知恵は命の木です。これを捕らえる人はさいわいです。主は知恵によって地の基をすえ、さとりをもって天を定められました。その知識によって海はわかれ、雲は雨となってそそぎます。しん言とキリスト
私たちの心を満たすものは生きた人格そのものであり、概念(がいねん)の擬人化(ぎじんか)ではありません。たとえではなく、直接の生きた人格でなければなりません。そこにマーシャル(知恵)文学の限界があります。私たちが類似という世界に留まっている間は、生きた力が私たちに臨みません。その域を突破して人格そのものと直接に接触する時、始めて私たちの力となります。単なる教訓は、しばしば私たちにとってマーシャルです。人を生かすものは教訓でなくて人間です。生きた人格です。それが私たちに生命を与えます。
それゆえに私たちがしん言に説かれている知恵の教えを私たちの身に力強く受けるためには、『知恵』とうい語を『キリスト』として、読み換えなければなりません。「キリストは神に立てられてあなたの知恵と義と聖とあがないとになりました」(第一コリント 1:30)とあるように、キリストこそしん言にいわれる『知恵』です。しん言にある、「知恵は呼ばわないのでしょうか」は、「キリストは呼ばわないのでしょうか」と理解すべきです。このように読めばしん言における知恵探求は、もはや概念的類句の羅列(られつ)ではなく、キリストの生きた人格的要求となり、しん言の言葉がすべて躍動(やくどう)して生き返ります。