心をつくす愛

1998年11月01日

神を愛する
ベタニアのマリア
愛を学ぶ
賛歌


神を愛する

心をつくし、思いをつくし、精神をつくし、力をつくして主であるあなたの神を愛しなさい。これは第一のいましめです。第二のいましめもこれと同様です、自分を愛するようにあなたのとなり人を愛しなさい。これらより大事ないましめはありません。

(マルコ 12:30-31)

神を愛する事には二つの段階があると思います。一つは心で悔い改めて、神に帰り、罪の赦しを求めると言うこと、もう一つはその神の罪のあがないの愛を受けて、となり人を愛すると言うことです。私たちは心に割礼を受けることによって、つまり心を悔い改めて新たに生まれ変わることによって、神との愛の関係に入りました(申命記30:6)、キリストは私たちの「愛する人」となりました。矢内原は言っています、

信仰をもってキリストの福音を心に受け入れた時、キリストの愛は聖霊によってその人の中に注がれ、古い人は死んで新しい人が生まれたのです。それ以来その人はキリストと愛の関係に入ったのです。愛がわかった時、二人の人格は一つになります

(「日々のかて」 8月16日

そして神の愛の福音をとなり人に伝え、その愛を注ぐことは、罪を赦された者の心からの願いとなります。なぜなら神の愛は人のたましいの最大の要求であり、人の霊(たましい)は罪と死からの救いにうめき、永遠の生命を求めているからです。しかしながら人を愛するということは言葉以上に行動です、生活態度です。善いサマリア人のたとえはとなり人を愛するとはどういうことか、を何よりも良く教えます(ルカ 10:30-37)。となり人とは目の前で苦しんでいる人、悲しんでいる人です。その人の愛の要求を感じ取り、その時神の愛を注ぐことです。イエスはある時、「この小さい一人が飢えているとき食べさせ、裸でいるときに着るものを与え、刑務所にいるときに見舞ったのは、私にしたことです」(マタイ 25:31-40)、と言いました。つまり目の前の困っている人をあわれみ、愛することがキリストを愛し、神を愛することなのです。

ベタニアのマリア

今日はこの「神を愛し、キリストを愛する」ことについて、特にベタニアのマリアから学びたいと思います。マルコによる福音書14章3-9節を開いて下さい。読みます。

イエスがベタニアでらい病人シモンの家の食卓についていると、一人の女性が高価なナルドの香油の入ったつぼを持ってきて、それをこわし、その香油をイエスの頭に注ぎました。すると人々は怒って互いにつぶやきました、「なぜこんなむだなことをするのですか。この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そしてその女性に対して憤(いきどお)りました。するとイエスが言いました、「するままにさせなさい。なぜこの女性を困らせるのですか。私に良いことをしたのです。 ・・・ この女性はできる限りのことを私にしたのです。私の体に油を注いで、あらかじめ葬(ほうむ)りの準備をしてくれたのです。よく聞きなさい、世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この女性のしたことは賞賛され、語り伝えられるでしょう」。

時は過ぎ越の祭りの二日前、つまりイエスがイスカリオテのユダに裏切られ祭司長たちに捕らえられる直前の出来事です。場所はエルサレムから3 kmほど東にはなれたベタニアという村です。そこに一人の女性がイエスに香油を注ぎました。この女性の名前が述べられていませんが、ヨハネによる福音書ではラザロとマルタの妹、マリアであると書かれています(ヨハネ 12:3)

なぜこの女性が香油をイエスに注いだかというと、8節にありますように、イエスの死を直感しその葬りの備えするためでした。この時の状況を矢内原は次のように描写しています、

ベタニアはイエスにとってオアシスでした。いかに激しい戦いの日でも、ここに帰ってくれば心はくつろぎ体の休養も出来ました。しかし今日は心が鉛のように重く、額には悲しみの雲が深くただよい、いかにも疲れて席に着きました。その様子を見てマリアは、それが何であるかは解りませんが、ただごとではない悲哀がイエスの身をつつみ、死の悩みとでも言うべきものがイエスの心を圧していることを、若い女性の愛の直感によって感じました。ああ、いたわしいことです、なんとかなぐさめた上げたいと、彼女の心はつぶされそうでありました。

