1 月 2 4 日
「ああ、私の子アブサロムよ、私の子よ、私の子アブサロムよ!あなたの代わりに私が死ねばよかったのです!ああ、アブサロム、私の子よ、私の子よ!」

第二サムエル 18:33

ダビデの家庭教育

 罪の悔い改めがなければ生命の完き保護はありません。従って罪の悔い改めを通して生命に導くことこそ、人に対する真の愛です。エホバはこの愛を以てダビデに対しましたが、ダビデはこの愛を以て自分の子供に対しなかったのです。彼はアムノンの非行を怒りましたが信仰によって怒らず、アブサロムを愛しましたが信仰によって愛せず、人情にとらわれて義しい怒りと真の愛を徹底できなかったのです。

 信仰の人ダビデも自分の子を教え導くことにおいては失敗しました。それほど子を教えることはむづかしいのです。ある時は厳しすぎ、ある時は優しすぎ、子の罪を責めながら、親は自分の罪に泣くのです。ダビデの家庭にはバテシバ事件後間もなくアムノンの事件が起こり、それから引きつづいてアブサロムの逃亡、次いで反乱となり、ダビデ自身が家庭の神聖を汚したことの余波が、子供たちの不祥事(ふしょうじ)に及んだのでしょう。少なくともダビデはそう感じて、ますますエホバの神の前にへりくだった事と思われます。しかし子供の教育に関する失敗を以て、ダビデ自身の不信仰の証拠と見るべきではなく、また第二サムエル12章に記されているダビデ自身の罪の悔い改めを偽(いつわ)りと思うべきではありません。罪はエホバによって完全に赦されたのです。しかし罪の結果は肉体的あるいは社会的に残存し、それが人の生涯に多くの失敗と悲哀を生み出すのです。



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