1 0 月 3 1 日
私の民の娘は亡び、幼子たちは町の中から絶えようとしています。それゆえに、私の目は涙でつぶれ、私の腹は煮(に)え返り、私の内臓は地に飛び出します。

(哀歌 2:11)

罪への悲しみと怒り

 罪を深く悲しみ怒る人は、自己の罪に対するごとく他人の罪をも悲しみまた怒ります。それは他人を責めるのではなく、『人』に共通する『罪』というものを責めるのです。「自分は罪人ですから、他人の罪や国民の罪を責めることが出来ません」、というのは一応もっともな謙そんではありますが、その考え方に甘える時は『罪』の怖ろしさの認識において浅薄(せんぱく)におちいり、その罪悪観したがって救済観は剛健(ごうけん)な精神を失って、かよわい感傷に止まり、結局自分の罪をも深く審かない事になるでしょう。もちろん自己の罪をたなに上げて、他人を責めることは許されません。しかし人間の罪の神に対する責任を知って恐れる人は、自己の罪を責めるように他人の罪を責め、個人の罪を責めるように国民の罪を責めます。「罪を犯す人に神の道を教える」ことは、罪の赦しの恩恵を受けた人がとなり人に対してつくすべき義務であり愛です。



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