを神の働きとして賛えています。あわれみは人の中の神の姿の尊い部分です。「あわれみと正義を行い、主を待ち望みなさい」(ホセア12:6)。神はあわれみを人に示し、それを人の義務としました、「人よ、神があなたに示した善とは何ですか、主があなたに求めるものは何ですか。それは正義を行い、あわれみを愛し、謙そんに神と共にに歩む事ではないですか」(ミカ6:8)。この聖句は神の愛と人の義務を要約しています。この言葉を心に生かすならばあなたは幸いです。あわれみは最も尊い徳の一つです。キリストはあわれみのある人を祝福しました、「あわれみのある人は幸いです。その人はあわれみを受けるでしょう」(マタイ5:7)。「天の父があなたをあわれんだように、あなたも人をあわれみなさい」(ルカ6:35-36)。キリストは律法に厳格であわれみのないユダヤ人に言いました、「私は犠牲でなくあわれみを行います」(マタイ9:13)。キリストは彼らの目を開きました。あわれみのない管理人の結末が何であるか知りなさい(マタイ18:34-35)。主に多く赦された管理人が彼の使用人を少しもあわれまなかった事に対して、主がかれに報いた審きを覚えなさい。あわれみは神の律法の尊い部分です(出エジプト23:4-5)。あわれみは断食の本当の意味です(イザヤ58:6-7)。あわれみは神の契約の中心部分です(エレミヤ31:34ヘブル8:12)。そしてあわれみは最後の審判の原因であり基準です(マタイ25:31)。あわれみは純粋な宗教の内容です(ヤコブ1:27ヤコブ3:17しん言14:21-22)。あわれむ人はさらにあわれみ深くなり、それはほかの生物にまで及びます。もちろんあわれみ深い人のとなり人へのあわれみに不足はありません。それだから私はあなたにお願いします、人であろうと動物であろうとだれをもいじめないでください。不幸な人の弱みにつけ込まず、苦しんでいる人の苦しみを思い、苦しんでいる人の妻と罪のない子供をあわれんでください。状況の許す限り苦しんでいる人達を助け支えてください。あなたの同情心、共感、あわれみ、赦し、そして施しの機会が不足する事はありません。あわれみの実践は、あなたの試練の日に、あなたがあわれまれ助け支えられるためである事を覚えなさい。主の祈りを読みなさい(ルカ11章)。ヨセフが兄弟に示したあわれみを覚えなさい。良きサマリア人の例に習いなさい。エドム人のヤコブの子孫に示した不親切(オバデヤ 1:10-16)と、アッシリアのイスラエルに対した無慈悲を警戒しなさい(ゼパニア1:21ゼパニア2:8-9しん言25:21-22ローマ12:19-20)。

E-5 愛

愛はあわれみに近いものです。愛は欠点を見ず、貧しい所を助けます。まず初めに、あなたは裁かれなければならないことを覚えなさい(マタイ7:1)。最後にあなたは管理責任者であることを覚えなさい。「だれも裁いてはいけません、その裁きによってあなたは裁かれます」。石を投げつける前に自分の罪を清算し、自分の目のうろこを取りなさい。裁きは謙そんと平和を教えます。それだから自分の亡びを裁きなさい。最後の審判の日にあなたの裁きが正しかったかどうか裁かれることを知りなさい。愛は裁かず、また批評を退けます。うわさ話、大げさ、裏切り、悪口などは最も害のあるおろかな行為として警戒しなさい。第一コリント人への手紙13章の愛の賛歌を読みなさい。愛はまた貧しい者を助け支えます。それが私たちの神に対する負債だからです。あなたの受け持っているすべてによって、貧しい者を支えなさい。「貧しい者に与える人は主に貸し与えています」。また「主が私たちに貸し与えるのは、それによって私たちが貧しい者に与えるためです」。貧しい人は摂理によるあなたの伴い人です。貧しい人をあざむいてはいけません。いつ、何を、だれに与えるかはあなたの権利として自由に選ぶべきものです。あなたが愛を自分の導き手として養い守るなら人生のルールを持つでしょう。

