イエスの召命
マルコ 1:1-13
1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
イエス・キリストは神の子であった、とはマルコがたびたび記すところです。まずヨルダン川から上がると、「神の愛する子」との声を聞きます( 1:11)。悪霊にとりつかれた人がイエスを一目見ると「あなたは神の子」と叫びます( 3:11、 5: 7)。ヘルモン山の変容の時に再び「私の愛する子」との神の声がありました( 9: 7)。イエスは神の子の自覚をもって、神を父(アバ)と呼んだ最初の人でした(13:32、14:36)。十字架にかかって死んだイエスを見て、ローマの百卒長は「この人は真に神の子でした」と言います(15:39)。
神の子イエスの福音を一言で表すなら、「罪のゆるし」です。「悔い改めて福音を信じなさい」、とイエスは第一声を上げました( 1:15)。罪のゆるしを得るためにはまず悔い改めが必要です。そのためにバプテスマのヨハネがイエスの前につかわされます。
2 預言者イザヤの書は言います、「見なさい、わたしは使者をあなたの先につかわし、あなたの道を整えさせるでしょう。
2節はイザヤ書からでなくマラキ書からの引用です。しかも正確な引用ではありません。マラキ書3章1節はこう言います、
見なさい、わたしは使者を送ります。彼は道をわたしの前に整えるでしょう。
マラキには、神である「私」の前に道を備える、とあるのに対し、マルコはキリストである「あなた」の道を備える、と言い替えています。このような自由な引用は新たな真理を啓示するときにのみ許されます。マルコにとっての新しい真理とはキリストは神の子であり、「私」である神は「あなた」であるキリストと同格であることです。
3 荒野で呼ばわる者の声がします、『主の道を整えなさい、その道筋をまっすぐにしなさい』」。
3節はイザヤ書40章3節からの引用です。荒野の声とは道徳的人格を目覚めさせ、罪の悔い改めを求める良心の声です。「主の道」とは罪のゆるしの道です。そして罪のゆるしの道は神の子によってのみ可能です。
4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪のゆるしを得させる悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。
罪のゆるしを得るためにはまず悔い改めなければなりません。そのために神はキリストに先立って一人の預言者バプテスマのヨハネをつかわし、イエスの道を整える「荒野で呼ばわる者」としました。道徳的律法は福音に先立ちます。道徳的生活態度を求めることから罪の自覚が生まれます(ローマ 7: 7)。罪の恐ろしさと自分の罪深さを知らなければ、罪をゆるされた喜びは解りません。悔い改め(メタノイア)とは生活態度の180度の回転です。生活の目的、目標、態度の向きを一変することです。そして罪のゆるしとは愛の結晶であり、信仰による救いです。
5 そこで、ユダヤ全土とエルサレムの全住民とが、彼のもとにぞくぞくと出て行って、自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けました。
6 このヨハネは、らくだの毛ごろもを身にまとい、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていました。
バプテスマのヨハネはイエスにより少し前にユダに生まれました。ヨハネはエッセネ派と呼ばれる禁欲的兄弟団の影響を受け、「断食、禁酒」(ルカ 7:33)の生活態度を通し、当時腐敗していたユダヤの宗教を清めるため荒野に一人立ちました。ヨハネの叫びは預言者エリアの再来を民に思わせました。彼はエリアのごとく「毛ごろもを着て、腰に皮の帯をしめ」(2列王記 1: 8)神の言葉を語り、民の罪を責めていました。
ヨハネは悔い改めを人に求め、心から悔い改めた者に洗礼(バプテスマ)を施しました。洗礼は水に体を沈めて古い罪の自分に死んで、新しい生命に生まれ変わるシンボルで、エッセネ派の重んじたものでした。ヨハネは人の心を見て洗礼を施しました。口先では悔い改めたと言いながら、悔い改めにふさわしい態度と心がない人に対しては「マムシの子らよ、迫っている神の怒りから逃れられると、だれがあなたたちに教えましたか」(ルカ 3: 7)とはげしく責めました。
7 彼は宣べ伝えて言いました、「私より力のある方が、あとから来ます。私はかがんで、そのくつのひもを解く値うちもありません。
民はヨハネを神の人として信望し、多くの人が彼の弟子となりました。彼はメシア(救い主)ではないだろうかと、人々は期待しました。これに対しヨハネは自分がメシアでなく、その前につかわされた者、新郎でなく、新郎の友に過ぎないことを公言しました(ヨハネ 3:29)。
8 わたしは水でバプテスマを授けますが、この方は、聖霊によってバプテスマを授けるでしょう」。
当時、メシアが来る前にエリアが現れるとの言い伝えがあり(マラキ 4: 5)、その通りヨハネはエリヤの役目をはたしました(9:11-13)。エリアは王の車を先導してカルメル山から王宮まで走りましたが(1列王記 18:46)、ヨハネはキリストの王国へつながる「正義の道」(マタイ 21:32)をさきがけました。
