1 0 月 5 日
私たちは神の国に入るために多くの苦しみを経なければなりません。

(使徒行伝 14:22)

苦しみを経た信仰

 私たちはいかなる病気を神から与えられるかも知れません。あるいは思いがけなく、それが神経中枢の病気でないとだれが言い得ましょうか。もし神が指を私の脳中枢に触れれば、私たちはたちまち意思のコントロールを喪失して恥ずかしい内心の状態はそのまま外に現れるでしょう。その事を想像するだけでも、私たちは不面目(ふめんもく)、赤面、羞恥(しゅうち)の感に耐えません。しかしながらキリストを信じる事によって与えられる新たな生命は、永久に私たちのものでしょう。

 ゆえに私たちは日ごろの生活を慎まなければなりません。そしてそれにも増して私たちの骨に徹するまでにイエス・キリストの救いを信じていなければなりません。 ・・・ 

 人はだれでも自分の過去を問われたならば、人前に顔が出せません。いや、自分の現在の心の状態をそのままさらけ出されても、大きな顔が出来るものではありません。だから神を畏れ、十字架を固く信じ、そして人を審いてはいけません。十字架の信仰を体験するためには、頭の割れる程の苦しみをも経なければなりません。しかしその救いがわかった時、恥も外聞もなく、感謝しつつ神に向かって生きて行くのです。



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