あなたのとなり人の弱い子供、やもめ、病人、あるいは老人に愛を実践してください。その人達の苦しみを見過ごさず、あなたの愛を与えてください。貧しい人が飢え、裸でいるときに、自分と家族のためのむだ使いの罪を避けなさい。とても年とった老人や病人、とりわけ貧しい子供が泊る場所がなくて、通りの建物の前で冷たい風にさらされて一晩中横たわっているのを見ると心が痛みます。もしその子供があなただったら何と耐え難いことでしょう。私とその人達のおかれた条件の違いが私の心を低くします。神の定めとあわれみが貧しい人への愛を駆り立てます。もう一度いいます、貧しい人に善意を示してください。貧しい人の前に正しくする事はあなたを善の人とします。貧しい人への愛をあなたの義務とし、それを宗教的に行ってください。マタイ25:35の感動的な言葉をあなたの心に生かしてください。イエスはいいます、「私が飢え、かわき、裸で、病み、刑務所につながれているときあなたは私を返り見ました」。しかし神は心の頑なな者を責めます、「私が飢え、かわき、裸で、病み、刑務所につながれているときあなたは私を返り見ませんでした」。「貧しい人の持ち物を奪い弱い人の権利を踏みにじるあなたは呪われなさい」(エゼキエル18:12-13)。あなたの財産がむだになったり、虫に食われたり、呪われたりしないように天に蓄えなさい。「貧しい者をあわれむ人は幸いです。主はその人を苦難のときから救います。主はその人を守り、祝福を与えるでしょう。主は決してその人を敵にわたしません。主は心の貧しい人が病いで弱り切っているとき、その人を訪れ力づけます」(詩へん41)。この聖句は地に生きる心の貧しい人の誠実と行いに対する主のほうびです。貧しい人はあなたのすぐそばにいます、自分の弁解に注意しなさい(しん言 3:27-28)。善を行う力があなたの手にあるとき、必要としている人達への善行を惜しんではいけません。助けを求める人に対して今日じゃなくて明日来てください、といってはなりません。マタイ5:42のキリストの教えを心に留めてください。「求める人には与え、借りようとする人を無視してはいけません。とりわけ貧しい女性がわずかの全財産を神に捧げたことを覚えなさい(マルコ12:42-44)。キリストはその女性の心を誉(ほ)め、彼女の天の宝を祝福しました。

E-6 おしみない心

おしみなく与えることは人の優れた徳です。おしみない徳はむさぼりを戒めるため、欲の深い人はこの徳を嫌います。おしみない態度はあわれみとは違います。おしみない態度はその対象と程度が広い範囲に及んでいます。おしみない態度はその施しを欲しない人にも目を向け、必要不可欠の奉仕をします。

おしみない態度は弱っている徳を人のなかに見い出しそれを高めます。それは生活の重荷と困難を和らげます。親切と施しがおしみない態度を植え付けます。この徳の分散もたしかにあります。おしみない態度は子供があふれて困っているほかの家庭から一人の子供を受け入れます。おしみない態度はこの奉仕の価値を報酬によって示します。それは決して親切の負い目でなくて、全てのかん定の信託者です。ほかの人がわずかなものを施すときおしみない人は自分の多くをを与えます。そしてそれは二倍になって返ってきます。おしみない人はつつしみを保ちます。その人はどん欲でもぜい沢でもけっしてありません。おしみない人はむだ使いと快楽のパーティーを嫌います。おしみない人は心が自由で、形式にしばられず、豊かで富んでいます。最も知恵に満ちた最良の本である聖書の中に、あなたはいつの時代でもおしみない人を見い出すでしょう。聖書はおしみない心を命じ、また勧め、その豊かな報いを記しています(申命記15:3-8詩へん37:21-26)。「義しい人はあわれみをおしみなく与え、善良な人は親切に貸し与える」。その人は善意と親切を広げるでしょう(詩へん112:5、9)。おしみなく与える人はわずかしか持たなくてもやがて豊かになるでしょう。求められているものをおしむ人は返って貧しくなるでしょう(しん言11:24-25)。しかしおしみなく与える人は豊かに栄えるでしょう。(しん言22:9)。イザヤ書32:7-8を読みなさい。そこでは悪どい人と善良な人が対照されていて、善良な人はそのおしみない心によって高貴な約束がなされています。キリストはおしみなく与える心を彼の教えの内容としています(ルカ6:34-35)。おしみなく与える人は神の子であり、返済を期待ぜず、友と同様、恩を忘れる人や悪しき人にも貸し与えます。どんな期待も言い訳もしません。パウロもおしむ人には警告し、おしみなく与える人には報いを約束しています(2コリント9:5-10)。

