無教会のビジョン
1999年01月10日
恵みのつゆ、富士山頂にくだり、
したたりてそのふもとをうるおし、
あふれて東西の二流となる。その西の流れは海をわたり、
ペクトュを洗い、クンルンを浸し、
テンシャン、ヒマラヤのふもとに水注ぎ、
ユダの荒野に至ってつきる。その東の流れは大平洋を横断し、
ロッキーのふもとに黄金崇拝の火をほろぼし、
ミシシッピー、ハドソンの岸に神の聖殿をきよめ、
大西洋の水に合してきえる。アルプスの山々はこれを見て
あけぼのの星と共に声を上げて歌い、
サハラの砂漠は喜んで
サフランの花のごとくに咲く。こうして水が大洋をおおうごとく、
エホバを知る知識が全地にみち、
この世の王国は化してキリストの王国となる。私は眠りよりさめ、ひとり大声で叫んだ、
「アーメン、そのように成りますように。
み心が天に成るように地にも成らせて下さい」。
( 内村鑑三、1907年1月)
1999年の最初の集会は、佐藤一哉先生の「私の歌」をもって始めました。さて、この内村鑑三の「初夢」は何を意味するのでしょうか。もちろん純粋な信仰の泉が日本からわき起こり、世界に流れ伝えられ、神の国が完成することを預言したものです。じつに大きなビジョンです。内村の「大志」です。
矢内原忠雄はこの「初夢」を受け継ぎ、次のような「ビジョン」を見ました。
世界万国よ、私に聞きなさい。遠き諸国民よ、私に耳を傾(かたむ)けなさい。私は生まれた時からエホバの召しを受け、母の胎(たい)を出た時からエホバは私の名を忠なるしもべと呼びました。成長するに従いエホバは私に準備を与え、私の口を鋭い剣としてその聖手(みて)のかげに隠し、私を研ぎすました矢としてそのつつの中におさめました。 ・・・
神は私に告げて言われます、「あなたは私のしもべとして、日本を起こし日本人の中の義人を回復するのは、まだ軽いことです。私はさらにあなたを立てて異邦人の光とし、私の救いを地の果てにまで到らせます。少しばかりの困難に会って、気を弱くしてはいけません」と。
私は目を上げて世界を見ました。私の夢は十字架の福音を抱いて、東アジアの山野を駆けめぐり、さらにその境を越えて、南アジア、西アジア、アメリカ、ヨーロッパ、全地の果てにまで到ります。そして私の夢のめぐるところ、枯れた骨もことごとく起き上がり、焼け野原にサフランの花が咲くのを見たのです。
(「日々のかて」 1月2日)
これは無教会信仰の未来です。私たち内村と矢内原の信仰を受け継ぐ者は、また、この内村の「初夢」と矢内原の「ビジョン」も受け継ぎ、無教会の真理を世界に伝えたいと思います。 無教会の信仰は個人的国民的であると共に普遍的です。アジア人にもヨーロッパ人にもアフリカ人にも等しく心を新生させ救いに至らせる神の力です。
それでは無教会キリスト教の信仰には、新たに世界に伝えられるべき何があるというのでしょうか。世界に何億人もの信者を持つカトリックの教えに何が欠けていると言うのでしょうか。世界のいたるところに宣教師を送り込んでいるプロテスタント諸教派は何を世界に伝えていないのでしょうか。
それは「生命」です。無教会信仰は制度と組織にしばられず、自由にキリストの生命を伝えます。儀式と教義に固まらない生きた信仰と心の倫理に生きる生活態度を証します。制度や儀式をこの世界からなくせるとは思いません。それらはこの世の営みに避けがたく付いて来ます。しかし制度と儀式が成立するところに、生命は失われ信仰は化石化してしまうのです。ですから無教会の使命は常に新鮮にキリストの生命に生き、純粋に信仰のみに生きることです。それはこの世にあっては制度化儀式化との絶え間ない戦いです。この点を内村は、
制度と生命は両立せず ・・・ 二者は衝突をまぬがれず、 ・・・ 生命は機械力の圧迫対抗によって絶えず進歩発達する。
(1916年9月 制度と生命)
と述べています。そして日本の使命は
キリスト教を非制度化する事業、見えざる信仰を見ゆる制度より解放する事業、これである。
(1919年8月 信仰と制度)
と言います。矢内原も制度からの解放という無教会の使命を次のように述べています。
無教会主義はキリスト教の福音が日本の地に落ちて生え出た若木です。それは人を既成(きせい)制度教会のしがらみより解放して真にキリスト者の自由を与え、真実を愛して偽(いつわ)りを憎むところの真の日本人をつくります。 ・・・ それはひとり日本の宝であり、日本の救いであるばかりでなく、また世界各民族を新生させる生命の原理です。世界の危機を救うものは、カトリックでなく、既成キリスト教団体でもなく、実にこの無教会主義の信仰にあります。
