心の倫理
1997年12月21日
今日は「心の倫理」と題して話をしたいと思います。倫理とは人間の在るべき姿を差し示し、「〜すべき」あるいは「〜してはいけない」という原則や義務を人に教え、そうなっていない人間一般の状態を戒めます。倫理は社会倫理と宗教倫理の二つに分ける事が出来ます、社会倫理は社会や他人との関係ついての規範です。宗教倫理は神との関係についての原則です。そして今日は倫理を人と心のあるべき姿、神と人に対する内面の態度にテーマをしぼって考えて見たいと思います。心の倫理は一般的な倫理と重点の置き方が違います。一般的な倫理は行為自体を重んじますが、心の倫理は行為自体よりもその動機、態度、あるいは目的に重点を置きます。たとえば、「困っている人や苦しんでいる人を助けなければならない」という一つの一般的な倫理があります。そしてこの倫理を守ろうと、ホームレスや飢えで苦しんでいる人にお金や物を与えることは社会一般に良い行いと見られます。これに対して「心の倫理」はそうした行為をするに当たっての心の態度を重視します。もし通りすがりのホームレスの人を軽蔑しながらお金を与えたとしたら、それは「心の倫理」を守る良い態度と言えるでしょうか。自分の心は他人に見えませんから、世間ではそうした行いに表彰状を送るかもしれませんが、心の倫理としては決して良い態度ではありません。いや、それは善でなくて悪です。なぜなら「人を心から愛しなさい」と言う、「心のあるべき姿」に反しているからです。すなわち「心の倫理」は一般的な倫理と違って行為自体よりも心の態度の普遍の原理を示し、人の心をその目標に向けるものです。
さて、この「心の倫理」を最も徹底して、最も純粋に打ち立てた人はイエスです。イエスの「教え」こそは心の倫理の完成と言ってよいと思います。イエスは人の在るべき心の態度を愛という単純な原理に統一しました。「心をつくし、思いをつくし、力をつくして神を愛すること、そして自分を愛するのと同じ態度であなたのとなり人を愛すること、ここに律法と預言の全体がかかっている」(マタイ 22:37-40)、とイエスは言いました。つまり「心の倫理」はただ一つ「愛」を精神とし、愛に動かされて生活することだけが原則です。この愛は「敵を愛し、迫害する人のために祈りなさい」(マタイ 5:44)と教えるほど、徹底しており、「友を愛するためには自分の命を捨てる態度をもちなさい」(ヨハネ 15:13)と教えるほど純粋です。
私の哲学の先生、カントはこのイエスの教えに道徳の完成を見、これを「道徳法則」として体系化しました。また私の社会学の先生、ウエーバーはイエスの教えに心の倫理の純粋型を見い出し「聖なる心」(Gesinnungethik)と呼んでいます。とりわけ、「心の貧しい人たちは幸いです、天国はその人のものです。・・・ 心の清い人たちは幸いです、その人は神を見るでしょう」で始まるマタイによる福音書5章-7章までの「山上の垂訓」には「人の心のあるべき姿」の宝石の数々がちりばめられています。
こうしてイエスの「教え」は「聖なる心」を確立したのです。モーセの律法が「聖なる法」を打ち立てたのに比べられます。そしてこの聖なる心と聖なる法の違いがキリスト教をユダヤ教から区別する決定的な点です。聖なる法は律法であり行いですが、聖なる心は信仰であり生活態度です。聖なる法は一つ一つの行為についてそれぞれの善悪を判定しますが、聖なる心は行為の究極の目的においてその人の全人格を判定します。聖なる法は固定していて一つの行為については一つの善悪の判定しかありませんが、聖なる心は同じ行為でもその目的によりあるいは善ともあるいは悪ともなります。さらに聖なる法は一つの過ちも許されませんが、聖なる心は自由で、たとえ過ちを犯してもその時の心の態度が一貫し聖なる心に向いていればその過ちは許されます。たとえ誘惑に破れたとしてもその人の究極の目的が変わらなければその人の全人格は不変です。
「聖なる心」とは何と単純にし統一してしており、しかも柔軟性があり自由があるではありませんか。膨大な六法全書とか複雑な決議論的な行動基準とか固定した規則の縛り付けがありません。あまりにも単純で柔軟なため、「それでは自分に都合のよい、勝手な動機の解釈がまかり通りいいかげんな倫理になってしまうと、人は心配するかも知れません。しかしその非難は当たりません。「聖なる心」を求めたことのない人ならいざ知らず、それを真剣に求めれば求める程、その人の生活は耐え難いほどの緊張関係を引き起こします。
「聖なる心」はたいへん高価な、手に入れることの非常に難しい宝石です。それは不断の心の態度であり、いくら自分でがんぱってもこの世においては達成できそうにもない戒めなんです。そこに格差が出来ます、「人間としての在るべき姿」と「自分の現実」があまりにもかけ離れているのに人はがく然とします。そこに葛藤があります、緊張関係がうまれます、そしてそこから罪との戦いが始まります。
