8 月 1 6 日
だれが私たちの罪を責めますか。キリストは死んで、いや、復活して神の右に座し、私たちのためにとりなされているではありませんか。だれがキリストの愛から私たちを離しますか。苦難ですか、絶望ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。聖書にあるように、「私たちは主のため終日死に渡され、犠牲 (ぎせい)のヒツジとされています」。しかし私たちは、私たちを愛される方のゆえに、全ての事に勝ちて余りがあります。

ローマ 8:34-37

愛の契(ちぎ)り

 勝利の基礎になるものは、キリストを信じる事によって、キリストと一体に結ばれたという霊的経験にあります。これは聖霊によるキリストとの愛の契りの自覚です。

 どうしてこんな愛の自覚をパウロは得たかと言いますと、彼が自分の罪を知って神の怒りの前におののいていた時、キリストによる罪の赦しの御声を聞いたからです。「キリストは私のために死んで下さったのです」。信仰を以てこの福音を心に受け入れた時、キリストの愛は御霊(みたま)によって彼の中に注がれ、旧き彼は死んで新たな彼が生まれたのです。それ以来彼はキリストと愛の関係に入ったのです。愛がわかった時、二人の人格は一つになります。



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