もしあなたの片手が罪を犯させるなら、それを切り捨てなさい。両手があって地獄(じごく)に投げられるよりも片手で命に入る方がよいのです。一大事(マルコ 9:43)
私たちの肢体に宿る罪の怖ろしさを知る人にとって、この聖句は事実の真相を見通した言葉であり、決して過激ではありません。 ・・・ 私たちはそのことを知っています。そうして、再びそれにとらえられないようにと決心するのですが、知りつつも、また決心しながらも、おのずから差しのべられるこの手、自然に向くこの足、そそがれるこの目はなんとしたことでしょう!驚がくと悔恨(かいこん)の念に満ち、一刀両断(いっとうりょうだん)、これを切って捨てたいと思います。この言葉に従い、自分の情欲の現れる最も弱点とする部分の肢体を、文字どおりに切断した人もあるのです。しかしそれはおろかです。肢体を切断しても情欲はなくなりません。手足を切り去っても罪は消えません。イエスの命ぜられたのは、そんな外形の問題ではありません。言うまでもなく、心の問題です。罪の悔い改めです。悔い改めというのは、それほどに激しい断固とした、はっきりした事柄です。どんなに捨て難くとも、どんなに弁解がつこうとも、どんなに同情すべき境遇でも、肢体に宿る罪の楽しみとは断固として絶縁しなければなりません。実行できなければ、実行できるよう必死に祈らなければなりません。これは原理の問題ですから、一歩も譲れません。そしてこのような種類の問題においては特に、一度の実行は百度の祈願よりも大きな力を与えるものです。いくら激しく苦しくとも、神の国に入って永遠の生命を得るためには、断固としてこの戦いに打ち勝たなければなりません。