私の回心

1999年03月10日

親の信仰教育
罪のゆうわく
道を失って
愛の目覚め
矢内原忠雄との出会い
私の使命


親の信仰教育

私の信仰は初め親によって育てられました。その中で心に残っている三つのエピソードを紹介したいと思います。その一つは「神は見えないのにどうしているって解るの」と小学校の頃、父にたずねたことです。その時父は、「電波は見えないけど電波が届くからテレビが見れるだろう。神さまは見えないけど天で私たちを見守っているのだよ」と答えました。「そうか、目に見えなくても、存在するものがあるのだ」と私は納得した覚えがありました。二つめは罪の赦しを求める、父の真実な祈りでした。それは反抗期の中学生だった私の心に深く浸み通りました。子に対する最善の信仰教育は親自身の真実な祈りである、と矢内原忠雄は言っておりますが日々のかて、12月5日、本当にその通りです。三つめのエピソードは、私の過失で飼っていたヤギを死なせた時のことでした。その時、父は叱らず、黙って埋葬を手伝い、祈ってくれました。その時初めて私は神に赦しを求める祈りの心を与えられました。このように信仰を幼いときから育ててくれた親に私は心から感謝しています。

罪のゆうわく

高校は父の勧めで愛農学園に行きました。寮生活の悪習に染まったこともあって私の罪が明るみに出て来たときでした。私は小さいときから守銭奴といわれたほど、お金の奴隷になっていました。そのためキセル(不正乗車)を人知られずやるようになっていました。表面上は優等生で通っていましたが、その裏では罪を繰り返しておりました。やがてその罪を告白するときが来ました。それは高校3年の雪の降るときでした。クラスの中でたばこを吸い、酒を飲んでいる人たちが、先生の呼びかけに応じてその罪を告白しました。私はたばこや酒はやっていませんでしたが、購買部のお菓子を盗んだことや電車のキセルの罪をその時告白しました。駅に先生と一緒に行き、キセルのことを話し、その回数と金額をありのまま話して、償いをするつもりでしたが、駅長は謝りに来たことをほめて、お金は受け取りませんでした。以降は悔い改めて、祈り、聖書を学び、再び罪を犯さないよう固く決心しました。尊敬していた高橋三郎先生の著作に親しんだのもこのころです。

しかしながら罪のくせがつくと一回や二回の決心ぐらいで罪の誘惑に勝てるものではありません。大学に入って間もないころ、乗車券販売機の前でまたキセルの誘惑にかかりました。「ああ、どうしたらキセルの誘惑を断ち切ることが出来るのだろうか」、と嘆いておりましたら、ある声が心に響きました。「あなたがいま持っているお金はあなたのものではないことを知らないのですか。あなたはもはや死んだのではありませんか。生きているのはあなたでなくてキリストではありませんか」ガラテヤ 2:20。そしたら私は解ったのです、「そうだこのお金は私のものではなく、神さまのものだ。自分はもはや死んだのだ。今は神さまのために生きているのだ。神さまは必要なときに必要なだけのお金をあたえてくださるのだ」。そう心に叫んだら、罪の誘惑は去っていきました。そしてそれ以降は誘惑のあるたびに、このお金は自分のものではないのだ、と言い聞かせて、サタンを追い払い、キセルの誘惑を克服できるようになりました。

道を失って

以上のような背景もあって、大学では聖書研究会に入り、近くの教会をいろいろ訪ねました。しかしながら、聖書研究会では私の望んでいたような研究は出来ず、充実感は得られませんでした。無教会に育ったせいもあってか、教会の話に感銘は受けず、教会の雰囲気にも親しむことはありませんでした。そうこうしているうちにもう一つ別のクラブに入り、そちらの方に一生けん命になって、聖書も読まず、祈りもしなくなってしまいました。

一方で女性に恋をしました。最初の恋はすぐ冷めましたが、恋は人を一生けん命にさせると同時に盲目にしてしまうことをつくづく経験しました。二度目の恋は性愛の強いものでした。その時サタンは「神などいると思うから人生がきゅうくつになるのだ。神など存在しない」と私にいどみました。無神論が支配する大学の中で一人で信仰を保つのは容易なことではありません。「本当に神は存在しないのだろうか」、と問い直しました。今から思うとその時が私の人生の分かれ道でした。あらるゆ弁護論がくずれ去ったときに、なおかつわたしの心に残ったものは、もし神が存在しなければ、親の宗教教育も、佐藤一歳先生の信仰も、高橋三郎先生の教えもすべて空しく、彼らはうそつきになってしまう、との思いでした。私に神がいるかどうかは解らなくとも、一哉先生や高橋先生がうそをついているとは思えない。だから私には神を否定できない、との結論でした。私をかろうじて信仰にとどめたものは自らの生きざまで神を証する真実な人格の存在でした。そんなわけで二度目の恋愛も長続きしませんでした。