9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマを受けました。
イエスが洗礼を受けたのは罪を自覚したからでも、罪を悔い改めるためでもありません。それはヨハネの宗教改革の精神に賛同し、神の使わされた者に敬意を表すためです(日々のかて、5月2日)。イエスは罪の子の自覚でなく、神の子の自覚を持ったのです。罪の悔い改めによる新生(メタノイア)でなく、罪のゆるしの力を与えられた神の子としてのメタノイアを、イエスは聖霊を受けたときから自覚したのです。
10 そして、水の中から上がるとすぐ、天が裂けて、聖霊がハトのように自分に下って来るのを、見ました。
聖霊はハトのようにイエスに降りました。ハトはノアの洪水の後、オリーブの葉をつんで来た希望と平和の鳥です(創世記 8:11)。ハトは愛の鳥として雅歌で歌われています(雅歌 1:15)。ハトはその目が単純で素直です(マタイ 10:16)。ハトは貧しい人が牛やヒツジに代えて神にささげる供え物です(レビ 5: 7)。つまりハトは「平和と希望、愛と単純、ぎせいと柔和」のシンボルと言うことが出来ます(ルカ伝、76)。そして、矢内原は言います、
聖霊がハトのようにイエスの中に飛び込んだと言うのは、イエスの心が神の愛を感受して、神の心に結びつき、神との愛の契りを結んだ事です。(イエス伝、24)
バプテスマのヨハネはこの契りの証人という、預言者として最大の名誉を与ったのです。
11 すると天から声がありました、「あなたは私の愛する子、私はあなたを喜びます」。
イエスは聖霊を受けて子としての愛の契りを父なる神と結びました。神の子であるとは神と同じ心、同じ本質をもつ人格ということです。実際イエスほど神の心と一つだった人はいません。この事を最もよく現しているのはヨハネによる福音書10章です。「私と父は一つです」(ヨハネ 10:30)と言い、「父は私におり、私は父にいます」(ヨハネ 10:38)と言うことが出来るのは神の子のみであり、イエスは真に神の子でした。さらに言葉だけでは信じることの出来ない、弱い私たちのために、「言葉だけで信じられなければ、私のわざによって信じなさい」(ヨハネ 10:38)と言います。マルコがイエスの言葉よりもわざの方に力点を置いているのは、イエスが神の子である事をそのわざによって証するためです。
12 それからすぐに、聖霊がイエスを荒野に追いやりました。
イエスは神の大きな啓示を前にして荒野に退きました。自分が神の子に値するか、静かなところで一人よく考えてみなければなりませんでした(日々のかて、1月23日)。
13 イエスは四十日のあいだ荒野にいて、サタンの試みにあいました。野のけものもそこにいましたが、御使たちはイエスに仕えていました。
マルコは荒野の試みの内容を書き留めていませんが、試みられた点は、神の子の証拠をどこに求めるべきかという事でした。 奇跡を行う能力や奇跡的出生に神の子の証拠を求めるべきでしょうか。そうではありません。 矢内原は言います、
イエスが神の子である証拠は、彼が神と霊において一つであり、神との霊の交わりが本当に深く、霊において神と愛を契ったと言うことです。これだけで十分です。それ以外はいっさい不要です。神と霊において一つになること、完全に悔い改めて神の方を向いて神とかたく手を握る、これがあれば良いのです。(イエス伝、27)
私たちはこのイエスの召命から何を学ぶでしょうか。矢内原の解き明かしは私の心にしみ通ります。私は彼に聞くことを喜びます。
私たちは何度か自分で神に転(かえ)ろうと思って努力しますが、できないので「私たちを転(かえ)してください」(エレミア 31:18)と祈り求めます。それを転(かえ)して下さるのはイエス・キリストです。わたしたちはイエスさまによって顔の向きを変えまして、神さまの方へ向き直ります。私たちははっきり向きを変えて、真正面から神の聖顔を見たとき、その瞬間に「あなたは私の愛する子です。私はあなたを喜びます」という声を聞きます。その時に私たちはキリスト者として召し出されるのです。私たちは驚きます。「私たちが神の子ですか? この無力無能、汚れて、卑(いや)しいの私たちが神の子ですか? そんなことはあり得ないはずです」。これが私たちの荒野の試みです。「お前は何の善行も出来ず悪いことばかりしているではありませんか。高いところから飛び降りる勇気もなく、石をパンに変える力もないではありませんか」。サタンはこう試みて、私たちに向かって「だらかあなたは神の子ではない」とささやいてきます。サタンは勝ち誇って言います、「キリスト者よ、あなたの名は無力です」と。こうしてサタンは神さまと私たちの親子関係に水をさして、せっかく神に向き返った私たちの顔を再び神から引き離そうとします。それがサタンの声です。イエスもこの問題のため四十日四十夜苦しまれましたが、彼自身および私たちのためにみごとな解決を下さいました。天使は私たちに教えます。「このことが出来るとか出来ないとかということを、神の子の標準にしてはいけません。霊において神に結ばれていることが、神の子である証拠です。神と共にいるなら、何が出来なくても神の子であり、神はそれを喜んで下さいます」。(イエス伝、28)
99/04/21