その時一つの良い考えが彼女の心に浮かびました。彼女はすぐに立ち上がり、何のためらいもなく自分の家から香油の入った石こうのつぼを持ってきました。自分の結婚式のために貯えていたのでありましょう、それはたいへん高価で純粋なナルドの香油でありました。ふたを開けるのももどかしく、彼女はそのつぼをこわし、さっと香油をイエスの頭に注いだのです。出来ることなら自分の心の膜を破って、その血潮も愛もすべて注ぎかけてしまいたいと、思ったでありましょう。

(イエス伝、277)

死を目前にしたイエスの孤独と苦しみを感じ、マリアは愛を注いだのです。これまでの地上での戦いで傷つき、疲れたイエスの体に油をぬってねぎらったのです。彼女としてなしえる限りをつくしてイエスを愛したのです。マリアのキリストに対する同情となぐさめの行為は、それゆえ、福音を伝えるものが記念し、ならうべきものであります。

愛を学ぶ

さて私たちはこのベタニアのマリアから何を学ぶことが出来るでしょうか。

第一に、愛は直感です。それはとりもなおさず人の心の愛の要求を感じることです。ですから、私たちは心の感受性を敏感にしなければなりません。心のとびらをいつも開けられる準備をしておかなければなりません。私たちは人の孤独、苦しみ、悩み、悲しみを共に感じる心を育まなければなりません。

第二に、愛するとは出来る限りをつくして己を捧げることです。「愛は一つの時には一つの対象に向かって、ためらうことなく傾けつくされます。 ・・・ 出来る限りをつくした行為だけが、完き愛です」(「日々のかて」 12月21日

第三に、愛はたましいにおける人格的交わりです、心の触れ合いです。最も深い人格は神であり、またキリストです。永遠的価値のある愛は神を愛する愛のみです。キリストを愛することが第一です。そして人を愛することは神を愛することに結びつけられてのみ価値があり意味があります。私たちは神を心いっぱい愛することによって初めて人を真の意味で愛することが出来るのです。

神を愛すると言うことがなければ、人間同士の愛は、それがどんなにむつまじい夫婦の愛であろうと、親の子に対する献身的な愛情であろうと、恋人同士の一生けん命な愛であろうと、一時的な愛であって、やがて愛の生命を失い、その人間関係は不信仰と罪のとりこになってしまいます。神を愛することから離れた人間の愛情というのは結局の所本当の「愛」に至らず、見せかけの愛で終わってしますのです。これに反して、神の愛にいれば、人間に対する愛はたとえ始めは不純であってもそれは神によって純化され永遠の愛へと高められてきます。

第四に、愛するには時があると言うことです。矢内原は言っています、

すべてのことに時があります。すべての行為は時にかなって美しいのです。もしも飢えに苦しんでいる人を目の前に置きながら「このお金はイエスの体にぬる油のために取っておかなければなりません」、と言って施しの心を閉ざすなら、イエスはその人を叱るに違いありません。・・・ しかし今、目の前で苦しんでいるのは貧しい人ではなくイエス自身です。十字架の死の予感が彼をとらえ、その心は孤独のふちに沈み、たまいしの底まで届く同情に飢えかわいているのです。そしてこのかわきをいやしたものは、まさしくマリアの注いだ一つぼの香油だったのです。

(イエス伝、278-9)

愛は最も必要とされる時に注がなければなりません。そして人が愛を最も必要とするときは死を目前にしているときです。再び矢内原の言葉を聞いて下さい、

死においては愛の要求は絶対的であり、また死に直面している人に対する愛は何の報酬も期待しない純粋な行為として発現出来るのです。イエスの生涯においても、最も愛を要求されたのは「死」においてでありましょう。しかもイエスの死は「多くの人のあがないとして自分の生命を与える」ものであり、彼の事業と生涯との完成でありました。

(「日々のかて」 12月21日

以上、今日はベタニアのマリアを矢内原の解説を中心に私が理解した限りで皆さんに紹介しました。終わりも矢内原の賛歌でしめくくりたいと思います。

賛歌

ああ、ベタニアのマリア!
あなたは永遠のナルドの香り、
女性の中の女性です。
祝福が女性にありますように。
混じりない直観をもって
人の子の孤独を知り、
出来る限りをつくして、
彼の死を助けた
不朽の愛よ。
しかしあなたの名を福音とともに
不朽なものとしたイエスの愛は
あなたの愛よりもさらに大でした。

(「日々のかて」 5月5日


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