私は自分のことを自分で証(あかし)しますが、私の証は真実です。それは私がどこから来て、どこへ行くのかを知っているからです。 ・・・ あなたたちの律法には、二人による証言は真実ですと書いています。私自身のことは私の他に、 私を使わされた父が証します。自証(じしょう)
自証は自信の結晶です。従ってその実がなくてする自証はごうまんであり偽(いつわ)りですが,その実があってする自証は力に満ちた真実です。それでは真の自信を偽りの自信と区別するものは何でしょうか。神と共にある霊的自覚、これです。言いかえれば信仰による自証は真であり、信仰によらない自証はうぬぼれです。すなわち神は私と共にいますとの信仰が、世界に抗して、一人立つ確信の根拠です。ああ、軟弱な現代キリスト教会よ、あなたたちは世界に対して「私の立場は真です」と自証し得る力をもたないのではありませんか。そして、まれにそう言う人がいれば、あなたたちはこれを指して「独善的」「ごうまん」とけなすのではありませんか。不動の確信は徹底した謙そんより来ます。自己の全く空しいことを知り、ただイエスを信じる信仰によってのみ生きる人は、イエスの生命を自分の生命とするゆえに、信仰に関する限り不動の自信をもち得るのです。あなたたちの自信の欠乏は、あなたたちの謙そんの欠乏の証拠ではありませんか。イエスの自証は本質的に真でした。私たちの自証もまた、イエスを信じる限りにおいて真です。真の自証力がなくては、真に勇気ある行動は出来ないのです。