それだから私の愛する子よ、求められているときはいつもおしんだり、けちったりせず、神が授けたものから喜んで与えなさい。たとえあなたが期待しなくても報われない事はありません。しかし見せびらかしは避けなさい。それは空しくあなたを浪費と貧困へ追いやります。見せびらかしはおしみなく与える心と全く反対で、むさぼりを生みます。人が東に向かっているとき西を目指し、上に登っている時下へ降っているのと同じです。

E-7 正義

正義はもう一つの神の属性で、人の生命と義務です(申命記32:4詩へん9:7-8詩へん5:8ダニエル9:7)。それだから、全てのことで神と人の前に正しくありなさい。神のもの、すなわちあなたの心を神に返しなさい。神は神のものを守られることを知ることで、あなたはなぐさめと永遠の生命を得るでしょう。神があなたの心に住むならば、あなたは神を宝として持ち、あなたの全ての幸せはそこにあるでしょう。カイザルのもの、すなわち、この世のものには恐怖からでなく良心によって法的に従いなさい。つまり、親に対しては孝行、友に対しては友情、全ての人にはあなたがして欲しいと思うことを行いなさい。だれの名前も人格も傷つけず、他人のどんな所有物もうらやましがってはいけません。ダビデのサウルに対する誠実を覚えなさい。サウルが彼を殺そうと何度も企んだにもかかわらず、ダビデは従順と義務を果たしました。アハブの不義とどん欲によるナボテの殺害を覚えて、不義に対するあなたの戦いを新たにしなさい。ダビデは王に指名されたにもかかわらず、王位につくことを急がず、サウルの王位の終結を神にゆだねました。私の愛する子よ、神は正しい方法と善の結果をあなたに示し、そうする事をあなたに求めます。

神の第十の戒め、「むさぼってはならない」を覚えなさい。神はこの戒めによってあなたを裁くでしょう。この戒めはとりわけ貧しい人の権利と所有物を守ります(レビ19:13申命記24:14-15エレミア22:13アモス5:11マラキ3:5)。サムエルは義人の見本です(1サムエル12:3)。彼はしいたげ、むさぼるイスラエルの家に対して戦いを宣告しました。パウロも同じように他人をしいたげ、むさぼる人に対して戦いました(2コリント 7:2)。神は不義の者に報復し、むさぼりかすめる者を裁きます(1テサロニケ4:6)。キリスト者の中に法の秩序が無い事ほど悪い事はありません(1コリント6:7)。それだから、全力を尽くして、愛以外は判断にをおいても正義にをおいても他人に借りが無いようにしなさい。公正はあなたの名声を高め、あなたの生活を祝福します。それはあなたの最善の安全保障です。