(「日々のかて」 2月8日)
無教会の信仰は制度でなく生命です、組織団体でなく個人です、儀式でなく倫理です、信仰箇条でなく生活態度です。そして生命とはキリストの人格です。内村は言います、
キリスト教は制度ではない、教会ではない。それはまた信仰箇条ではない、教義ではない、神学ではない。それはまた書物でなはい、聖書ではない、キリストの言辞(ことば)でもない。キリスト教は人である、生きたる人である。昨日も今日も永遠(いつまでも)変わらざる主イエスキリストである。
キリストは道であり真理であり生命です(ヨハネ 14:6)。信仰の生命はキリストとの生きた人格的交わりの中にあります。そしてキリストと信仰の友との霊的人格的交わりの中に本当の教会(エクレシア)もあるのです。エクレシアは目に見えない人格的存在だからです。この世にあってエクレシアの交わりは風のように自由に現れ、また自由に去ります。それは会則や組織を作って人為的に経営する教会団体や宗教法人にはなりえないのです。
さてこの制度に対立する「生命」というのは、ウェーバー社会学的な用語で表現するなら「カリスマ」という概念です。カリスマとは "特定の人格の非凡な資質あるいは力" です。カリスマは「指導者的人格」の「恩恵的力」です。ウェーバーは言います、
その本来的な作用が働く場合に、カリスマは信じ従う人を内面から、その人の中心的態度を "回心(メタノイア)" させる革新的な力として現れます。 ・・・ カリスマは既存の規則や伝統を打ち破り、すべての神聖なるものの観念をくつがえします。古くからのそれゆえに不可侵な慣習に対する従順の代わりに、カリスマは未だかつて現れたことのない、絶対的にユニークな、それゆえに神聖なものとして、内面的な服従を要求します。純粋に経験的そして価値自由の意味において、カリスマは実際、歴史を創造する特異に革命的な力です。
つまりウェーバーの概念を用いて言えば、キリスト教の生命はキリストのカリスマ(人格)にあり、そのカリスマに対する信仰にあると言い換えることが出来ます。キリストのカリスマに世界人類をその内面の深みから変革(メタノイア)する力があります。ただカリスマは霊であり、それがどこから来て、どこに去るのか人は知り得ません。カリスマは時が満ちると現れ、その使命が終わると消えます。それは全くの神からの恩恵で、人間の人為的努力や操作によって作り出したり、持続させたり出来ないものです。
しかし人はこのカリスマをいつまでも所有しようと願望し、そこに理念的物質的利害を持ちます。ここにカリスマの日常化が始まります。それは避けがたいこの世の流れです。この世ではキリストとの生きた人格的交わりが制度となり儀式となって非人格化されてしまいます。キリストの生きた自由な原理が死んで固定した律法となり、信仰箇条となってしまいます。純粋な信仰は利害との妥協迎合によって化石となってしまいます。
この「カリスマの日常化」、「キリストの非人格化」、「生命の制度化」、「信仰の化石化」、「心の形式化」に対する戦いこそが無教会の中心問題であり、世界に対する使命であります。無教会キリスト者は制度、組織、団体によらず、一人神と共に立ってキリストの生命と自由を守らなければなりません。儀式に依らず、知識に依らず、伝統に依らず、見える教会に依らず、ただ信仰のみ、神のみに依り頼んで、この世と戦うキリストの戦士とならなければなりません。
この無教会の道は狭い門を通る、少数者の道です(マタイ 7:13-14)。しかしそれは命に至る門です、神の国を受け継ぐ道です。矢内原は言います
無教会は勢力ではありません。運動でもありません。無教会は一つの精神です。純潔な、清水のような精神であります。一つの信仰です。まじりない純粋な信仰です。この精神と信仰に生きて行くときに、私たちはこの世から抵抗を受け、私たちはこの世に抵抗し、必ずやこの世からはずかしめとあざけりと反対を受けるでしょう。 ・・・ 私たちは無教会の精神と信仰を、純粋に守って行きます、受け継いでいきます。
(「日々のかて」 8月12日)
無教会の精神は預言者の精神です。預言者は学者のごとく語らず権威ある者として語ります。その人に神の言葉を語っているという自覚と確信があります。その語るところは知識の伝達でなくて信仰と生命の証です。その生活態度は全人格によるキリストのカリスマ(生命、人格、恩恵、力)の証明です。無教会キリスト者にはこのキリストのカリスマを世界に伝え、世界を内面から変革し、神の国を地にもたらす、世の光、地の塩としての使命があるのです。そして地はそれをうめき待ち望んでいるのです。