今日は、その「罪との戦い」の一つ、姦淫(かんいん)に対するイエスの教えを見て、さらに「心の倫理」について考えを掘り下げたいと思います。マタイによる福音書5章27-29節を見てください。
「姦淫(かんいん)してはいけません」とはあなたたちの聞いて来たところです。しかし私は言います、だれでも情欲をいだいて女性を見る人は、心の中ですでに姦淫を犯しています。もしあなたの右の目が罪を犯させるなら、それをえぐり出して捨てなさい。体の一部を失っても、全身が地獄に投げ入れられない方があなたの益です。
ここでイエスは姦淫の罪とは直接的性交渉ばかりでなく、心において相手を情欲の対象として見ることであると教えています。もちろんこの教えは女性に対しても向けられており、人の情欲を挑発するような女性の態度に対しても「姦いんの罪」は当てはまります。この戒めはきびしく、守るのが非常に難しいものです。ウエーバーはいっています、「性欲は人間の最も強力な欲望、コントロールすることの最も難しい最も非合理的な力である」と。じっさい私もこの罪との葛藤に思春期以来悩まされ、今なおこの罪との戦いに破れているものです。
イエスはなぜこれほどまでに高い「心の倫理」を命じられるのでしょうか。それは「心の倫理」とは、絶対的であり、この世の法律や人間の一般道徳と妥協したり、相対化したりすることの出来ないもの、一歩もゆずることの出来ない原理原則の問題だからです。ここで私の信仰の先生、矢内原忠雄の解説を聞いてください、
情欲をいだいて女性を見るとは、女性を性欲満足の手段として見る事です。これにまさって人間としての女性の品位を汚す事、すなわち女性の人格を尊重しない事があるでしょうか。姦淫が罪である根本理由は実にこの人格無視に存在します。ゆえにそれは未婚の子女に対するのと、他人の妻に対するのとを問いません。いや、自己の妻に対してさえ、性欲満足の手段として見るときはおなじく姦淫の罪を犯すのです。だからイエスは広く「女性」と言われて、「他人の妻」と言わないのです。
歴史上年久しく女性は男の奴隷(どれい)と見なされ、オモチャと見なされ、財産と見なされて来ました。しかしイエスは早くも男女の関係を根本的に正されて、女性は決して男の財産ではなく、男と同じ神にかたどられて創造(つく)られた独立の人格として、これを認めました。こうしてイエスは根本的な女性解放者でありました。
(「日々のかて」8月22日)
矢内原の言葉を繰り返しますと、姦淫が罪である原理原則の問題とは意識的であれ無意識であれ相手の人格を否定する所にあります。相手を自分の欲望満足の道具と見ることにあります。カントは人格を定義して、「目的それ自体としての存在」といっています。いいかえますと、人格は手段として用いることのできない存在なのです。
そしてこの「人を手段として利用してはならないという」原理は姦いんにかぎらず、すべての生活の局面で適用される統一した「心の倫理」の原則です。人をまるでオモチャのように扱うこと、あるいは自分の所有物でもあるかのように使うことは、お互い様といって相対化したり無視したりしては済まない問題なのです。これは「あれか、これか」の問題で在り、目的が手段かの二者択一の問題です。人を自分の目的のために手段として利用しながらその人を愛しているというのは偽りです。人を愛するとはその人の人格を尊重し、その人自身を目的とすることです。人を手段とするのは愛ではありません。いや、それは愛でないばかりか、罪なのです。
このような非常に高い倫理に生きることは罪との不断の戦いの中に身をさらすことに他なりません。ましてや、自分の無力と愛の欠乏を知る者にとって、この倫理は首にかけられた石うすよりも重い「あるべき姿」です。何度も罪との戦いに破れる自分を見い出すからです。
一体なぜ私たちは人の人格を無視して手段として利用してしまうのでしょうか。なぜ人を愛することが出来なのでしょうか。なぜ「聖なる心」を不断の選択とすることが出来ないのでしょうか。
その根本問題は神との関係にあります。神の人格を無視するからその結果として人の人格をも無視するのです。神を愛さないからその結果として人をも愛せないのです。まず第一に「心をつくし、思いをつくし、力をつくして主なるあなたの神を愛しなさい」です。
いや、神を愛すると言うよりは、神の愛をまず第一に心に受けなければなりません。「多く赦された人が多く愛することができます」(ルカ 7:47参照)。人は愛されているのでなければ、愛することは出来ません。愛の実践力は神との人格的交わりの中でその愛を受け、それを自分の生命とするところから生まれます。罪との戦いに破れましたか、心から神に帰ってその罪を悔い改め、キリストの十字架の罪の赦しを受けなければなりません。そこにのみ私たちの生きる道があります、「聖なる心」に到達する希望があります。
これで今日の話を終わります。