私はいくつかの聖句を引いて、この節を閉じましょう。上の者には、主のために、この世の事柄において従ってください(1ペテロ2:13)。またこの世の支配者にも従ってください(ヘブル13:17)。だれの悪口もいわないようにしてくだい(ユダ1:82ペテロ2:10)。「わが子よ、主を畏れなさい」、しかし主の事とこの世の事を取り違えてはいけません(しん言24:21)。この地にいる間はあなたの父母を敬いなさい(出エジプト20:12)。「子よ親に従いなさい、これは約束された、第一の命令です」(エペソ6:1-2)。この命令の従わず、親への尊敬をないがしろにする者には厳しい裁きがともないます。父母のものをかすめ取り、これは罪でないと言う者は、盗人と同じです(しん言28:24)。イスラエルの王が親を亡ぼしたことを邪悪の印としてエゼキエルは責めました、「イスラエルの家よ、あなたは父母を軽んじ、旅人をしいたげ、みなし子とやもめをいじめています」(エゼキエル22:6-7)。となり人に対しては神の子の教えに従いなさい。「正義と公道を行うことは犠牲を捧げるよりも神に受け入れられます」(しん言 21:3)。「公正なはかりと物差しを用いなさい。はかりをごまかすことは神をぶじょくすることです(レビ19:36申命記25:13-16しん言11:1しん言20:10-23しん言22:16-23しん言23:10-11)。神に受け入れられる人生の物差しについては、ミカ6章ゼカリア8:16-17、そしてとりわけ詩へん15を読みなさい。

私はこれまで、正義の分配、つまり政治についてはほとんど触れませんでした。私はあなたが政治に関わらない事を望みます。神が命ずるのでない限り、政治には関わらないに越した事はありません。しかしあなたの定めが政治にあるなら、人を肉によって判断しない政治を行いなさい。富んでいる者にも貧しい者にも、立派な者にも小さな者にも、身内の者にもよその者にも、その人の外面を見ず、むしろ良心と理性によって人の内側を注意深く判断しなさい。政治に対する神の命令と警告、人の義務については出エジプト23:3-4申命記1:16-17申命記16:19-20申命記24:172サムエル23:3エレミア22:3-4しん言24:23哀歌3:35-6ホセア12:6アモス8:4-8ゼパニア2:3ゼパニア3:1-3ゼカリア7:9-10エレミア5:4-6エレミア8:6-7を読みなさい。政治はいつの時代も誠実と正直をないがしろにしてきました。あなたは政治につきものの論争、危険、重荷、そして誘惑から自由になりなさい。神のために、それらを決してあなたの行動に入れないようにしなさい。

E-8 高潔の態度

高潔の態度は偉大で求むべき徳です。その人は真実の人、熱心の人、そして確信の人です。その人は信頼され、どんなワイロも受け取りません。どんな脅しも恐れず、語るに遅く、その言葉にうそはありません。その人は炎のように輝き、最も困っている人の苦しみを聞き、危険に対して勇気をふるい、変わらぬ決意によって反対を克服します。その人は他人のうそと日和見の態度を嫌い、受け入れません。その人は真理と共に歩み、時代に惑わされません。正義によって進み、権力にへつらいません。ほかの人にはまねできないほど、単刀直入で、大きな目的をやりとげます。アベルの犠牲を受け入れ、エノクの言葉を理解し、ノアを救い、アブラハムを神の友とし、国の父ととし、ロトをソドムから救い出し、ヤコブを祝福して子孫をふやし、ヨセフを守り高め、ヨブを回復させ、サムエルをイスラエルの前に祝し、あらゆる困難にもかかわらず、ダビデを王位につかせ、ソロモンに平和と栄えを与えたのは、彼らの高潔の態度です。この態度がモルデカイとその民を守り、ダニエルをライオンから守り、子供を炎から守り、大王をして、神の力と知恵を真実に告白せしめました。かくして、「正直でひた向きな心がその人を導くでしょう」(しん言11:3)。ああ、私の愛する子よ、この偉大で、聖なる、変わらない神を畏れ、愛し、従ってください。そうすれば、あなたは永遠の生命への旅路を安らかに守られ導かれるでしょう。

