2 月 9 日
『となり人を愛し、敵を憎みなさい』とは、あなたたちの聞いて来たところです。しかし私はあなたたちに言います。敵を愛し、迫害する人のために祈りなさい。

マタイ 5:43-44

山上垂訓

 ああ、イエスの教えは何と高いのでしょう!私たちはしばらく地上社会の低さと私たち自身の道徳的無力とを忘れて、神の国の義の太陽のさん然とした輝きに見とれざるを得ません。誠にものとしてそのあたたまりをこうむらないものはなく、これによって私たちの心は喜び、私たちの目はあきらかになります。キリスト者とはキリストに在ってこの光の中に歩み、この戒めの中に生きる者です。従ってその生活は高らかに、清らかに、大らかにあるべきです。それにもかかわらず往々にしてキリスト者が小さくなって、その心に太陽の輝いているような明朗活発さを持たないのは、生来の自分の道徳的低さのみを見て、神の国の民としての天来の栄光を仰がないからです。そのようなキリスト者は、ある人のあざけるように、「自分のへそのみを見て」キリストの義を仰がないからです。イエスはここに実行不可能の要求を提出して、弟子たちを困らせているのではありません。かえって神の国の民としての人の幸福と栄光とを教える一節として、この高い倫理を与えたのです。もしキリスト者と言いながら、これらの倫理を喜びを以て聞かず、困惑と恐怖とを以て読むならば、それは山上垂訓の全くの読み違いです。



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