5 月 1 5 日
シモンよ、シモン、見なさい。サタンはあなたたちを麦のようにふるいにかけようと欲して許されました。しかし私はあなたの信仰がなくならないよう祈りました。それだからあなたが立ち帰った時には兄弟姉妹たちを力づけなさい。

ルカ 22:31-32

サタンの問題

 なぜ神はサタンに活動を許されるのでしょうか。その理由は二つあります。

 第一は、神が意思の自由を重んじられることです。サタンも意思の主体であり、人間も意思の主体です。人の意思は神によっても影響されます。人の神に対する服従は自由意思による従順でなければならず、機械的な関係では決してありません。従って人間の従順に対しサタンの試みのあることは、意思に自由が与えられている以上当然であり、試みに勝って服従するところに真の服従があるのです。

 第二は、神の栄光が現れるためです。神の栄光は永遠の栄光ですが、それは固定的・停止的に現れず、かえって歴史的に、機動的に、戦闘的に、サタンを克服することによって現れます。神の経綸(けいりん)の成就には時間を要し、歴史の進展には紆余曲折(うよきょくせつ)があります。その間サタンに活動が許されている結果、神の経綸(けいりん)の完成は暇取(ひまど)っているように見えますが、しかし歴史の過程においてサタンとの会戦のたびに神の栄光は現され、そして最後の審判においてサタンを亡ぼされることにより神の栄光は全く現れます。あたかも影は光を強く照らし出すように、サタンは神の栄光を戦勝的栄光として現すための陰影(いんえい)的役割をなすのです。それが神の経綸(けいりん)におけるサタン存在の意味です。



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