E-9 感しゃ

感しゃの心は神にも人にも受け入れられる偉大で輝く別の徳です。感しゃは人が受けた誉(ほま)れと犠牲の恵みに対する負い目です。感しゃは事実、正義の高貴な種類、ある意味では正義の一部と見る事ができます。もちろん感しゃと正義は違いますが、感しゃの有益は正義を超え、二つの結び付きはかなり深く重要です。不義以上に感しゃのない心は低いものと見なされます。感しゃは決して法律や裁判の義務ではありませんが、あなたの徳、名誉、謙そんを益のあるものとして守る自然の保証です。感しゃと正義の外面的結び付きが弱まると、その内面的結び付きが強くなります。感しゃを無視する者にこの結び付きは存在しません。感しゃを法律にすること、つまり無礼は不義であるとすることは強制の恐れを作るだけで、感しゃを生み出すことは出来ません。いつもあなたの受けた恵みに感しゃしなさい。感しゃを表わす時を選びなさい。ある者は自分のやってきた事に感しゃされることを好みます。しかし、その人は感しゃを要求できるでしょうか。その人が恩義を与えたときすでに十分の益を受けています。その人は不幸のなかで自分のやってきたことの益を見れば感しゃを表わすのに十分です。律法がないほど、恵みと感しゃは多く、その結び付きは強くなります。感しゃは福音の徳で信仰と同様愛によってのみ働きます。ここにおいて感しゃはキリスト者の態度に近づきます。私たちは律法の下でなく、恵みの下にあり、善行によってでなく、恵みによって救われました。神が善意を無理に押し付けたので、私たちは感しゃしなければならないのでしょうか、決してそんな事はありません。私たちは恩義を着せられたのでも、強制されたのでもなく、恵みを自由に無条件に与えられたのです。感しゃは義理でも、押し付けでも、条件付きでもなく、自発的な善意の選択と表明です。感しゃの表明であるか否か、どのように知ることが出来るでしょうか。その判断は一生を通して人の良心に知られています。感しゃの心は友情と同じで死によってそれをこわすことは出来ません。「友は永遠に愛します」(しん言17:12)。あなたの友もあなたの父の友もその愛が消える事はありません(しん言27:10)。 律法に感しゃすることは正しくありません。感しゃをしない三種類の人がいます。第一は危険にあって友を助ける心を失った、恐怖におびえている人です。第二はあざけりを常とする高ぶりの人です。この人は神の恵みを覚えようとせず、人から恩義を感じません。高ぶりの人が権力をつかめば、彼が恩義を受けた人を亡ぼすことを歴史は教えています。第三にどん欲な人です。その人はお金に目がくらんで、他人の好意によって自分が財産を得た事を感しゃしないでしょう。どん欲な人は聖書をあざける人と同じで何の価値もない人です。神の恵みと善意の恩を感じず、感しゃの心を持たないユダヤ人を神は何度耐えなければならなかったでしょうか。「ゼブルンは肥え太り、神に背き、その契約を忘れ捨ててしまいました」(申命記32:15)。モーセとダビデは神の愛に対するイスラエルの背きの歴史を振り返っています(申命記31:16-7士師10:11-31サムエル8:8詩へん78へん詩へん105へん詩へん106へん)。同様にイザヤ、エレミア、ホセアもイスラエルの忘恩の歴史を省みています(イザヤ17:1-10エレミア2:31-2エレミア5:7-20エレミア15:6エレミア16:10-21エレミア18:15ホセア8:9)。忘恩は使徒によって背教の印と見なされています(2テモテ3:2)。

