私は自分の行っていることが解りません。なぜなら私は自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事を行っているからです。 ・・・ 私は自分のうちに善なる人が宿っていない事を知っています。なぜなら善を欲する思いは私にあっても、それを行う力が無いからです。それで、私は欲している善は行わず、欲しない悪を行っているのです。罪との戦い
キリストを信じたのち、自分たちが色々罪を犯して後悔し、涙を流して残念がるということは、私たちの本当の経験でありまして、それがなくなるならばその人の信仰が干からびて、概念的な信仰になってしまいます。 ・・・
罪との戦いを一生しない人はありえません。 ・・・
私という人間は、罪を犯すことが少なくて、立派な人間で、大変いい人間のように思って、それで私を信用するというならば、それはおやめになった方がいいです。私もそういう具合に思われては、きゅうくつでとても生活ができません。私はたくさんの罪を犯しているのです。今でも戦いに何度も敗れて、少しも潔い人間ではないのです。ただ自分が潔くないということ、罪との戦いにおいて破れているということを知っているから、キリストを信じているんです。どうしてもキリストを信じなくては生きておれないというのが、私の状態なんです。