マルコ福音書のあらまし
マルコによる福音書はマルコ・ヨハネによって書かれました。ユダヤ名をヨハネと言い割礼を受けており、通称ラテン名でマルコと呼ばれました(使徒 12:12)。ラテン姓をもちローマ的教養を身につけて育っていたことから父はローマ人だったかも知れません。母マリアはエルサレムの裕福な家を使徒たちの集まりに開放したクリスチャンでした。マルコはバルナバのいとこで、パウロとペテロの伝道に秘書や通訳として仕えました。彼は「なぐさめを与える同労者」とパウロに呼ばれ(コロサイ 4:10-11)、「私の子」とペテロには呼ばれて愛されました(1ペテロ 5:13)。マルコはローマと小アジア西部(現在のトルコ)のローマ植民都市(コロサイ、ラオデキア、ヒエラポリス)を中心に伝道活動し、ローマで牢につながれていたこともありました。紀元後140年頃、ヒエラポリス教会の監督をつとめたパピアスはマルコについて次のように述べています、
教会の長老はこう言います。マルコはペテロの秘書、通訳となり、ペテロが覚えている主の教えと業の全てを、整理されてはいませんが、正確に書きました。マルコ自身は主から聞いたことがなく、主の弟子の一人でもなかったのでが、その後、彼はペテロの弟子になりました。ペテロは、聞く人の必要に応じて、「主の宣託」は用いずに、教えました。マルコはペテロが覚えている事を間違わずに書き記し、聞いたことを何も省略せず、その中にどんな偽りの語りも入れないことに注意を払っていました。(Papias, Exegesis of the Lord's Oracles)
マルコによる福音書は最初に書かれた福音書といわれ、最も短いです(マルコ31ページ、マタイ50ページ、ルカ53ページ、ヨハネ45ページ)。伝道開始前のイエスの生い立ちの記事(系図、誕生)がなく、荒野の試みもその内容は省略され、いきなり伝道の開始から始められています。全体の1/3(11-16章)が最後の一週間の受難と復活に費やされています。奇跡の記述が多く(18回)、教えが少ない(たとえ話4回)のも特色です。「すぐ(eutheos)」という言葉を40回(マタイは15回, ルカは8回, ヨハネは5回)使用し、話を急いで展開しています(たとえば、1:10, 18, 20, 21, 29, 30, 42, 43)。また旧約聖書の引用が一カ所しかなく、しかも正確でありません(1:2はイザヤからでなくマラキ3:1から)。それから旧約の人物を間違えて引用しています(2:26のアビアタルは父アヒメレクの間違い、1サムエル21:1と22:20)。旧約聖書を確かめている余裕もないほど急いで書かれたと思わせます。一方、アラミ語を解説し(3:17; 5:41: 7:11,34; 9:43; 10:46; 14:36; 15:22,34)、ユダヤ人の習慣が説明され(7:3-4; 14:12; 15:42)、ローマ時間(6:48; 13:35)とラテン語(5:9; 6:27; 12:15,42; 15:16,39)を用いています。こうした書き方はユダヤ人的素養を前提としていません。マルコとは対照的に、マタイによる福音書はユダヤ人に対してイエスがメシアであることを証するため旧約聖書からの引用が多く、ダビデの系図につながることを主張する書き方です。マルコによる福音書は簡潔実践的なローマ人を対象に書かれていることを思わせます。ちなみにルカはギリシャ人による異邦人向けの世界伝道的書き方、ヨハネは愛と生命に重きを置く奥義的書き方に特色があります。
マルコが福音書を書いた当時はローマ帝国による迫害が迫っている時代でした。64年ローマに大火があると、皇帝ネロはそれをキリスト信徒による放火であると決めつけて迫害しました。関東大震災のときに朝鮮人がぎせいのヒツジとされたように、キリスト信徒はローマ人によって狩り集められ殺されました。その時ペテロは逆さ十字架にされて殺されたと言います。パウロもその時あるいはそれからまもなくしてローマで殉教したと伝えられています。また時を同じくしてユダヤ人がローマに反旗をひるがえし独立戦争を企てました。ローマは66年エルサレムに軍隊を送り、70年にはエルサレム神殿を破壊しました。
マルコの文体から察すると、ペテロやパウロが死んだ時に迫害が差し迫っていたので急いで書いたものと思われます。またイエスのエルサレム神殿破壊の預言(13: 2-23)が事後の書き方でないことから、おそくとも70年にはマルコによる福音書は完成したと思われます。つまり成立年代は64-69年の間になります。マルコは迫害の難を逃れて、かくまってくれる友のいるローマか小アジアのローマ植民地で書いたのでしょう。
マルコが福音書を書いたのはローマ政府の迫害にさらされている信徒たちをなぐさめ、勇気を与える実際上の必要からです。迫害によって多くのキリスト信徒が殺され、後に残された者は不安と助けなき状況下にありました。マルコは信徒にキリストの生涯にならって信仰に固く立つようにと書き勧めているのです。この点を矢内原は次のように説明しています。
マルコはなぜこんなに急いでるのでしょうか。それはイエス・キリストが十字架にかかって、復活したことを早く書こうという気持ちがあふれて、始めを急いだからです。マルコによる福音書はイエスが十字架にかかった事実とその後のことの記事が生き生きと非常に詳しく非常に長く、他の部分とつり合いが取れないぐらい、たくさんのページに書き記されています。マルコがこれを書いたときには迫害がキリスト教徒の上にのぞみ始め、つえとも柱とも思っていたペテロとパウロが殺され、残された信徒たちはどんな困難にあうのだろうかと思い悩んでいたときでした。その時、マルコは、「皆さん、イエス・キリストを信じなさい。彼はこのように十字架にかかり、このように死に、このように復活したのです。あなたたちもイエス自身のように生き、彼が戦ったように戦い、彼が死んだように死に、彼が復活したように復活して下さい」、とそれを早く言いたかったのです。(イエス伝、20)
99/4/7