E-10 勤勉

勤勉は有益で価値の高い徳です。それは職業に有益で合理的に適応し、なまけやさぼりを避けます。それは時間をむだにせず、困難を克服し、失望を回復し、使命に仕え、不足している部分を補います。それは泉のわき出る池です。勤勉それ自信は泉でありませんが、それは泉を保ち、決して枯れる事がありません。それは船の帆のように風を保ち、前進させます。勤勉は体の事も技術的な事も気にかけませんが、これなしでは心は疲れ失敗し荒くなります。勤勉はあなたの人格全体にかかわります。体以上に心を楽しませないようにしなさい。もしあなたが勤勉から十分な益を得ているなら、混乱した心で欲に惑わされず、勤勉を捨てないようにしてください。現在与えられた仕事は完了するまで一生けん命にやりなさい。目的に専念する人と仕事に忙しい人は違います。あなたの心を義しい目的にゆだねてください、そうすれば勤勉がともない、悩み、苦しみはなくなるでしょう。義しい目的を持たなければ、忙しさは何とむだな事でしょう。目的に対してあなたの手段がふさわしいかよく考え、それからその方法を勤勉に用いなさい。そうすれば、神の祝福によって、あなたは目的を果たす事ができるでしょう。第一に、「勤勉が富を生み出す道です」(しん言10:4しん言23:24)。なまけとは反対に、勤勉には約束があります(しん言23:21)。第二に、勤勉は人を昇進させます、「仕事に一生けん命な者を見よ、その人は王の前に立つでしょう」(しん言23:29)。第三に、勤勉は資産を守ります、「あなたの羊の状態を知るのに勤勉になりさい。あなたの飼っているものをよく世話しなさい、富は長続きしないからです」(しん言27:23-4)。取得したものであれ、相続したものであれ、持っているものを守ることに勤勉になりなさい、長者は長続きしないからです。賢者は言います、「すべきことを見い出したら、全力を尽くしてそれをやり遂げなさい」(伝道の書9:10)。勤勉が現在の状態を改善します。勤勉なくして、だれも自分の霊を守ることはできません。それゆえ、モーセはイスラエルの民に勤勉を求めました(申命記4:9申命記6:7)。使徒パウロも勤勉をコリントの人に求めました(2コリント8:7-22)。彼はまたピリピのテモテにも同じ理由で、自らの救いに一生けん命になるよう促しました(ピリピ2:12、20-1)。ペテロも言っています、「それだから、愛する兄弟姉妹たちよ、あなたの召命と選びを確かにするために一生けん命になりなさい。そうすれば、あなたが落ちることは決してないでしょう」(2ペテロ1:102ペテロ3:13-4)。「それだから、愛する兄弟姉妹たちよ、世の終末と最後の審判を前に、あなたは汚れなき責めなき者として、キリストの平和を心に見い出すよう、一生けん命になりなさい」。以上、勤勉は証明された徳です。しかし注意してください。勤勉は素直な目的によって理にかなって実行してください。外圧的な手段に訴えて心と体に無理な負担をかけたり、しいたげたりしないでください。愛と必要によって豊かな実りが望めるよう、勤勉を治め、よく使いこなしてください。

E-11 質素

質素倹約も一つの徳で、生活に役立ちます。倹約が欲と惑わしをともなわないなら、それは豊かになる良い方法です。ことわざが言うように「一つを救う者は同じものを得る」ところに倹約の意味があります。多く救う者は事故、落し穴、ねたみ、訴え、そして災いを防ぐことができるでしょう。なぜなら富んでいて質素を知らない者は持っているものを使い果たし、やがて生活に困るようになるからです。しかし、わざと貧しいかのように振る舞うことは避けなさい、それはどん欲であり邪悪です。子供の年令環境に応じて質素な生活を教えなさい。そして、どん欲とあざむきを決して認めないようにしてください。私はあなたが自由であってもわがままにならず、一心であっても単調にならないよう願っています。また質素であってもけちにならなず、もし可能なら収入の半分を他人のために使ってほしいと思います。

