彼は悲哀(ひあい)の人で痛みを知っていました。 私たちは彼から顔をそむけ、彼をあざけり、 彼を敬いませんでした。 まことに、彼は私たちの痛みを負い、 悲しみを担いました。悲哀の人
混沌の中にあって事の真実を見徹(みてっ)し、真実を語る人は実に悲哀の人であります。悲哀の人とは自分自身の事を悲しむ人ではありません。自分自身の事を悲しむのは利己的です。偽(いつわ)りが世に満ちてすべての人にほんとうの事が解らない時たった一人事の真相を見抜いた人、そして皆が黙っている時に一言いう人それが悲哀の人であります。一体真理はこの世にあってすべての人に簡単に理解されるものではありません。真理そのものにこの悲哀性があります。ゆえに真理を知る人はまた悲哀の人とならざるを得ません。
神御自身が『悲哀の人』であります。神は全人類を見渡しましたが、義人は一人もなくて皆罪人でありました。この真相を見られた時、神に悲哀がありました。それではだれかこの人類を罪より救う人はいないのでしょうか。一人もありませんでした。底知れぬ沈黙が支配しました。この宇宙に大きな悲哀がありました。この時神の子イエスが謙そんにもまた確信をもって一歩進み出ました。そしてすべての人の罪を私が負いましょう、私が命を捨てて人類の罪をあがないましょうと言いました。こうしてイエスは死なれたのであります。