3 月 1 3 日
私は悔い改めのバプテスマを水によって授けています。しかし私の後から来る方は私より力があり、私はその方のクツのひもを解く値打ちもありません。その方は聖霊と火によってあなたたちにバプテスマを授けるでしょう。

マタイ 3:11

バプテスマ

 神を礼拝する場所にこだわらず、霊と真実を以て礼拝すべきことを教えられたイエスの精神は、信仰の形式に重きを置かなかったことが明らかです。水を以ってするバプテスマに、霊をあたえる力のないことは、バプテスマを受けて後、信仰から離れる人の少なくないことでもわかります。しばしばそのような信仰離脱者の心の状態は、未信者よりもさらに神に遠いのです。

 バプテスマは教会生活から生まれたしきたりであり、いわば教会への入会式です。それを信仰への入信式と混同させたところに、根本的なあやまりがあります。善い良心を以ってバプテスマを受ける人に対し、それを不信仰の行為であるとは言いませんが、バプテスマを聖書的信仰の本質的な要請であるとして、受ける必要がないと思う人にまでそれを強要することは、キリストが血を以てあがなわれた人の霊の自由と平安を束縛するものであり、キリストの権限を横取りする行為と言わなければなりません。そのようなことを強要して小さい信者を苦しめる宣教師、牧師に対して、私は憤りを感ぜざるを得ません。



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