愛の目覚め

さてここまでの歩みは次ぎに迎える回心のための準備期間でありました。私の生まれ変わりは大学3年の終わり、22才の早春にやって来ました。その始めはクリスチャンの女性に出会い、恋したことです。彼女を通して私の信仰はよみがえり、私は神の愛に目覚めました。恋は人を一生けん命にしますが、神を愛するとは人を恋する以上に一生けん命でなければならないことを悟りました。「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力の限りを尽くして、主なるあなたの神を愛しなさい」マルコ 12:30とは、神に恋をし、神に一生けん命になることに他ならないと解ったのです。その時私は「主の法(のり)を喜び、昼も夜も主の定めを思いめぐらしました」詩編 1: 2。その目覚めによって、すべてのものが新しくなって、それまで価値あるとおもっていたものが無価値になり、おろかに思えたものが真に価値あるものとしてよみがえってきました。

聖書は本の中の本となりました。これ一冊さえあればあとはどんな本もいらない、他の本は読む必要はないと思うようになりました。それまではいかに多くの本を読むかに目標がありましたが、回心以降はいかに本を読まないようにするかに態度が変わりました。しかし不思議なことは真理愛が芽生えて、実際は古典や真理に適う本をむさぼるように読みました。その中で特に愛読したのが「純粋理性批判」に代表されるカントの本です。一度や二度で理解できる本ではありませんが、そのコペルニクス的(革命的)概念が、その真理に対する止むことのない探求が、私を感動させ引きつけて止みませんでした。

それから、私のその後の歩みを決める二人の本に出会いました。一冊はマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」、もう一冊は矢内原忠雄の「イエス伝」です。二人との出会いの正確な時は覚えていないのですが、大学4年の6月にはすでに矢内原に出会っており、ウェーバーはその前と記憶しています。ウェーバーとの出会いについては他の所で述べたことがあるので、ここでは省略しますが、彼によって無教会の世界史的意義を明らかにされ、彼の社会学を私の一生の課題にしようと決心しました。

矢内原忠雄との出会い

他方、矢内原の方は高橋三郎先生の恩師でもあり以前から名前と経歴は良く知っていたのですが、その信仰の内容は知りませんでした。「イエス伝」を読んでその簡潔明解で生き生きとした語りに驚きました。イエスの教えとその生涯に対する、矢内原の純粋で深い解き明かしに触れて、「この人こそ私の信仰の先生だ」と感じました。以降、矢内原先生の信仰著作に親しんで特に学んだことは「純粋な信仰」と「真理愛」です。以前に私が接した信仰はどれも混ぜものでした。矢内原先生は私の信仰から不純物を徐々に取り除いてくれました。純粋な信仰とは何でしょうか、それはこの世の思いを混ぜない信仰です、信仰のみをもって満ち足り、そこに利益を求めず、自らの利害を入れない信仰です。つまり純粋な信仰とは信仰それ自身を目的とし、信仰を手段として利用しない信仰です。そして純粋な信仰は愛のために自らの命を捧げます。

真理愛は楽しい心です。高価な真珠を見出した商人が喜びのあまり全財産をはたいて、それを買う心ですマタイ 13:14-5。朝に真理を聞けば夕に真理のために命を捧げても本望と思う心です。しかし真理愛は悲しい心でもあります。皆が見えない真理を自分一人だけが見ている時、そこに悲哀を感じざるを得ません。真理はすべての人に受け入れられ、愛されるべきものにもかかわらず、実際のところは、偽りが支配するこの世にあって、真理を知る人はごく少数しかいません。ここに真理の悲しみがあります。真理はげんしゅくでありました。

私の使命

以上が私の回心のあらましです。大学・大学院の3年間のこの出会いと学びを通して私の道は定まりました。矢内原の信仰の真理とウェーバーの学問の真理を受け継ぎ、伝えることが神が私に与えた使命であると確信するようになりました。しかしこの使命を果たすためには、私はなお多くの準備と試練を必要としました、いや、今なお必要としています。第一の試練は三度目の恋も結婚にたどりつくことなく終わりを迎えたことでした。第二の試練は、信仰の違いのゆえに、教会のクリスチャンばかりでなく無教会のクリスチャンとも別れなければならないことでした。結局、私はまた一人に戻ってしまいました。一人は耐え難い道です。しかしそれが神の定めた道なら、私はその道を歩まなければなりません。「神は耐えられないような試練に会わせることはありません」1コリント 10:13。私は今もそう自分に言い聞かせています。


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