真に敬虔(けいけん)な人たちが霊と真実をもって父を礼拝する時が来ます。いや、今来ています。父はそのように礼拝する人たちを求めています。神は霊ですから礼拝する人も霊と真実をもって礼拝しなければなりません。真の礼拝
信者の集りは、祈りの集りです。祈りをもって始まり、祈りをもって終わります。祈りのないところに、エクレシアはありません。
祈りは真心(まごころ)の表明であって、儀式ではありません。祈りが儀式化するとき、それはもはや祈りではありません。儀式化した祈りは偽善ですが、その反動として全然祈りを省略する集会もまた、エクレシアであるとは言えないのです。祈りのない日曜礼拝の教会が日本にあるとは、驚くべいき事実と言わざるを得ません。「礼拝」とよばれなくても、伝道説教でも聖書講義でも感話会でも相談会でも、祈りのないところに信仰の交わりはなく、聖霊の導きは下らないのです。