E-12 節制

控え目の態度は生涯を通してぜひ身につけてほしい徳です。それは霊の実りで、節制の徳です(ガラテヤ5:23)。より具体的に話せば、控え目の態度は衣食の習慣により、あらゆる感情と行動に関係します。それゆえ、初めに習慣の食事について述べましょう。人は生きる手段として食事をとるのであって、食事を楽しむ目的のために生きているのではありません。食べるために生きているのでは動物以下です。奇妙なものや挑発的な食事は避けなさい。体の健康によいものをいつも控え目に食べれば節制の性格が発達します。節制するのに単調すぎる食事、あるいは質素すぎる食事というのはありません。静かにしている事が霊を強めるように、体調を低く保つことは霊を明らかにします。単調質素な食事は消化を進め、休息を与え、確固とした体質を作ります。イエスが教えたように、貧しい人のため以外は、食事のパーティーを最小限に止めなさい(ルカ14:12-3)。なぜならそのようなパーティーは旅人に仕える以外は、罪なく行われることはほとんどないからです。食事同様、衣服も質素において見本となりなさい。服は流行のものでなく有用なものを着なさい。帽子や靴は飾りとしてでなく実用のために身に付けなさい。服は自分や他人の見栄を喜ばせるために着るのではありません。そのような人は自分を偶像の美的対象とする落ちた人間です。人は服よりもはるかに優れているではありませんか(マタイ6:25)。人間は神の作品を造り変えることは出来ず、まして生命の一部を与えることは出来ません。世俗の流行は神の作品としての人間をさげすみ、創造主の知恵と力を省みようとしません。しかし、あなたは、だれが食事、衣服、住まいをあなたの老いに至るまで毎日世話するかを知りなさい。それはよそ者や神を信じない周りの人ですか、そんなことはありません。マタイによる福音書6章を読みなさい。次に使徒たちの1テモテ2:9-101ペテロ3:3-5を読みなさい。聖書は化粧と飾りについての忠告を女性のみに語っているのを知るなら、男性がそうすることは恥であると知りなさい。見栄のために化粧し着飾る異邦人でなく、質素で控えめな原始キリスト教の人を見習いなさい。化粧する人は自然より人工を、目的より手段を、実用より見ために心を配ります。見せかけの飾りは神のあわれみと無関係で、何の利益にもならず、返ってくるものは何もありません。要約すると、過度の衣食の欲は健康と子孫の悪質な敵です。それは体を蝕み、子供をむさぼり、愛を失わせる代表で、つかんだら離さない亡びに至る悪です。衣食の欲望はここで終わらず、さらに悪を重ねます(ガラテヤ5:20-1)。この欲望の深刻な害に苦しんでいない国、町、家庭を私はほとんど知りません。私の本、「十字架なくして王冠なし」と「プロテスタントへの手紙」の前半を読んでください。それらの本の中で私は特に衣食の欲望を取り扱い、節制することを勧めています。しかし節制の徳は衣食だけに限りらず、家財、使用人、消費、収入、節約、経営、友達、会話、睡眠、集中、情熱、愛、怒り、楽しみ、喜び、悲しみ、そしてすべてのことにおいて求めてください。そうして欲を抑え、それを意志に従え、キリストを案内人であるとともに見本としなさい。キリストはあなたに摂理の信仰による人生を教えまた導きます。神の国の種を殺し、たましいの徳を亡ぼし、人の心を不毛の地とするこの世の関心と快楽の危険をキリストは弟子たちに教えました。キリストの山上の教えは普遍的な節制の生活の神聖な権威です。パウロは節制の必要を良く心得え、コリントの人に時に応じて忠告しています。「スポーツは賞を得るために競うことを知らないのですか。賞を得るために走りなさい。賞を得ようとする者はすべてのことに節制し、競技のことに専念します。この世の人は朽ちる栄光を得ようとしていますが、私たちは永遠の栄光を得ようと走っています。私は朽ち果てる事のために走らず、空しいことのために戦っているのではありません。私は他人に福音を伝えながら、自分が捨てられないよう、自分を節制し従えています(1コリント9:25,27)。パウロは他の所でも節制をあらゆる状況で促しています。「兄弟姉妹たちよ、時は近づいています。妻を持つ者は持たない者のように、泣いている者は泣いていない者のように、喜んでいる者は喜んでいない者のように、この世を利用している者は利用していない者のように行動しなさい。なぜならこの世のものは過ぎ去るからです。しかし私はあなたの愛を永遠に持ちます」(1コリント7:29-32)。同じ理由によってパウロはテトスあてに当時の長老に、真面目で、節制し、誠実に生活し、欲を抑え、暴力をふるわず、かたくなにならず、囚われず、どんなことにも惑わされないように警告しました(テトス 2:2)。使徒は指導者の不可欠の条件として、自己の利益と意志を通さず、怒るのに遅く、酒とぜい沢を求めず、招待されることを好まず、善良で真面目、正しく、聖なる節制の徳を要求しました(テトス1:7-8)。なぜこれらの徳を要求したのでしょうか?それはこれらの徳に反対する法律が存在しなからです(ガラテヤ5:23)。

