6 月 2 0 日
私の祝福を受けようとあなたたちが手を伸べても、私はあなたたちから目を背けます。たとえ多くの祈りを捧げても私は聞きません。あなたたちの手は血に満ちているからです。あなたたちは自分自身を洗い清めなさい。私の目に悪い行いを悔い改めなさい、罪から離れなさい。善を行い、公義を求め、しいたげられている人を助け、みなし子を養い、やもめを守りなさい。

イザヤ 1:15-17

キリスト者と現世

 キリスト者はこの世の社会的現実について関心をもたなければなりません。しかしそれよりも重要なことは、霊的生命について関心をもつことです。霊的生命が充実すれば、社会的現実の問題について必然的に関心が高まります。旧約預言者の生き方がそうでした。

 これに反し社会的現実に対する関心が高まっても、それだけでは霊的生命は充実せず、かえって枯れて、形式的キリスト者となってしまいます。これはイスカリオテのユダの道です。

 信仰がだせい的になれば、社会的現実の苦悩から遊離します。それは自己の主観的慰めではあっても、世を救う福音ではなくなります。従って自己の真の慰めでもなくなるのです。信仰が霊的に生きている時、私たちの宗教は必然的に預言者的となります。現在の社会政治問題に関心をもつキリスト者は、旧約聖書の預言者を学ぶべきです。



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