私はこの節を次の聖句によって閉めくくりましょう。「主の日が近いことをあなたの節制によってすべての人に知らせなさい」(ピリピ4:5)。「注意して、自分の道を調べ、行ってきたことを省みなさい。なぜなら、主はあなたの近く、あなたの家の戸口に来ているからです。主はあなたの歩みを調べ、それを知らせ、裁くでしょう」。この聖なる言葉をあなたの心に生かしなさい。私の愛する子たちよ、この言葉をあなたの霊に宿らせ、すべての行動、思い、感情、そして考えに生かししてください。神の言葉は全生活を守り判断するのに十分です。この言葉に生きることは安全で行うはやさしいです。この言葉に生きる人に無理はなく、この世のわずらいを避け、本当の喜びを与え、その力はこの世の帝国よりもはるかに偉大です。ああ、ですから、節制の徳をあなたのものとしてください。そうするためにあなたは十分な恵みを神から与えられいます。その恵みによってすべての行いにおいて節制し、真の幸せを逃さないようにしなさい。

E-13 終に

私は聖書の言葉を語って来ました。この言葉は真理と知恵の霊の言葉であり、この世の文学的表現方法や美的感覚を用いません。聖霊の言葉はそれ自体によって人に理解の力を与えます。この言葉は私が初めに語った永遠の原理、つまり、光、聖霊、恵み、そして真理です。私はこの言葉の心に対する霊感と啓示の力を誉(ほ)めたたえてきました。この言葉によって全てのものは造られ、人はよみがえり救われるのです。ギリシャ人とローマ人もこの光、聖霊、恵み、そして真理を求めてきました。ピタゴラスの「偉大な光、時代の塩」、アナクサゴラスの「神聖な心」、ソクラテスの「善霊」、テマエウスの「不変の原理と光の創造者」、ヒエロンの「心の神」、プラトンの「完全の原理」、ゼノンの「世界の創造の父」、そしてプロテンの「魂の根源」、これら全てのものは聖霊の永遠の言葉をさしています。この言葉は人の中で霊感と啓示に欠けることがありません。ヒエロン、ピタゴラス、エピクレスそしてセネカは「内在の神、心の神」と言い、ソクラテスとテマエウスは「天才、天使、そして心の案内人」と表現し、プラトンは「神聖の光と精神」と呼び、プロテンは「聖なる心の原理」と歌い、フィロは「神聖不変の完全な法」と名づけ、そしてプルータクスは「心の生きた法、魂の案内、徳の永遠の泉」と書いています。以上のことは私の本「クエーカー・キリスト者」とコッドワースの「無神論の混乱」に詳しく述べられています。これらの徳ある異邦人の表現にはパウロも言い及んでいます(ローマ 2:13-15)。異邦人はユダヤ人のように神の律法を与えら得られませんでしたが、自然の法の助けで自分のうちなる法則を見い出したのです。

ウイリアム・ペン




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